雨の熱。 雨の音が聞こえる。
肌寒さに引っ張られセイルは目を覚ます。古めかしい家屋の床に寝ていたらしい、体の節々が痛んだ。お気に入りの赤いポンチョが濡れており、両足は靴も脱がされて素足で冷えていた。
どうしてこんなところに? と寝ぼけた頭で見上げる。格子の檻、座敷牢と呼ばれる類の地下牢の中にいるらしい。
起き上がり、牢に触れる。冷え切った木枠の冷たさが指を刺した。その時己の左手が視界に入った。中指を嵌めた青い指輪がきらりと瞬き、セイルはようやく外へ出ようという意識に切り替わった。
だが牢の扉は固く、鍵が閉まっている。鍵を壊そうと何か牢の中を探そうにも、右足に取り付けられた足枷につながる鎖が思ったよりも短く動けない。
どうしたものかと頭を捻らせていると、外からペタペタと足音が聞こえてきた。
人がきた! という喜びも束の間、それは恐怖に変わった。
ゾッとする気配が喉を占める。牢の外を青いランタン片手に歩いているそれは、全身に青黒い刺青がまとわりついた人のように見えた。だが、セイルはそれがたまらなく恐ろしかった。
「(見つかったらまずい……!!)」
息を潜めうずくまる。濡れたフードをめいっぱいかぶってそれが離れることをただただ祈った。真っ暗闇の中、呼吸と心臓の音が聞こえる。
ペタペタと足音が近づき、牢の前で止まった。
早鐘のように心臓が叫ぶ。早く、早くどっかに行ってくれ。目を開けてしまったらそこにそいつがいるようで、瞼の裏に浮き上がるそいつの顔がセイルを追い込んでいく。
きぃ……、と扉が開く音がした。足音が近づいてくる。ひっ、と喉が鳴った。ぞわぞわする気配がにじり寄ってくる。今にも叫んで逃げ出したいのに動けない。
「っ───────!!」
それの手が、フードを抑え込みセイルを抱き込む左手に触れた。
針に刺されるような激痛が走った。何度も何度も執拗に突き刺されるような感覚、まるで人の腕に縫い物でもしているかのような断続的な痛みにセイルは悲鳴を噛み殺した。
それでも顔を上げてはいけないと本能が叫ぶ。
それでも耐えないといけないと心が叫ぶ。
「ひ、ぐっ……うぐっ、んっ、あっ……!」
頭を抑え込み正体不明の激痛に耐え忍ぶ。掴み上げられた左手から何かが傾れ込んでくるようで、それを振り払おうと指先が跳ねてもそれがセイルを手放すことはなかった。
その時セイルは気が付かなかったが、それが握った左手の指先から青黒い刺青が浸食しはじめていた。
「やめ、……っ! 許して! ごめん、なさいっ、ごめんなさいっ、“おれだけ生き残ってごめんなさい……っ”!!」
ぼろぼろと熱い涙が吹き出し、セイルはとうとう痛みに堪えられず悲鳴を吐き出した。
思わず顔を上げてしまい、「ぁ、」と凍りつく。そこにあったのは、かつて失った母の──。
ばちんっ、という大きなシャッター音が耳を劈いた。
「っうわ!?」
セイルは飛び起きた。いや、実際のところ意識を取り戻したと言った方が近い。
くらくらする頭を上げると、やはりまだ座敷牢の中にいた。夢の中でまた夢を見ているのだろうか? 目元を擦り顔を上げるとそこには見慣れた隣人の姿があった。
「目が覚めたか、セイル」
銀色の髪に青いパーカー、右手の指に青い指輪。古めかしい射影機を手にこちらを伺う青年の名をセイルは知っている。
「ヨルン……きみも来ていたんだね」
「あぁ、雨が降っていたからな」
彼は、現実世界で一緒に暮らすルームメイトだった。
──雨が降ると、セイルは夢をみる。写真家見習いのセイルはとある写真を撮ってからというもの、この怪現象に魘される日々を送っていた。
