「このスパイスの香りも、きっと忘れてしまう」
最後の夜、賑やかだったオンボロ寮が静まり返っていて、彼女の声はやけに大きく響いた。談話室のソファに座ったまま俯く俺の髪を一房持ち上げて唇を寄せた監督生は少しだけ寂し気だ。それが、気に食わない。泣いてしまえよ、たったそれだけの気持ちなのか、なんて、八つ当たりをしたくなる。
「・・・随分と薄情なんだな」
彼女の指から落ちていく髪が首筋をくすぐる。影が揺れる。月明かりが照らす肌は淡く光っている。
「私も忘れたくないけど」
「本当に?」
「ジャミル先輩ごと持って帰りたい」
寂し気な顔のまま、小さく肩を上げてくすりと笑った彼女は少しだけ目を伏せた。
「でも出来ないから」
短い呼吸。俺から離れていく身体。
「全てを捨てて、なんて、私には言えないから」
そう言うと彼女は立ち上がって俺を見下ろした。それだけで分かる。ああ、もう行ってしまうんだと。
反射的に手首をつかむ。だけど驚くこともなく彼女は少し下唇を噛んだだけだった。全てを見透かしたような顔に俺は情けなく泣きたくなった。
「すべて捨てる覚悟はできてる、って言ったら?」
俺の掠れた声に彼女は目を丸く見開いた。驚いた顔で凝視する。
「いいさ。君と一緒に居れるのなら全て捨ててやる」
軽く手首を引っ張った。
手が虚しく空を切る。つかみ損ねた温もりに気づいて飛び起きて、俺は大きく息を吐いた。ああ、夢だ。あの日の夜の夢。―――そして叶わなかったその先のこと。
すべて捨てる、と言う前に彼女はまるで先手を打つように「幸せで」と言った。唇の端を持ち上げただけの微笑みは涙で濡れていた。彼女の涙を見たのは、それが最初で最後だった。
(朝飯、作らないと)
親指で目じりを擦った。涙は出ていない。
嗅ぎなれたスパイスの香りがするたびに胸が痛くなる。忘れられればいいのに、きっと俺は忘れられない。