ミカサ・アッカーマンから見た景色【side Mikasa】
口づけをしてしまったのは、咄嗟のことだった。理由があったわけじゃない。自然と体が動いて、そうしていた。まるで、エレンを送り出した時のように。
「……ミカサ?」
「ごめん」
目の前で自分のことが好きだと宣った男は、ポカンとした顔で固まっている。さっきまでの逡巡を何もかも忘れてしまったかのような様子で。
私は急いで謝って、体を遠ざけた。
「謝ることねぇけど、いや、今のは、なんってか、その……」
ジャンが、ベッドに腰かけたまま俯く。あまりこういうことに耐性が無いらしく、口の中だけでゴニョゴニョと言葉をかき混ぜていた。
かくいう私だって、慣れているわけじゃない。
さてどうしたものかと、しばらく無言のままジャンを見ていた。
しばらくすると、ジャンが落ち着いた口調を取り戻して言う。
「悪い、驚かせちまったんだよな? 急なことだったから、わけわかんなくなったんだろ」
違う、と言った方が良いような気がしたけれど、実際にはジャンの言うとおりだ。心配して声をかけただけで、まさか告白されるだなんて思ってもみなかった。
というか、あれは告白だったのだろうか? 本当に?
ただ、仲間としての親愛の情を示す「好き」ではなかっただろうか?
私が一人合点して焦ってしまっただけでは……?
ぼーっとそんなことを考えていると、ジャンが立ち上がって部屋のドアを開いた。
「男の部屋にいつまでも突っ立ってるんじゃねぇよ。……お前は無防備すぎる」
言われてみれば、確かにそうだ。相手がジャンでなかったら、何かいかがわしいことをされていたかもしれない。もっとも大抵の男よりは、私の方が強いだろうけれど。
でも――
「待って。さっきの、あの……」
私は部屋の入口で立ち止まって、ジャンの顔を見た。
「いいよ、もう忘れる。心配してくれてありがとな。ちょっとラクんなったわ」
ジャンは穏やかな中にもぶっきらぼうな雰囲気を滲ませながら、早口に応じる。
いやでも、違うの。そうじゃなくて。
さっきのが本当に告白だったのか。
そして、私がどう答えれば良いのか。
知りたいのは、この二つ。
それなのに、そんな簡単な問いを発することができなかった。
いくつもの死線をともに潜り抜けた仲間なのに、というべきか。むしろ、ともに潜り抜けてきた仲間だからこそ、というべきか。
――仮にアレが告白だったとして、私はジャンのことをどう思っているの?
心の中で自分に問うて、いまいち分からない、と首をかしげてしまう。エレンに対して抱いていたような感情と違うのは明らかだ。きっと、エレンほどに誰かを愛することは、もう二度と出来ない。
「ミカサ?」
固まってしまった私にジャンが問いかける。
「どうした。……その、エレンのこと、思い出させちまったかな。悪かった」
「謝らなくていいよ」
口に出せたのは、この一言だけだ。
心配そうな視線を背に受けながら部屋を出て、ふと自分の唇に触れる。
まだ温かい。
そんな気がした。
*
数日後、私がノックしていたのは、アニの部屋の扉だ。
「珍しいね。アンタが私の部屋に来るなんて」
顔を覗かせたアニは、いつもと同じ不機嫌そうな様子。
「アルミンはいないよ。そのうち戻るだろうけど」
アルミンに用があると思われたらしい。アルミンは最近、頻繁にアニの部屋に出入りしている。仲が良いのはいいことだ、多分。
でも、今日はアルミンに用があったわけじゃない。
「少し相談があるのだけれど」
ジャンとのことを、アニに聞いてもらおうと思ったのだ。
先日の一件について話している間、アニは相槌一つ打たずに黙っていた。ちゃんと聞いているのか疑わしいけど、多分聞いてくれているはずだ。聞く気が無いなら、とっくに追い出されている。
「なるほどね。アンタが思った通りのバカだってことが、改めてよく分かったよ」
