ヘルメットはオレンジ色「わぁ~~っ! 先輩~ほんとに来てくれたんすかー!」
「……今日だけだからな。今日だけ」
自動扉の開閉と共に電子音の鐘の音。少しだけ調子が外れていて、明はその音にひそかに哀愁を感じていた。
ひくりと鼻を動かせばアルコールと、油と食べ物の匂い。それから…恋人が苦手としている煙草の匂い。そして薄い、甘いにおい。
それらがまとわりついて、明は器用に片の眉だけを上げてふんと鼻を鳴らした。
「信、お前ぇには随分借りがあるからな」
「いっっっぱい恋愛相談乗りましたからね~」
「……っ、だ、だからこーして来てやったんだろ!」
「わひゃっ! いきなり大声出さないでくださいよ!」
「ンだよその悲鳴」
「おー! 明、やっと来たかー」
「~~ッス」
「はいはーーい! 明先輩ご到着っす~お席までご案内させていただきますね」
「……おう」
ざわざわと人の笑い声で満ちる空間。
「……」
「どうしました?」
「ん、いや」
「?」
「なんつぅか……人がいっぱいいんなって思って、」
「あははっ! 当たり前じゃないっすか~花金の居酒屋っすよー! しかも都会のど真ん中! その上エキチカ!!」
「……。だな」
人混みを好まない、そして外食をあまりする習慣のない明にとって居酒屋のチェーン店とは殆んど縁のない場所であった。
「正ちゃんと昔一回行ったくらいか……」
「しょう……?」
「あ、ヤ! なんでもねぇ!」
「ぇええーー! あ! ま、まさかそのしょーちゃん? て人が先輩のカノジョさん!??」
「っ、ち、ちげ……いや。あ、その、ええとだなっ」
「うは~顔真っ赤っすね」
「だぁああああ! もう黙れよ信っ!」
「だってー。明先輩、俺っちに相談するだけ相談して。カノジョさんの写真も何も見せてくれないじゃないっすか!」
「……」
「手作りお弁当やお菓子とか見せつけてきたり惚気話はたんまりするくせにぃ」
「……だ、だってよォ。も、毎日……365日24時間……かわいすぎるし、……ぁあああ! いや、ちがう。……違わねぇけど、」
「なに一人でぶつぶつ百面相してるんすかー」
仔犬のように明の周りを元気に歩きながら、信は廊下を進み明と、そしてその後ろに続くサークルの先輩たちを席へと誘導していた。
信はこの店でバイトを始めてもう半年になる。
今年の新歓はぜひうちの店で!
そう宣言したのは、先週のことで。それから信の要領の良さもあり、てきぱきと事が進んだのであった。
明ははじめこの会を断るつもりであった。
惰性で漫研へ入ったものの、所属している者の半分以上はただおたく話をするだけで。筆をとることさえもしない。…そんな思い描いていたものとは程遠い活動実態に明はほとほと呆れていたのだ。
その上、明は元より人と積極的に関わることをしない性質で、やれ集会だ飲み会だ。文化祭の打ちあげだの、名は変われど中身はただのアニメ漫画をツマミに酒を飲むだけの集まりには殆んど顔を出したことは無かった。
ーーそして、何よりも。彼には自分の全ての時間よりも優先すべき相手がいた。
大学の講義を終えて、何処に寄るでもなく。自慢の脚力で、誰よりも早くいの一番に教室を出て門をくぐり、バイクに乗って。頭のなかにはその相手の名前で溢れていて、帰宅するなりトレードマークの下駄を脱ぐことさえも時たま惜しみながら大好きな、愛する恋人を腕の中に抱き締める瞬間を何よりも大切にしていた。
…そんな彼が今日に限って飲み会に参加をしたのは、件の通り後輩であり一番の、そして唯一の恋愛相談相手である信の誘いがあったからということもあったがそれよりも深くて浅いような理由があった。
「……正ちゃん、まだ怒ってっかな、」
「!」
「……」
「ケンカしたんすか!? 先輩」
「……う、うるせぇ。それに喧嘩じゃねえ。ちょっとだけ今、気まずいだけだ。……お前と違って俺ぁ恋人と喧嘩とかしたことねぇーのっ!」
