それは熱い日の出来事花火大会に来ていたクロバとイア。
夜空には、すでにいくつもの花火が咲きはじめていた。並ぶ屋台を見て歩くうちに、ふいにイアの目がぱっと輝く。ある屋台の前に立ち止まると、彼女は指をさして小さく言った。
「私、かき氷食べたいな」
並べられたかき氷機と色とりどりのシロップの瓶。蒸し暑い夏の夜には、その冷たい誘惑がひときわ魅力的に映る。それに対し、甘いものがあまり得意ではないクロバは、「買ってこいよ」と顎で屋台を指した。
「あ……、」
そういえば、と、イアは少し困ったように目を伏せた。自分一人だけ食べるのはなんとなく気が引けてしまう。クロバに気を使わせてしまうのも申し訳ない。
しかし、クロバはそんな彼女の迷いを察したように、穏やかな声で言った。
「気にしないでくれ」
その一言に、胸の内がふっと軽くなる。クロバはいつも、こんなふうにさりげなく背中を押してくれる。彼が自分に遠慮なんてして欲しくないと思っていることも、イアはよく分かっていた。
「じゃあ買ってくるね」
小さく笑うと、イアは軽やかな足取りで屋台へ向かった。夜風に浴衣の裾がふわりと揺れる。
屋台の明かりの下、イアはイチゴ味のかき氷を注文した。赤いシロップの瓶に光が反射し、どこか懐かしい気持ちになる。
「おひとつですか?」
店主に訊ねられ、「はい」と答えたその時、
「彼氏さんはいいのかい?」
にやりと笑いながら、店主がそう言った。
「えっ」
イアはハッと声を漏らす。
気づけばすぐ隣にクロバが立っていた。てっきり自分一人で屋台に来たつもりだったのに。そして何より、〝彼氏〟と呼ばれた瞬間、それまで意識していなかった感情が一気に胸の奥からせり上がり、ぱっと顔が熱くなる。
加えて、一人でかき氷を食べると思われたことさえ恥ずかしく感じてしまった。
イアの口が思わず勝手に動く。
「ふ、二人で食べますので!」
「そうかい。ならスプーン二つ付けてあげようね」
「あ、えっと……」
どうしよう。今のはとっさに出た言葉だった。そんなつもりじゃなかったのに、この流れではクロバにもかき氷を分けることになってしまう。
すると店主は、彼女の動揺を別の意味に受け取ったのか、にこにこしながら言った。
「そうか、そうだよな。ひとつあれば十分だよな~」
そう言って、かき氷をイアに差し出した。
にこやかな善意の笑顔はあまりに無邪気で、訂正する隙さえ与えてくれなかった。
(これ、絶対勘違いされてる……っ)
イアは察した。この店主はきっと、〝一つのかき氷をスプーンで分け合うラブラブなカップル〟だと誤解したのだ。その想像が頭に浮かんだ瞬間、顔の熱がさらに上昇する。
一方で隣のクロバはというと、
「そうだな、一つで十分だな」
と、まるで何の疑問も持たず、ただ言葉の通りに受け取っている様子だった。
かき氷を受け取りながら、イアの胸の奥には、くすぐったいような、恥ずかしいような気持ちがじんわりと広がっていった。
その後、イアは嬉しそうにかき氷を食べ始めた。
ほんのり赤いシロップがかかった氷をスプーンですくい、口に運ぶ。しゃく、と小さな音を立てて舌の上で溶けていくそれは、ひんやりと甘くておいしい。その感触が、火照った頬を内側から冷やしてくれるようだった。
喉を通りすぎるたび、夏の蒸し暑さがほんの少し和らぐ気がする。
しかし、思っていたよりも甘さは控えめだった。イチゴの香りはするものの、口に残るのはほんのりとした甘みと氷の清涼感。
イアはふと思った。
(これなら、クロバでも食べられるんじゃないかな)
彼は甘いものが苦手だが、このくらいなら口にしてくれるかもしれない。
そう思った瞬間、先ほどの店主に〝彼氏さん〟と呼ばれた時に胸をかすめた、〝二人で一緒に食べる〟という甘い想像が、またひょっこりと顔を出す。
かき氷を一緒に食べる。スプーンを渡したり、味の感想を言い合ったり。そんな他愛もないことが、妙に嬉しい。
恋人同士のちょっとした憧れ。心の中の小さな願望が、ひそかに膨らんでいく。少し迷ったあと、イアは勇気を振りしぼった。心臓が跳ねる。頬が熱くなる。
「……クロバも、ちょっとだけ食べてみない?」
気取らず、さりげなく言えたつもりだったが、内心はどきどきが止まらない。すると、クロバはほんの一拍置いて、「そうだな。じゃあ、一口」と、いつもの調子で答えた。その時、かき氷の器とスプーンは、イアの手の中にあった。
(あっ……)
どうしよう。戸惑いながらも器ごと渡しかけたが、胸の奥に、ふっと小さな願いがよみがえった。
二人で花火を見ながら、かき氷を一口ずつ食べ合うなんて。
お祭りの夜ならではの、ちょっとした恋人同士のしぐさ。
イアは小さく息を吸い込むと、胸の奥でそっと覚悟を決めた。
スプーンですくった氷をそっと差し出し、クロバの口元へと近づける。
「あ……は、はい……」
〝あーん〟という言葉は、どうしても口に出せなかった。
顔がじわりと熱くなり、きっと今、耳の先まで真っ赤になっている。
そんなイアの前で、クロバは特にためらう様子もなく、口を開けて氷を受け取った。
しゃり、と静かな音がして、彼の口の中で氷が消えていく。
それだけのことなのに、イアの鼓動は急に速くなる。胸の内側から、甘く、熱いものが広がっていく。
クロバは特に気にする様子もなく、涼しげな顔でかき氷を味わっていた。
その何気ない態度が、かえって恥ずかしい。自分だけが意識しているのかと思い、余計に顔が熱くなる。
「うん。結構おいしいな」
「ね、そうだよねっ」
声が弾んでしまった。
自分が選んだ味を気に入ってもらえた嬉しさと、照れくささとが入り混じる。
「……イア」
「なにっ?」
クロバがふっと顔を近づける。
「もう一口いいか?」
穏やかに、けれどどこか距離を詰めるような声。
イアの胸は、またしても跳ね上がる。
(て、手の熱で、かき氷、溶けちゃう……)
スプーンを持ったまま、どうしようと戸惑う。
そして、もうひとつの感情がこみ上げる。
(たくさん、間接キス……)
スプーンを口に運ぶたび、クロバの唇が触れた場所に自分も触れて、また彼がそこに──と考えだした途端、顔の熱が収まらなくなる。
スプーンを口にしたまま、イアの思考はぐるりぐるりと回り続けていた。
Fin