話が終わると、アニは素っ気なくそう言った。
「バカって、確かにそうかもしれないけど」
私が顔をしかめると、ごめんと眉を上げてくる。
「貶したつもりはない。ただ、思ったことを言っただけ。それで、私に何をしろって言うの? アンタらの仲を取り持てとでも?」
アニはさっぱりした性格ゆえか、いつも話が早い。今日もさっそく本題に切り込んできた。
「そうじゃない。ただ私は、恋愛感情がどういうものなのか、分からなくて」
私は、俯いて言う。
「だから、アニに教えてほしい。アニはアルミンのこと、どう思っているの? それは、どんな感情?」
顔を上げてみると、アニはじっとりとした目で私を見ていた。
「私とアルミンは、アンタとジャンじゃないからね。参考にはならないと思うよ」
分かっていても、こうきっぱり言われると胸に来る。
やっぱり、アルミンに相談した方がよかっただろうか。余計な心配をかけたくなかったし、同性が相手の方が良いかと思ってしまったけど。
そう思いかけた時、アニが言葉を続けた。
「私はアルミンのことを、大切に思ってる。言葉にしてしまえば、それだけ。でもその思いはとても強くて、アルミンを失うことを考えたら、それだけで息が苦しくなる。一緒にいることを望んでしまうし、言葉を交わすたびに父さんと話す時とはまた違った高揚感を覚えるんだ」
淡々と、言葉を紡いだ。
「え?」
思わず怪訝な声を出してしまう。
「こんな恥ずかしいこと、長々と説明させるんじゃないよ」
アニは、赤くなって目を逸らした。
「ともかく、それが私の気持ちだ。アルミンがどうかは……知らない。でもきっと、アンタのエレンに対する感情と同じようなものだと思うよ」
そうでしょ? と確認するように言ってくる。
「エレンに……」
やっぱり、そうなんだろうか。
私はエレンに対して恋愛感情を抱いていた。もう二度と叶うことが無い恋でも、この思いが消えることはない。
誰よりも、エレンを愛している。
誰よりも、エレンと一緒にいたかった。
急に胸が締め付けられるような気がして、でも頭痛には襲われなかったことに、どこか安堵する。
「じゃあ、やっぱりジャンのことは……」
好きじゃない、ということになるのだろうか。
仲間としてならともかく、異性としては。
「だから、なんでそう短絡的になるのさ」
私の考えを読んだように、アニがため息をついた。
「短絡的って、何?」
いたって論理的な思考だと思うのに。
すると、アニは呆れきったような目で私を見て、言った。
「そもそも、なんでアンタはジャンの部屋に行ったわけなの? いくらアンタたちの仲だからって、他人の部屋に、一人で、許可も得ずに入るなんておかしいでしょ? 仕事があったわけでもないのに」
……確かに。
「でもそれは、ジャンのことが心配だったから」
「心配っていうのは、どんな風に?」
「だから……」
答えようとして、戸惑う。
最近元気がなさそうだったから。部屋に籠りがちだったから。いくらでも答えは考えられるし、そのどれもが真実なのに、なぜだか口に出せない。
そうだ、元気がなさそうなのはジャンだけじゃなかった。
コニーも、ライナーも、兵長も、そしてアニとアルミンも。
みんな、元気がなかった。
もちろん、地ならしが止まって、エルディア人の立ち位置も変わった。私たちは、世界を救った英雄として尊敬されている。
それでも、私たちはそれを手放しで喜べるほど単純ではない。
大切な人を失った。大切な人を、自らの手で殺した。
フロックの部下だった人たち――イェーガー派とは呼びたくない――の中には、未だに調査兵団に恨みを持つ人が多い。
軍の再建や外交も分からないことだらけで、みんな仕事に追われている。
大変なのは、ジャンだけじゃない。
それなのにどうして私は、彼にだけ声を掛けたのか。
「ねえ、どうして?」
詰問するように、アニが言う。
「それは」
どうしてだろう?
