無自覚な恋人 ----略-----
そもそものきっかけは俺に馴染みの無い、軽い不機嫌とでもいった気分で――これは何なのだろう、とにかくモヤる――そういう冴えない日だった。
3
にこにこと話す童磨と友人を目の端に捉えながら、俺は精一杯忙しいふりをしてネットショッピングをしている――ことになっていた。実際のところTシャツは黒とグレーのどちらにするか決められないし、MかLかで悩んでサイズを表示させても数字が意味をなさない。集中出来ないのだ。二人の会話にしっかりと聞き耳を立ててしまう自分がむなしい。しかも俺が知らない漫画だかゲームだか――いや映画かもしれないし、その全部かもしれない――の話をしている。それすらわからないのだから、俺の入る余地はない。まったく無い。
別に童磨なんか誰とでも親しく話すし、初対面からフランクに接するからとにかく男女を問わず人によっては大いに好かれる。一方で不気味とも言える生白い外見と大げさな身振り手振りだとか、気味悪いくらいに常に高いテンションだとか、そういうもっともな理由で避けられることも多く、とにかくまあ周りの反応は両極端だ。そして当の本人はそれを一向に介さない。
俺たちは互いに幼い頃から昔の記憶を持ち、大学で再会した。どう接したものか迷う俺と対照的に、わだかまりなく笑顔で話しかけてくるから驚いた。何も童磨相手に限ったことではないが当時は終始反抗的な態度をとっており、良いイメージは残せていないはずだ。まあ、鬼はそういう性質に作られていて、友好的なあいつだけが浮きまくっていたことも鮮明に覚えている。
人間に戻って観察してみても童磨はとことん空気が読めない変わり者で、しかもその結果恨みを買っても気づかない有様だった。余計な世話だろうがと忠告してやれば、へぇ〜わからなかったよ、猗窩座殿はすごいねなどと大げさに感謝して見せる。これは馬鹿にされているなと思いきや、あいつは本当に世間からずれた感覚で日常を送っていた。それでも明らかに容姿目当てで寄ってくる女はいるもので、童磨も特に選ぶことなく受け入れるから傍で見ていて苛々した。案の定性格面で折が合わずにしょっちゅう破局するのを見届けては、お前はただ自慢のタネにされているんだぞ、珍しいアクセサリー感覚で連れにされていいのかとキレたりもした。そうやって、何故か俺は現世の童磨を放っておけずに一緒に行動していた。
その日童磨に釘づけになっていたのは男の友人で、大学近くのバイト先で俺が知り合い、そのうち童磨とも顔見知りになったという経緯だった。まあ目立つ男が馴染み客になるほど来店すればそういうことにもなる。そんな俺たちは二年生になり、その頃には友人とふたりで過ごす時間が苦痛になってきていた。何せ童磨のことばかり話題にするのだ。どこで知り合ったとか、どういう人なのかとか――最初はそれを訊かれるのも良かった。ああ、あいつ本当に変わってて可笑しいだろうと、どこか自慢していた節まである。ところが友人は次第に、敢えて大げさに言えば童磨自身を崇め始めた。何をしたとかどう言ったとか具体的な行動ではなく、童磨その人に惹かれていく様子がわかるのだ。本人を目の前にするといかにも楽しそうで、俺はいないも同然の扱いで、それを見せつけられると不快だった。事実前世で教祖に就いていた男だから、こういう風に好かれ――いや崇拝されていたのだろうか。いい気になっている様子は無く、変わらずに平然とその状況を受け入れている姿を目の当たりにして新たな一面を知る。まずは一歩引いたところで観察する自分を認識した――と思うとわりに早く、はっきり言って面白くないという次元に達してしまった。同時にそんなことを考えるなんてという自己嫌悪にも襲われ、メンタルはだいぶよろしくない。
「俺、帰るわ」
一向に途切れないお喋り、童磨の笑い声が癪に障って思わず切り出してしまった。
「えっ、ご飯食べに行こうよ」
「いや、今日は帰る」
えーっと眉を極限まで下げる童磨と、おそらくは気まずそうにしている友人に背を向けた。童磨はその雰囲気を察することなく、ただ大げさに肩を落としている。結局選べなかったショッピングサイトのタブを閉じて実際に店に足を運ぼうかと考えてみても面倒で、駅前のファストフードをテイクアウトして帰った。好きなものを食う気力まで無くしてはいないことに安心する。
そうやって自分の機嫌を取ったつもりで迎えた翌日。童磨の、昨日話してたんだけどさの一言で簡単にモヤってしまう。
「猗窩座殿も映画観に行く?」
俺たちは大学のカフェテリアでふたり、だらだらと午後の時間をつぶしながらテーブルについていた。友人は別のクラスの数人と行動しているはずの曜日だった。
「映画? んー……」
も、ってことは既に誰か――当然例の友人だ――と約束があって俺も行くかどうかということだ。ていうかやっぱり映画の話だったのか。作品を調べて時間稼ぎをする間にも、こういうくだらない考えが浮かんでは消える。
三人で行って孤立するのは嫌だが愛想を振りまけないのは自業自得だし、そもそもこうして悩んでいる時点で気が進まないのは明らかだった。行こうよ、じゃないということは俺が断る前提なのだろうかなどと卑屈になる自分と、昨日だって積極的に飯に誘われて拒んだくせに、と冷静に窘める自分。面倒くさ。とにかく己が醜い。
「もしかして……」
その声にはっと我に返ると、見慣れた整った顔が間近に迫っていた。
「猗窩座殿、嫉妬してない?」
「はあ?」
なんでよりによって感情に疎いお前に指摘されないといけないんだよ! なのに――そうだ、言われてみればこれ、嫉妬じゃねえか。本当になんでなんだよ、自分! でも認めない。
「馬鹿なこと言うな!」
怒鳴りかけて、声をひそめる。
「目立つことするな!」
男二人が顔を寄せ合って何をこそこそやっているんだよ。ところが童磨は楽しそうだ。
「だってさ、今までおつき合いした女の子とか……よくそういう顔してたよ」
とか、って何だよ。とか、には男も含むのか?
