幸福の味「ああ~」
背後から間の抜けた声がする。ポップは皿を濯いでいた手を止め、昼間買い出ししてきた品を片付けていたダイに声をかけた。
「どーしたー?」
振り向き見遣れば声色と同じくへにゃんと眉を下げた情けない顔。その手の中には3分の1ほど切り残されたバゲットがある。
「あ~」
ポップも間抜けた声を出す。一昨日の夕食時、シチューに合わせるために買ってきたものだ。残りは明日食べよう、と言っていたのにすっかり忘れていた。
「カチカチ?」
「カチカチ」
表面をダイがコツコツと叩く。幸い黴びてはいないようだが、そのまま食べるのは歯に負担がかかりそうだ。
「どうしよっか。スープに浸して食べる?」
ダイが食料貯蔵庫の中身を思い出しながらポップに言う。玉葱がたくさんあるからオニオンスープがいいかなあ、とぼんやり考える。
「そうだなあ、それもいいけどよ」
濡れた手をぴっぴっと雑に払いながらポップはにかりと笑う。
「どうせならちょっと贅沢に使おうぜ。明日の朝、パンペルデュにしよう」
「何それ?」
初めて聞く料理の名にダイの目がきらりと輝く。ポップが時々作ってくれる新しい料理はいつもダイの大好物になるのだ。
「ある地方のパン料理なんだけどよ。多分お前好きだと思うぜ」
「ぱん…何だっけ。どういう料理なの?」
「簡単に言やあ、『パンのザオリク』」
へ、とまた間の抜けた声を出すダイにふははと笑い、「貯冷庫からミルク取ってきてくれよ」とポップは頼んだ。
ポップが魔法道具を駆使して作った貯冷庫は常にひんやりと一定の温度に保たれ、食材を新鮮な状態で長く保存することができる優れものだ。
冷たいミルクが入った壜を持ってダイがキッチンへ戻ってくると、ポップはボウルに卵を割り入れようとしていた。ボウルの角にこつこつと殻を当て、カシリと片手で割り入れる。
ポップはいとも簡単そうに行うが、ダイは卵の片手割りを一度も成功させたことが無い。何度挑戦しても殻がボウルに入ってしまうのだ。
両手で割ればいいじゃねえか、とポップは言うし自分でもそう思うのだが、さらりとこなす姿を見ると今度こそ出来るのではないか、とつい試してしまう。
そして毎回砕けた殻をちまちまと卵液から摘まみ出すことになるのだ。
「ダイ、ミルクをカップに半分入れてくれ」
小さめのホイッパーで卵をカシャカシャと混ぜながらポップが言う。ダイはカップになみなみとミルクを注いだ。横から突っ込まれる前にその半分をボウルに注ぎ入れ、残りをごくんと飲み干す。
「おいし」
「ホント好っきだなあ、お前」
呆れたように笑いながらポップは更にボウルの中をかき混ぜる。ある程度混ざったところで一旦ボウルを置き、戸棚から砂糖壺を取り出した。
「砂糖はたっぷりが、美味い」
「お砂糖たっぷり」
木匙に山盛りの砂糖を混ぜ入れ、また混ぜる。
このまま飲んでも美味しそう、とダイが言うと、いや無いだろ、と即答が返ってきた。
「ダイ、バゲット切ってくれるか。いつも食べるより少し厚めで頼む」
「分かった」
料理の腕はポップの方が上だが、ダイも包丁の扱いはなかなか上手い。特に硬くなったバゲットを切るというような力仕事は得意中の得意だ。
綺麗にスライスされたバゲットを満足そうに見て、バット出して並べてくれ、とポップが更に言う。言われるまま琺瑯のバットにバゲットを敷き並べた。
「ではここに注ぎまーす」
ミルクと砂糖を混ぜた卵液をバゲットを並べたバットに注ぐ。固く水分の抜けたバゲットが淡い黄身色の中でぷかりと泳ぐ。ポップはその上にふわりと布巾を被せた。
「これで、どうするの?」
「ひと晩寝かせる」
寝かせる、とダイはポップの言葉を繰り返す。パンやクッキーを焼くときによく聞く言葉だ。食べ物が寝るとはどういうことかよく分からないが、美味しいものを作るために必要なんだということはダイにも分かる。
「貯冷庫に置いとこうか。ダイはミルク壜持ってきてくれや」
「はあい」
