それはきっとあなたとおなじ66
二人が村外れの古びた橋を渡ると、トントン、ギッギッと二人分の音が鳴る。
村の古民家と同じ造り。積み石に漆喰で整えた村境のアーチを潜り、峠道を行く。
後ろから吹く風が村名を記した看板を揺らし、また風車を回して重く擦れた音をたてる。草むらからは、虫の音が響いた。
研究所までの道行き。リンクとゼルダは、その後も何人もの人と言葉を交わした。東風屋の女将と軽く手をあげて。いつもの場所に佇むマンサクとは「今朝も仲睦まじい事で、結構な事だな」と皮肉交じりの挨拶を。宿の前のご主人はにこやかに笑い、幼い子供達は足元をあちらこちらへと走りより、若い二人を憧れと好奇心の眼差しで見上げる。
中でも、ゼルダの心を慰めたのは、炊事場の大木の横に腰掛けているウメだ。季節の薬草が芽吹いた事を知らせると、好奇心に瞳を輝かせて自分も探してみると言うゼルダに、目を細めた先達は「あんた達になら」と、普通なら家族にも教えない自分の秘密の場所を教えてくれた。驚きに顔を見合わせたリンクとゼルダは、ならばと足の悪い彼女の代わりに薬草を摘んで届ける約束をした。
それから坂道を進み、ロレルともにこやかに朝の挨拶を交わす。昨晩の風雨で久しぶりに夫婦そろって時を過ごしたと、はにかんで喜びの報告を受けたゼルダは、心から良かったと晴れやかな気持ちになった。
また帰りにと挨拶を交わしながら、籠の中から彼女の郷里にも生るツルギバナナを2本渡し、名残惜しく手を振りながら別れた。
振り返れば心が温かくなる交流の方が多かった。しかし、先程の洗濯場の一件はすぐにゼルダにまとわりついて、彼女の心を曇り空に変えてしまう。
それを察したリンクは、ロレルの視線が届かなくなると、そっとゼルダの手を取った。つないだ二人の手と手。初めは彼からだったが、ゼルダの方からきゅっと握り返す。リンクもそれに応える様に、彼女の甲や手首を親指でなぞり、柔く握りしめた。指先に冷たいゼルダの手のぬくもりが、自分のそれで少しでもあたためられたらと願った。
無言で互いを感じながら、上へ上へと歩を進める。雨上がりの草むらは青い香りがして、雨粒がキラキラと美しい。普段のゼルダなら、その美しさを口にするだろうし、今朝も変わらぬ村の様子に、女神への感謝の言葉を紡ぐはずだ。なのに、彼女はどうしてもそれができない。
峠の道から、ふと村を臨んで、ゼルダはしょぼんと眉尻を下げた。
「ゼルダ」
促されて、ゼルダは、ごめんなさいと小さく笑みを浮かべた。
思考が上手くまとまらなかった。
落ち込んでいる自分がいて、でも、その先どうしたら良いのか分からない。
「大丈夫ですよ。リンク」
リンクもまた、どうしようか思案顔だ。心配は心配である。どこまで間に入るべきか、そこを見極めたいと思っていた。見守るべきだとわかりながら、市井と混じった事の少ないゼルダが何を問題としているのか。話してほしい。相談してくれたらと思うのだが、大丈夫と言われてしまうとなかなか言い出せない。
だから、リンクはつないだ手を少しだけ強く握りしめた。そこから気持ちが伝わればいい。と、そう願いながら。
牧場近くまで来ると、あの独特の匂いがした。
一段と急な斜面を登ると、開けた平地が広がり、シンボルツリーと共に平屋の家が建つ。その奥にはハテノウシやコウゲンヒツジなど多くの家畜が穏やかに草を喰んでいた。
リンクが街道近くに座る老人に声をかける。
日に焼けた肌に、たくさんの皺が刻まれた神経質そうな顔。小さくも深い黒の瞳は、何もかも静かに見透かしている様だ。
「おはようさん。今日も仲がよろしいようで」
「普通だよ。じいさん」
ゼルダは恥じらいに手を離し、リンクはその離したばかりの手を、トックリに向けてひらひらとしてみせた。
「おはよう。今日も上に行くのか?」
リンクとゼルダに気がついたトコユが駆け寄ってきた。きっちりと編まれた髪が揺れる。
「お、おはよう」
「おはようございます」
トコユは、ゼルダと視線を合わせると、その愛らしい丸い瞳を、少しぎこちなさげではあったが細めて微笑んだ。
ゼルダの張り詰めた糸が少しだけ緩む。
前に言葉を交わした時よりも、どこか打ち解けた空気を感じたからだ。
