赤い空の記憶村で一番高い建物である火の見櫓のてっぺんは、子ども達の憧れの場所だ。
かつては魔王軍の侵攻に備えて昼夜を問わず見張り番が置かれていたが、勇者が魔王を打ち倒して以降は大人達にとっては分かりやすい待ち合わせ場所であり、子どもらにとってはちょっと危険な匂いのする遊具と化している。
山火事、土砂崩れ、怪物(モンスター)の来襲などを知らせるために鳴らされる半鐘は幸いここ数年出番が無く、年に1,2度行われる非常訓練の際に鳴らされるばかりだ。
この訓練時には13,4歳の子どもらも集められ、櫓に昇る練習をする。
急を知らせる鐘を鳴らすには素早さが必要となる。いざというときに大人が動けるとも限らない。
櫓に昇れることは村において重要な役目の一端を担う者になった証、いわば一人前の証明でもあった。
高所の恐怖に打ち勝って梯子を昇りきり、櫓の上から手を振る少年少女らは幼い子らには勇者のように見えた。
「おれものぼるぅ!」
「無理に決まってんだろ、ポップ。お前まだ4つじゃないか」
「そうそう10年早え」
「櫓に上りてぇならもっと大っきくならねえとなあ」
「その前に道具屋のペスに触れるようになれよ。こないだもほっぺた舐められてベソかいてたじゃねえか」
違いねえとげらげらと笑われて、小さいポップはぷうと丸い頬を膨らませた。
年上の子どもらは誰も彼も自分をバカにする。
ポップは確かに4つになったばかりで、背丈は梯子10段分にも届かない。
しかし自宅の2階にはもう自分だけの部屋を持っている、赤ちゃんと違って1人で寝られる立派な"お兄ちゃん"なのだ。
(夜中に急に寂しくなり泣いて両親のベッドに潜り込んだのだって最初のひと月ほどだけだ)
訓練に参加するには年も背丈も全く足りてはいないが、櫓に上るくらい何てことないはずだ。
そもそも梯子を昇ることとペスに触れるようになることは別問題だ。
自分よりも図体のでかい犬に覆い被さるようにされれば誰だって怖いに決まっている。
(みんなおれをおくびょうなよわむしとおもってる)
ポップはそれが気に入らない。
確かによく父に怒られて泣いてばかりいるが、ポップが泣くのは怖いからじゃなく父の大声にびっくりするからだ。
(おれがおくびょうものじゃないところをみせてやる)
小さなポップは固い決意を胸に秘めていた
(それにもうひとつ)
彼にはどうしても、櫓のてっぺんに昇ってみたい理由があった。
(あのてっぺんから、うみをみるんだ)
山育ちの子どもは海を見たこともなければそれがどのくらい遠くにあるものかも分かっていなかった。
決行は週明けの午後。昼食を終えた小さい子らはお昼寝の時間。
大人達は仕事に忙しく、年上の子らは教会で勉強を教わっているはずだ。
ポップはいつものようにブランケットを持って自分の部屋に行くふりをしながら、母の目を盗みするりと裏口から外へ出た。
櫓は村の入り口近くに建てられている。幸い今は近くに誰もいないようだ。
(さくせんせいこうだ!)
もうすっかり登りきれた気分になって、ポップは勢いづいた。
梯子の段幅はそれほど広く取られていない。
せいいっぱい手を伸ばせば、ポップでも昇っていくことができた。
一段一段、踏み外さないよう注意して、決して下は見ないように。
人生最大の挑戦が始まった。
何段くらい昇ったのか、突然びゅうと冷たい風がポップの頬を撫でた。
ふと周りを見るとすでに家々の屋根と目線が変わらない。
(こわい!)
