おとぎ話と現実と 人間、現実的に生きることが大切だ。
そう思うようになったのは、俺がまだ七歳か八歳のガキだった頃。
当時の俺は、年上の連中に口答えして殴られたり、かわいい子にちょっかいを掛けて嫌われたり、減らず口を叩いて大人を困らせたりするような、要はクソガキだった。
ま、子どもなんてそんなもんだろうが。
そんな俺の好きだった場所の一つが、トロスト区の片隅にある古本屋だ。
父ちゃんに連れていかれるような大きな書店とは違う、しなびた雰囲気の店。いつも客が少なく、古い紙の匂いだけが立ち込めていたのを覚えている。たまに遊びに行くたび、そこにしかない匂いに胸が高鳴った。
老齢の店主は、そんな古本と同じ匂いをまとっていた。実際何歳くらいだったのかは分からない。本を心底大事にしているらしく、話しかけると何時間でも楽しそうに本の話を始める。話しかけなければ、ずっとカウンターで本を読みふけっている。そんな人だった。
当時の俺は、この店主のことを得体のしれない妖怪か何かだと思っていた。気持ち悪い、恐ろしいという感情と、面白い、話が聞きたいという感情。相反する2つの感情でもって、たびたび店を訪れていたような気がする。
そんなある日のこと、店主が言った。
「そろそろ、店を畳もうと思っている」
それはまさに青天の霹靂。
子どもってのは大概、身近な存在が過去も未来もずっとそこに在り続けるもんだと思い込んでいるだろう。少なくとも俺はそうだった。それで理解が追い付かなくて、一瞬静止してしまった。
まるで、おとぎ話にのめりこんでいる最中に「ご飯だよ」と呼ばれてしまった時のように。
「どういうこと?」
きょとんとして尋ねると、店主は微笑んで説明した。
なんでも、店を続けるだけのお金が無いんだとか。客の入りも悪いし、中には万引きをする奴もいるという。
「お金がないと、店、続けらんないの?」
俺は、馬鹿みたいに当たり前のことを聞いた。
「もともと趣味でやっていたようなものだからね。もう、今が頃合いなんだ」
店主は、そんなようなことを言った。
きっと、金銭的な事情のほかにも店を畳む理由はあっただろう。家族(がいたのがどうかしらないが)とのこともあるだろうし、年齢的にも店を続けるのは厳しかったはず。
だが、幼かった俺にはそこまでの事情を慮ることができなかった。
「この店がなくなるのは嫌だ」
大切な秘密基地を奪われるような気がして、不愉快だった。
そして、こう考えた。
お金があれば店を続けてくれるはずだ。それなら、俺がたくさん本を買えばいい。それに、万引き犯がいるなら捕まえてとっちめてやろう。――俺が、この店を救うんだ。
その日から、店に来る頻度が増えた。幸い、お金には困っていなかった。貯金を少しずつ崩して、時には親に頼んだりもして、買えるだけの本を買う。
「こんなにたくさん読めるのかい?」
そのたびに店主は目を丸くしたが、本を手に取ってもらえることが嬉しかったのか、にこにこと微笑んでいた。
俺はもちろん、万引きにも目を光らせていた。店主は老齢なせいもあって注意力散漫で、当てにならない。
最初の数日間、万引きをする人はいなかった。そもそも客の数が少なく、やってくるのは顔見知りばかり。店主と駄弁って数冊本を買っておしまい。
だが五日目の夕方、ついに現れた。俺より二つか三つ年上の少年。話したことはないが、何度か見かけたことのある顔だ。
そいつは、店に入った瞬間から様子がおかしかった。おどおどと周囲を見渡し、本棚の間を往復する。視線の動き方は、まるで本に興味を持っている感じではなく、つるつると背表紙の上を滑っているように見えた。
やがて、その動きがある一点で止まる。少年は店主の方をちらりと見て、本を一冊抜き取った。
