8才、或いは1年目のきみへ。「ヨルン、」
ヨルンの中にある師の記憶の大抵は、己の名を呼ぶ声ではじまる。
幼かったあの日々、師はヨルンを呼びつけると息を吸う様にヨルンの頭を撫でた。そのがさついた指先はくすぐったく、いつも温かい。名を呼ばれることも、頭を撫でられることも、常に不可視の恐怖に苛まれていた当時のヨルンにとっては安堵できる数少ないひと時だった。
「なんでしょうか、お師さま」
「お前に渡すものがある、おいで」
手招かれるまま師の隣に座る。足のつかない酒場のカウンター席にうまく乗ると、師からするはずの酒の匂いが少しばかり薄いことに気が付いて首を傾げた。珍しい、呑んでいない。
とはいっても今日は仕事に出たわけではなく、町で行われていた小さな祭りを見て回った日だったのでそういう気分ではなかったのだろうとヨルンは思った。その祭りはその近辺で引き起こされた戦の戦死者を弔う鎮魂祭だったのだが、当時幼くあまり周囲に興味を持たなかったヨルンには理解できないことだったろう。
……師は懐から小さな袋を取り出すとヨルンに手渡した。中身の見えないそれを見つめ、意図が分からないヨルンは師に首をかしげる。「あけてみろ」と促され、言われるがまま封を解いた。鮮やかな青いリボンで飾り付けられていた袋から顔を出したのは、オクトリンの形をしたクッキーだった。
「この町には8才になる子どもにオクトリンにまつわる物品を贈るという。詳しい経緯は省くが、出逢いと幸運の象徴だそうだ」
「お師さま。俺、8才になったんですか?」
「さぁな。だが今日でお前と出会って一年になる。だから今日で8才ということにしよう。……生まれた日も分からないのは寂しいからな」
そういって師はまたヨルンの頭を撫でる。師の憐れむような慈しむような表情の理由も、当時のヨルンには知る由もない。
「そうですか」
ただ師が時折そういった理由をつけてヨルンにものを渡すことがあり、そうすることで師がなんだか満足することを覚えていたので素直に受け取ることにした。
オクトリンの形をしたクッキーの、その足の部分をひとかけら割って食べてみる。砂糖と小麦粉とバターの味がした。お菓子をもらうことはそう珍しいことではなかったが、その日のクッキーは何か特別な……言葉に出来ない不思議な味がしたことを今でも覚えている。
ヨルンは、オクトリンの形をしたクッキーを大きく二つに割った。そしてその片方を師に差し出した。
「……いいのか?」
師は驚いたようだった。けれどもヨルンにとってはあまり深い考えはない、師はよくヨルンに食べ物を分けてよこすのでそれと同じことをしたまでのことだった。
師がヨルンに食べ物を寄こす時、いつも同じことを言う。ヨルンにはその感覚はまだよく分からなかったが、きっといいことなのだろうという認識はあった。だから同じことをしてみればこの不思議な味のことも、師の言うそれのことも分かるかもしれないと思ったのだ。
「おいしい、ので」
「そうか。……そうか」
クッキーの片割れを受け取った師は一口それを食べると、「甘いな」と珍しく顔を綻ばせる。するとまた師はヨルンの頭に手をやると今度は髪がぐしゃぐしゃになるまで撫でた。髪をわしゃわしゃにされることは好きではなかったが、今日はなんだか機嫌がいいなと思ったので特に何も言わなかった。
オクトリンの形をしたクッキーと、師からのめいっぱいの抱擁と。記憶に焼き付いたままの8才の誕生日、あるいはヨルンにとっては初めてのその日。
「あぁ、なんだか貰ってばかりのようだよ」
「……? そうですか」
「そうなんだ。そうなんだよ、ヨルン。お前にとっての1年は、それだけ大きなものだったんだよ……」
あの時は分からなかったが、祝福に満ちた日だったことは違いないのだと。
「誕生日おめでとう。お前にとって今日が良い日であったのならば、私は嬉しい」
師の腕の中で浴びた、淡くて暖かい雨が覚えている。