あなたのとなり埋もれそうなほどの量の課題を抱え、パソコンのキーボードを黙々と叩く。
定期試験を翌月に控え、四月五月と様子を見ていた教員達は、こぞって学生に負荷をかけてきた。最近は学内で誰と話していても「あの先生はヤバい」「課題提出締切が早すぎる」と教員達への恨みつらみがひとつやふたつ出てくる有様だ。
かく言う千寿郎も、必修科目に加え、選択科目、さらには学芸員課程と、取っている単位数は周囲と比べて多めで、今日も深夜までこうして課題に取り組む羽目になっている。だが、こうして忙しい学生生活を送っていると、千寿郎はいつも兄の事を思い出す。千寿郎と同じ年の頃、兄は教職課程を取っていたし、バイトもして、友人達とも適度に遊んで、何より年の離れた弟との時間も極力確保してくれていた。あの頃、「もっとあにうえとあそびたい!」と我儘を言っていた自分のことが、今更ながら恥ずかしい。兄は忙しい日々の中で、最優先と言っていいほど、千寿郎との時間を大切にしていてくれていたことが、今になって漸く理解できたのだった。
そこまで考えて、はたとキーボードを打つ手を止める。
不自然に途切れたレポートの文章を前に、自分自身はどうだ、と目を見開く。
どんなにお互い忙しくても、朝は可能な限り、必ず二人で食事を取っている。これは、昨年千寿郎の大学進学を機に二人暮らしを始めた兄弟の、侵すべからざるルールの内のひとつだ。前日に喧嘩をしようとも、夜更かしをしようとも、翌日の朝には顔を合わせて一緒に食事を取りたい、と数少ない兄からのお願いだった。「例え会話がなくとも、お前の顔を見るだけで、俺は一日頑張れるから」と真摯な眼差しで告げた兄の顔を、千寿郎は忘れることができない。その時に「ああ、この人のことが好きだな」と湧きあがった、鮮やかな衝動も。
だというのに、このところの千寿郎は忙しさにかまけて、兄の話に曖昧に相槌を打ち、問いかけにも薄い反応しか返していなかった気がする。大体、最近どんな会話をしたのかさえ思い出せない。
サァっと血の気が引いた。兄はどんなに疲れて帰宅しても、千寿郎に話しかけられておざなりな態度を取ったことは一度もないのに。
一つ気付くと、後から後から自分の至らなさに気付く。二人で出掛けることも久しくないし、ちょっとしたスキンシップだって、全然ない。……当然、最後に触れあったのも、ひと月以上は前だ。兄は誠実な人だし、既に三十路を過ぎた落ち着いた大人であるから、軽薄な青少年のように浮気などは絶対にあり得ないが、それでもフラストレーションは堪るのではないだろうか。
一度火が付いた思考はあっという間に燃え上がり、居ても立ってもいられなくなってしまった。浮気まではあり得ないしても、モテる兄の事だ。ちょっとした飲み会や食事の誘いはいくらもあるだろうし、その中には兄に密かに想いを寄せる人も少なからず居るだろう。今なら何の気無しに誘いに乗ってしまうこともあるかもしれない。
悪い想像が際限なく広がり、このままでは課題も手につかないことは明白だ。
ちらりとスマホに目を落とすと、時刻は深夜二時になろうとしている。きっとこの時間では、兄は寝ているだろう。明日も仕事がある。
そのまま暫く逡巡していたが、意を決してそろりと立ち上がる。ギッと音を立てた椅子にびくりと背を震わせつつも、そっと自室のドアを開けた。
自室から漏れる光を背に、隣の兄の部屋を見遣れば、しんと静まり返り、当然ながら電気は落ちている。
このまま自室のドアを閉じるべきだ。レポート提出まではまだ間があるし、今日は寝て、明日また出直せばいい。
そう思うのに、千寿郎の足は一歩、また一歩と踏み出され、兄の部屋の前に立っていた。
見下ろすハーフパンツから伸びる自分の足は、昔と比べて長くなり、身長は今や兄と数センチほどしか変わらない。それなのに、身体の厚みには差があり、程よく筋肉がついて引き締まった兄の腕や足と違い、千寿郎の手足は薄く細いままで、心も体も、未だに子どもの域を出ないのかもしれないと自信が無くなる。
その証拠に、今も、我慢できずに、小さく小さく「兄上」と零してしまった。
――すると、ドアの向こうでギッとベッドが軋む音がした。
ああ、ほらやっぱり。
兄上は、俺に甘い。
期待に違わず、目の前のドアは静かに開き、優しい微笑みを湛えた兄が、いつもと変わらずに招き入れるように立っている。
「どうした?何かわからないところでもあったか?」