足がすくむ。
半鐘の釣られた足場はまだまだ遠く、櫓の屋根は空まで届くかのように見えた。本当に昇りきれるのか。自分より大きなお兄さん達の中にも泣いて動けなくなってしまう者がいたことを思い出す。
手が震える。小さな体が風に煽られる。このまま吹き飛ばされて遠いお山のてっぺんの大木に引っかかっておおがらすの晩ご飯になってしまうのかもしれない。幼い想像がポップの体を更に震え上がらせる。
それでもポップは汗で湿る手でぐっと梯子を握り直した。キッと上を見上げる。視線の先には真っ青な空。海もあんな風に青いのだというが本当だろうか。
(うみをみるんだ)
ポップは右手を上に伸ばす。滑らず梯子を掴むことができた。かたかた震える左脚を上に引き上げる。ちゃんと段に掛かった。大丈夫、まだ昇れる。
(おれはよわむしじゃないぞ)
教会の鐘の高さを超えた。もうあとは青い空しか見えない。
「ポップ!!」
下から大声が聞こえた。
(とうさんだ!)
櫓の下でジャンクが叫ぶ。
「ポップ、そこから動くんじゃねえ!今行くからじっとしてろ!」
ポップにはその言葉の意味は届かなかった。
(おこられる!!)
怒ったジャンクは何よりも怖い。世界で一番、きっと魔王よりも怖い。
大声で怒鳴られ拳骨を食らうと、ポップはしおしおのナメクジみたいに打ちひしがれてただ泣くことしかできなくなるのだ。
(にげなくちゃ)
いつもなら家の裏手やテーブルの下、母のスカートの後ろに逃げ隠れる(逃げ切れたことは無い)のだが今は隠れる場所などどこにも無く、行く先も上か下かのいずれかだ。
下には父さんがいる。きっと今から追いかけてくる。捕まったら怒られる。逃げ道は・・・ひとつしかない!
「ばっ・・・かヤロウ、ポップ!!それ以上昇るんじゃねえっ!」
ジャンクの必死の叫びにも耳を貸さず、ポップはひたすら上を目指した。
冷たい風や高所の恐怖も吹き飛んだまま上へ、上へ。気がつくと目の前に広めの足場があった。櫓のてっぺんに着いたのだ。
ポップは最後の力を振り絞って両腕に力をこめ、うんしょと半身を足場の上に乗せた。両脚をばたばたと揺らして這いずるように前進し、やがて小さな体はすべて足場の上に乗った。
「うわあ・・・」
立ち上がり周囲を見渡す。いつもは遠くに見える山々が急に近くに寄ってきたかのようだった。村を取り囲む煉瓦塀はポップの背の何倍も高いのに、今はとても小さく見える。
呆けたまま辺りを見回すポップの元に、もの凄い勢いで櫓を昇ってきたジャンクがやってきた。
「ポップ!おめえ無事か!!」
まだたった4つの幼子がまさか櫓の梯子を昇りきるなんて思いもしなかった。息子の不在に気付き常に無い大声を上げた母スティーヌも共に村中を探し回ってくれた近所の大人達も、驚きと安心が入り混じった表情で櫓を見上げている。
「ポップ?」
あまり大声で怒鳴ると逃げだそうとしてしまうかもしれない。梯子の途中より安全とはいえ、ここは狭い足場の上だ。できるだけ驚かさないよう声をかける。
「とうさん」
ポップは山々を見つめたまま小さくつぶやいた。
「おう、どうした」
「・・・うみ、みえないね」
のんきな息子の言葉に、ジャンクはへなへなとその場に座り込んだ。
「海ならおめえがもう少し大きくなったら見に連れて行ってやらあ。さ、下りるぞ」
怒るのも馬鹿らしくなってジャンクは柔らかく息子を諭した。我が子の思わぬ胆力に少しばかりの嬉しさもあった。危険なことをした戒めはしなければならないが、それは下りてからでいい。
「えーもうちょっといたいよ。とうさんにだっこしてもらったら、うみみえないかな?」
今は怒られないと感じ取ったのかポップは子どもらしいわがままを口にした。父は怖い人だが、背の高い彼に抱き上げてもらうのは大好きだ。
「肩車したって見えねえよ。ここは子どもが遊びで昇るとこじゃねえんだ。背負って下りてやるから後ろ回れ」
問答無用とばかりに懐に忍ばせていた襷を広げる。ポップを落さないよう背負い紐の代わりにするのだ。
