絆創膏を首に貼る。 眠りたくないと思う日が来るとは思わなかった。
しとしととした雨が窓を濡らしている。天気予報によれば夜から朝にかけてこの天気らしく、それはつまりあの夢を見ることが確定しているということだ。
だが何が起こるかわからないあの現象のことを深く考えても仕方がない。ヨルンは眠りへの恐怖を振りきるように、セイルから預かった写真と手帳をリビングのテーブルに広げた。
夢の中で射影機に記録された写真は、現実の射影機に送られる。不気味な景色が映るそれらを手に資料と照らし合わし、調べるべきものを洗い出しながら明日の予定を組み立てていく。
ヨルンにとってこの時間はそう悪くないものだった。冥銭や辺獄の研究を引き継いでいてよかったと思える、今は亡き恩師の気配を感じることができる時間。
「……、師匠」
気がつけば、ヨルンは一枚の写真を手に取っていた。部屋の奥へと消えていく人影、その背はヨルンを育ててくれた師匠と同じものであった。師匠はあの夢の先にいるのだろうか? 何か伝えたいことがあるのだろうか、それとも。……思考が折り重なるたびに背に刻まれた誘いの刺青が深く侵食して行くように思えた。
集中しなければ、とヨルンはため息をつき左手で首の後ろを掻いた。痛みで余計な思考を追い出す時にしてしまう、昔からの癖だった。師にもこの癖は咎められたものだが、結局治らなかった。
師匠を想ってしまうたびにヨルンは爪を立てた。ヨルンにかの人をそんなふうに想う資格はないからだ。雨の日のスリップ事故、あの日運転席にいたヨルンの心には今でもあの冷たい雨が降り続けている。
夢を想うたびに眠りが恐ろしくなり、また爪を立てる。あの夢は恐ろしいものばかりだ。襲いかかってくる怨霊に悪趣味な儀式、眠りに招かれるたびにどこかへ拘束されているセイルの姿は思い出すだけで痛々しい。慣れっこだと言われるぐらいならば、あんな夢は最初からないほうがいい。……はずだというのに。
ヨルンを夢へと誘い続ける師匠の背が、心を惹きつけてやまない。
あのまま眠ったままでいられれば、何処へと進む師匠に追いつけるのだろうか。そんな邪な本能に爪を立てる、正気に戻れと爪を立てる。未練に爪を立てる、振り切れと爪を立てる。爪を立てる。爪を立てる。爪を立てる……。
「ヨルン、」
「っ……!」
呼び止められて思考から引き上げられる。目を向ければ、そこには不安そうな表情を浮かべているセイルがいた。
左手の指先にぬるりとした感覚が奔る、どうやら無意識の間に深く掻きすぎてしまったらしい。爪先に入り込んだ鈍い赤色がひどく鮮明に目を焼いた。
「大丈夫……じゃ、ないよな。絆創膏いる?」
「あぁ。……すまないな」
「こんな状況だもの、仕方ないよ」
リビングに常備している救急箱から大きめの絆創膏を取り出し、ヨルンの隣に座ったセイルは「貼ったげる」と向こうを向くように促す。手先が首の後ろに触れてくすぐったい。ぺとり、と貼り付けられた感覚と馴染ませるようにそれを撫でたセイルの手があたたかい。
「なぁヨルン」
「ん、」
「ヨルンでも……眠るのが怖いのか?」
「……。情けないことだがな」
そっか、とセイルは小さく吐息をこぼす。声がかすかに震えていることを、ヨルンの耳は的確に拾っていた。
「師匠が……、呼んでいる気がするんだ」
「……、会いたい?」
「……………………、会って、どうするのだろうな」
「それは……」
迷いがヨルンを引き止める。視線が定まらず、こうして座っていることさえもできなくなるような感覚だった。
「恐ろしいことだらけなんだ。眠ることも、目覚めることも怖い。またひとりになることも、お前をひとりにしてしまうことも……」
このまま眠りに溺れてしまいそうだと首を振る。そんな状態の同居人を見てか、冷えはじめたヨルンの右手をセイルは握った。
「ずるいこと言ってもいいかい」
「あぁ」
「……、ひとりにしないで…………」
同居人であり唯一の家族とも言えるような隣人を繋ぎ止めるように、セイルは握って手に縋った。
じっとりとした感覚が背を伝う。呪いの刺青の範囲は広がり、ゆっくりと精神を蝕んでいく。それはヨルンもセイルも同じことであった。
この暖かさだけは手放したくないと、絆という形でお互いを縛る。セイルが自身でずるいといったのはそういった自覚があったからだろう。
「……本当にずるいやつがあるか」
「ごめん」
「いい。……、手間をかけさせてすまないな」
「気にしないで。おれが好きでやってることだもの」
ただそれでも、そうしてくれることがたまらなく温かかった。
ふと時計を見ればもういい時間だ。夢のことはあるが、明日も用事は積み重なっている。流石にもう眠らないといけないだろう。
「部屋に戻るか」
「うん。……ねえ、今日一緒に寝ていい?」
「いいぞ。とうとう捨てたか……プライドを……」
「そんなしみじみしないでってば……!」
眠りは深い方へ、刺青はなお深く鋭く刻まれて。心も追い詰められて隣人との距離感覚もおかしくはなり始めたが。
「お前がいてよかった」
きっと一人ではこうはいかなかったのだと、今はただそう信じていたい。