デパストハルシオン まぶたを持ち上げると、目の前に見覚えのないカーテンがあった。
泣き出す寸前の空のようなくすんだグレー。わたしの部屋のカーテンじゃない。この色は、わたしの趣味じゃない。ここはどこ?
かすかに消毒薬の匂いがする。わたしはこの匂いを知っている。つんと鼻をつく薬品の匂い。この匂いは、ここは――保健室?
どうやらわたしは保健室のベッドで眠っていたみたいだ。どれくらいの時間眠っていたのかは分からないけれど、熟睡した後のように頭がすっきりしている。すっきりしているわりに、どうも記憶が曖昧だ。
寝返りを打とうとして、身体を動かせないことに気がついた。何かに拘束されている。わたしを拘束しているのは、誰かの――腕?
背中があたたかい。後ろから誰かに抱きすくめられている。
動きを封じられるなんて――それも、こんな体勢で――不愉快極まりないはずなのに、どうしてかしら、ちっとも嫌な感じがしない。むしろ心地よささえ感じてしまう。
身体はがっちりホールドされているけれど、かろうじて首から上は動かせるようだ。
わたしはこくんと息を飲む。
おっかなびっくり後ろを振り返ると――
シャディクがいた。
抱き枕を抱えるみたいにわたしをぎゅっと抱きしめて、シャディクはぐっすり眠っている。
これは……夢? わたし、夢をみているの?
――いいえ、違う。夢じゃない。
夢じゃない証拠に、振り返ったときに右肩がうずくように痛んだけれど、目を覚まさなかったもの。
シャディクが寝息を立てる。わたしの耳をくすぐる。
こそばゆくなって視線を滑らせる。掛け布団の下、シャディクもわたしもジャージ姿だ。
ええっと、待って、ええっと、夢をみているのじゃないならわたし達、何がどうしてこんな状況になっているの?
ジャージを着ているってことは、おそらくふたりとも体育の授業を受けていたのよね。
だんだん頭が冴えてきた。記憶がよみがえってきた。
ええ、そうよ。今日は五時間目が体育で――
*
木曜日の五時間目は体育の時間。隣のクラスとの合同授業だ。
体育は男女別になる。男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でバレーボール。
いつもなら他のどのクラスとも被ることなく二年女子だけで体育館全面を使っているのに、会議だか研修だか詳しいことは知らないけれどとにかく今日は学校側の都合で三年生の授業が変更になったとかで、体育館の半分を三年男子使うことになった。センターラインを挟んで体育館の舞台側を二年女子、出入口側を三年男子が使う。
体育教師がそんな説明をしているあいだに、紺地にえんじ色のラインが入ったジャージを着た三年男子がぞろぞろと体育館へ入ってくる。その中にシャディクがいた。
バレーの授業ももう終盤。二年女子は六人ずつのグループに分かれて二十五ポイント先取のワンセットマッチの試合をするのだけれど、片面だとバレーコートがひとつしか取れない。審判をしている現役バレー部員を除くと、必然的に見学組というか試合の順番を待っている生徒の方が多い状態になる。壇上には、寝そべったり膝を立てて座ったり、わたしを含めて試合の順番を待っている女子達がわらわらと集まっていた。
三年男子はバスケットボールだ。あちらもグループに分かれてドリブルやシュートの練習をしているのが見える。
シャディクは長身だ。文字通り周りよりも頭ひとつぶん(ふたつぶん?)背が高いから、とても目立つ。――もっとも、シャディクが目立つのは、背丈のせいだけじゃないのだけれど。
壇上の、わたしがいる位置からちょうど反対側(舞台でいえば下手側)にたむろしている隣のクラスの女子達が、クラスメイトの試合そっちのけできゃあきゃあ騒いでいる。一応授業中だから抑えているようだけど、興奮気味な声がここまで聞こえてくる。
「シャディク先輩見られてラッキー!」
「ねー。今日もカッコイイよねー」
「手が大きいから、ボールがめちゃくちゃ小さく見えない?」