「でさ、だいたいそういう顔の後は色々ギクシャクして上手く行かなくって、フラれちゃっておしまい。それが続いて――まあ別にどうでもいい娘ばかりだったけど――これって何の表情なのかなあって思ったわけ。そこから嫉妬ってやつだなって学んだ!」
にこーっと笑って、合ってる? ねえ合ってる? と畳み掛けてくる。なるほどこれはしらける。結局童磨には嫉妬の苦しさがわからないから――いや俺も言うほど知らないが――と何も答えずにいるうちに、目の前の表情がくるりと切り替わった。
「あっ、またやっちゃった! こういうのダメなんだよね。えーと、そうだな……」
とっておきの良い顔と声の出番らしい。元々良いのだが。
「俺は猗窩座殿のことが好きだよ。安心して」
胸に手を当てている。ほとんど空っぽの胸にな……。あまりにもわざとらしく、呆れを通り越して笑ってもいいところだが笑えないし、とにかくまずは場所を考えろ! 夕方の終業時間が迫り生徒もまばらな空間は、逆に会話が筒抜けになっている気がして落ち着かない。
「お前がフラれる理由がよくわかった」
「なんでー?」
「それ嘘つきの八方美人にしか見えない。口からデタラメ……っていうか! 紛らわしいこと言うな! 俺はお前の女じゃない!」
童磨と一緒に居ると、可能な限り小声で威圧感を出す術を習得出来る。
「知ってるよ〜猗窩座殿は男〜」
ご機嫌な、それこそ女みたいな顔の奴に出来るだけ何でもない風を装って言ってやる。
「どうせあいつと行くんだろ」
例の友人を持ち出すと、童磨は頷いた。
「遠慮する。あいつ、俺が居ない方が嬉しいだろうし」
スマホを片づけながら視線をそらす。他人のせいにするなんていかにも子どもじみているが、他に思いつかなかった。童磨は露骨に困った顔を作る。
「ねえ、そういうの、引き止めた方がいいんでしょ? 猗窩座殿も一緒に行く方がいいよね?」
「行かない」
妬いてるね、なんて直接指摘されて――それもつき合ってもいないのにだ――こちらは堪ったものではない。逃げ出したい。その心情を想像も理解も出来ない童磨は、表れた行動に対してのみリアクションを取ろうと躍起になる。そんなだから破局するんだ。よくわかる。
「待ってよ!」
また立ち去ろうとする俺の腕はつかまれ、振り切って行こうとすると大声で叫んでいいかと笑顔で静かに訊かれた。そんなつもりは無いとしても、これでは脅しだ。この野郎……。
「俺、今度こそフラれたくないから頑張る。どうすればいいか教えて」
はい? 本当に話が通じないし何もわかっていない男だな。
「何だよ、またどこかの女とそういう状況になってるわけ?」
バレンタインで学校中を騒がせて以来もう半年近く、この男の恋愛に口出しするのはやめていた。近況も知らない。訊かない。
「なってるよ、今、ここで」
予想外の言葉を重ねられぽかんとなる。
「待て。何?」
「ライト・ナウ」
「……はあ?」
「アット・ヒア」
「それはもういい」
「俺、もうしばらく彼女いないよ。それなのに猗窩座殿が全然気にしてくれないなんて悲しい」
「やめろ」
「俺たちつき合ってたんじゃないの?」
「いつから……いや、そうじゃなくて!」
「ごめんね、あのお友達と仲良しのところ見せて淋しくさせちゃったんだね。俺、気がつかなくて。本当にごめん」
「いや、違っ――おい、やめろって!」
お得意の泣き顔を披露しようとしているので制止した。
「じゃあ別れないでくれる?」
「その前提も流れもおかしい! つき合ってな――」
待て待て。そろそろ周囲の全員の耳がダンボに見えてきた。改めて立ち上がり、また叫ぶなどと駄々をこねられる前に童磨を椅子から引きはがす。決して手を繋ぐのではないが、腕を取って引きずるくらいの勢いでカフェテリアを抜け出した。
「とりあえず場所を変える。文句は受けつけない!」
きゃ、とか何とか嬉しそうな顔がちらりと見えたがもう振り返らない。黄泉の国かよ。いやあれは夫婦の話だった、冗談じゃない。そのまま学内を早足で抜けて無言で移動し続け、夏の西日に蒸し暑いと嘆いてまだ童磨の腕を掴んでいたことに気づき慌てて放し、珍しくおとなしくしている姿を横目で見ながら駅に着くと、開店時間を過ぎたばかりの居酒屋に吸い込まれるように入った。ふたりとも成人している。
「冷たいの……」
運ばれてきたコップに縋りついて水を流し込む姿に、あっとなって狼狽える。
「悪い。夏の暑いの駄目だよな。うっかりしてた」
「猗窩座殿は鍛えてるの? 陽に弱そうなのにどんどん歩くからすごいと思ったぁ〜」
「いや、俺も今かなりぼーっとしてる」
顔が熱い。あははと笑い声がした。店内はひんやりと涼しい。
「そういうの直さないと嫌われちゃうよね。俺も気をつけよう」
「……ごめん。気をつける」
