六月蜜月 ようやく息が落ち着いてきた。情事の後、香太郎のそばでまどろんでいるこの時間が麻子は好きだった。麻子はうつ伏せの半身を起こすと香太郎の顔を覗き込んで聞いた。
「今日、何の日か覚えてる?」
小首をかしげる仕草に目を細めると香太郎は麻子を引き寄せそのまま身体ごと自分の胸の上に乗せた。お互い汗でしっとりしている。交わった後の麻子のにおいや密着する胸の感触にニヤつきながら香太郎が答えた。
「麻子さんと初めてした日」
「正解です」
「ご褒美は?」
ちゅっと音を立てて軽いキスをする。香太郎が両手でペタリと麻子の尻の丸みを抱え込んだ。
「麻子さんのお尻はひんやりしてて気持ちいいなあ」
「えっち」
子どもを作ろうと避妊をやめて以降、睦あう回数が増えて、出会った頃のようにちょっとしたきっかけで求めあってしまう。薄いラテックス一枚を外しただけでここまで悦びが増すとは思いもせず、新婚旅行には行かなかったが、自宅でとろとろと溶けあって滴るような蜜月をすごす事に二人とも満足していた。
「非常階段でもお尻触ろうとしましたよね?」
「うっ言わないで。黒歴史だから」
「ふふ」
決まり悪そうに片眉をひそめて麻子を見つめ返し香太郎がつぶやいた。
「もう2年前か。あの時は必死だったなぁ」
実際、ひどい有様だった。冬の新商品のプレゼンは上手く運び、プロジェクトの立ち上げが怒涛の如く始まった。打ち合わせなどで周りに人がいる時は気が紛れているが、ふと一人になった瞬間、断りもなく身体にふれてしまった自責の念と麻子に拒絶されたショックで頭を抱えて叫び出しそうになる。この間に自分の作った書類はあとで読み返すと誤変換でおかしな箇所がいくつも見つかるなど常に頭の片隅で麻子の顔やにおいがチラチラしていた。挙動不審は周りにも透けてみえたらしく
「お前、先週は絶好調だったのにどうかしたのか?」
と、同僚の涼村にツッコまれてしまった。
日中、偶然見かけた麻子に露骨に避けられた事で拍車がかかり、決死の覚悟で社内メールで謝罪文を送り、返信を見た途端すでに駆け出していた。
麻子の最寄駅の改札を抜けると5分もかからず隅田川に出る。堤防を登ると急に目の前が広くなり、夜の色をした空と川に迎えられた。時折、タタンタタンと電車が鉄橋を渡るリズムが響き、向こう岸には高速道路の照明灯が点々と長く伸びている。河川敷は隙間なく正方形のタイルで舗装され所々に植物が植えられた細長い公園のようになっていた。
歩きながら麻子に痴漢から助けたお礼を切り出されたが、下心のある香太郎は居心地が悪い。再び拒絶されるかもと覚悟して謝罪を口にすると意外な反応が返ってきた。
「私、名取さんになら嗅がれるのもいやじゃないんです。むしろ…もっと…」
一瞬何を言われているのかわからなかった。拒絶ではない?もしかして?
香太郎は麻子の正面に一歩踏み出し深呼吸すると覗き込むようにかがんで聞いた。
「嗅いで…いいんですか?」
麻子は通勤鞄の持ち手を両手でにぎりしめて俯きながら小さな声で返事をした。
「…はい…」
「…失礼します」
香太郎は麻子の二の腕を掌でそうっと包み込み、首元に鼻を近づけた。
ーーそうっとだ。怖がらせないように。
「っん…名取さん…」
麻子が身じろぐ。香太郎の前髪がふわりと顔を掠め、思わずぎゅっと目をつぶってしまう。胸の鼓動がだんだん早くなっている。
「八重島さんのにおいだ…」
香太郎は数日ぶりの麻子のにおいを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。ワクワクするのに安心する心地よいにおい。毎日嗅いでいられた先週は贅沢な日々だったと今更ながら思う。
香太郎の鼻先が肌に触れそうな程近くにある。両腕に香太郎の手のひらの温かさがじんわりと伝わると麻子の身体の奥に切なくなるような甘い痛みが生じていた。
「いいにおい」
香太郎の一言に麻子の心の中で暖かい色の花が綻ぶ。
「幸せな時のにおいだ。」
麻子は心を見透かされたのかと咄嗟に顔を上げると香太郎が真っ直ぐ自分を見ていた。
「俺を受け入れてくれるんですか?」
おずおずと香太郎を見返して小さく頷くのがやっとだった。
麻子の反応に心が沸き立つのを抑えられず香太郎の本音が思わず口をついて出た。
「抱きしめたい」
香太郎が麻子の頬に手を触れようとした瞬間
キャンキャンキャン!