「ポニーテールかわいいー!」
ふんっ。はしゃいじゃって、ばっかみたい。
だけど――
わたしも、彼の姿を目で追ってしまう。
フリースローラインに立ったシャディクが少し膝を屈めて伸び上がる。ふわり、長い髪が宙に舞い、彼の手からボールが放たれる。美しい放物線を描いて、ボールは狙った軌道を逸れることなくゴールリングに吸い込まれた。
時間にすると二秒にも満たない。
けれど、まるでスローモーションの映像を見ているようだった。
とくん、わたしの心臓が跳ねる。――カッコイイ……。
「きゃー!」
けたたましい声に、たちまちスローモーションが解除される。引き戻される。
シュートが決まった瞬間、例の女子達が沸き立ったのだ。
「カッコイイー!」
「ケータイ持ってくればよかったー!」
その歓声が聞こえたのだろうか、続けて二本シュートを決めたシャディクが舞台の方へ目を向けた。
壇上には十五人ばかり女子生徒がいた。その中にわたしがいるなんてシャディクはきっと知らないはずなのに、狙いすましたようにわたしと視線がぶつかる。ほんの一瞬、シャディクのきれいな瞳が、射抜くようにわたしを見据えて――
にこっと笑って、シャディクはこちらへ手を振った。
「えええええー!」
「なになになに今のー!」
「絶対こっちに振ってくれたよー!」
ますます沸き立つ女子達。――ああ、もう、うるさいっ!
「ミオリネさん、ミオリネさん」
わたしの隣にちょこんと腰を下ろしてわたしの髪を三つ編みに結っていたスレッタが、可愛らしく頬を染めながらわたしにこそっと耳打ちをする。
「シャディクさん、今ミオリネさんに手を振りましたよね」
「し、知らないわよっ」
火照ってしまいそうな頬を見られたくなくて、スレッタから顔を背けたときだった。
「――危ないっ!」
叫んだのは誰だろう。
確かめる間もなく右肩を激痛が襲い――わたしの意識はそこで途切れた。
*
仕切りのカーテンが開いて、ベッドの上に光が射す。
「目が覚めたようだな」と、カーテンの隙間から養護教諭のサビーナ先生が顔をのぞかせた。
「よく眠っていたが、気分はどうだ?」
「だいじょうぶ……です。あの、今は」
「六時間目が半分ばかり終わった頃合だ。――災難だったな」
災難とはつまり――サビーナ先生の話によると――体育館で行われていたバレーの試合中、現役バレー部員のひとりが強烈なスパイクを決めたのだが、勢いを保ったまま思いがけない方向へバウンドしたボールがわたしの右肩へ直撃したのだという。衝撃で気を失ってしまったわたしを、シャディクが抱きかかえて保健室まで運んでくれたのだ。
後でスレッタから聞いた話だと、壇上でわたしが倒れたとき、体育館の反対側から瞬間移動したかと思えるほどの早さでシャディクが駆けつけたらしい。頭をうっていないことを確認してからわたしを抱き上げ、そのまま保健室へ直行した。自分も授業中だっていうのに、そのときのシャディクは、体育教師を含めて誰にも口をはさむ余地を与えないほどの剣幕だったそうだ。
「王子様がお姫様を抱っこしているみたいで、すごくすごく素敵でした! ロマンチックでした! 写真を撮っておけばよかったですね」
写真はともかく、ハイテンション気味に話すスレッタは、瞳をきらきらさせてとても可愛かった。
「わたしが保健室のベッドで寝ている経緯は分かりました。でも、どうしてシャディクも寝ているんですか?」
「打ち身の状態をみて君を寝かせたあと、『せっかくだから俺も休んでいく』と言ってな」
「せっかくって、同じベッドでわたしに添い寝する理由になっていないわ」
サビーナ先生がふっと目もとを弛める。「こうした方がよく眠れるらしい」
横になったまま、わたしはため息を落とした。
「サビーナ先生はシャディクに甘いと思います」
「かわいい教え子だからな」
そう、サビーナ先生は、シャディクが中学三年生のときに、彼の家庭教師をしていたのだ。