こっそり様子を伺っている俺には気づかなかったらしい。
音もなく、鞄に差し入れる。
「おい!」
俺は、そこに声を掛けた。勢いよく掴みかかろうとする。
少年は一瞬肩を震わせたが、相手が年下とみて安心したのだろう。鼻で笑うと、店の外に駆けだした。
「どうしたんだ」
カウンターから店主の声が聞こえるが、答えている余裕はない。
俺は走って、少年を追う。
*
「それで、万引き犯を捕まえたの?」
食卓で。
思い出話をしていると、ミカサが結論を先取りするように聞いてきた。俺がミカサと暮らし始めて、もう半年以上経つ。今日のようにお互いの思い出話をすることがままあった。
「いいや、まさか」
ミカサの質問に、苦笑して首を振る。
そんな結末だったなら、俺はしょうもない現実主義者なんかにならなかっただろう。
「追いかけてったら、万引きした奴の仲間みたいのがいっぱいいるとこに誘い込まれて、散々殴られた」
「返り討ちにあったってこと?」
「そ」
当時のことを思い出して、つくづくアホだったなと肩をすくめる。もう少し知恵が回るなら、大人の味方を増やすなり、証拠を押さえて訴えるなりしただろうに。まあそうしたところで、大した効果は無かっただろうが。
「意外と、見境なく突っ走るタイプ」
言葉の割りに意外そうでもなく、ミカサが言った。
「……まあ、な」
そう、当時の俺はそんな感じだった。
だが俺の奮闘もむなしく、万引き犯を捕まえることはできなかったし、あの古本屋もなくなった。
自分のやったことが無駄になる感覚って分かるか? ああ、そうだ。分かるだろ。
あの時、世の中こんなもんか、と思ってしまった。
自分には、出来ることとできないことがあって、できもしないことにがむしゃらになるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
以来俺は、子どもらしい夢を語らなくなった。古本屋の件だけが原因だったわけじゃないが、なんつーか、ウンザリしちまったんだな。
子供向けのおとぎ話なんてくだらねえし、悪い奴が改心する日は一生来ない。人間なんてみんな、手前勝手な価値観を振り回してるだけだって。
だけど、ここで俺が不貞腐れただなんて思われちゃ困る。
俺はただ、現実主義者になっただけだ。大人になった、と言い換えてもいい。
例えば、悪い奴が改心しないなら、そいつとは関わらなければいいだけの話だ。分かり合えない相手と無理に仲良くする必要なんてないだろ? 相手が俺に害するってんならなおさら。
訓練兵団に入ったのも、現実的に幸せになる方法を考えたからというだけ。憲兵団を目指すのは、おとぎ話でもなんでもねえ。俺なら出来る。
憲兵団に入って、内地で安全に暮らして、そこそこの金持ちになって、良い嫁さんを貰って……それが、俺にとっての現実的な幸せだった。
俺はそんな風に考えて、兵士になることを決めたのだ。
*
だから正直、痛々しいと思った。
訓練兵団で、ガキみてえな夢を語るエレンのことを。
まったく見てらんねえ、このお子様が。周りを見ろよ。みんな引いてるじゃねえか。
「オイオイ正気か? 今お前、調査兵団に入るって言ったのか?」
堪らず口を挟んだ。そうすれば、相手も恥ずかしくなって口を閉ざすかと思ったのかもしれない。だが、そうはならなかった。
「お前は確か……憲兵団に入って楽したいんだっけ?」
喧嘩腰な返答。その言葉に、ムカっと来た。
だって、なんだよ、「楽したい」って。
憲兵団に入るのがどんだけ大変なのか知らねえのか? 確かに組織の内部は腐ってるかもしれねえが、何の意味もなく突撃して死にまくってる調査兵団よりかは、ずっと役に立ってるだろうが。
しかし、その苛立ちを隠して言う。