軽くディスられている気もするが、反省すべきは自分なので素直に謝る。
「いいよいいよ、この程度はちょっと休めば大丈夫だから。そんな深刻にならないで」
鬼の体質の名残りと言えるのか、色素が薄い故なのか、俺も童磨も日差しに弱い。大学から駅までは十五分未満だから歩けないこともなく――実際こうして歩いてしまったわけだが、これが炎天下の正午過ぎ辺りなら皮膚が腫れ上がったり水ぶくれになる可能性がある。子どもの頃は無理をした挙げ句に何度も保健室と医者の世話になったし、懲りて気をつけるようになって以降も理解の無い人間は居るもので、それくらい我慢しろとか怠けるのはみっともないと口悪く言われることもあった。怠けてなんかいるもんか。でも努力が足りないとか、ひどいと男のくせにとか、もう相手をするのも馬鹿らしくて、いくら説明したところでわかってくれない奴らは本当にわかってくれないと学んだ。きっと童磨もそういう経験があるに違いない。
「優しいねえ、猗窩座殿は」
柔らかな声を耳にしながら、そんなことを苦々しく思い出し考えていた。
「俺、大学で猗窩座殿に会ってからすぐにこういう心配してもらえて、本当にびっくりしてるよ。ありがとう」
「それは、俺も同じでわかるから。あと、お前の方が髪も目も色が薄くて、いかにも陽に弱そうだし」
「海に行きたいって言われてさ」
唐突に切り出された。誰だかはっきり言わない話は、大抵過去につき合った女絡みだ。
「迷ったけど行ったんだ。そしたら俺、やっぱり具合悪くなっちゃってね。後でつまらなかったって文句言われてさ。火傷みたいになって見た目も酷かったし、その一回のデートで別れたなあ」
「それは何というか――冷たい女だが、まあ、事前に言っておかないと。そういうの、信頼関係が無いから秘密にされたとかって不機嫌にさせる原因にもなるし――」
格好をつけようとしても上手くいかないことがある。思い当たる節があるだけに複雑な心境で、いくら童磨の器量が良く目を引くからといってたまにはいい気味だ、などとは少しも思わなかった。
「言ったんだよ。せめて屋内プールにしようって提案もした。そういう時は代わりの条件を出すと上手くいくでしょ。でも海がいいって粘られて、だから喜ぶならって試してみたんだけど。逆にそれで怒らせちゃった」
またあははと笑う童磨を見つめると、よほど神妙な面持ちになっていたようで、どうしたのと心配された。
「猗窩座殿こそ具合悪いんじゃない?」
「……いや、平気だ」
「あ、今話したのは高校のときのことだよ? デートっていってもその一度きりだし、どこの誰とか訊かないでね?」
そんなこと、訊くつもりなかった。ただ、急にこれと同じことなんだと理解した。きっと昔、俺を含む鬼全員が童磨の性質を知ろうともせずに拒んでいた。今だって自覚の有無はともかく、わかってもらえないことがほとんどの日常を送っているのかもしれないと考えると心がざわついた。
「火傷に、ならないといいんだが」
ピンク色を帯びてしまった腕を眺めて、とりあえず日焼けの話に軌道修正しようと試みる。
「火傷……ロマンティックだねえ。俺のハートも……」
ものすごくアホなことを言おうとしている声を遮り、すんでのところで勢いよく呼び出しボタンを押す。危ない。またこいつのペースになってしまうところだった。水を一息に飲み干して頭を冷やし、やって来た店員に各々好きにオーダーする。そちらのタブレットで、と示されたが、二人きりに戻るまでに時間稼ぎをしたくて、その場は引き止めて直接頼んだ。迷惑な客だな、俺も。こういうとき童磨は気を回したつもりであれこれ勝手に同席者のメニューを増やしていくから、そういうのは止めろと以前から釘を差してあった。それくらいに、ふたりで食事をするのも日常になっていた。
宙ぶらりんになった会話はひとまずお預けにして、しばらくは腹ごなしに励む。昔馴染みの知り合いで同性だから、恋愛云々の話題のあとでもわりと普通に振る舞えた。童磨は何でも平然とこなすだろうが、俺は無理だ。女性相手ではとても気まずさに耐えられなかったと思う。
良い感じに酒が回り客がちらほらと増えてきたところで、場所を変えようとここに誘ったのはこちらだったと思い出す。
「お前、今まで散々フラれても、どうでもいい奴ばっかりだったって言ってたよな」
「うん。でも、もし猗窩座殿まで俺から離れていったら……つまらないなって思って」
「つまらない、かよ」
「あ、いや、淋しい……?」
「ふうん」
つまらない。それが本音なのだろう。気を許しているからこその発言だと受け止めてみる。
「たとえば、あいつ――俺のバイト先の」
「あ、うん、あのお友達ね」
「お前のこと、好きだぞ多分。知らないけど。男がいいなら――」
「猗窩座殿! 俺はやっぱり、自分が誰を好きかはよくわからないんだ」