先生が養護教諭として明日校へ赴任してきたのは一年前――つまり、わたしが入学したのと時を同じくしているのだけれど、家庭教師時代に、シャディクから違う中学に通っているひとつ年下の幼なじみの話を何度も聞かされていたので、わたしが入学する前から先生はわたしのことを間接的に知っていた。
ちなみに、シャディクとサビーナ先生が知り合いだったという事実――それもわりと本格的な知り合いだったという事実は、シャディクとわたしとの間にちょっとした悶着(といっても、一方的にぷりぷりしていたのはわたし。でも、わたしが悶着だって言ったら、あれは紛うことなき悶着なのよ)をもたらしたのだけれど、その話はまた別の機会に。
「子どもみたいに無防備な顔をして眠っているところをみると、ふむ、よっぽど君の抱き心地がよいと見える」
白衣の腕を組みながら、サビーナ先生が感慨深げに言う。そうよ先生、シャディクの寝顔ってちっちゃい子みたいですっごくかわいいの……と頷きかけて、ふいにあることに気づいた。
「――先生」
「ん?」
「あっち行って」
「ほう」
サビーナ先生が訝しげに眉根を寄せる。
「教師に指図するとはどういう了見だ?」
「サビーナ先生のことは嫌いじゃないけど……」
でも……と口ごもるわたしをのぞき込み、サビーナ先生が目顔で続きを促す。
本当は掛け布団をもっと上まで引きあげたかった。だけど、今のわたしは可動域が限られているので、それは難しい。掛け布団に手を伸ばす代わりに、胸の前に回されたシャディクの腕を、わたしはきゅっと掴んだ。
「――いくら先生でも、シャディクの寝顔を見ちゃダメ」
見せびらかしたい。だけど、独り占めしたい。
サビーナ先生が目を丸くする。それから先生は、いかにも楽しいことがあったというふうにぷっと吹き出した。破顔するクールビューティーはレアだけれど、ホンモノのクールビューティーは破顔してもやっぱりクールビューティーだ。
「まったく、君ときたら悋気の玉がぱつんぱつんに膨らんでいるようだな」
リンキ? リンキって何かしら……。
わたしが首を傾げると、
「悋気とはヤキモチのことだ。君のぱつんぱつんが……」
一瞬、先生の言葉が途切れる。チタンフレームの眼鏡の奥の瞳が鋭い光を宿す。何かあったのかしらと思う間もなく、先生はすぐに言葉を継いだ。
「破裂してしまう前に私は退散しよう。六時間目が終わったら鞄や着替えや諸々一式を持って迎えにくると君のクラスメイトが言っていたぞ。そうだな、あと十五分経ったら声をかけるから、それまではゆっくり休んでいくといい。――ここを出会茶屋にしないよう重々わきまえるように」
そう言って、サビーナ先生はカーテンの向こうに姿を消した。
最後のひと言は誰かに釘を刺すような口ぶりだったけど……、『デアイジャヤ』って何かしら(シャディクが起きたら訊いてみよう)。
とにかく、あと十五分。あと十五分しかないわ。
シャディクを起こさないように注意しながら、もぞもぞ身体を反転させる。
思ったよりもすんなり、シャディクと向かい合う体勢になると、ゆっくり上下するシャディクの胸にわたしは頬をすり寄せた。
ジャージ越しに、子猫みたいに早い心音が聞こえてくる。
いとしい音。生きている音。ずっとずっと聴いていたい音。
見上げれば、すやすや眠るシャディクの顔。
どうしよう、胸の奥がきゅんと切なくなって、わたし、何だか泣いちゃいそうよ。
ねえ、シャディク。
わたしがあんたの枕なら、さしずめあんたはわたしの毛布ね。レモンシャーベットの色をした、大きくてあたたかくて、ふわふわでふかふかで、いい匂いがする毛布。わたしを眠りの世界へ誘う毛布。――あんたが目を覚ましたら、いのいちばんに「暑苦しいけど、おかげでよく眠れたわ」って言ってやるんだから。
「あと十五分、わたしにあんたを独り占めさせてね」
首を伸ばして、シャディクの喉にちゅっとキスをする。彼の胸にもう一度頬を寄せると、九百分の一秒だってムダにしないために、わたしはそっと目を閉じた。