この世界では、とある夫婦によってそれが当たり前だと過ごして生きてきた人間達の価値観ががらりと変わった。
人間と魔法使いが存在するこの世界において、長い歴史の中で両者の間には深い溝が生まれていた。今となっては何が恐怖で何が嫌悪で、何がきっかけだったのか。そのくらい長い年月をかけて出来たそれは、一人の異世界の少女と一人の魔法使いの話によって変わっていった。
異世界から来た賢者と呼ばれる存在と、その賢者の魔法使い達。定期的に迫りくる<大いなる厄災>に対抗しうる唯一の存在。そんな存在が居る。ただの一般人からすると、それだけの漠然とした認識しかなかった。
その世界に生きる全ての人を命がけで守っているなんて事もきっと知らない。魔法使いは自分達人間と違って強い生き物だから、厄災との戦いだって簡単だろう。上手くいかなかった時は魔法使い達が手を抜いたと思っていた。
下手をすれば、毎日を普通に生きている人間は賢者が毎度変わっている事すら知らなかったかもしれない。
知っていたかもしれないけれど、不思議な力でも働いているのか―ぼんやりとそんな人が居たような気がする、顔は思い出せないけれど、声も忘れてしまったけれど、誰かが居たような…そんな霞のような記憶――…
かつての賢者の顔も名前も思い出せなくなったのはいつからだろう。確かにそこに居たのに…
そんな現象に立ち向かったのが、彼らに近く関わった夫婦だった。
夫は魔法使い達のしている事を正しく民に伝える為に、間違った解釈を正す為に魔法使い達の事を記録した。それは、魔法使いだって人間とそう変わらない生活を送り、その中で喜び笑い、悲しみ涙して、そして何より心に正直で思いを大事にする存在だという事が綴られていた。
時にはこの世界の人々の為に率先してその力を発揮してくれて、その中には命の危険がある任務だってあった事、そうしてこの世界が守られている事も綴られていた。
その記録が世界に広がってから、強大な力を持つ魔法使いへの恐怖心は少しずつ変わっていったが、凝り固まった人間の価値観はそう簡単に変わる事はなかった。
しかし、その記録を綴った男の妻が書いた何の変哲もない日記が突如話題となった。それは彼女が魔法舎で当時の賢者や賢者の魔法使い達と過ごした日々を綴った日記だった。
最初の方は至って普通の日記で、夫を助けてもらったお礼がしたくて魔法舎にお手伝いにやってきたという事や、その後はその日あった出来事が綴られている。
しかしその内容は、ある日を境にとある魔法使いと賢者の記録が主になり、その記録がこの世界の凝り固まった価値観を変えるきっかけになったのだ。
彼女が魔法舎で過ごす中で賢者という異世界の少女は、彼女にとって妹の様に可愛い存在となっていく。
突然異世界に連れてこられたのに、何の関係もないこの世界の為に健気に頑張る賢者。最初こそ『賢者様』と敬い接していたけれど、ある日「この魔法舎で唯一の女性の知り合いだから、もっと砕けて接してほしい」と賢者の方から頼まれた。それ以来、二人きりの時は敬語も使わず世間話をしたり、相談を聞いたり内緒話をしたり…女の子の大好きなお喋りを沢山した。
こうして話していると本当にただの年相応の少女で、そんな少女にこの世界の問題を押し付けている自分が情けなく思う日々もあった。
そしてもう一人、お手伝いとしてキッチンに立つ事も多々ある中で、共に仕事をする事も多かった一人の魔法使い。賢者の魔法使いとして魔法舎に来るまでは料理人をしていた彼の料理は、魔法舎の皆の胃袋をしっかり掴んでいた。
東の魔法使いらしく人付き合いが苦手な彼。魔法舎に手伝いに来た日に割と強引に料理を教わってから、少しずつだが献立の話や料理の当番の話などの会話が増えてきた。打ち解けてきた頃、二人で調理をする日なんかは多少の世間話なんかも出来る様になっていた。