思うに俺は前世から童磨に構われ過ぎて、それが当たり前になり自分に相当の自信があったのだろう。だからその一言でもう頭にきた。
「……じゃあ何か? 俺が妬いてるように見えたから手玉にとろうってのかよ! あいつより俺の方が、からかい甲斐があって面白いって?」
そんなこと、言われていないのに。恥ずかしさからやつあたりした。思いの外かっとしたのを後から酒のせいにしてしまおうと、追ってジョッキに口をつける。
「違うよ! 怒らないで聞いて。ねえ、違うんだ」
「何が」
「好きってことを、教えて欲しい。頼むよ。俺のこと好きでしょ? 猗窩座殿にしか頼めないんだ」
「どういうポジティブ脳なんだよ。おめでたいな。そんな言い草でつき合う奴がいるか! もうあいつでいいだろ」
「そこまで遠慮なくずけずけ言ってくれるの、猗窩座殿だけなんだもん」
ずけずけって……。お前こそ言ってくれるじゃないか。それにしても俺が昔と違うのは、こういうきっかけでガス抜きされたように怒りが引いていく点だ。童磨はいつも上辺を繕っているからそうでない言葉が出るのは逆に本心なのだろうが、どう捉えていいものかわからず途方に暮れた。
「俺のこときちんと叱ってくれるし」
「叱られたい願望があるのか」
「違うよ、わかるでしょ?」
「わからん」
「もう! だいたいみんな理由を言わずに俺を避けるわけ。何も教えてくれない。あとはただ何か怒鳴り散らして騒がしいだけでさ。煩いだけで全然参考にならない。俺、知りたい気持ちがいっぱいあるし、失敗した時には原因だって気になるのに。わからないからいつまでも同じミスをしている気がする」
「え」
思わず目を丸くした。避けられていることに、気づいていたのか。気にも留めないというより、気づいていないように見えていた。尋ねると当然だよと笑う。いつも笑う。そんなだから、余計に苛ついた相手から心無い言葉を浴びせられているのも見たことがある。それでも童磨は憐れだねえとかそんな汚い言葉遣いはおやめとか、まあそれはそうだがという正論でもって火に油を注ぎまくるのだ。一度なんか聞くに耐えない暴言に遭遇し、言い過ぎだろうがと童磨を庇って割って入り、盛大にヒーロー扱いされて恥をかいたこともあった。野次馬はたかるし、ありがとう恩に着るよとか古風で大げさな決め台詞と共に抱きつかれるしでうんざりしたが、多分あれをきっかけに本物の変わり者でヤバイ奴らだと噂が広まり、結果童磨はたとえ嫌われても遠巻きにされるだけになった。そして俺もだいぶ変人扱いされているが仕方がないだろう。
「猗窩座殿は、覚えているかな。鬼の頃に話して聞かせた親子のこと」
ナレーションのように語りだしたので、ヤマ場だなとわかった。そういう意味ではわかりやすい奴なのだ。
「家庭内暴力から逃げてきた母親と乳飲み子だよ」
「……なんかそういう奴らいっぱい居なかったか?」
「うーん、そうかも。だいたい不幸で逃げて来たひと達だったから。その話、した時にさ、普段はほとんどお返事してくれない猗窩座殿が、夫に酷い目に遭わされた妻――ってくだりで、心底嫌そうな顔をしたんだ」
「さすがに鬼の俺でもするだろうよ」
「猗窩座殿のことだから、弱い者はこれだから……っていう反応なのかなと予想したんだけど、違っていたんだよね」
そうだったろうか。覚えていない。
「あっ、単純にそんな話聞かせるな、って顔の可能性もちゃんと考えたよ!」
「……それだな」
この男、会えばぺちゃくちゃと喋っていたが、俺が返すのは口を閉じろとか腕をどかせとか、簡潔な命令だった。ところが童磨は嬉しそうに話し始める。
「ってことは忘れてるね! 猗窩座殿はねえ、珍しく自分から俺に訊いてきたんだぜ。『助けたところでどうせその女も喰うつもりだろう』ってさ」
「だってお前、俺に女を――」
また声を落とす話題になったようだ。
「強くなれるからとかほざいて、女を喰えって勧めたことがあったじゃないか。心底いい迷惑だった」
「ごめんね、そうだよ! でも断られて、俺ちゃんとやめたでしょ?」
渋々頷く。
「ただ、なんでって理由を訊いても教えてくれないから、気になってはいたんだよね。だって強くなるには栄養価が高いものを食べて当然なのに」
今だってそうでしょと言って、ジムに通う俺の腕に軽く触れた。じとっと睨むとさっと腕を挙げひらひらさせて微笑む。童磨の手は爪が整えられ、傷ひとつない。少し静かでゆっくりとした声が、僅かに詰るように告げた。
「あの頃は猗窩座殿も、みんなと同じ。怒るだけで何も教えてくれなかった」
「知るか。……俺のせいじゃない」
強気な言葉とは裏腹に罪悪感が首をもたげ、声も細るというものだ。計算づくなのだろうか、童磨には最終的にこういうところで敵わない。