「俺は正直者なんでね……。心底怯えながらも勇敢気取ってやがる奴より、よっぽど爽やかだと思うがな」
鼻で笑いながら、肩をすくめた。熱くなるなんて馬鹿らしいぜ、と自分に言い聞かせながら。
「そ、そりゃ俺のことか」
エレンが戸惑いとも怒りともつかぬ調子で言って、俺を睨む。
ざわざわと、不穏な空気が流れた。
喧嘩か喧嘩か? と煽るような視線と、やめてくれよと咎めるような視線。
俺はほんの一瞬間考えてから、口を開く。
「あーすまない。正直なのは俺の悪いクセだ。気ぃ悪くさせるつもりも無いんだ」
そう、これでいい。厄介ごとなんかごめんだ。
だって、こいつもあれだろ。分かり合えないタイプの人間だ。だったら、話すだけ時間の無駄。
「あんたの考えを否定したいんじゃない。どう生きようと人の勝手だと思うからな」
そしてこれもまた、俺の本心だった。こいつが何考えてようが、どこでどうなろうが、知ったこっちゃねえ。俺は憲兵団を目指して、こいつは調査兵団を目指す。ただそれだけのこと。
「もうわかったよ」
うんざりしたようにエレンが言って、俺も「これで手打ちにしよう」と応じる。
それで終わる……はずだった。
黒髪の美女が、俺の隣を通り過ぎるまでは。
一目見た瞬間、なんて美しい人だろうかと思った。否、そんな考えすら浮かばなかった。頭が真っ白になり、気づいたら勝手に声が出ていた。
「な……なあ、アンタ……!」
だが呼び止めたはいいものの、咄嗟に言葉が続かない。
「あ……あぁ、えっと……」
漆黒の瞳に見つめられ、少したじろぐ。
艶やかに輝く黒髪と、真っ白な肌。彫りが深いわけではないが、目鼻はくっきりとしている。今までに会ったことが無いタイプの顔立ちだ。その異様な美しさに、圧倒された。
相手は、ただ黙って俺の言葉を待っているようだ。
「すまない……」
俺は俯いて、呟くように言った。
「とても綺麗な黒髪だ……」
それだけ言うのがやっと。
なんてことない一言だが、俺にしてみれば決死の覚悟で出した言葉だ。何せ今まで、こんな経験が無かったものだから。ちょっと可愛い子をからかってみたことはあっても、こんなに……こんなにも、心を惹かれるなんて。
正直、信じられねえ。
何が起こってんだ。
対して、相手の反応は大層そっけなかった。
「どうも」
それだけ言って、足早に立ち去る。
まあ、当たり前だろう。
ショックだったのは、素っ気ない態度を取られたことではない。自分が醜態をさらしてしまったことでもない。
その後だ。
その後、彼女が話しかけたのは、先ほど喧嘩になった男――エレンだった。
なんで、あんな野郎が?
二人の仲睦まじげな様子を見ながら、体が急速に冷えていくのを感じる。
――手打ちになんか、できるか。
今にして思えば、結局俺はまだまだガキだったってことだ。それこそ、エレンを馬鹿になんてできない程度には。だが当時の俺にそんなことは分かっていなかった。
だって俺は、自分が大人になったもんだと思い込んでいたのだから。
*
それでも最初のうちは、俺が思った通り、エレンは口だけの野郎だった。少なくとも、そうであるように見えた。いや、そう思いたかった。
立体起動の初歩すらなってねえし、人並み外れた才能があるわけでもねえ。敏捷性、体力、筋力、何をとっても普通。そのうえ頭の回転も鈍いときた。見た感じ、一つ一つの訓練の意味だって考えてなさそうだ。意味も分からずにやる訓練ほど効率の悪いものは無い。
それなのに、なんでだろうな。
ミカサはエレンにかかりきりだし、座学でトップのアルミンもエレンと親しい。なんだかんだ言って友達も多いみたいだ。俺よりも。
それに何より、アイツは諦めなかった。馬鹿にされても、失敗しても、ブレない表情で巨人を駆逐するとか言いやがる。そうやって、順調に成績も上げていく。
……なんでだよ?