そして同じ家の住人であるヨルンもまた同じ様に夢に巻き込まれていた。
夢の中の謎めいた屋敷、射影機と呼ばれる古いカメラと襲いかかってくる実体のない幽霊。ここ数日ずっと続く怪奇現象に、今夜もまた飲み込まれるらしい。
「……さっき、撮ったのか?」
「反応があったから一応は。確認したいが……現像しないと見られないんだったな」
「ポラロイドだったらすぐなのにね」
「全く不便だ」
「立てるか?」と手を差し伸べられ、「うん、ありがとう」と手を借り立ち上がる。するとまたじゃらりと足枷が鳴り、素足だったことに気がついた。
「今日もひどいな。足、痛くないか」
「痛い……けど、平気。慣れっこだし」
「……。まぁ、いい。鍵と靴を探してくる。セイルはここで待っていろ」
「あ……」
牢の扉を潜りどこかへと探しに行こうとするヨルンの背を、セイルは思わず格子越しに手を伸ばし彼のパーカーを掴んで引き留めた。
「セイル?」
「っ! ご、ごめん!」
「……、」
謝りつつもセイルの左手はヨルンを手放そうとはしなかった。
また一人になることが恐ろしかった。一人になったらまた奴が現れて、セイルに酷いことをする気がして。
「……ここにいてよ。出られなくたって構わないから……、ひとりにしないで……」
「セイル……」
格子越しに手が伸び、隙間を縫ってヨルンの右手がセイルの金髪を撫でた。
「ここにいたらもっと酷いことになるのは、分かっているな」
「……うん」
「きっと夢から出られなくなる。……あの人みたいに、現実からも消える」
「……、」
「俺は、そうはなってほしくない」
髪を撫でられるたびに、恐怖が和らいでいく。
分かっているのだ。ここにいてはいけない、ここでこの冷たさを受け入れてしまったら永遠にこの中に閉じ込められてしまう。
雨が、降っている……。
「おれも、いやだ……。ヨルンに嫌なことをしたくない……。寒いの、苦手だもんな」
「あぁ、思い出してくれたか」
「うん。……ごめん」
「気にするな」
一度だけ、お互いにぎゅっと肩を抱き寄せる。
温かな体温に涙が出そうになった。何もかもが冷たい中で、セイルは彼までも失いたくはなかった。
「待ってるよ」
「あぁ。なるべく早く戻ってくる」
よしやるか、と彼が気合を入れて射影機を手に取る。余裕そうに見えて少々引き攣った横顔に、セイルは“そうだこの人あんまり幽霊得意じゃないんだ”と思い出した。
駆け出していく彼の背を、見えなくなるまで見つめていた。
/
「セイル。本当に大丈夫なのか」
「大丈夫だよ、いるだけだしすぐ終わるって」
「そうか? 本当そうか? 頼むぞ本当に……っ!」
夢屋敷での勇敢な姿とは打って変わってびびり上がるヨルンの姿に、セイルは不思議だなぁと頬を掻いた。
夢に攫われるようになってから、現実にも怪奇現象はにじり寄るようになっていた。いもしない足音が聞こえたり、勝手にテレビがついたり。
今出てきているのは、台所にただ人がいるというだけのものだ。
幽霊に襲われるよりかは随分可愛らしいものだが……。
「ダメなんだ……っ、こういうタイプだけはダメなんだ……っ」
同居人はどうにもそれがダメらしい。
セイルが苦手とするびっくり系のホラーや猟奇モノも、ヨルンならば全然眉も顰めず見られるというのに。こういったじっとりとしたタイプは苦手らしい。
「屋敷だとあんなに元気なのになぁ」
「あいつらは倒せるだろう……!? あれは、その、そこにいるじゃないか……!!」
いいから早くどうにかしてくれと急かされて、セイルはパシャリと手元のポラロイドカメラでそれを撮る。