そんな日々が続いた頃、賢者からは料理人の魔法使いの話を、魔法使いからは賢者の話を聞いたり相談されたりするようになった。二人が互いに好意を持ち、二人とそれなりに仲の良い彼女に相談する姿は、異世界の少女も魔法使いもただ恋をする一人の人だった。その姿、想いは彼女が夫に向けるそれと何も変わらなかった。
その内恋仲になっても、二人が相談だったり惚気だったりをするのは変わらず、そしてそんな姿を見るのが彼らの壮絶な日常の中の癒しでもあった。
彼らが育む愛ある生活の裏では、任務の中で危険な思いをする事も多々あった。真っ赤に染まって帰って来た日は、賢者といえど『普通の若い女の子』がそんな壮絶な任務に参加している事に恐怖し眩暈がした。しかし怪我が治れば、何事もなかったかのようにいつもの日常に戻る。
危険な任務に身を置いている。そんな事を感じさせない彼らの振舞いに胸が苦しくなる日は何度あっただろうか。
そんな細やかな幸せを綴っていた日記は、とある日のページから少し雰囲気が変わる。何かを決意したような彼女の思いが、そのしっかりとした筆跡に現れていた。
彼女は忘れていた。大変な毎日の中でも幸せそうな二人の姿に満足していたから。そんな思い出もいつか消えてしまうかもしれないという事、異世界の少女はいつどんなタイミングで元の世界に帰るのかもわかっていない事を忘れていた。
その事実を思い出してから、彼女はそれまで日記に『賢者様』と記していたのを辞めて『晶ちゃん』と二人きりの時にだけ呼ぶ少女の名前で書くようになった。そして今まで以上に『晶ちゃん』と『ネロさん』の話や出来事を事細かに記すようになった。
いつか忘れてしまう日が来てしまった時に思い出せる一つにする為に。
ネロが晶の事を忘れてしまった時、この日記を渡そうと思った。二人が語ってくれた二人の思い出を全て記したこの日記を。
* * *
その時は本当に突然やってきた。<大いなる厄災>を討ち果たしたその日、晶は忽然とこの世界から消えた。
その事実を彼女が知ったのは魔法舎へ出勤する直前に、徹夜で動き回っていた夫が慌ただしく一度家に帰ってきた時だった。慌ただしく魔法舎へ向かえば、<大いなる厄災>を追い返したとは思えないくらい、誰一人として言葉を発さず重苦しい空気が漂う食堂を目の当たりにして、夫の言っていた事が現実なんだと突き付けられた。
その日をどうやって過ごしたのかはまるで覚えていなかった。習慣となった日記を無意識に開きペンを握ったがそのペンが動く事はなかった。一日をどう過ごしたかが思い出せないから、何も書けなかった。
夫はまだ城で動き回っているだろう。夫の居ない一人きりの部屋。隣の家からは幸せそうな笑い声が微かに聞こえてくる。人々の幸せは守られた。聞こえてくる笑い声に耳を傾ければ傾ける程、今朝魔法舎で見た魔法使い達の表情が頭から離れない。
日記をぱらぱらと捲れば、いつか来るその日の彼らの為に書き記すと決意した自分の文字が目に入り思い出す。
『私は賢者の真木晶っていいます』
『唯一の女性同士なんで…もう少し楽に、接してほしです』
『カナリアさん達って、どっちから告白したんですか…?』
『実は私…ネロの事が好きで…』
『カナリアさん、聞いて下さい!ネロと付き合えるようになったんです!』
『今度ネロとデートする事になったんですけど、どんな服がいいですかね?』
『見て下さいこれ!こっちが私の世界の文字で、こっちがこの世界の文字で…』
『カナリアさんみたいなお姉さんが居たらなぁ』
『私、この世界も魔法使いのみんなも、大好きなんですよね』
賢者の声が、顔が脳裏に浮かぶ。ぐっとペンを握って書いたその日のページは涙で所々が滲んでいて今もなお一部解読出来ていない。けれどその日の魔法使い達の悲哀の思いは十分すぎる程に伝わる内容だった。
* * *
その後すぐに、各国の貴族やお偉いさんと言われるような人間達は賢者の魔法使い達の手綱を心配して、早急に新たな賢者を呼ぶように要請した。