鬼の血で思考が支配されていたあの頃、あのお方にとって余計で不都合なことを考えると俺の脳は捩じ切れるように痛み、膨張し、何ひとつ思い出せなかった。訊かれて答えられない自分には勿論、訊いてくる童磨にはもっと苛立って声を荒げたし、鬼だったから遠慮なしに手も上げた。嫌がらせだと感じていたが、単純に疑問だったのだろうと今なら想像がつく。
「それで、その母子がどうした」
「ええとね、生かしておいたんだ。酷い状態から回復して本人も生きる気力があったしね。ちょっとまずいとこ見られて、結局駄目になっちゃったんだけど……ただ俺たち、それから会うことがなかったでしょ、伝えてなかったなって思い出した」
「何だよそれ。生かせてないじゃないか。そんな結末を聞かされても困る」
「違う違う、そこが結末じゃなくて。他にも食べないでおこうと決めた娘はいたんだ。猗窩座殿の思いがどんなものかと知りたくて。中でもその母親は印象に深くて、多分それは、あの娘自身の何かが強烈だったんだと思う。何と言えばいいのかわからないけど。でもね、そもそもの始まりはなぜ猗窩座殿は女を食べないのか、だったんだなというのが結論」
「で、それが?」
「それってつまり、俺は猗窩座殿に興味を持っていたってことだよね」
そう来るか。
「だよね、って……知らん。それよりもその、子どもを抱えていたという女」
「うん」
「他の人間より印象に残っているんだろ。何て言えばいいかわからないとか言ってるけど。要は自覚出来ないだけで、普通に考えれば好きだったんじゃないのか」
「……え! 俺が? 好きを知っていた?」
「うーん。だから、知らないから自分で気づけない……っていうか」
呆気に取られたような顔を見せ、童磨の動きが止まった。白い像に刷毛で紅を差したように頬が朱い。こいつのことだから、単に酒のせいだな。次いで出た声は対照的に曇っていた。そういう気分を表現したいということで、やはりわかり易くて良い。
「それじゃあ、俺はやっぱり好きになることが不可能ってことだよね」
そんな深刻なことを断言したつもりは無かったので、受け止め方に戸惑う。
「これからわかるかもしれないだろ。その時のことをヒントに――」
「俺の片想いはあり得ないんだ。だって自覚がないから」
「えっと、まあ、そういうことになる、のか?」
「やっぱり俺のことを好きな人に教えてもらわないと……俺は心に何も持っていないんだから。でも、知りたい。どうやらみんなは元々何かを持っているし、それが動くんだろう? 前の時代なんか並の人間よりよっぽど長く生きたのに、つかめなかった。今でもやっぱり、俺には無いみたいなんだ。だから教えて欲しいんだよ」
演出だとわかってはいても、伏し目がちで諦めたように伝えられては俺の中の何かが同情した。目の前の男には無い何か。気の毒に、可哀想に――童磨がよく使う言葉が自然と浮かぶ。そこへ当の本人の閃きと不安を表現した声が、芝居がかって聞こえてくる。
「――あ、猗窩座殿、今彼女いる? そしたら迷惑だよね」
「……いない」
嘘をつくことも出来たはずが馬鹿正直に答えた。慌てて言い直す。
「い、いないけど! 俺は女の代わりじゃない」
「そんなのわかってるよー。別にそういうことじゃなくて、ただ、今まで通りというかもっと仲良くなりたいなってこと。だから、猗窩座殿に嫌な思いさせるくらいなら、あのお友達とふたりで出かけることはやめるね」
けろりと明るい口調に戻っている。
「童磨」
「なあに」
「お前には、気の毒だとか可哀想だとか言って面倒を見てくれる相手はいたのか?」
今まで、昔からずっと。俺も冷たくあしらったひとりではあるが、どうにも仕方ないほどに胸が痛んだ。普通の子どもではなく可哀想な人々を導く存在、神の子として育てられ、そう教えた両親は死に、やがて鬼になり生き続けて時代が変わり誰に強制されるでもないのに童磨は救済を続けた。方法としては極端だが、事実死にたがる――少なくとも口でそう言い表す人間は現代も絶えない。しかもそれを『極楽へ行きたい』と表現され請われて、額面通りにしか言葉を受け取れない童磨がさぞ困惑しただろうというのは想像に難くない。結局生きたいのか死にたいのか、わからない人が多かった――今もそう語る。そんな過去の童磨が行き着いたのが、喰って自身の血肉と成すことだった。
むしろ人々を救う為に人喰い鬼にしてもらったのだと、確かそのようなことを現世で思い出話として聞いた。不老不死に近いのだから、喰えば共に生きられると。理屈としては通ると言える。俺は自分が強くなることしか頭にない状態だったから、周囲の人間のことを考えていたと知ってひどく驚いた。珍しく人間時代の記憶と職を保ったまま上弦の弐まで出世し、しかも生家の寺院を出なかった鬼。親の言いつけに背いてでも人々を救うなどやめて外の社会へ踏み出せば、童磨だってもう少し世間にもまれていくらかは悪目立ちしない程度に処世術が身についたかもしれない。……などと言ってみても、俺は教祖だったんだから出ていけるわけがないよと笑うのだろう。毒親だな、と見ず知らずの過去の人間を恨む。