ゼルダは、彼女と初めて顔を合わせた時を思い出していた。それは、とても友好的な空気が流れる物ではなかった。
トコユは驚きの表情でゼルダをまじまじと見つめて、視線は彼女の頭のてっぺんからつま先まで、いったい何往復したのかわからない。
それは、常に周囲から注目されてきたゼルダですら戸惑う物だった。
そして、次からは理由もわからぬまま避けられる様になり、しばらく言葉を交わさぬ日々が続いたので、ゼルダはトコユに壁を感じていた。
だから、どうしてこうなったのか。理解が追いつかぬものの、ゼルダは安堵の笑みを返した。
「今日も研究所に?」
「はい。トコユさんも朝からご精が出ますね」
「なんてことないよ。牛も羊も、家族だし。何よりかわいいからね」
「そうですか」
「前、家畜泥棒と間違えられて、木の枝で打たれそうになったこともあるんだ」
「まぁ?!」
リンクが少しだけ昔の話をする。それにゼルダは目を丸くし、トコユはぱっと頬を染める。
「それについては謝ったじゃないか!もういいだろう!」
「トコユさんは優しく、勇気があるのですね」
「そ、そんなんじゃないよ」
恥じらい、うつむくトコユにゼルダが続ける。
「ですが、大切な物を守ろうと、自らの出来ることを成す。それは、誰にでも簡単に出来ることではない、と。私はそう思います」
そう言って自分を称えるゼルダをトコユは見やる。真摯に自分を見つめる彼女を心底美しいと思った。
外見の事ではない。
その在り方だ。
(あぁ、まったく。そういう所だよ。かなわないったら、もう!)
トコユは、清々しく降参の白旗をあげた。
ゼルダと初めて会った日から今までの惨めったらしい自分は、もうどこか裏の湖の魚の餌にでもしてしまえ。と、そんな気持ちだった。
トコユにしたら、ゼルダは青天の霹靂だった。憎からず思っていたリンクが、前触れなく村に女性を連れて来た。腕が立ち、村を頻繁に空けているから、そんな事もありえるのかもしれないが、なぜか一度もそんな事を考えた事もなかった。
つまり、今思えば恋慕の対象にするには、リンクはまだ現実から遠い存在だったのだ。しかし、そんな理解が感情に追いつくまでに、トコユは何度も何度も後悔に枕を濡らした。
村の誰かならこんな思いはなかったろうか。そんな考えてもしかたのない事を何度も思った。彼の連れてきたその女性たるや、今まで見たこともない美しい容姿をしていたのだ。家の書棚にある物語。その中にある亡国の姫を飾る麗しい言葉の数々は、かくもあらん。そう感じたのだ。
そして、その魅力は外見的な物ではなく、話かけさえすれば慈愛深い気質。知識に溢れ、それを惜しみなく共有する姿勢。村の知恵たる老人や上の人には、常識に少し疎い様子に眉をひそめる者もいるようだ。しかし、トコユにとってそれは慰めにはならなかった。
元より真っ直ぐな気性の彼女は、恋敵への陰口に慰められる様な事はなく、むしろだからこそリンクの隣には彼女なのだろうと納得してしまった。リンクもまた、自分の常識の外から現れた人で、そこをまず魅力に感じたのだから。
このまま誰にも知られぬままに、この気持ちに区切りをつけよう。まずは挨拶を交わそう、ぎくしゃくしたやり取りながら微笑もうと努力を重ねてきた。
そして、ついに今の言葉だ。
年頃の女として常識外れな振る舞いを、肯定し包み込む。
そう変わらないはずなのに、母を知らぬトコユが母性とはこの様な物かと錯覚し、さらに年長者と話す安心感さえ感じるのだ。人として惹かれないでいる方が難しい。
「ありがとう!」
トコユは、心からの笑顔をゼルダに向けた。
それを隣で見守っていたリンクもまた、同じく笑顔を浮かべる。
そこで初めて、トコユは心からこの二人を微笑ましいと思えた。
「そうだ。悪いが帰りに寄って行ってくれないか?この間の獣の駆除の時にもらった肉と毛皮のお礼に、よかったらバターやミルクを譲りたい」
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく。そうそう、この間のミルク!瓶の入口にクリームが付いてた!牛たち、いい乳が出てそうだね」
「そうだろう!そうなんだ!夏も過ぎて秋の牧草の具合も良かったんだ。わかってくれてうれしいよ。肉は、今、熟成させている。父さんが得意でな。もう少ししたら分けるから、また声をかけてくれ」
