燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや 『はじまりの台地』。
晴れた暑い日も、雨の寒い日も。
朝も夜も。
細工が緻密でありながら堅牢な壁は、いつも白い靄がかかってその上を見ることは叶わない。
何人もの命知らずが、そこを登ろうとしたが、昔話にある石造りの神殿と女神像やハイリア山を目にした者はいない。
そこには、誰もいない。
そう言われている。
大厄災の際、そこで大きな戦いがあった。
かつてこの地にあった王国の盟主が、多くの騎士や兵士、神官までもが最期まで戦ったらしい。
それもまた、誰が見たわけでも、確かめたわけでもないのに、この地に生き残った民はそう信じている。
不思議な話である。
不思議といえば、この男もまた多くの者の首をかしげさせる。
名は『ハッシモ』と言った。
精悍な顔つき。年の頃なら20歳も過ぎた頃。
特に帰る家を持たず、待つ者もいない気楽さ。まだ若く、心に灯る冒険心はまだ赤々と燃えているはず。
槍の腕も、足も悪くない。
なのに、冷たく凍るような雨の日も。頭上の太陽が恨めしい晴れの日も。
朝から晩まで、その姿はモヨリ橋にある。
モヨリ橋は、古来より西と東を結ぶ要所であり、主流となる本流ハイリア川にノッケ川がちょうど合流する場所にかけられていた。
その上をぐるぐると周り、欄干の明かりに火を灯す。
魔物が一歩そこに足を踏み入れると、鬨の声をあげてそれを撃退する。
それは一年を通し、休むことはない。
屋根はあれど、壁はない東屋で焚火で暖を取り、川魚で腹を満たす。
時折、顔見知りの旅人から肉や果物、山菜を分けてもらう。
彼が手にするのは、それだけだ。
褒章を与える主はいない。
まさに孤立無援。孤軍奮闘。
本人曰く、『交通の要所を守るため』だそうだ。
個の利益は、まったくない。
ゲルドやゾーラからの商人。根無し草に国を巡る旅人は、彼の動機を聞くと決まって訝しんだ。
橋を事実上占拠して、通行人からルピーをとろうと企む悪人か。
それとも本当の善人か。
はたまた馬鹿なのか。
その答えは、まだ誰も持たない。
本人さえ持たないのかもしれない。
ただ命からがらガーディアンから逃れ、この橋にたどり着いた際、天啓の様に浮かんだのだ。
この場所を守らねば、と。
一番近い馬宿は、目を細めても見ることはかなわない。
見えるのは、一昔前の喧騒が聞こえてきそうな廃墟群と空に伸びる尖塔が連なる朽ちかけの城。
ハッシモはそれらを殊更興味深く思っていた。
この橋も、旅先で目にした石造りの建物も。
それらは誰かが造った物だが、もう叶わぬ物。
失われた文明だった。
それもまた、この橋を守ろうと決めた理由かもしれない。
ハイリア大橋は大きすぎて自分の手にあまるが、この小さな橋ならばと思ったようだ。
そんなわけで、強くも弱くもなく。富も名誉も何もない若者は、ただここにいる。
頑張っている。そう自身を励ましながら、どれくらいここにいたのだろう。
ある時、空が。大地が。空気が鳴り響いた。
誰も知る由もないが、長き厄災の終わりの始まりの音だった。
それをハッシモも確かに聞いた。
そして、見た。遥か高みにある台地から現れた高い塔を。それは今まで自分が目にしてきた物とは違った美しさをまとっていた。
橋の反対の袂。寂れた祠も同じく青に光る。
その空気に溶け込む残光を残した青き光に見覚えがあった。
ガーディアンの筐体と同じだ。
気づくとガタガタと足が震えたが、それは少なくない経験と手にした槍を強く握りしめて、何とか尻に土をつける事はなかった。
それから、すれ違う旅人に一人、一人尋ねると、世界中で同じ事がおこっているらしい。
その大地の色をした瞳に、双子山を臨めば一つ。ハイリア平原の先には、複数の塔が見えていた。
「いよいよ世も末か……」
ハッシモは、誰ともなく呟いた。
また、それから少し時が流れた。