昔、宿題でわからないところを尋ねにきた千寿郎に対していた時のような台詞だが、揶揄いを含んだその声に、千寿郎の胸がきゅうと音を立てる。わかっていて甘える俺も俺だけど、わかっていて甘やかす兄上も兄上だ。そんなだから、俺はいつまでたっても際限なく兄上に甘えてしまう。
身の内に甘く轟く衝動のままに、両手を伸ばしてぎゅうと抱き着き、「最近、ちゃんと兄上の顔を見ていない気がしたので」と囁けば、兄は「そうか」と嬉しそうな声で、しっかりとその逞しい腕で抱きしめ返してくれた。
「こんな時間にごめんなさい」
兄のベッドに並んで、その左腕に密着するように腰掛けると、当然のように腕を回して、すぐに兄の体温と香りに包まれる。この、誰も入り込めない、世界で一番安心出来る狭い空間が、好きだ。
「気にするな。俺も久しぶりにお前と話せて嬉しい」
さらりと髪の毛をかき混ぜてくる手が、好きだ。
「兄上」
「何だ?」
俺の声に、柔らかく応えてくれる声が、好きだ。
「兄上!」
堪らなくなって、がばりと顔を上げ、驚いたように僅かに目を見開いた兄と視線を合わせる。
「俺に、我儘を言ってくれませんか⁈昔、今の俺と同じくらいの年の兄上に、もっと遊んでほしいだの、寂しいだの、我儘を言ってしまったから、お返しに、俺も兄上の我儘を聞きたいです……」
先程つらつら考えていた事を、もにょもにょと兄に告げると「はははっ!」と夏の太陽のようにカラリと笑って、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜられた。
「俺は千寿郎を甘やかすことに命を賭けているからな!これは俺がそうしたいからしているのであって、言うなれば俺の我儘だ!」
だから気にすることはない、と言った最後の台詞は、昔から千寿郎のためだけに用意された、多分に“特別”を含んだ声だ。
反論しようと口を開きかけた千寿郎の両手をとって、兄はさらに続ける。
「昔から、お前をこの世で一番甘やかし喜ばせるのは、俺でありたいと思っている。……願わくば、この先ずっと、それを俺だけに許して欲しい」
開きかけた口は、ぽかんと半開きのままで、薄暗い部屋に浮かぶ、赤と金の瞳を見つめた。まるで火花が散っているかの如く、煌めきが千寿郎の瞳の中に瞬く。
「…………兄上、それって、なんだかプロポーズみたいです」
もっと軽く言いたかったのに、何か言わなければと絞り出した声は、僅かに歪んでいた。
縫い止められたように視線を剥がすこともできず、兄を見つめる自分の目も、同じように歪んでいることだろう。いつもであれば、千寿郎が混乱や動揺を露わにすると、必ず安心させてくれる兄は、しかし、それを与えてはくれなかった。
「そのつもりだ」
ずっと、考えていたんだ、といつの間にか恐ろしいほどの真剣さを伴って、兄が告げる。
「婚姻の契約は交わせないし、大勢に祝福されるようなものでもない。間違っていると非難されるのであれば、そうなんだろう。……だが、それでも、俺はお前の隣を誰にも譲りたくはない」
千寿郎の手を握る兄の手が、ほんの少し震えている。しかし、それ以上に自分は震えているだろうと思う。
「――愛しているよ、千寿郎」
頭の中に、自分の至らなさや、卑屈な考え、この先の不安や、否定的な感情がわっと渦巻くが、蹴散らすようにぎゅっと握られた手に力を込める。
「俺だって、兄上が大好きです。兄上が俺にしてくれるように甘やかしてあげたいし、兄上がそうしたいのなら、ずっとずっと、甘やかされていたいです!」
千寿郎とて、他の誰かにこの場所を明け渡すつもりなど、毛頭ない。
愛しているのだ。この人を。
同じ血を分け、生まれた時から同じ籍に入っている、弟を慈しんでくれる兄を、それだけじゃ飽き足らず、この人の「愛」と名のつく全てを独占したいと思うほどに。
何と罪深いことだろう。
でも、そんなの、知ったことか。ずっとずっと兄上しか知らないし、知りたくない。ずっとずっと、この世で一番俺を愛してくれる人は、兄上だけだ。他の人は長い時間をかけて巡り合うのかもしれないけれど、俺には、そんな運命の人が生まれた時からすぐそばにいた、ただそれだけのことだ。
千寿郎の手の熱から流れ込むものを、兄は余す事なく飲み込んで、瞳を緩ませる。兄がそうすると、いつもは凛々しい光が滲んで溶けて、まるで金と赤が混ざり合うように蕩けるのだ。その、他の誰も知らないであろう柔らかく甘い表情が近付いてくるのを見守り、千寿郎はほんの少し顔を上げてから、瞳を閉じた。
あなたのとなりは、おれのもの。
おれのとなりは、あなただけ。