「へー。どんなだろう。今度、冬支度の参考に教えてもらえる?」
「もちろんだ!私から話をしておくよ。塩で漬けるんだ。だから──」
二人の会話が弾みだすのを脇で聞きながら、ポツンと一歩離れた気持ちで佇むゼルダを、後ろから「あんた、ゼルダさんやったか?」と、トックリが手招き一つ呼び寄せた。
「はい。そうです」と、振り返って老人の腰掛ける場所に近づくと、膝を付いて目線を合わせる。
そして、ふわりと口元に笑みを浮かべた。
それを見て村のほとんどの者は、悪い気はしない。優美な所作をする美しい娘が、自分を尊重し、気遣う笑みを浮かべるのだ。
しかし、このトックリという老人は違った。
眉をぴくりとも動かさす、その小さな眼でじっとゼルダの新緑の瞳のその奥を覗き込む。
「わざわざ膝なんぞつかんでもええ。なんや?あんたまた今日も上に行くんか?」
「はい」
「ふんっ。添ってばかりやのに、アンタけったいな事ばかりやな。家の事はどないや?旦那にばっかやらせとくんか?」
「家の事?ですか?」
「女なら家におって、旦那の為に家を整えとくんが大事やろ」
「そうなの……ですか」
「ふんっ。お頭がええんかもしれんが、旦那の気持ちに胡座かいとると、いなされるで。研究所のばぁさんと同じや。ええ女だったのに、ずっと独り身や。まぁ、あんたさんがあいつと何かあったら、そしたらうちの牧場に婿にもらおかな」
酷い事を言われている。わかっていても何だか上手く頭に入ってこなくて、弁明することもできないでいると「ゼルダ!」と、後ろからリンクの声がした。
ゼルダが振り返るのと彼に腕を掴まれて立ち上がるのは、ほぼ同時だった。
「じいさん、また後でっ!」
「おぅ、怖い。怖い。ほな、さいなら。仲良うなぁ〜」
強い力で手をひかれながら、ゼルダが振り向くと、トックリに詰め寄るトコユが見えた。何事か言葉を交わすその顔は、気まずそうに眉根を寄せながらも、はっきりと頬を赤く染めていた。
それは、覚えのある表情だった。時折、自分も浮かべるからわかる。想い人がいる女の顔だ。
はっとなって、ゼルダはリンクの方を見やる。いつもは気配を察して、すぐこちらを向く彼が振り向きもしない。背中がいつもと違って、少し気まず気だ。
「ゼルダは何も気にしなくていいんだ」
「リンク……貴方、彼女の気持ちを知っていたのですか?」
「……」
「リンク!」
「……その、何となく」
「……っ」
峠道が終わり、ハテノビーチへの分かれ道まで来た所で、ゼルダの足は完全に止まってしまった。軽くあがった息を整えるために、手を振りほどく事もできずに、うつむいたまま佇む。すると、リンクが荷物をよいしょと担ぎ直しながら、その顔を恐る恐るのぞき込んだ。
「ゼルダ……?」
「ここからは、一人で行きます。 少し落ち着いて考えたいのです」
「ゼルダ?!」
そう言って、勢いよく顔をあげた彼女の顔は、頬は膨れてはなかったが、むうっとして誰がどこから見ても不満顔だった。
リンクは彼女を清廉な人だとずっと思っていた。けど、目の前にいる彼女はどこからどう見ても感情を顕にした年相応の女性。それも、とびきり可愛らしい。
(え……何だこれ?かわっ)
思わず心の声が漏れない様に、リンクは手のひらで口元を押さえる。
声にはならなかった。しかし、にやけた表情は隠せなかった。
「もうっ!」
それに気づいて、ゼルダがぷいっとそっぽをむく。
想定外の事に、驚きを隠せない彼の手から昼餉の籠と書物の入った袋を奪うように受け取ると、ゼルダは先程までの優美さはどこへやら、大股でどんどん坂道を歩き出した。
「ちょっ!ゼルダ!待って!」
リンクは、慌ててゼルダの背中を追いかける。
しかし、何故だろう。先程、彼女を思いやってその手を繋いだはずなのに、今はその腕を掴んで引き止める事がはばかられた。
ゼルダを怒らせ、拒絶されている気がして、その手をのばしかけては、ひっこめてしまう。
おかしいと、リンクは焦った。
相手の気持ちが知りたくて、その心に触れてみたくて、自分から一歩踏み出し関係を変えたはずなのに。
自分でも驚くくらいに、まだ己自身は彼女の従者で、ゼルダが望まれなければ触れられない。
(なんだよ、これっ!)