「うん・・・」
残念ながら時間切れのようだ。ちらっと見下ろした先には心配そうな母の姿があった。早く下りないともっと心配するだろう。大好きな母さんの悲しむ顔は見たくない。それに父さんのおんぶは抱っこよりずいぶんと久しぶりだった。
素直に父の背に手をかけようとした時、目の端にチカリと光るものが見えた。
「とうさん?」
「何だ、早くしろ」
「あれ、なんだろ。いまピカッてした」
「ああん?」
ポップが指す方に振り向く。村から見て南、遠い空の先に確かに小さな白い光を見た。
その直後。
天界にも届こうかというほどの赤黒い雲が地上から空を貫くように伸びた。その先端は毒茸を思わせる不気味さで大きく丸く膨らんでいる
そして数秒ののち
-ごおぉぉぉ どおぉぉ ぐおぉぉぉん-
山さえ揺らすような爆音、自然のものとは思えない風。家々の窓がびりびりと震えて鳴った。
眼下の村人達も何事かと騒ぎ出す。屋内にいた者達も皆外に飛び出して空を見上げる。
ジャンクは空を見つめたままポップの体をぎゅっと抱きしめた。いたいよ、と抗議の声が上がってもその力を緩めることはできなかった。
禍々しい形の雲は南方からどんどんと広がり、空全体を赤く染め上げた。
夜。
「ポップ」
おやすみの挨拶をして部屋に行こうとしていたポップを母が呼び止める。
「今日は父さん母さんの部屋で一緒に寝ましょう」
「・・・なんで?」
自分の部屋を与えられて以降、両親の部屋に忍び込むことを笑って許されはしてきたが母の方から一緒に寝ようと言われたのは初めてだ。
「おれ、もうかってにそとでたりしないよ」
あの後、父に背負われて櫓から下りたポップはどんな大目玉を食らうかとびくびくしていたのだが、両親とも「二度とするな」と静かに言ってくるだけで、怒鳴られも殴られもしなかった。
母と自分を家に送り届けた後、ジャンクは村の男達と寄合い所に行ってしまい遅くまで帰らなかった。
櫓を取り囲んでいた子どもらは家に着くまでポップ達にまとわりつき、上はどんなだったのか何を見たのかとしつこく聞いてきたが、父が厳しい顔で首を振るのでポップも何も答えられなかった。
大人達は皆怖い顔をしていた。囁きの中に まおう という言葉が聞こえた気がした。
自分が何も言わずに家を出て火の見櫓に昇ってしまったから、あんなおかしな空になってしまったんだろうか。自分が見たのは『まおう』の光だったんだろうか。
生まれて初めて感じる罪悪感という感情がポップを苛む。
俯く我が子に「大丈夫、分かってるわよ」と優しく声をかけ、スティーヌはポップを部屋に招き入れた。
大きなベッドの上、父と母に挟まれて眠る大好きなひととき。とても温かいのに何だか今夜は体がかちかちに凍り固まってしまっているようだ。
こわばった表情のポップの頭をジャンクがぽんぽんと軽く叩いた。
「今日は大冒険だったなあ、ポップ」
「だいぼうけん?」
おう、と父は息子に笑いかけ、何とか笑顔を保ったまま妻に声をかける。
「明日はオレが大冒険だ。村の男衆何人かと南へ行く。ベンガーナまで行けば何かしら分かることがあるだろう」
「あの方向は王都ではないわよね」
「おそらくな・・・あれは、多分」
頭上で何やら難しい話が始まって、ポップは急に眠くなってきた。父の笑顔を見られて安心したのもある。高い櫓を昇りきった手脚はじんわり痺れていて、広場で一日中追いかけっこしたときよりも疲れている。
「とうさん・・・」
うとうとしながらポップは父に声をかけた。
「ん、どうした?」
「・・・うみ、いっしょにいこうねえ」
やくそくだよ、と呟いて寝落ちた息子を、ジャンクは再びぎゅっと抱きしめた。震える夫の肩をスティーヌは優しく撫でる。
「大丈夫、きっと大丈夫よ。もう魔王は勇者様に倒されたのだもの」
「ああ、そうだな。・・・大丈夫だ、きっと」
山奥の村で4つの男の子が生まれて初めての大冒険を果たした日。
青い海に臨む国が、ひとつ消えた。