ハッシモが多くの異変にも震える事が無くなった頃、ふと彼が見やると、またおかしな事が起こっていた。
今度はいつそれが起こったのか、確かな事はわからなかった。
朝、彼が毎日の勤めを始める前に台地を見やると、そこにあるはずの霧が消えていた。
石壁の上の緑。さえずりながら飛ぶ鳥。そして、鷲の石像が見えた。
「あ、あああああ……」
ハッシモが言葉なく呻くのも無理はない。
長くそこにいた彼でも、一度たりとも見たことのない光景だったのだから。
静かな変化は、また彼を怯えさせた。
しかし、彼はそこを去ろうとしなかった。
橋を守る事は、誰かに感謝される事はないかもしれない。
けど、わずかばかりなりとも青年の矜持にはなり得たからだ。
二つの川がちょうど合わさる中洲。そこにあるガーディアンを欄干からうかがう。
壷をひっくり返した様なそれは、鈍く濁るばかりで、沈黙を保っていた。
祠や塔の様に、光ることはない。目を赤く光らせて立ち上がることも。
手を額に、つぶさに観察する。今日もまだ何も起こってはいやしない事に、ハッシモは安堵した。
いつにも増して嫌な予感だけが、身内にぐるぐると渦巻いていた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
そんな時、声をかける者がいた。
いつもなら橋の始まりの階段を登るあたりで存在に気づくはずなのにと、ハッシモはわずかに驚いた。
初めて見る青年は、彼が以前旅したハテノの稲穂の様な金の髪に、よく晴れた日の空の色をした瞳の青年だ。
ただ、なんだか変な格好をしていると、ハッシモは眉根を寄せた。
まるで物語に出てくる猟師の様な出で立ちだったのだ。
しかし、青年からは、嫌な気配はまったくなく、むしろ清々しい空気をまとっていた。
ハッシモは、なぜだか一目でその青年を気に入った。
多くの人と言葉を交わしてきた彼は、無意識にながら、青年の人となりを察し、買ったのかもしれない。
ハッシモは、久しぶりの話し相手といくつかの問答と青年が向かうというカカリコ村への道案内をして、いつもの様に別れるつもりだった。
だから別れ難い気持ちなど一つもなく、素っ気なく挨拶を告げる。
「じゃあな。お互い幸運を祈ろうぜ」
すると、青年は一瞬、何か思案気な顔をして、「じゃあ」と短く返した。
まるで初めての言葉を真似る幼児の様な顔だ。
ハッシモは思った。
青年は、ニコッと笑うと、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。
目的はあるようだが、急ぐ旅ではないのか。
商人のせかせかした足取りでも、冒険者の用心深いそれでもない。ふわふわとまるで道行を楽しむ様だった。
その背中には、古びた剣に、魔物がよく手にしている弓と盾。戦って、それを獲たことは、誰が見ても明らかだった。
まだ若いが成人の域に達し、魔物が跋扈する世界を一人で旅する事ができ、たぶん腕も立つ。
なのになぜだか、遠ざかる青年を見つめていると、ハッシモの胸は期待と不安が綯い交ぜとなってざわざわと騒いだ。
あの青年の進む先が、何か途方もなく困難が待ち受けているという考えに囚われたのだ。
しかし、同時にきっと彼ならば不可能ではないという希望すら湧いてくるから、もうわけが分からなかった。
口から小さく長い呻きが漏れる。
「がんばれよ!」
それらをすっと胸いっぱい吸い込んで、ハッシモは大きな声で叫んだ。
なぜだか、青年にそう声をかけたかったのだ。
言った本人が驚きと後悔に、口をつぐむ。
青年が振り向くと、ハッシモは怯んだ。
名も知らず、事情もわからないのに、何を偉そうにと恥じたのだ。
「ありがとう!」
青年が手をあげて応えた。
その表情には、素直な喜びがあった。
それを目にして、ハッシモも手を振った。その遠ざかる人影を、いつもと同じ場所からずっと見送る。
風がいつものように、双子山へと向かって吹いていく。
まるで青年の背中を急かすようだと、ハッシモは思った。