俺は、とっくの昔に諦めちまったのに。
俺の方が現実的で、正しくて、大人で、優秀なはずなのに。
おかしいじゃねえか。
これじゃまるで、俺が馬鹿みたいだ。
俺の方こそがひねくれたクソガキみたいだ。
*
今日もエレンは、何かに怒っている。その矛先が、俺の方に向いた。もはや恒例行事だ。
「お前……おかしいと思わねえか? 巨人から遠ざかりたいがために巨人殺しの技術を磨くって仕組みをよ」
優秀な奴ほど引きこもりたがるのがおかしいって、今更になって気付いたらしい。どうせ、ライナーあたりにでも吹き込まれたんだろう。それかアニか。今日は珍しく対人格闘で組んでたみたいだからな。
それにしても、まったくアホかよ、こいつは。そんな当たり前のことを今更言い出すなんて。
「まあ……そうかもしれんが」
俺は、少し考えて答えた。
「けどそれが現実なんだから、甘んじるほかにねぇな。オレのためにもこの愚策は維持されるべきだ」
もちろん、十二分に皮肉を込めて。
案の定、エレンはいきり立って怒鳴った。
「このクズ野郎が!」
こいよ、エレン。てめえの無様な姿をさらせばいいさ。
「才能ねぇからってひがむんじゃねえよ!」
俺は大声で言い返す。
こいつには才能なんかない。口先ばっかりで、現実がなんも見えてねえ馬鹿野郎。そうだ。こいつが突っかかってくるのは、ひがんでるからだ。
心の中で、延々と自分に言い聞かせながら。
エレンが、血気盛んに応じた。
「だから、どうやって巨人に勝つって言うんだよ! できる奴ばっかが内側に引きこもりやがって……」
だからも何も大前提が違うのに、そんなことすら分からないらしい。本気で巨人に勝とうとしてるのなんて、一部の頭がおかしい連中だけだっつーの。俺に同じ目標を押し付けるな。
「オレに言われても知らねえよ……つーか」
視界の端で、ミカサが溜息を吐く。
いつもこうだ。俺とエレンが喧嘩になると、ミカサは呆れたように溜息を吐く。エレンのことが大切なこいつにしてみれば、俺なんて最低な野郎に見えているのかもしれない。
なんでだよ、本当に。
こんな奴のことばっかり気にかけて、心配するなんて。
なんで俺が、そのとばっちりを受けなきゃならない?
「ふざけんなよてめえ」
怒りに任せて、エレンの胸ぐらをつかむ。
「ハア!?」
こんな状況だというのにエレンは、服が破けちゃうだろうがなんて見当違いなことを抜かす。
なんなんだよ、エレン。
もっと違うところで怒れよ。
本当にどうしてお前は、馬鹿みたいにまっすぐ生きてられんだ? 俺なんかよりもずっと巨人の恐怖を知ってるくせに。特別な才能も具体的な計画も、何も持っていないくせに。
イライラして、服を引っ張る手に力がこもる。
ミカサがこいつにお熱なんて、最悪だ。ミカサは、ただ可愛いだけじゃない。立体起動も対人格闘も、頭三つ分くらい抜けている。物事を合理的に考え、淡々と行動することができる。誰よりも優秀で、本当にかっこいい。
それなのに、こんな奴と……。ああ本当に、クソ。
「服なんがどうでもいいだろうが! うらやましい!」
これが、嘘偽りのない本心だった。
うらやましい。
自分の中にあるのは、明確な嫉妬だ。それ以外の何物でもない。
「何言ってんだ? お前、いい加減にしねぇと……」
だが案の定、ヤツには伝わらない。
意味が分からないと言った顔をして、それから急に覚悟を決めたような表情を浮かべる。かと思うと、ぐるりと俺の視界が反転していた。
投げられた。らしい。
エレンが、俺を見下ろしている。
「いってぇな……。てめぇ、何しやがった?」
起き上がって怒鳴る。
「今の技はな」
エレンは自分でも少し驚いているような表情で、俺を見下ろした。
「お前がちんたらやってる間に痛い目に遭って学んだ格闘術だ」
偉そうな口調でありながら、必死に感情を殺しているようでもある、震えがちな声。
「楽して感情任せに生きるのが現実だって? お前……それでも、兵士かよ」
きっぱりと言い切られる。
周囲の視線が俺たち二人に向けられていた。
張り詰めた空気は居心地が悪い。自分が悪役となればなおさらだ。今この空間における勝者は、間違いなくエレンだった。エレンが正しいと、誰もがそう思ったに違いない。
心臓が早鐘を打った。