「面倒見の良いひと、ねえ――無惨様が名前をくれた。それに俺を慕ってくれる信者も居たんだってば。早くに親を亡くしたから、大勢の信者にお世話されて育ったよ。あの頃の鬼の仲間は信じないだろうけどね」
誇らしげな顔が幼くて、それが胸を切なく締めつける。
「あ、今の両親はまともだし、友達だっているでしょ。そんな微妙な顔しないでよ〜」
猗窩座殿〜と手を握ってくるのを振りほどかずに、わかったと小さく呟いた。
「何が? ねえお酒追加しようよ」
言いながら手はすぐに離れてタブレットに向かい、メニューを追っている。童磨が入力する間に残りを飲み終え、自分で選ぶからとそれを受け取り、飲み物とデザートをプラスする。密かに送信をタップして、運んでくる姿が見えたタイミングでもう一度小声で言った。
「わかった。つき合ってやってもいい」
えっえっと本気で慌てて見える童磨の脇からワインとグラスを手にした店員が現れ、引き換えに空の食器類をひと通り下げて去って行った。
「やったぁ……本当に? つき合ってくれるの?」
前のめりな童磨に対し、別に今までと同じだろと軽い調子で白々しく言うと、弾んだ声が返ってきた。
「これからよろしくね! そのうち、えっちなこともしてみたいな♡」
盛大にむせた。アルコールが気管に入ると本当に良くない。原因の張本人はテーブル越しに大丈夫かと何度も尋ねてくる。
「大丈夫じゃない! 苦し…。童磨お前、不感症とかじゃないのか?」
「なんで? ひどくない?」
「だって、つき合っても何もしなかった相手がいっぱいいるって、いつか言ってたから……あー喉いてえ」
「あ、それは、ご飯行ったりレジャー行ったりして、そこで何かやらかしてすぐ嫌われちゃって現地解散が一定率あって――猗窩座殿大丈夫? お冷や飲んで」
「ああ。……ていうか。現地解散するほどの何かって何だよ。びっくりするわ」
「わかんない。さっき言ったでしょ、みんなだいたい教えてくれない」
思いやられるな。
「あ、そう。いや、お前誰を好きかもわからないのに、勃つのかっていう……」
「これだから。猗窩座殿ってばピュア」
「ぴゅあ」
馬鹿みたいに繰り返してしまった。
「そういう動画とか見ないの? ああいうプロの役者たちにお互い恋愛感情があると思う?」
言われてみたらそうだ。何故だかその考えが浮かばなかった。
「あっ! もしかしてあれ? 素人カップルがアップしてるやつがお気に入り?」
「黙れ。そんなの見ない」
「そうだよ。思い出した! 前も教えてくれなかった!」
そうだった……一時しつこく訊かれて辟易したのだ。頭を抱える。
「ねえ、どういうのが好き? 一緒に見ようよ。男同士のは?」
「いきなり? 絶対嫌だ!」
「えー恋人になったのに!」
「段階ってもんがあるだろう!」
「わかった、徐々にね。男女から攻めよう。巨乳好き?」
「いや……特には」
「ぺちゃんこ所望」
「そういう意味では」
「普通。よし、熟女かロリか」
「いや普通に同年代くらいで……」
「着てるのと全裸とどっちがいい? オモチャとかコスプレは? 秘書とか? 複数人? 緊縛? あっ二次元――」
碌な言葉が出ないと悟り、遮った。
「いや、あの! 男も女も完全に外国人がいい。リアリティが薄いから。日本のは苦手なんだ。特に女が虐められてるようなのが無理で……」
何てことを暴露しているんだ俺は。一方童磨は心得たとばかりに目を輝かせた。
「ああ! そうだよねそうだよね、猗窩座殿は優しいからな! でもああいうのは望んでマゾになる娘が――」
要らん講釈を始めたところをギッと睨むと、ぴたりとお喋りが止んだ。
「オッケー洋物! いいね、面白そう!」
瞬時に映画のノリに切り替わったので思わず顔が緩み、そうすると童磨も嬉しそうに笑った。
結局のところ、成人したばかりの俺たちは少しだけ飲み過ぎていたのだと思う。最終的にその晩は童磨の家で俺セレクトの海外ポルノを見ながら触れ合っていちゃいちゃするという謎過ぎる急展開を経て恋人として順調な一歩を踏み出してしまったし、その一晩で取り返しがつかなくなってしまったことは言うまでもない。
何がいけないって、要はめちゃめちゃに善かったのだ。ひとりで処理するよりも、断然に。癖になってしまいそうだった。というか、なってしまって今に至る。男同士はだいたいイイだろうというポイントを知っているわけで、しかもあの童磨相手だからいくら俺でも緊張しなかった。勿論恥はあったが、自分がリードしなくてもまったく差し支えが無く気づいたら完全にその気にさせられていて、しかも童磨自身は雰囲気だけでは疼かないという妙な身体なわけで、俺が先に勃ったのを見て喜んだ童磨が勃つという……いや本当に適度にアルコールが醒めて丁度良い具合でなければヒイたと思う。初回で躓いていたら、どうなったものやらわからない。