考える。
「多分、怖かったからだと思う」
ぽつりと出た言葉が、一番本音に近かった。
「怖かった?」
「そう。そのうちジャンが、自ら命を絶ってしまうのではないかと思って、怖かった」
ジャン以外の人たちは、前を向いているように見えた。大変ながらも、逞しく生きているように。あのライナーでさえそうだ。互いに弱音を吐き、支えあいながら、前を見て進んでいた。
だけどジャンは、ジャンだけは、ずっと過去にとらわれているように見えたのだ。本人は気づかれていないつもりだろうが、たびたび耳を塞いで辛そうにしている姿が印象的だった。
何度促しても、決して弱音を口に出そうとしなかったジャン。彼が内側にため込んだものの大きさが、私には計り知れない。
いつ何時、ふっと目の前から消えてしまったとしても、何ら違和感が無いように思えた。
それが、ただひたすらに怖かった。
「そう」
私のつたない説明を聞いて、アニは細く息を吐いた。
「アンタにとっての愛だの恋だのについては、正直さっぱり分かんないけどさ」
前髪を掻き上げて、続ける。
「そこまで分かってるなら、心のままに行動すればいいんじゃないの?」
心のままに……
その言葉が、すっと胸に落ちた。
「ありがとう」
私は、アニの目を見て言う。
「アルミンがどうしてアニを好きになったのか、少し分かったかもしれない」
アニが、照れ臭そうに視線を逸らした。
ちょうど、その時、ドアがガチャリと開く。
「ただいま……ってあ、ミカサも来てたんだ」
アルミンだ。
アニが、さっきのことは絶対に言うなとでも言いたげに私を睨んでくる。
私は頷いて、足早に部屋を出た。
*
心のままにとはいっても、どう動けば良いのか決めるまでには、相当な時間を要した。
兵団の仕事に忙殺されていたのもあり、行動を起こせたのはさらに一週間たってからだ。
その間、何度かジャンと顔を合わせる機会はあったが、あの日のことなんてすっかり忘れてしまったかのように、いつもと変わらない対応をしている。お互いに、ただ淡々と雑務をこなしていた。
ようやく時間ができた今日、私はジャンの部屋に続く廊下を歩いていた。日がだいぶ傾いていて、廊下を歩く人も少ない。
ジャンの部屋の前で立ち止まり、ノック。
あの日だって、ノックはしたのだ。返事が無かったからどうしたのかと思って、勝手に入ってしまっただけで。
ノックをしてから、しばらく待ってみる。
今日も、返事はない。
出かけているのだろうか。それか、早い時間だがもう寝ているのか。
しばらく悩んだのち、ぐっとドアを押してみた。鍵は掛かっていなかったらしく、あっさりと向こう側に向かって開く。
「あっ」
ジャンは寝ていた。
部屋の電気はつけっぱなし。服もワイシャツを着たままで、ベッドの上に寝転がっている。
何かの途中で寝てしまったのだろうか? それにしては、きちんとベッドに移動しているところが律儀というか。鍵を開けたままというのも感心しない。寝ている間に盗みにでも入られたらどうするのだろう。
でも、そのくらい疲れていたのかもしれない。
近づいてみると、眉間に深く皺が刻まれている。昔から険のある顔つきだったが、訓練兵団にいた頃はここまで深い皺は無かったはずだ……多分。正直に言うとあの頃はあまり好感を抱いていなかったから、よく覚えていない。
目の下にも、同じように皺が見える。クマを横断するように、何本もの線が引かれていた。
「それにしても、よく寝ている」
ここまで考えた時、自分がやっていることの異常性にはたと気付いた。
慌てて距離を取る。
これでは、まるで犯罪だ。悪意が無いとはいえ、人が寝ているところに無断で入り込んで居座るなんて。
離れた拍子に、机に体がぶつかる。机上に置かれていた物が倒れて、音を立てた。
さっと血の気が引いたが、ジャンが起きる気配はなさそうだ。
深呼吸して、倒れた物を戻す。
見てみると、それは薬の瓶らしかった。
「睡眠導入剤?」
説明書きを、読み上げる。
何となく嫌な予感がして、眠りこけたままのジャンを見た。
夜眠れない時に服用する、というのなら納得できる。
でも、こんな中途半端な状態で寝入っているというのは、どういうことか。こんなに物音を立てても起きないなんて。
――まさか、薬の過剰摂取?