「いや、あのですね! 先輩! 俺っちのも喧嘩じゃないっすよ! ただ、その、ほ、ほほほほかの男と寝るからッ!」
「……お前ぇ。よくあいつと続けていけてんな」
「俺っちはこんなにもあいしてるのにぃいいーーー!!」
びええと泣き真似をしながらも眉を下げて情けない顔をする後輩に何と声を掛けたら良いのか明が戸惑っていると、信はぴたりと動きを止めて、それから眩しい接客スマイルを浮かべ振り返った。
「ではでは先輩方~こちらのお席になりまーす」
「!」
「~~っおお! 広いな!」
「へへっ」
先程まで悲嘆にくれていたというのに、ころりと表情を一変させて嬉しそうに笑うと信はメニュー表を明たちに手渡し、席から数歩引いた。
「! おい信、案内が終わったならキッチンの方手伝ってくれよ」
「はいはーーい!」
パラリと明がメニューを広げていると、背中ではそんな会話が交わされていた。
金曜日の夕方、クソ忙しいに決まっている。明は少しだけ同情を滲ませたため息をもらし、それから文字を視線をなぞった。
「……酒、うーーん」
「明は何にする?」
「……オレンジジュース」
「へ!?」
「……うまいんだよ」
「そ、そっか、」
なんだか意外だな。同学年の一人がそう小さく呟き、何故だか嬉しそうに笑いながら店員を呼び止めようと手を挙げた。
「……っ!」
あまい匂いが鼻先をくすぐる。
「すみませーん」
「??」
「はい、少々お待ち下さい」
「!!!?」
小さく控えめな声がテーブルの近くに響き渡る。
「……、……??」
「どうした、明」
「……!」
「お待たせしま……、し、た……」
「!!」
聞き覚えしかない声。高さ。柔らかさ。
ばっと顔をあげると、信がしていたものと同じ柄のエプロンを着た、この世で最も愛しくて愛しくて堪らない存在が真ん丸な目を更に丸くして此方をみつめて息を飲んでいた。
「……ぁっ、」
「!!!」
「あれ、店員さん? ……ええ、と? その。注文いいですか?」
「あっ! は、はいっ! 申し訳ございません!」
「……~~!」
目があったハズなのに。
絶対に気がついたハズなのに思い切り目を反らされて、そして注文を受けた後に彼は小走りでその場を後にしてしまう。
(な、なんで……正ちゃん。どうしてンなとこに! え、あれ!? 仕事増やしたって言ってたっけ!)
明より五つ年上の恋人は、朝は朝刊配り、夕方まではコールセンターの仕事をしながら役者になるという夢のために邁進している。
本当は一日でも早く自分も働いて、そんな恋人を支えたいと明は常々思っているが当の恋人が頑として「学生の本分は勉強だよ。……それに、僕を信じて君のことを任せてくれている君のご両親に申し訳ない」と頭を撫でながら説いてくるので明はその度に大人しく頷くしかないのであったがーー。
正太郎は時折、自分の体力の限界まで仕事を詰め込んでしまうきらいがある。
主にクリスマスシーズンや夏休みシーズンになると割りの良い仕事を見つけては身を費やすのだ。…明との将来のために。
「……」
「ん、どうした明」
「……。なんでもねぇ」
「やっぱりジュースじゃなくてビールがよかったか?」
「ちげぇよタコ」
「飲みたくなったらいつでも頼めよ!」
「へいへい」
そんな会話をしながら、明の頭のなかには今朝、恋人と交わした言葉たちが巡っていた。
『ごめんね、今日も多分。帰りが遅いと思う』
『そ、そりゃあ良いンだけどさ。その……』
『?』
『に、おいが……』
『におい?』
『正ちゃんからたまに。……知らねぇ臭いがして、その。落ち着かねぇっつうか』
『!!!』
『……』
『……、ええと。その、』
『正ちゃん。目ぇ凄ェ泳いでるぜ』
『!!』
『……。また、あのシンユウに会いにいってんのか!?』
『え?』
『だ、ダメだからなっ! 正ちゃんの恋人は俺で……、おれ、だからっ!』
『……。何いってるの? 当たり前だろ』
『それにアイツには嫁さんがいて、ガキもいて、』