しかし今代の賢者と魔法使い達の関係はとても良好だった為に魔法使い達の反発は酷く、新たな賢者を呼ぼうとすれば手綱を失った魔法使い達は好きに暴れ始めた。中にはそんな仲間を止めようとする魔法使いも居た。しかしそれは賛同でも降伏でも味方でもない。力で訴えないというだけ。
晶をよく知る魔法使い達はこの時初めて疑問を持った。何も言わずに帰るような子ではない事。強制的に何かの力によって晶が『消された』と思ったのだ。
今までの賢者達に対しては、そこそこに仲良くするが互いに踏み込むような事はしてこなかった。それはその当時に賢者の魔法使いとして存在していた魔法使い達の性質もあっただろう。
しかし晶はそんな事を物ともせず、魔法使い達の柔らかい所を優しく包み込んだ。だから、魔法使い達は晶をより近くで知る事が出来た。
そんな魔法使い達の中の晶は、まず何も言わずに帰るような子ではなかった。
それに、常々言っていた。
「帰る時は皆さんにちゃんとご挨拶がしたいですね…出来るなら、ですけど」
そこまで言われて、魔法使い達は初めて気付いた。かつての賢者達を見送った覚えがない事に。皆全て、帰ったと『誰か』から聞いて「無事に帰ったのか」と思っていた事に。
果たして『賢者』達は、無事に『元の世界』に帰ったのだろうか。
そんな話を偶然にも聞いてしまった彼女は震え上がった。ただでさえ<大いなる厄災>という未知なる恐怖を抱えたこの世界に、巻き込まれただけの異世界の人間の行く末を…想像してしまった。
こんなのはあんまりだ。あんまり過ぎる。
彼女は誰も居ない魔法舎のキッチンで、声を殺して涙した。
* * *
晶がこの世界から去ってからも、彼女は魔法舎のお手伝いに日参していた。
晶の記憶はこの世界の人間から徐々に忘れられていた。ゆるやかに、じわじわと、まるで最初からそうなる事が決まっていたように、不自然なのに自然に。
その異様な変化に恐怖を感じて、彼女は書いていた日記を手にネロの元を訪ねた。
しかし、あれから魔法使い達は厄災の後処理にに、そして晶の捜索に忙しくしていて、なかなか目当ての人物を捕まえる事が出来なかった。
やっと捕まえれた彼に、彼女は日記を押し付けた。多くは語らず、読んで欲しいとただ一言だけ添えて。
ネロは立ったまま日記をぺらぺらと捲った。長く細いあの子が好きだと言った指先は、ぴくりと微かに跳ねて止まった。そして、書かれた文字をゆっくり優しく…高価で繊細なガラス細工にでも触れるように撫でた。
「晶…」
今この場が無音だから聞き取れたような小さな小さな声。
未だ文字を撫でるその人の顔を見ると、夜の小麦畑のような青が混じった金の瞳がゆらゆらと揺れていた。
これ以上は私が見るべきではないと思った彼女は、静かにその場を後にした。
これまでを綴った日記は魔法使いの手元へ行ったので、彼女は新しい日記帳を用意した。その装丁はチョコレート色で、しっかりとした表紙はあの子の芯の通った性格を思い出す。
最初のページには手渡した日記のお陰で、まだ残っている『晶ちゃん』の記憶を書き写す。彼女を忘れない。私はこの奇妙な力に負けないと抗いながら。
* * *
それから何十年経ったか。
彼女はもう何冊目かわからない日記帳を膝に乗せて、穏やかな空気がながれる庭のベンチに一人座っていた。膝にある日記帳もあの頃とそっくりだが、色褪せてチョコレート色というにはちょっと無理がある表紙。彼女の隣にはこれまでの日記が数冊、魔法使いを思わせる水色のリボンで一纏めにされている。
遠くに聞こえるひ孫達の笑い声。そして、今尚変わらない姿でひ孫と遊ぶ魔法使いの姿が、老いてぼやける視界に薄っすらと浮かぶ。
日記を優しく撫でながら、気持ちのいい青空を見上げた。
「晶ちゃん。私忘れなかったよ。貴女の事」
春の柔らかな風が傍に咲くスズランをさらさらと揺らして、彼女の言葉を攫っていく。
そしてあの大好きな可愛い声を運んでくる。
「ありがとう、カナリアさん…私の、お姉ちゃん」
聞こえた声に彼女は破顔して、深く長い夢の旅路へ旅立った。
これは、異世界の少女と魔法使いの恋を見守った一人の女性の記憶の証。