この家での生活、そして記憶が抜け落ちているという違和感には慣れたが、鏡に映った自分の姿にはいまだに慣れない。ガキの頃から脱色していた髪は墨汁でも被ったかのように真っ黒に染まっている。今は柴オーナーが直々に店のレシピで作った飯をたらふく食わせてくれるからマシになったけれど、初めの頃は頬もこけて目の下にはくっきりと隈があった。鏡を見るたびに自分で自分の姿に驚いていたくらい、ゾンビみたいな有様だった。一体どんな生活をしたらあんなにやせ細るのか。
洗面所で顔を洗い歯を磨いた後はウォークインクローゼットに入る。俺の家よりも優に大きいクローゼットには春から冬まですべての季節に対応した服が一通り揃えられていた。
「あれ? これって……」
適当に取り出したTシャツに着替えていると視界の隅に紺色が映る。大寿くんのスーツがかかっている側のシェルフに畳んで置かれているそれに近づき、手に取れば馴染んだ毛糸の感触が手のひらに伝わってきた。馴染みがあるのも当たり前だ、俺はずっとこの毛糸に触れて、編んでいたのだから。
奮発して買った少しお高めの毛糸。濃紺に染められたそれで編んだのはマフラー。大寿くんの首元があまりにも寒そうだったからこれでも巻いてなよと贈ったのだ。去年の冬、俺にとってはごく最近の出来事。
けれど、大寿くんにとっては十年も前の話。
「……勘弁しろよ……」
顔が熱い。身体中の血液が一気に顔に集まってそこで沸騰したような気分だった。
広げたマフラーは少しほつれが見られるものの、特に汚れもなく綺麗な状態だ。埃もついていない。丁寧に扱われているのがわかる。……作り手本人だから、よくわかる。
ほとんど押しつけるように贈ったものだった。大寿くんが家族のもとを離れてから二度目の冬。たいした防寒もしないで寒空の下突っ立っている彼が、自分を大切にしていないように見えて、それが嫌で。これをきっかけにマフラーとか手袋とかちゃんとつけてくれよ、いくら大寿くんが喧嘩強くても風邪は殴って退治できないからさ、とそんな想いで渡しただけの。
こんなに大切に扱われているなんて、聞いてない。
そりゃ、少しでも長く使ってくれればいいなって下心はあったけど。
「ああそれ。見つけたのか」
背後から飛んできた声にビクッと肩が跳ねた。熱の引かない顔を見られたくなくて背を向けたままでいると、大寿くんがまた、思ってもみない言葉を言ってくる。
「ほつれてるところあるだろ。それ直せるか?」
──自分でやろうとしたんだが、どうもお前みたいに器用じゃなくてな。冬までに頼みたい。
「は、はぁ……?」
へにゃへにゃの軟体動物のような声が漏れた。人って驚きすぎるとこんな情けない声が出るんだな、知らなかった。いやそれよりも、冬までにって。
「も、もしかしてこれ、今も使ってんの……?」と恐る恐る訊けば、大寿くんは心底不思議そうな顔をして片眉を上げた。
「冬になりゃ毎日巻いてるが」
「毎日ぃ⁉ ま、毎日って仕事の時も? スーツ着てるときも⁉」
「あ? 当たり前だろうが」
さっきまで顔に集まっていた熱が一気に霧散する。頭はクラクラと揺れ、眩暈と貧血でぶっ倒れそうだ。当たり前って、アンタ。
ブルブル震えながらハンガーにかけられたスーツに触れる。許されるのなら頭突っ込んで吸って頬ずりしたいくらい上質な生地は、学生が背伸びして買った程度の毛糸とは天と地ほどの差がある。
「大寿くん……これどこのブランド?」
「確か……キートンだったか?」
「腕時計は?」
「ロレックスだな」
ぶっ倒れた。今ならショック療法的なやつでぶっ飛んだ記憶が戻ってきそう。それくらいの衝撃。
キートンのスーツを纏ってロレックスの時計つけて、マフラーは渋谷の一般人三ツ谷隆の手縫いってなに。その二つと並べるな。差がありすぎて時空歪むわ。首元にブラックホールできるわ。そもそも記憶喪失になる前の俺は許していたわけ⁉
「大寿くん……無理して使わなくていいんだよ? マフラーも良いのにしなよ、ジョンストンズとか。社長さんが手編みのマフラーとかかっこつかないからさ……」
「他人の評価なんぞどうでもいい。俺の中で一番価値のあるものはこのマフラーだ。お前の手で編まれたこれが一番いいと思った。だからつけている。悪ぃか?」
「……ばか」
……悪くない。悪くないよ、大寿くん。
再び熱が顔に戻ってくる。火照ったり血の気引いたり、忙しすぎて俺の身体馬鹿になっちゃうんじゃないか。