腹立たしい。忌々しい。悔しい。妬ましい。
負の感情がないまぜになる。
てめぇの分際で、俺に説教を垂れるな。
「兵士がなんだって?」
言いたいことはいくらでもあった。
まず第一に、楽して感情任せに生きてるのはお前の方だ。兵士としての誇りだとか、強くなって巨人を駆逐してやるんだとか、そんな理想論ばっか語りやがって。
効率的な成績の上げ方も考えずに訓練に励むのは楽だよなあ? 言われたことだけやってりゃいいんだから。
巨人を駆逐したいってのも、結局は感情論だ。こいつだって別に人類のために犠牲になろうとしてるわけじゃねえ。ただ怒りに任せて巨人をぶっ殺すって言ってるだけで。
境遇には同情するさ。そりゃあな、大変だったろうよ。だが、それとこれとは話が別。てめぇが人に説教できる立場かって言いてえんだよ。
俺みたいに現実的な幸せを求めることの何が悪い。
俺だって、てめえ並みの努力はしてる。どうすれば上位に食い込めるか考えて、毎日、毎日。それを、否定するな。
偉そうな顔で、俺を見下すな。
イライラする。
こいつを見ていると、心の底から。
*
そんな中で仲良くなったのがマルコだった。
マルコは、エレンとはまた別の意味で変な奴だ。心から王を崇拝している優等生。争いごとが嫌いで、誰にでも優しく接する。
最初の内こそ何も考えてない八方美人なのかと思ったが、そうでもないらしい。
「ジャンの言うことは正しいと思うよ」
ある時、マルコが真面目な顔で話しかけてきた。
訓練の後、エレンとちょっとした口喧嘩をした直後だったと思う。時間に余裕があり、俺とマルコは人気のない訓練場を歩いていた。
「でも、お前の言う賢い生き方をするためには、そうでない生き方をする人も必要だ。同じ生き方を選ぶ人しかいなかったら、世の中が回らなくなってしまうからね」
やわらかい口調からは嫌味が感じられなかったものの、意図が読めずに俺は眉をひそめる。
「んなこた分かってんだよ?」
探るように言い返した。マルコは不快そうな顔をするでもなく、「ごめんごめん」と謝ってくる。
「そうだよな。ジャンならこんなこと分かってるって、僕にも分かるよ。ああいや、なんだかややこしい言い方になったね。僕が言いたいのはこんなことじゃなくて、エレンに対して、もっと素直になったらどうかってことなんだ」
「素直に?」
何言ってんだ、こいつ。正直、意味が分からなかった。
もっと感情を抑えろと言うなら分かるが、素直になれってのは。よりアグレッシブな喧嘩をしてほしいとでも言うのか? いやいやまさか。
顔をしかめてマルコを見ると、マルコが人差し指を俺の鼻先に向けた。
「だってさ、エレンみたいになりたいって、顔に書いてあるよ」
突き立てられた人差し指は予想外で、勢いよく心臓が跳ねる。動揺を誤魔化すようにして、俺は顔をそむけた。
「人を指さすな」
少しだけ、歩く速度を上げる。
「あんな野郎になりたいわけねえだろ。馬鹿か」
マルコも同じようにペースを上げて、隣に並んだ。
「もちろんそれも、お前の本心なんだろうね」
まるで教師のような話し方をする。こいつには兵士よりも向いている仕事があるんじゃねえかと、下らないことを思った。
俺の考えなどつゆ知らず、マルコは穏やかな語りを続ける。
「僕は、ジャン。お前にもエレンにもすごいところがあって、お互いにそれを尊重しあえたらいいんじゃないかって思うんだよ。ほら、なんていうかその、喧嘩ばっかりっていうのは生産的じゃないだろ?」
周りの奴らが俺とエレンの喧嘩にウンザリしてることは、うすうす察しがついていた。殴り合いは対人格闘の時間や教官がいない時に持ち越しだが、口喧嘩なら毎日のようにしている。
優等生のマルコにしてみりゃ、なおさら見過ごせないのだろう。
「分かったよ、気を付ける」
俺は話を切り上げようと、適当に返事をした。この返事の適当さに気付いたのかは分からないが、マルコはほっとしたような表情を浮かべ、「それから」と言葉を続ける。
「今度、調整日があるだろ? 良かったら一緒に出掛けないか? さっきジャンがエレンと話してたことで、気になることがあってさ。詳しく聞きたいんだ」
思いがけない誘いに、一瞬耳を疑った。
わざわざ調整日を潰して、俺と話したいだと?