真横から甲高い声に吠えられた。足元にはリードに繋がれたテリアが一匹。飼い主らしきサンダルばきのおじさんがタバコをふかしながら
「いい所ですまんね、おにいちゃん達。コイツいつもその辺でするもんだからさ。ホラ行くぞ。今日はダメなんだよ。」
と、相手の返事は待たずに不満げな犬を追い立てて去って行った。
二人同時に我に返り、慌てて辺りを見回すと河川敷は街頭で照らされ存外に明るく、犬の散歩やウォーキングなどラフな服装の地元住民の姿がチラホラ見られる。ライトアップされたスカイツリーがかなり近くに見える事をこの時まで香太郎は全く気づいていなかった。
「な…名取さん、ここじゃ人目についてしまうので、あの…ウチで…話しませんか?」
「いいんですか?」
香太郎はゴクリとツバを飲み込んだ。のどがカラカラだ。
ーー違う、落ち着け!そういう意味じゃないだろう。だけど…期待するなといわれても…いや、ダメだから!
期待半分、頭の中で自分に念押しする。
「はい、送ってくださるんですよね。もうここから5、6分ですから」
麻子は香太郎に言ってみたものの改めてその意味を考えると汗がダクダク止まらない。
ーー私、もしかしてすごい事言ってない?でも…
さっきまで香太郎が握っていた二の腕が熱い。両手で掴んで気持ちを落ち着けようとするが
ーーどうしよう。汗もドキドキも止まらない。
人通りもほとんどなく静まり返った住宅地の中に二人の靴音だけが響く。お互いに相手を意識しすぎて無言になってしまう。救いのようにコンビニエンスストアの明かりが見えた。
「名取さん、のど乾きません?私、お茶買ってきますね」
「じゃあ、俺も…」
麻子は一足先に店を出るとスーッと息を吸い込んだ。落ち着かなきゃ…河川敷で香太郎と話してからずっと体の芯が熱くなったままだ。
ーー名取さんにお礼を言ってお茶を出して…その後は…やっぱり…なのかな
少し考えただけで動悸が早くなる。今まで自分の身には起こり得ないと思っていた恋愛小説や映画の中のアレコレがぐるぐると頭の中を巡る。
「持ちますよ」
後ろから香太郎がスッとやってきてペットボトルの入ったレジ袋を麻子の手からさらった。軽く手の甲が触れ合う。麻子は一気に頬が紅潮するのが自分でもわかった。慌ててお礼を言う。
「あ、あ…すみません。ありがとうございます」
ーー落ち着くなんて無理っ!