悪くないけど、でもその言葉はズルいよ大寿くん。どんな高級ブランドよりも価値があるなんて、殺し文句にも程がある。
「緩んできてるし一回ほどいて編み直そうか。今日中にできると思うよ」
「そんなに早ぇのか。ひと月くらいかかるもんだと思っていたが」
「はは、慣れれば案外簡単なんだよ? あ、でも道具ある?」
「ああ。待ってろ」
大寿くんは一旦ウォークインクローゼットから出ていき、またすぐに戻って来た。手元には棒針と毛糸の入った籠を持っている。
「これでいいか?」
「ん、大丈夫」
それにしてもこの家、何でもあるなぁ。食料から衣類、手芸道具まで。昨日見たアクション映画の影響で、敵に襲撃されても余裕で籠城できるじゃんなんて考えてしまう。
ま、敵に襲われるなんて自体に遭遇するわけないけどな。
棒針を握った時、やけに冷たく感じた。手の上を滑り落ちていくような落ち着かない感覚。なんだろう、久しぶりに編み物をやるせいだろうか。
その違和感も棒針を握っているうちに消えたので、ソファにあぐらをかいて作業を開始する。まずは毛糸を丁寧にほどいて一本の状態に戻し、あとはひたすら編んでいくだけ。……なんだけど。
ジーッと隣から飛んでくる視線のせいで、やりにくいことこの上ない。
「大寿くん、見すぎ。緊張するから」
「俺のことは気にせず続けろ」
「えぇー……」
見られていると緊張すると言っても大寿くんは俺の手元から視線を外さなかった。その双眸はどちらかというと興味の色を纏っていて、ただ単純にマフラーが出来上がるのを見ていたいだけなのかなと思い直す。うちの妹みたいなもんだ。いろんなものに興味を示して、何時間でもジーッと見つめている子供特有のあれ。
三十路の男捕まえて子供と同じだと言えば雷が落ちそうなので、口にはしっかりとチャックをしておくことにする。
「器用なもんだな」
「まあ慣れてるから。ガキの頃からやってるし」
「たとえ何十年やっても俺には無理だ」
「あ! 大寿くん針折ったことあったよなー! あれすげーおもしろかったワ」
大寿くんは手が大きいから細かい作業は苦手だ。一度やってみたら?と言ったことがあったけど、布は拳の中で揉まれてぐちゃぐちゃ、波縫いは間隔が広すぎてガバガバ、挙句の果てに力加減を間違えて針を真っ二つに折る結果に終わった。どんな馬鹿力なら針折れるんだよ、と爆笑する俺の頭にはしっかり拳が落ちました。
「こういうのは適材適所なんだよ。得意な奴がやればいい」
「そーそー。大寿くんが困った時は俺に任せて。破れたパンツも縫ってあげるから」
「それは遠慮する」
「そう言わずに」
たわいもない話をして笑い合って流れていく時間を共有する。マフラーの網目をひとつひとつ増やしていくように、思い出を重ねていく。そうやって十二年、俺たちは一緒にいるんだな。大寿くんとは気が合うし、一緒にいると落ち着くから今でも縁が続いているのは素直に嬉しい。
日が沈み、代わりに月が天窓から覗けるようになった時ようやくマフラーが完成した。朝からひたすらやっていたのに大寿くんはどこにも行かず、ずっと俺の隣で俺の手元を見つめていた。文字通り目に焼きつけるみたいな真剣な眼差しだったから笑っちゃう。俺が編み物をする姿なんて普段いくらでも見られるだろうに。
「はい、完成!」
出来上がったマフラーをタトゥーが陣取る首に巻きつける。うん、いい感じ。こいつの出番はまだ当分先だけど役に立ってくれるといいな――って、わわ。
「大寿くん?」
突然逞しい腕で抱き込まれる。口の中から内臓が出てきそうなくらい、背骨がポキッといっちまいそうなくらい力が強くて、ギブギブと広い背中を叩いても腕は離れていかない。どうしちゃったの、大寿くん。
「ありがとう、三ツ谷」
「う、うん。どういたしまして」
首に当たる息が震えている。鼻を啜る音。ちょっと、まさか泣いてんの? 確かめようにも俺は指先以外自由の効かない状態だから、大寿くんの顔を見ることはできない。
「これで……凍え死にしなくて済む」
「お、大袈裟だな⁉︎ 大寿くん寒がりだっけ? 手袋も作ってやろーか?」
「ああ……いいなそれは。ぜひ頼む」
大寿くんの腕から解放される。彼は泣いてなんかいなくて、いつも通りの顔をしていた。
気のせい、だったのかな。マフラー編み直してやったくらいで何で泣くのって話だし。
「ブランケットも靴下も作ってあげる。大寿くんに凍え死にされたら困るし」
そう言って笑えば、大寿くんも笑った。