リンクがそんな思いに困惑しているのを知らず、ゼルダは自分で言い出した事に後悔し始めていた。
予想も望んでもいなかったが、すぐにリンクが引き止めてくれるだろうと、どこかで思っていたのだ。なのにいつまでたっても、彼は後ろをぴたりとついて来るだけ。
村の皆の前で誓いを交わし、夫婦となったはずなのに、なぜか今のこの距離感と空気は従者のそれ。ゼルダは、戸惑っていた。
嫉妬していなかったといえば嘘だった。想いの方向を互いにわかっていて、それでも仲の良さそうな二人の姿。
他人とそんな付き合いができる人だと知らなかった。人と向き合う事に不器用で、互いに同じだと心惹かれたはずなのにと、考えた所で急に理解が追いついた。
(いいえ。今の《彼》はそれができるのだわ──)
そんな彼とともに立つのに、自分は値するのか。思い当たるや、ぐらりと急に足から力が抜けて、もつれるようにしてゼルダは立ち止まる。
すると、数歩後ろでリンクもまた足をとめる。
一歩。また一歩と。伺う様に彼が歩み寄る。
それは無言で『お側によろしいですか?』と、言っていた。
それは、ゼルダのよく知ってる《彼》だった。
リンクは、昔も今も変わらない。
不器用な心遣い。言葉にはしなくとも、その気配がゼルダにとっては癒しだった。
人懐こく笑う顔。初対面の相手にも物怖じせずに談笑する様子。
大きな口で食事を頬張り、戯けてみせる。
そして、夜の帳がおりている間に触れてくる仕草。愛を語り、甘え、時に掠れ声で漏らす男の吐息。
記憶をなくして、変わってしまった部分も愛おしく感じているとゼルダは思っていた。
なのに胸には波紋が広がって、止むことはない。そこに追い打ちをかけるように、先程の老人の言葉が心の水面に落ちる。
「もう!ここまで来たら一人で大丈夫ですから!」
ゼルダの声は、今にも泣き出しそうだった。
「自分の好きでしてるから気にしないで」
それを包むようにリンクが応える。
彼の気遣いを感じて言葉を飲み込み、ゼルダは踵を返す。進んでから、すぐに後ろ髪をひかれ、また振り返る。すると、リンクはすでに止まっていた。こちらの事を、何もかも見透かしている。
ゼルダは、既視感に襲われた。
(これでは、あの頃の私と変わらない……)
厄災討伐を成しとげ、変われたと思えたのに、また同じ事で悩むのか。
ゼルダは、唇を強く噛みしめた。
「もうっ!ついて来ないでください!」
言って、はっとなる。
リンクもまた、同じ思いに目を見開く。
二人は気まずそうに見つめ合って、どちらともなく笑いあった。
「あの時と同じだ」
「そう、ですね。……リンク、急にごめんなさい。貴方は何も悪くないのです。ただ……何だか、自分がわからなくて」
「ううん。こっちも、しつこくしてごめん。ただ、ゼルダの事が心配なんだ。
ここから動かない。だから、せめて研究所の扉をくぐるまで見守らせて」
胸の内を語るリンクに、ゼルダははっとした。今更ながら、百年前のあの時もそうだったのだと。あの時の《彼》の真意をようやく知れた気持ちになった。言葉にしなくても、わかっていたはずなのに。言葉にされると、本当の意味で理解できていたのか自信が揺らぎ、足元が覚束ない。
今すぐこの手を取って、抱きしめて欲しいと、ゼルダは願った。けど、それを伝えていいのか、どうしたら伝わるのかわからない。
ゼルダは籠を持つ手をぎゅっと握りしめた。
「ゼルダ?」
「……リンク」
「ん?」
「いつもありがとう。感謝しています」
こみ上げて、零れそうになる気持ちを堪えて、ゼルダは、何とかそれだけを口にする。
リンクは、何かしら敏感に感じながらも、あえて口にせず、拳を握りしめてゼルダを見つめた。
「何度でも言うけど。好きでしているんだ。だから、どうか気にしないで」
「はいっ!……いってきます!」
「いってらっしゃい」
リンクに見送られ、今度こそゼルダは振り返る事無く研究所までの道を登って行った。
リンクは、その後ろ姿を瞬きすることなく見つめていた。
彼女の金糸の残像が、その扉の奥へと消えるまで。