しかも、あいつは見事にあざといというか、そう思ってしまう自分は知らず知らずのうちに魅せられていたのだと観念した。
「あー良かった! もし勃たなかったらどうしようかなって、本当にほんのちょっとだけ思ってたんだよね。俺、それでフラれたこともあるし」
童磨のびっくり発言は尽きないし、いつ飛び出すかもわからない。
「うわ、それはキツイな……って、やっぱり不感症」
「完全にぜーんぶ受け身って感じだと、相手によってはだいぶ厳しいときあるんだよねえ。その点猗窩座殿は一生懸命触ってくれ――」
「うわぁあ! 言うな言うな!」
「誰も聞いてないよ?」
「そういうことじゃない!」
「ぎこちないのが逆に萌えた♡」
萌えた、じゃねえ。
「お前のふにゃちんが無様に萎えてるのが気の毒になっただけだ!」
「ありがとう。俺の為によく頑張ってくれたね。お陰でビキビキになったよ」
しっかりと抱きすくめられてもう全部投げ出したくなる。嫌味だよ。わかれよ。しかもスロースタートなだけでモノ自体はデカくて丈夫だった。あとビキビキで丈夫で長持ち。うん、何だか色気がない実用的な言い方だがそれ。
「まあ猗窩座殿を目の前にしたら最終的には大丈夫って自信はあったけどね!」
急激に嫌な予感が走る。
「最近ひとりでする時はシミュレーションして――」
オカズじゃねえか! ばさりとタオルケットで覆って視界から消してやった。半勃ちで不憫だと思って気まずくさせないために俺は意を決して初めて他人の竿を握ったというのに。いや、気まずいと感じるのはどうせ俺だけだから別に気にすることはない。でもそれじゃ俺だけが損してる気分だからやっぱり気にするだろ? いやいや逆に俺だけが良い気分で得をしてるのか? ――ああもう混乱する! しかもすごく気持ち良かったのだ。結局それじゃないか。なんかムカつく。
男同士ですることに何もかもが初めてで動揺したが同時に興奮も覚えたし、それを研究対象のような興味すら恋愛感情と勘違いしそうな男を相手にしていることには心細さを感じた。こんなに情緒がぐちゃぐちゃになるのは、間違いなく恋愛だ。それがわからない男に嫉妬を見抜かれ誘われて恋人になるなんて、もうどうしたらいいのかわからない。例の友人の存在も日によって印象が変わった。真っ直ぐに好意を表せる姿をますます妬んだかと思うと、妙に余裕を持って接することが出来る日もあった。調子に乗っていやに強気でマウントをとりに行ってしまい、冷静になって反省したこともある。とにかく心が乱され続けて、結論はいつも同じ。要は童磨が言ったように、俺こそあいつを好きらしいということだった。
自らの心の浮き沈みに振り回され、ある日ついに何にも逆らわずにただ相槌を打っていた。普段はあれこれ口煩い俺が素直にうんうんと肯定し続けるものだから童磨はますます上機嫌で、逆に俺はひたすら圧倒されて気力が失せた。
「……煩い。あとなんかうわーってパワーで眩しい。もうちょっと抑えろ、とにかく煩い。疲れる」
うわーって。でももうどうでも良くなって、子どもっぽく、言いたいことを言い切った。すると隣で友人の目が光る。
「わかる。万世くんは後光が差してる!」
おおい、やめろよそういうの……わかる、じゃねえよ。一段とげんなりする。お前今度こそ祀り上げられるんじゃないぞと、改めて童磨に注意した。
「素山くんはお母さんみたいだね。いつも万世くんを心配してる」
「そうなんだよ! 猗窩座殿ってとっても優しいだろ」
ますます煩い。勝手に盛り上がるふたりを横目に、でも気づくと頬が緩んでいて、そしてあのモヤモヤとした気持ちが晴れてゆくのを感じた。
4
「猗窩座殿とおつき合いしてそろそろ一年経つね」
「あー、あ、そうか、もうすぐだな」
童磨は何でもよく覚えている。シャワーを浴びさっぱりとしてベッドに戻ると、良い具合にエアコンが効いていた。ずっと涼しかったのだろうが、だいぶヒートアップしていたのでわからない。
「うわあ、三時半だって。長くやり過ぎちゃった。夜だか朝だか割れるとこだね」
カーテンを少し開けて、童磨は楽しそうに振り返った。
「夜。四時からが朝って気がする」
「俺、まだ心とか気持ちはよくわからないんだけど、猗窩座殿のことが好きだと思うよ」
「そりゃどうも」
思う、ねえ。恋人に伝える言葉ではない。俺がそれを指摘しないからか、本気でそうと気づいていないのか、童磨は時々こうして律儀に伝えてくる。健気じゃないか。可笑しくて、自然と笑みが浮かぶ。こんなことでは短気を起こさなくなった。