『君。ナニ考えてるの!? ……小林君に失礼だよ』
『しょ……!』
『ごめん。そろそろ行かなきゃ』
『正ちゃんっ!』
『明君』
『!』
『……僕はね……、ーー……』
「……」
(なんで俺ぁああなんだ。一度頭に血が上ったら一直線で突っ込んじまう)
明は自身の髪をぐしゃりとかきまぜながらテーブルを額を押し付けた。
周りの数人が気遣わし気な視線を向けたが、明は気づかないふりをして。ややあって運ばれてきたオレンジジュースを一呼吸で飲み干すと、ガンとグラスを置いてから「便所」と一言を残して席を立った。
「……はぁ、」
一歩一歩が重い。
「正ちゃん……」
うすぼんやりとした明かりがついた廊下を歩き、角を曲がったところにちょうどよく手洗い場を示す看板が天井からぶら下がっていた。
それに従い暫く足を進めていると、鼻先にあまい匂い。
「……!」
「……」
「正ちゃん……」
「……うん」
「し、しごとは」
「今……休憩中」
「そ、そっか」
「……うん」
「……」
「……」
「あーー、……ええと、」
「……ごめん」
「へ?」
「新しくバイトはじめたのに黙ってて」
「あ、 謝ンなよ!」
「でも……君を不安にさせた」
「!」
「ごめんね」
「……!」
一歩、正太郎が近づき。明の頬へと手を添えた。
「正ちゃん……」
頭のなかに再び、言葉が巡る。
『……僕はね……、君と一緒に居られるならなんだって頑張りたいと思っているんだ』
「……っ、」
つきりと胸が痛み、目の前の彼と今朝の彼の言葉とが重なり、明の目尻を濡らした。
「正ちゃんはさ、」
「……うん」
「自分に厳しすぎる」
「えっ?」
「俺には、……皆にはやさしいのに」
「そんなことないよ」
「ンなことあるってェ~」
「……だって、現に今。君のことを傷つけているだろ」
「!」
そういうところが優しいんだよ。
明はそう心のなかで叫びながら、正太郎の手に自分の手のひらを重ねた。
「ごめん、」
「!」
「悪かった……正ちゃんにとって小林の野郎がどんな存在なのか。わかってたはずなのに」
「……うん」
「正ちゃんが俺のことだいっすきなの、わかってるのに」
「……う、うん」
ぽっと一気に赤く染まる顔。
明はしばし見惚れて、それから周りに人影がないことを良いことに。小さな恋人をゆっくりと腕の中に閉じ込めた。
「すきだ、正ちゃん」
「っ、」
「愛してるよ正ちゃん」
「……ぼくも、好きだよ」
「うん」
「……」
「あのさ、」
「!」
「僕……あともう少しで勤務時間終わるから」
「!!」
「いっしょにかえ、」
「一緒に帰るっ!!!!」
「っ……あはは」
言い切る前に明は元気よくそういうと、正太郎の頬に一瞬だけ唇を掠めた。
「もう……ふふ、」
「今日もふにふにだなァ」
「そうかな」
「そーですよーー」
いつもと変わらぬやり取りに、明は内心ひどく安堵して、それからたっぷりと恋人に甘えていく。
「しょーちゃ~ん」
「なに」
「家でも今度、このエプロン着てくれよ」
「ええ?」
「だめか?」
「……っ、こんどね」
「へへっ」
「ねえ明君」
「ん?」
「さっき君はどれを頼んだの」
「!」
「お酒の匂いが全然しないよ」
「正ちゃんがよくのむやつ」
「!」
「正ちゃんが大好きなオレンジジュース」
「……っ」
「だから俺のバイクで一緒にかえろ」
「……。うん」
指を絡め、手を握る。
「正ちゃん、……すげぇ似合ってる」
「……」
「可愛いよ」
「……。ありがとう」
唇を食んで、小さく笑う正太郎に明はますます笑みを深めて。
ゆっくりと息を吸い込み…「帰ったらまず一緒に風呂だな」そう思いながらも癖のない黒髪へと鼻を埋めた。
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恋人と新しいアパートに移り住む為に、苦手なタバコがあってもバイトをがんばる正ちゃんのはなし