一方、香太郎は横目でチラリと麻子を見ると、レジ袋と反対の手で自身の鼻から下を覆って眉根を寄せながら逡巡していた。顔がにやけてしまうのを必死で堪える。
ーーかわいいなぁ。八重島さん。かわいすぎる。部屋なんか上がったら絶対嗅ぐだけじゃすまない。自分を止められない自信がある。ダメだ。今日は彼女を送ったら帰ろう。昨日の今日だし絶対嫌われたくない。
時折そよぐ風で麻子の髪のにおいが鼻先を掠める度に胸の奥が切なくなる。
レジ袋のシャカシャカ音を耳にしながら歩いたほんの数分がやけに長く感じられたが、程なくして麻子のアパートに到着した。築年数は経っているが手入れのよさそうな3階建てのアパートだった。
階段を一段登る度に別れが惜しくなり、香太郎は麻子の後ろ姿を目で追いながら手を伸ばしたい衝動をじっと抑えていた。
「ここです」
と、部屋の前で鍵を取り出す麻子に香太郎は言った。
「今日はこれで失礼します」
「え?」
一瞬目線を外してまた向き直ると香太郎は麻子に告げた。
「八重島さん、男を部屋に上げるって意味わかってますよね。あなたのにおいでいっぱいの部屋に入ったら、俺、また非常階段の時みたいに自制が効かなくなると思います。だから…」
「…!…私だって意味くらいわかります。」
麻子が香太郎の言葉を遮る。汗は出てくるし顔は真っ赤だし、若干震えているし、どう思われるか怖かったが「離れたくない」一心で言葉を繋いだ。
「お茶、一人じゃ飲みきれません。もう少しだけ…一緒に…ダメですか?」
麻子に潤んだ瞳で見つめられて香太郎は自分の頬がどうしようもなく緩むのを自覚しながら返した。
「ほんとに…いいの?」
コクリと麻子が頷いた。
カチャリ
内鍵をかけて上がってきた麻子を香太郎はそのまま腕の中に抱き寄せた。
ーー部屋中八重島さんのにおいだ。心地いい。
身を寄せ合うと、お互いの重なる部分に心が満たされてゆく。香太郎の胸に頬を押し付けると麻子は逸る心臓の音とは別に不思議と安堵感を感じていた。
「ずっとこうしたかった」
「名取さん」
自分もそうだと伝えたいが、言葉がでてこない麻子はぎゅっと香太郎の服を掴んだ。それが合図のように麻子の額がふわっと温かくなった。次にこめかみ、ほっぺた、最後に唇。
ーー名取さんとキスしてるんだ。私。
頭がぼーっとしてくる。ぎこちなく香太郎の唇の動きを真似る。すると少し空いた隙間から舌が入ってきた。少しずつ絡め合う。麻子の舌に呼応するかのように香太郎の下半身は落ち着かなくなり始めていた。
「ふ…んっっ」
呼吸が上手くできない麻子の息が鼻から抜けると一度唇が離れた。コツンと額がぶつかる。荒い息を抑えながら香太郎が静かに言った。
「八重島さんの全部を嗅ぎたい」
「全部…⁉︎」
はじめからずっと頭を掠めていた。考えると体の奥から甘いようなせつないような痛みのような感覚が湧き上がる。抱きしめられてキスをして、こんなにいっぺんに…欲張ってもいいのだろうか。麻子は思った。でも…だけど…名取さんをもっと近くに感じたい。もっと自分に触れてほしい。かすれる声で応えた。
「はい」
麻子の返事に香太郎の心は逸る。こんな赦しがあるだろうか。同時に自分の欲望を素直に吐露してしまった事に驚いた。欲張りすぎじゃないか?麻子があまり慣れていない様子なのはキスしてわかった。一生懸命応えてくれているのも。心の中で100回はかわいいと叫んでいる。もう1秒でも早く麻子に触れたい。ならば、せめて丁寧に二度と怖がらせないように自分の精一杯で抱きしめたい。
「八重島さん…」
キスしながらゆっくりと麻子をベッドに横たえる。背後から抱きすくめ、うなじのにおいを嗅ぐ。シャツのボタンを外し、スカートのファスナーを下ろし、耳元を唇と舌でなぞり身体のラインに沿うように触れながら服を脱がせていく。ブラジャーのホックを外すと豊かな乳房がこぼれ出る。
「っん…っ」
じっと耐えているようだった麻子から思わず声が漏れる。すかさず掬い上げ感触と谷間のにおいを堪能しようとした時、麻子が顔を覆いながら震えているのに気付いた。
「怖い?」