「恋愛なんて、全部脳の錯覚、狂気らしいから――」
わからなくてもいいんじゃないかと言いながらベッドに寝転ぶ。好きなんて教えるも何もなくて、ただお互いを知り、より上手くやっていこうと歩み寄ってきた。精神的にも肉体的にもまあまあ順調だ。疲れきってはいるものの興奮醒めやらぬ頭で考える。注入されたエネルギーに操られて動いているような感覚だった。童磨も隣に横たわり、明けてしまいそうな短い夏の夜を見送る。
「お前の好きがわかったら俺はお役御免なのか。だったら、わからないままでもいいんだけどな」
我ながら自己中でずるいよなあと笑ってごまかし童磨を見遣ると、可愛らしくふくれ面を作って見せている。
「何それ。全然わかってないやつ。俺そんなお馬鹿さんじゃないよ。猗窩座殿のことが好きだってわかったとして、その猗窩座殿と別れるわけないじゃない」
「ややこしいが、その通りだな。お前やっぱり頭は悪くないよな」
「もう。じゃあこういうことだね。俺は好きがわかってもわからなくても、ずっと猗窩座殿と一緒」
「そうなるな、うん」
「でもね、猗窩座殿が他の誰かを好きになったら――」
なんでかなあ、童磨は急にこう、心を抉るような言葉を投げかけてくる。なかなか口に出せないが、そんなわけが無いだろというくらい、満ち足りている日々だ。
俺からすれば見た目は良いし、わからないなりに模範的且つ理想的な恋人の振る舞いを目指すからいつでも紳士で、例えばこちらが不機嫌でも動じない。勿論浮気なんてしない。暴力もない。それは最低な男の象徴だから。そういう醜聞は前世で散々聞かされて育ったから勉強になったと自信を見せていた。教祖もご苦労さまだよな。内面は相当に変わっていて癖が強いが少なくとも悪意はないから、気長にではあるが話し合う余地はある。そう思って接している。セックスはやや事務的に休日前にお伺いを立ててくるとわかっているので、こちらもそれに合わせて準備をする。俺も男で、しかも抱かれているというその二点に不満がなければほぼ完璧に近いパートナーだ。さすがにこれをすべてストレートには言えなくてひとまず黙り考え込んでしまうと、すっと大きな手のひらを向けられた。
「待って。今の忘れて。他の誰かなんて好きになられたら、困る」
「それは――俺もそう思ってるから、大丈夫。だと思う」
「……本当に?」
垂れ気味の目が縦に大きく丸く広がって揺らめく。人間離れして怖ろしくも見えるが美しい。
仮に自分の恋人を誰かに紹介した時に褒められるなり羨ましがられるなりして、くすぐったい気持ちになるのは容易に想像がつくと思う。ところが童磨の場合褒めそやす者も当然居る一方で、変わり者だね、苦労しそうだね等――親しい友達というだけで現に心配された経験がある。そんな時に俺が感じるのは、意外にも優越感だ。こいつの良さがわかるのは俺だけなんだな――そういう浮かれた思考回路がぽこぽこ芽生え膨らんでゆく。我ながら意外な発見で、若干冷めた自分がダメ男に引っ掛かる典型だなと自虐気味に呆れているし、もう一方の自分はそんなことは無いと言い続ける。見目だけで寄ってくる者たちは気にならないのに、童磨のずれている部分を目の当たりにして尚好意を寄せる輩が現れると、相手によってはつまらない敵対心を燃やしてしまうこともある。童磨を理解してくれるひとが増えるチャンスだというのに、俺の心はかくも狭い。ああ本当に、いつからこんなに好きになったのかと思い知らされる。
という諸々を、恥ずかしいから大げさに聞こえないように端折ってぼそぼそと喋った。きちんと伝わったろうかと目を合わせると、どうにも妙な顔をしている。あ、これは期待出来ないな。まあいいかと腕を伸ばしてきっちりとカーテンを閉め、もういい加減寝るぞと宣言する。
「ん〜、褒められるより否定されて優越感……猗窩座殿はマゾってこと?」
「全っ然違う。何でそうなる」
「わかんないよ〜難しい!」
「今はいいよ、もう。俺も童磨が好きだから心配ないってことだけ覚えてろ!」
早口でさっと言い捨てる。
「……今『好き』って言った!」
「悪いか!」
「ちっとも悪くないよ!」
「あと俺はマゾじゃない! 大事なことだから絶対に忘れるな」
ここで誤解を解いておかないと、勝手にSMプレイに走る危険性がある。それもまるっきりの好意からだからたちが悪い。
「大丈夫、わかった!」
はあ。これで一気に精神も疲れ切ったがその気怠さは心地良く、じんわりと眠気が押し寄せた。
「見て見て!」
目を遣ると、白い肌にうっすらと行為の名残りの朱い指痕が浮かんでいる。それをガイドにして同じところに手のひらを重ね、それからぎゅうと引き寄せてしがみついた。はしゃぐ童磨を抱き枕に、夏の鋭い陽が昇りその光が緩むまで、思い切りふたりで眠りこけようと目を閉じる。