過剰摂取した場合にはどんな症状が出るのかとか、そもそもこの薬がどの程度強いものなのかとか、どのように対処するのが正解なのかとか、そんなことを考えている余裕はなかった。
「ジャン、ジャン、起きて!」
思わず駆け寄って、揺さぶる。
しばらくそうしていると、ようやくジャンが目を開いた。
「……ん、ミカサ?」
二、三度瞬きしてから、ええっと叫んで後ろに下がる。
「ななななんだよ、おま、何してんだ?」
元気そうだ。
「……良かった」
安心して、肩の力を抜く。
「いや、その、良かったとかじゃなくて……な? これは一体、どういう状況だ?」
ジャンがなおも混乱しているので、気が進まないながらも、こうなった経緯を説明した。先日の告白の件やアニに相談したことには触れず、あくまでも今日あったことだけを。
「ああ、なるほど……」
ジャンは頭を掻いて、例の薬瓶を手に取った。
「これな、ごく軽い薬なんだ。寝つけない時に、ちょっと助けになるって程度の。で、いつも服用量守ってるし、今はそもそも飲んですらいねぇからよ」
悪人面のせいで勘違いされることが多いが、ジャンは意外と優しい。先日の一件を引き合いに出すわけでもなく、勝手に部屋に入った私を咎めるでもなく、むしろ安心させるようにそう言って、ちょっとだけ笑みを浮かべた。
「そんな、泣きそうな顔すんなよ」
困ったように言われて初めて、自分が酷い顔をしていると気づいた。
「……どこにも行かないで」
ぽつりと漏らす。
「大丈夫だよ。俺は――」
その言葉の先には、何が省略されていただろうか。「死に急ぎ野郎とは違う」エレンが生きていた頃ならきっと、そう言っていたはずだ。
でもジャンは、そこで口を噤んでしまった。
「もう、こっちには来るな。夜分男の部屋に出入りしてるなんて、噂になりたくねぇだろ?」
代わりにそう言って、目を逸らす。
「待って。言いたいことがあるの」
追い返される前にと、私は慌てて口を開いた。
「この間のことなんだけど……ジャンは、私のことをどう思っているの?」
「どうって、そりゃ――」
「好きって、言ってくれたでしょ。それは、仲間として? それとも、別の意味で?」
心を落ち着けながら問う。覚悟してきたから、あまり緊張せずに言うことができた。
ジャンが、電池の切れた機械のようにピタリと静止する。
見ているうちに、その顔が赤く染まっていくのが分かった。……これでは返事を聞かなくたって、嫌でも気づかされてしまう。
長い沈黙の後、ようやく答えが返ってきた。
「……恋愛対象として、だ。そういう意味で、言った」
でも嫌ならいいんだとか忘れてくれとか、そんな言葉を続けてくるので、私はそれを遮る。
「私は、自分がそういう意味でジャンのことを好きなのかどうか、分からない。それでも、傍にいたいと思ってる。コニーやアルミンのことも大切だけど、それとはまた違うの。分からないけれど、貴方を見ていると、すごく、落ち着かない心地になる」
俯いていたジャンが顔を上げて、私の目を見た。
近頃はあまり整えられていない無精ひげと、乱れた薄茶色の長髪。
「だから、この気持ちが分かるまで、貴方の傍にいてもいいかな。貴方の傍にいて、気持ちを確かめたい」
力の入っていない、囁くような声になってしまう。
ジャンが、あっけにとられたように目を見開いていた。
「それは、えっと、つまり……?」
「……一般的な恋人関係というものが、よく分からないんだ。ごめん。でも、こんな関係でもよければ、私を傍においてほしい。……そういう、こと」
再び、沈黙が降りかかった。
ややあって、ジャンが頷く。
「そりゃあ、ダメなわけないだろ。てかそんな、へりくだんなよ」
それから立ち上がって、部屋の入り口に向かった。
「だけど、今日はともかく帰った方がいい。これ以上一緒にいたら、朝方まで帰せなくなりそうだ」
どういうことだろう?
戸惑っていると、慎重な手つきで私の手を引いてくる。
「明日の朝、食堂で会おう。これからはなるべく時間作って、一緒にいよう」
その手は何かを堪えるように小刻みに震えていて、それを見ているだけで急に不安になった。
「ジャン、大丈夫?」
「……大丈夫だって、全然」
強がる彼を上目遣いに見ると、不意に顎を掴まれた。乱暴な感じではなく、卵を割らないように気を付けるような、優しい手つきで。
あっと思う間もなく、唇が吸い寄せられる。
長く続く何かを期待して目を閉じたが、一瞬ののちには解放される。
「……あっ」
放された途端、思わず声が出た。
「悪い」
ジャンが謝って、口元をぬぐう。
「気持ち、悪かったか?」
この問いに対しては、確信をもって答えることができた。
「いいえ」
第一この間は、私の方からキスをしたのだ。
「また、明日」
確かめるように言って、部屋を出る。
夕日すらもすでに落ちており、廊下はしっとりと冷えていた。