今は負け続きと見る バーのカウンターの端っこで褐色の液体に沈むロックアイスは提供した時よりも一回り小さくなっていた。
「あのねぇ、高杉社長。そろそろツケてくれる人もいないんだから早く部屋に帰りなさい」
「んー」
頬は高揚しきり、眼は据わり、半身をカウンターにしなだれさせた美丈夫は、くぴ、くぴとグラスの中身を口に含みながら、相変わらず腑抜けた返事をする。
洗い終わったグラスを一つまた一つと拭き上げながら、『新宿のアーチャー』ことジェームズ・モリアーティは深く深く溜息を吐いた。
今日の祭は一旦お終い。この後「新茶のバー、出張するの!? バーでご飯食べたい!!」と目を輝かせたマスターが来る予定なのでその準備もそろそろ始めたい。本当の事を云えばバーは夕食を取る場所ではないし、どうせマスターの後に誰彼とゾロゾロ続いて、どんちゃん騒ぎ会場になるのは目に見えているが、一年に一回の祭だし、「まあ、いっか」と大目に見た次第である。
祭に託けてお手伝い要員もそれなりに手配してもらったし、実働はそっちで勝手にやって貰えばいいし、酒代備品代は実行委員会持ち、つまみと料理はカルデアキッチン部隊の提供なので、懐も傷まない。
そんなわけで今は丁度云うなれば嵐の前の静けさと言ったもので、今ここにはカウンター端に籠城しているこの男しかいないのである。何故ならこの男、口が滅法回るようで、様々な輪に入っていってはあらゆるテーブルに自分の飲み代はつけ回っていたのだ。チェックで「あの社長……!」と睨まれ、「よろしく頼むよ」と本人が手を振っている光景を目にした数は両手に収まらない。
誰も彼もそんな餌食にはなりたくない話すのは構わないがと、距離を取られたりした結果、最終の漂着地点がここだ。ちょうど今裏で女王陛下のエキシビジョンマッチが佳境らしくこちらまで微かに歓声が響いてきているので、皆そちらを見に行ったのもある。
末路は兎も角、この口の旨さは若い自分にも見習って貰いたいものがあるねぇ、とごちたところで、随分久しく思える来客があった。
「おや、珍しい」
「あれ、今は準備中だったかな?」
「いんや、開いてるんだけどさ。
女王陛下の方が盛り上がってるからそっち行っちゃった。残ってるのはそこの社長だけ」
鮮やかなブルーのシャツと白のスラックス青年──坂本龍馬はモリアーティが指差す先を見てあらま、と驚いていない様で驚いた顔をした。
「高杉さん」
「んー? ああ、坂本君か。君相変わらずあっちこっちで暗躍して」
「うーん、今回は暗躍と云うほどのことはしてないと思うけど」
うーん、今回は、って言ったなこの美丈夫。
龍馬は高杉の横のカウンターチェアに腰掛けて、どっぷり目の据わった高杉の顔を覗きこむ。
「教授も困ってるからそろそろ出ようか。ちょっと酔いは覚ました方がいいかな……部屋まで送ろうか?」
龍馬の提案に高杉はたっぷり3秒以上間を置いて、ついでに龍馬の上から下までを舐める様に見て、「仕方ないな」とここまでずっと手放さなかったロックグラスをカウンターに置いた。
随分薄まったウィスキーと小さくなったロックアイスが解放されたのを安堵するかの様に軽やかな音を立てた。
「高杉さん、立てる? あ、教授。ここは一旦僕が出すからあとで高杉さんに」
「君は飲まなくてよかったのかネ?」
「とりあえず一旦高杉さんを送ってからまた……あ、ちょっと」
じゅう、と湿っぽい音がした。おやおやとモリアーティは目を丸くする。さっきまでの飄々とした表情を何処かに蹴飛ばされて真っ赤になった龍馬が首筋を押さえて、また別の意味で真っ赤で目の据わった高杉がいつの間にか龍馬の腰に腕を回している。お陰様で全ての計算式が解けた。
あのねぇ、そういうのは部屋に帰ってからやってくれないかね、とモリアーティが苦言を申し上げようとした時に龍馬に組み付いている高杉とバチりと目が合う。
酒精でぐらぐらと煮詰まった紅玉の瞳が、分かりやすくこちらを牽制していた。縁は溶け出しているのに瞳孔だけがブレずに此方を真っ直ぐ射抜いてくる。
やれやれとモリアーティは肩を竦めた。そうやって牽制してくる方がわかりやすくて困る。真名と弱点は開示しないが、聖杯戦争のセオリーだろうに。いやここはカルデアなのでそこまで真名と弱点の秘匿は必要ないが。
これ以上馬に蹴られたくはないので、ここはとっとと撤収してもらう方に誘導するに限る。
「社長随分酔っ払ってるみたいだから、早く連れて行ってあげなネ」
「高杉さんがここまで潰れるの珍しいなぁ」
まだ少し赤い頰をしながらも、龍馬は腰に回された手をさもないことの様に肩に回す。
おっと先ほどの首チューは意外と効いてないぞ高杉社長! 何となく心の中で野次を飛ばしてしまう。
「まあ、酔い潰れないとやってらんないこともあったんだろうねぇ」
待ち人が来ないとか、構ってくれないとか、とんでもなく鈍感とか。
「お代は今はいいヨ。どうせ明日もその社長来ると思うからネ」
「では、お言葉に甘えて」
軽く会釈の後、高杉に肩を貸した龍馬がバーから出ていくのを見送る。
比翼連理の後ろ姿が消えてなくなるのを見届けて、ふぅと一際大きな溜息が漏れ出た。
「おや教授、随分とお疲れ様じゃあないか。若い二人に当てられたかい?」
何処からともなく花弁と共に現れたレディ・アヴァロンはカウンターに頬杖をついてキャロルのチシャ猫の様な笑みを浮かべている。新しい娯楽を見つけた顔だ。
「もうあんな御人の面倒、面白いけど極力御免被りたいネ」
なんとまあ素直でない。いや正攻法で伝わらない相手だからこそ変化球で勝負してるのはよぉく解ったが、君も君でキャッチくらいはまともにしてあげたまえ、と。
態々龍馬が一人でここに来たと云うことの意味はそういうことなのだが、イマイチ高杉は理解仕切れてない。
それは兎も角、待ち人と二人っきりになれる状態には持ち込めたのだから、高杉社長にはここからそれなりに健闘してもらいたいものである。なんせ明日以降がめんどくさいし。
「マスター、一杯」などと陽気に言う淑女宛に簡単なカクテルを提供して、散々飲み遊んだ高杉の飲み代の勘定を頭の中で巡らしてみたが、そこそこいい値段であった。とはいえ全額請求しなくても、この祭の中でなら雑費で落とせる金額ではあるので、明日請求するか否かは、明日の高杉の態度で決めることにした。
モチロン、ツヤツヤしていたら癪に触るから倍額ふっかけてやるとも。
「にしても焦ったいなぁ、あの二人。ちょっといい雰囲気にしてこようか」
「君に手を出されたら明日部屋から出てこれなさそうだからやめてネ」
「よく分かったねぇ。お姉さんお手製のなんちゃらしないと出られない部屋だよ。脱出条件は回数がいいかな?」
「やめてあげなさい」
高杉が置いたグラスを洗いながら、モリアーティは苦笑した。