カメラをおろした頃にはそいつは消えていて、みーっと出てきた写真の中に大人しく収まってくれる。
「ほら、もう大丈夫だよ。見る?」
「見せなくていい……!! とにかく朝飯を食うぞ、身が持たん……っ!」
ぱたぱたと台所に入っていく彼の慌ただしい様子に苦笑しながら、セイルは電気ポットでお湯でも沸かすかと棚に手を伸ばすのであった。
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「……ぁあ、やっと朝か」
恐怖の夜が開け、外から聞こえるしとしととした雨音でヨルンは目を覚ます。
今日も雨か。憂鬱な気分に頭が重たくなるのを感じながら身を起こすと、暖かな違和感に首を傾げて視線を下ろす。
「セイル。またお前は……」
「んー……」
同居人のセイルが寝床に潜り込んでいたらしい。モゾモゾと動いては、冷えた朝の空気を嫌がって丸くなる。
怪奇現象がはじまってからというもの、こういった朝が増えた。そしてヨルンもまたそれに慣れつつあった。それだけ精神的に参っているのだろう、早く解決しなければとため息をつく。
セイルの綺麗でクセのある金の髪を撫でながら、とりあえず起きるかとベッドから抜け出そうとした時。
「っ、ぁ……! かはっ、、ゔ……っ!?」
そいつはやってきた。
右手から背にかけての激痛、夢をみるたびに襲いかかる針で縫われるような痛み。
あまりの痛みにヨルンは身をかがめ、必死にそれが去ることを祈った。呼吸もか細くなり、喉がひゅーひゅーと鳴る。眼球に涙が膜を張り体が震える。
乱れていく視界に、ふとあの刺青の人物が映った。どうして現実にと疑問に思う暇もなく、それは手を伸ばしてくる。
ヨルンに向けてのものなのか、はたまたセイルに向けてのものなのかは分からない。だがそれに触れられてはいけないのだと本能が理解していた。
「っー……、っー……、!!」
ヨルンは眠ったままのセイルに毛布を被せ、覆い被さる形で彼を守ろうとした。
腕のうちにセイルを匿い、必死の思いでそれを睨む。見ているだけで頭の中にあの刺青のようなものが侵食してくる感覚がした。
「やめろ。……連れていくなら、俺だけにしろ……こいつを巻き込むな……っ」
恐怖で締め上げられた喉から飛び出した悲鳴に、何か思うところでもあったのだろうか。
それはぱたりと動きを止め、すうと音もなくヨルンの視界から消えていった。
じっとりとした冷や汗が背を濡らし、朝の冷気を吸い込んで体温を奪う。あぁ、嫌な朝だ。
「うん……、んー……? 何……?」
「あ、セイル、」
「ヨルン……?」
匿っていたセイルがみじろぎし、ぼうっと見上げてくる。まだ寝ぼけているのだろう、焦点も合わないままぼんやりとしていた。
「……あれ、なんで……あー……ごめん、またおれ勝手に部屋に……」
「……いい、もう慣れた。いっそ次からは一緒に寝るか?」
「うー、それは男としてどうかと……」
ぐしぐしと顔を擦りながらセイルは起き上がり、ベッドの上でぺたんと座る。全く子どもじゃないんだから、とヨルンは肩をすくめた。
「んー、とりあえずおはよう、ヨルン。……眠れた?」
「全く」
「だよね」
「飯にするか」
「うん。タマゴ焼こうよ、甘いの作ろ」
「塩のが好きなんだが」
「じゃあそれも作ろう、あー……タマゴのストックあったかな」
「そこからか」
お互い目の隈を作りながら苦笑する。早いところこんな怪奇現象から逃げ出そう、と決意を新たに外を見る。
カーテンの向こうでは、まだ雨が降り続いていた。