二度目の結婚記念日「階段を登った所にいるよ」
駒沢大学駅の改札を出た所で麻子からメールが届いた。
朝から浮かれていたので「悪いけど今日はお先!」と定時で仕事を切り上げたが「はいはい結婚記念日ですね」「早く帰れ」とからかいながらも同僚達は気持ちよく送り出してくれた。香太郎の愛妻家ぶりと子煩悩は部署内でもすでに知れ渡っている。会社を出る時に麻子にメール送信し予約しておいた菓子を受け取り転がるように電車に飛び乗った。改札で麻子の返信を目にして早足で地上出口に向かい階段の踊り場から見上げると逆光の中見慣れた麻子の姿が確認できた。香太郎を見つけて階段の上から小さく手を振っている。
「お仕事お疲れ様でした」
「麻子さんもお疲れ様。大丈夫?」
「うん、大丈夫。お醤油切らしちゃって紬と一緒に出てきたの。」
「連絡くれれば買って帰ったのに」
「ありがとう。いつもならお願いするんだけど…」
少し吹き出しながら麻子が続ける。
「紬が家でぐずっていて…でも、お父さんを迎えに行こうって歩き出したらご機嫌になっちゃって、今は…」
胸元の抱っこ紐の中ですやすやと眠る娘のお尻をポンポンと叩いて目を細めて見下ろす。
「大変だったんだ。紬は現金だなぁ。眠ってると天使なのにね。」
屈んで紬の顔を覗き込む香太郎の目尻が下がる。赤ん坊特有のくすぐったくなるような乳くさいにおいがふわりと鼻をかすめ一緒に麻子のにおいも流れてくる。ウキウキと楽しげなにおいがする。麻子さんご機嫌だなと香太郎の気分も更に上がる。
「もう買い物は済んだの?」
「うん。」
「じゃあ帰ろうか。」
並んで歩き出すと手の甲が軽く触れあった。どちらからともなく指先で相手の手の位置を探る。じゃれるように軽く指を絡めてからパズルのピースがはまるように定位置に落ち着いた。
「こういうの久しぶりだ。」
「うん。デートみたい。」
大通りから道一本入るとすぐ住宅地で時折子供の声や建具の開け閉てする音、夕飯の煮炊きをするにおいが流れてくる。すでに薄暗くなり始めていて影になった建物の間から夕焼け空が切り取ったように浮かび上がり、いつもよりゆったりと時間が流れているように感じた。赤ん坊中心になった最近の生活はひたすら賑やかで慌ただしくあっという間に1日が終わる。
「さっきも駅で待ち合わせみたいだなって嬉しくなっちゃってたの。」
「俺もお迎え嬉しかったよ。麻子さんはサプライズがうますぎ。」
たわいもない会話をしながら手を繋いでゆったり歩くのはいつぶりだろうと二人とも思っていた。近頃は大抵荷物を抱えている。
「お土産はなんですか?」
「ほら、この間テレビで見ておいしそうだっていってたやつ!」
「嬉しい。食べてみたかったの!」
「俺も。調べたら渋谷のデパ地下にも入ってたから予約しました!」
「さすが香太郎さん!」
育児休暇を一緒に取り、自宅で3食用意するうちに料理経験が乏しかった香太郎も簡単なものなら調理できるようになり家事の分業がよりスムーズになった。赤ん坊の世話も一緒に覚えてお互いの信頼感が増し、平たく言えば惚れ直しあっていた。そんな状態で迎えた2度目の結婚記念日は育児でヘトヘトになっている日常に高揚感をもたらすのにはうってつけのイベントだった。
「ホントはね、香太郎さんの帰るメール見たら…すごく会いたくなって…」
麻子が香太郎の手をきゅっと握りなおす。
「つい駅まで迎えに行っちゃったの。」
香太郎が麻子の顔を見ると耳まで真っ赤になって俯いていた。
「ちょっと麻子さん、俺を泣かす気?」
「は…恥ずかしいからこっち見ないでください。」
すでに自宅前に到着しており鍵を開けながら香太郎は言い放った。
「家に入ったら覚悟しといてよ。」
「え?」
香太郎は靴をぬぐと間髪入れずに麻子を紬ごと後ろから抱きしめた。
「香太郎さん?」
「ちょっとだけ…すぐに紬に返すから…」
「紬に返す?」
「うん。今は紬が一番優先でしょ?麻子さんが一生懸命紬の世話をしてるのがものすごく尊いものに見えて…俺がそういう気持ちで触れたらいけないような気がしてたんだけど…今日は許して…嬉しすぎ…」
うなじを嗅ぎ耳を甘噛みする。
「んっ…そんな風に思ってたの。」
麻子の左手を取り指輪に口付ける。
「こっち向いて麻子さん」
顎にかかった手が麻子の顔を香太郎の方へ向かせ唇が覆い被さってきた。そのまま舌を絡めていく。軽いキスやハグは挨拶がわりにしていたが濃厚なキスもハグも余裕がなかったりタイミングが合わなかったりで久しぶりだった。
「ん…ふ…」
唇が離れると麻子から声が漏れる。
「…もっと」
そのまま香太郎の首に後ろ手を回し唇を追いかけてくる。香太郎も夢中になって麻子の舌を追いつめる。濡れた音が響くほど激しく求め合っているうちに麻子の膝がガクッと崩れた。
「!」
香太郎が麻子の身体を支えたまま二人でその場にしゃがみ込む。
「びっくりした…きもちよすぎて膝の力がぬけちゃった…」
麻子の呆然とした顔を見て香太郎が吹き出した。
「ぷっ…きもちよすぎたんだ…」
麻子もつられて笑い出す。お互いの額をくっつけてしばらく笑いあった。
「あのね、香太郎さん。」
「うん?」
「私ね、香太郎さんが紬の世話をしてるのを見るのがすごく好きなんだけど…紬が香太郎さんに甘えてるといいなーってたまに思っちゃって…でもお母さんだからしっかりしなくちゃって思ったり…上手く言えないんだけど…」
「麻子さん」
ちゅ、ちゅ、ちゅっ、止められないというように香太郎が重ねてキスをする。
「俺は、甘えてほしい。」
「いいのかな?」
「いいに決まってるよ!俺も麻子さんに触りたい。勿論そういう意味だけどいいかな?」
麻子が真っ赤になりながら応える。
「うん。私も触ってほしい。」
再び二人が顔を寄せ合うと下から
「うーーーーっ」
と唸り声がした。
「…ん?このにおいは…」
香太郎が顔をしかめる。麻子の胸元に目を落とすと抱っこ紐の中で寝ていたはずの紬がいつの間にか目を覚まして真っ赤な顔でふんばっていた。
「あー!うんちー!」
「オムツとおしりふき!」
甘い時間は天使の芳しい匂いによって一瞬で慌ただしい日常に戻され、新たな共同ミッションが課せられた。
「麻子さん、今夜はスキを見て」
「うん!早く寝かしましょう!」
すべては再びの甘い夜のために。