「違うんです。私…経験が…」
ーーこんな事…言ったら面倒な女と思われるかな。
麻子の心配をよそに香太郎は一瞬キョトンとした顔をしたがすぐにくしゃっと顔を綻ばせて告げた。
「よかった。誰にも嗅がせないで」
優しいキスをした。香太郎の笑顔に安心したのも束の間、気がつけば麻子は何も纏っていなかった。肌の上に絶え間なく落ちてくる香太郎の手と唇と舌に反応して背が反り腰が跳ねる。腿の間がしっとりと濡れてくるのを恥らい身を捩ると香太郎の下半身の硬いものがあたりまた身体が熱くなる。
「…あっ…んっっ…は…あん」
初めて上げる自分の声の淫らさに驚きまた恥じらう。麻子は今まで感じたことのない感覚に自分がどうなってしまうのかわからず目を開けられないでいた。ふいに上にのしかかっていた温かい重みから解放された。不安で目を開けると、香太郎がじっと自分をみつめている。頬を上気させ荒い息の中、ポツリと言った。
「きれいだ」
「そんなこと…今まで言われた事ないです」
麻子が熱に浮かされた頭で朦朧と返すと香太郎は微笑んで続けた。
「これからはきっと俺が何度でも言っちゃうと思うな」
ーーそうか…これからが…あるんだ…
香太郎の素直な言葉が嬉しくてうっすら涙ぐんでしまった麻子の様子に面食らった香太郎が顔を寄せて来た。
「八重島さん、大丈夫ですか?」
「はい…大丈夫です。」
麻子が微笑むと、その日何度目かわからないキスをして熱を確かめ合うように再びお互いを抱きしめた。
当時は大変だった出来事も思い出話になれば楽しい。
「痛かったけど幸せだったな。」
香太郎の胸に頬をつけて麻子が呟くと、
「実は俺もちょっと痛かった」
香太郎が思わぬ事を口にした。
「香太郎さんも?」
「挿れた時、思った以上に狭くてさ、俺が痛いんじゃ麻子さんは相当だろうなーって。最終的に俺だけ気持ちよくて申し訳なかったけど」
香太郎のいたたまれなさそうな表情に麻子は思わず吹き出してしまった。こういう所も好きだなと夫の顔をうっとり見てしまう。
「そういえば香太郎さん、あの時コンビニで何か買ったの?」
急に話の矛先が変わり、香太郎は複雑な表情をし眉根を寄せると明後日の方向を向いて言った。
「…ゴム…を買いました。」
「全然気づかなかった。」
「アレ、どうしたと思ってたの?」
「男の人は皆持ってるのかと…」
「…そんな風に思ってたんだ。相手がいない時は持ってないですよ。俺も色々考えてようやく買ったんだから。好きな人に部屋に上がっていいって言われたら普通に期待するし、いきなり今日って軽いんじゃないかとか。でもそうなったら着けないのは不誠実だし、たとえ今日しなくても八重島さんとはこれから付き合うんだからその内絶対使うしとかさ」
「香太郎さんはもうお付き合いするつもりでいてくれたんだ。私は全然そこまで考える余裕がなくて…でも、あの時踏み込んできてくれなかったら、私が思い切れなくてお付き合いに至らなかったんじゃないかな。」
麻子の自信なさげな様子を香太郎が打ち消す。もし麻子が応えてくれなかったら俺の人生終わってたなと香太郎は思う。禁断症状も死活問題だ。
「それはないんじゃない。どんな展開でも俺はいい返事が貰えるまで経理部に通ったと思うよ。」
いたずらっぽく笑う。
「バラ園のおじさんの時みたいに?」
「そうそう。毎回サンプルのせっけん持ってさ。」
「私、すぐOKしちゃいそう。」
「もちろんしっかり嗅がせてもらいます。」
麻子がクスクス笑い出す。麻子の笑顔に香太郎も自然と笑顔になる。この顔も好きなんだよな。妻となってそばにいる事が奇跡のような気がする。
「朝になったら急に恥ずかしくなっちゃって…香太郎さんが屋上まで追いかけて来てくれたの嬉しかったな。」
「麻子さんと出会ってから、俺は走ってばかりだよ。ところでさ…」
麻子の尻の上を乗っていた香太郎の指がそろりと腿の間に侵入してきた。
「ひゃっ…」
「そろそろ休憩終わりにしない?」
六月は特別な事が起こる。後日、二人でとけあった蜜月の末の嬉しい報告を確かめるべく、香太郎は再び全力疾走することになる。