マルコの表情を伺うと、からかっているわけではなさそうだ。
「気持ち悪いな、急に」
口から出るのは、いつものような嫌味だ。こういう話し方が、エレン以外からも嫌われる原因らしい。俺だって、別にいいと思ってやってるわけじゃねえ。ただこうするのが、一番手っ取り早いだけで。
俺の言葉に、マルコは頬を掻いて笑った。
「あ、いやもちろん、嫌ならいいんだけど」
こいつの話し方は良いよな。嫌味が無くて、遠慮がちで、俺には逆立ちしたって真似できない。
「嫌なんつってねえだろ。いいよ。座学の予習とかあるから、そこまで時間とれねえけど」
そんなわけで、次の調整日はマルコと過ごすことになった。
当日は思いのほか話が弾み、その次もということになる。それが終わったら、またその次も、その次も。
俺の何がそんなに良かったのかは知らないが、気づけば普段から一緒に過ごすことが多くなり、マルコは俺にとって一番親しい仲間になっていた。
マルコは他の奴らと違って、俺の話をちゃんと聞いてくれる。上辺だけの技術を教えてほしがるわけではなく――立体起動のコツを教えろと言ってくる奴は案外多いのだ。まあ、悪い気はしない――、もっと踏み込んだ意見を交換したがる。
それに、他の奴らだったら「身勝手だ」と一蹴してくるような俺の考えを、大真面目に受け止める。そのうえで、意見の合わないことがあれば批判してくる。
だから、アイツの隣は居心地が良かった。
*
いつのことだか覚えていないが、マルコとこんな会話をしたことがある。
「ジャンが見ている現実と、エレンに見えている現実は、全然違うのかもしれないね。もちろん僕の目に映る現実も違うんだけど、僕のは比較的ジャンと近い気がするよ」
陽炎が見えたから、きっと夏だった。一年目か、二年目か、三年目か。
「何の話だよ、今度は」
俺はあくび交じりに応じた。
マルコが、首をひねりながら答える。
「ううん、何だろうな。ジャンにとっての現実的な話が、エレンにとっては非現実的に映るんだろうと思って。つまりは、壁が破られるわけないって考え方の方が非現実的に……」
逆に言うと、エレンにとっての現実的な話が俺には非現実的であるように映る、と。
「ああ、そりゃまあ、そうかもしれんな」
特に、否定する理由も無かった。言ってみりゃ当たり前のことだ。
「実際、どうなんだろうね。僕も壁が破られるだなんてなかなか考えにくいとは思うけど」
マルコの生真面目な横顔が妙に記憶に残っている。まだ綺麗だった、右半分。
「破られるわけがねえよ。超大型巨人なんて現れたら、それこそ調査兵団サマが何とかしてくれるはずだろ? 壁を壊す前によ。駐屯兵団だっているんだ、二回も同じ失敗するなんてありえないぜ」
俺は、そう言った。
*
だが、壁が破られて。
マルコを失って。
そこで初めて、「現実」の脆さに気が付いた。
おとぎ話が現実になって。
現実がおとぎ話になって。
いやそもそも、こんな区別に意味があったのかなんてそんなこと、分からなくなって。
知っていた。気づいていた。
俺は逃げていただけだ。
戦うことが怖かった。
自分の無力さを思い知らされたくなかった。
だから堅実な道を選んだ。そしてそのことを、責められたくなかった。
自分と違う価値観を拒絶した。
自分が揺らいでしまう事実から目を背けた。それが、大人になることだと言い聞かせて。
嫌いだった。弱い自分が。
身勝手に人を踏みつけてしまう自分が。
嫌いだった。エレンのことが。
まっすぐに生き続けられるアイツが、かっこよくて、羨ましくて。
*
死体を焼く。夜。
――怒らずに聞いてほしいんだけど……ジャンは
俯いて、マルコの言葉を思い出す。マルコはあの時も、少し遠慮がちで穏やかな話し方をしていた。
――強い人ではないから、弱い人の気持ちが良く理解できる。それでいて現状を正しく認識することに長けているから、今何をすべきかが明確にわかるだろ?
そう言われたことが、確かに嬉しかったのを覚えている。
俺はエレンになれない。アイツみたいに、強くなれない。それでも良いと、認められたような気がしたから。
――まぁ……僕もそうだし、大半の人間は弱いと言えるけどさ
マルコはこうやってフォローを入れることも忘れなかった。きっと、本人にはフォローしているという意識すらなかったんだろうが。アイツは、そういう人間だった。
それから俺の目を見て、こう言葉を続けた。
――それと同じ目線から放たれた指示なら、どんなに困難であっても切実に届くと思うんだ。
今となっては見る影もない、その姿。俺に向かって断言したマルコの、確信に満ちた笑顔がありありと蘇る。
きっと他の奴の言葉なら、俺は聞き流していただろう。記憶にも残らなかったかもしれない。
だけど、マルコ。お前が言った言葉だから、信じられる。
「今……何を……、するべきか……」
拳を、固く握りしめた。
誰のものとも知れねえ骨の燃えカスに、誓う。
俺は、マルコの言葉に見合う人間になると。
弱くていい。強くあれない俺にしかできないことを――俺だからできることを、やっていこうと。
エレンのことを素直に受け入れられるようになったのも、きっとこの時だ。羨ましいという感情が、完全に消えたわけじゃない。理解できねえところだって、山ほどある。それでも、それまであったような執拗な嫉妬心は無くなった。
代わりに、少しずつマルコが言ったような形に近づいて言ったような気がする。こんなクサいことを自分で言うのは嫌なんだが、互いのすごいところを尊重しあうってやつだ。
だが、それができるようになった矢先に、エレンは俺たちの前からいなくなった。
*
「何を考えているの?」
すっかり思索にふけってしまったらしい。
ミカサから声を掛けられる。彼女はとっくに食事を終えているようだ。少し心配そうな表情を見て、やっぱり俺はエレンとは違うんだな、と思った。もしこれがエレンなら、ミカサはもっと強い語調で注意しただろう。さながら母親のごとく。
「悪い。どこまで話した?」
冷めきったスープを飲み干し、尋ねる。
「万引き犯から返り討ちにあったところまで」
ミカサの返答に、思わずスープを吹き出しそうになった。
そんなに前かよ。もっと早く声をかけてくれりゃあ良かったのに。
「いや実は、その後面白いことがあってさ、それを思い出してたんだ」
俺は小さな嘘を吐いて、にやっと口角を上げた。
「オムオムの秘密。知りたいか?」
「その呼び方、恥ずかしいんじゃなかったの?」
ミカサが眉をひそめながらも頷いて、食器を片す。
「というか、前に作り方を教えてくれると言ったのに、まだ聞いてない。あとで教えて」
「ああ、そうだった」
俺も立ち上がって、テーブルを拭いた。
この一見穏やかになった世界で、今度は何ができるだろうか。そして、何をするべきだろうか。
笑える話を口にしながら、頭の中で考える。
俺の話を聞くミカサは、ちょくちょく笑顔を見せている。最近は、以前と比べてとても表情豊かになった。本人にはあまり自覚がないそうだが。
子供時代の彼女はどんな感じだっただろう。俺には知る由もないが、エレンにしか引き出せない表情が、きっとあったはずだ。大人になった自分がこんな生活をしているなんて、思ってもみなかったに違いない。
現実は常に変わる。おとぎ話が現実になって、現実がおとぎ話になって。きっと本当は、その定義なんて酷く曖昧なもので。
それでも俺はその現実ってやつを必死こいて捕まえて、なんとかモノにしてやる。そう思いつつ、ミカサを見つめる。
笑ってくれよ、ミカサ。
ずっと、ずっと、この先も。笑っていてくれ。
了