2人で貯冷庫へ向かう。ボウルやカップなどを洗い直せば後は眠るだけだ。明日の朝が楽しみだなあと言うダイを、気が早えよとポップが小突いた。
翌朝。
「ポップ!ポップ、おはよう!起きて!パン!パン食べよ!」
目を覚ましたポップの視界いっぱいにダイの顔がある。
「おまえ…起こすのはいいけどもうちっと下がれよ。おれがもし勢いよく起き上がったら頭突きし合うことになるだろうがよ…」
寝起きの悪いポップが勢いよく起きることなどそうは無いのだが、ダイは素直に「うん、ごめんね!パン食べよ!」と後ろに下がった。
「へいへいへい」
ふわわ~とあくびをしながらのそのそと起き上がる。
「着替えるからちっと待ってくれや。…ああ、貯冷庫からパンと一緒にバターも出してきてくれるか」
「分かった。ねえ、バターもたっぷり使う?」
ダイの問いにポップはにまりと笑って答える。
「もちろん。何作るにもバターはたっぷり使った方が美味くなるからな」
パンとバターをと頼んだのに、両手でバゲットの入ったバットを持ち指の端でバターの包みを摘まんだダイはミルクの壜まで脇に抱えてきた。
「横着すんなよな~」
落として割れたら二度手間どころじゃねえぞと笑うポップに、このくらい落とさないよと頬を膨らまして言う。
「昨日開けちゃったから早く飲んだ方がいいと思ってさ。ポップは珈琲にするんだろ?」
「そうだなあ…ああ、でもミルク温めてカフェオレにしちまおうか。お前も飲むだろ?」
うん、とダイは大きく頷く。
「ミルク珈琲もお砂糖たっぷりが美味しいよね」
そう言いながらケトルと小鍋を用意するダイにそうだなと応え、カフェオレは無糖派のポップは珈琲豆をミルで挽き始める。
「先に珈琲作っちゃう?」
「いや、準備だけ。バゲットはフライパンでゆっくり両面を焼くんだよ。その間に飲み物も淹れればちょうどいい」
部屋中にふわりと珈琲の香りが漂い、2人の頬は緩まる。ダイは珈琲の苦みはまだ苦手だがこの香りは好きだ。
ポップが少しだけ砂糖を入れて飲む珈琲の飲み終わりを一口もらうことがある。底に残った甘みと風味はこの世で一番美味しい飲み物なんじゃないかとも思う。ポップはお子ちゃまかよと笑うけれど。
「さて、そろそろ焼くか」
香ばしい香りに夢中になっているうちにポップは豆を挽き終わったらしい。フライパンを火にかけて温め、バターを多めに一欠け入れる。弱火でじわじわと溶かすのだ。
「バターもたっぷり」
「そう、バターもたっぷり」
にまっと2人で笑い合う。バットの上から布巾を取ると、卵液を吸ったバゲットが姿を見せた。ダイがフォークの背で軽くその表面をつつく。
「ふよふよになってる」
「よく染みたな。良かった」
じゅわじゅわと音を立てて溶けていくバターをフライパンに馴染ませ、上にバゲットを並べ入れる。じゅわんと音を立て、甘い匂いがフライパンから上ってくる。
「ああ、もう美味しそう」
うっとりと眺めるダイに、弱火にしてっけど焦げないよう見とけよ、と告げ、ポップはケトルに水を入れ、湯を沸かし始めた。
「そろそろ良さそうかも」
シュンシュンとケトルから湯気が立つ頃、ターナーを使って焼き面の様子を見ながらダイが言う。ひっくり返せるか?とポップが問うと、パンケーキの生地よりはしっかりしてるから大丈夫だと思うと返ってきた。
「えいっ!…あ、美味しそう!」
どうやら上手く返せたらしい。綺麗な焼き目に満足そうだ。裏面もじっくりゆっくりな、と言いながらケトルを火から下ろし今度は小鍋に入れたミルクを火にかける。今度は湯を沸かすよりは弱火でいい。
「いつも思うけどポップが料理するときって同時にいろんなことするよね」
ドリッパーにフィルターをセットして珈琲を淹れ始めたポップにダイが言う。そうかあ?と言うポップ自身はあまり自覚が無いようだ。
「アバン先生がてきぱき同時にやっちゃう人だから手伝ううちに自然と身についたのかもなあ」
「両手で違う魔法使うよりは簡単?」
「そりゃ…んん、いやどうだろな。何品も同時に料理仕上げる方が難しいかもしれねえ」
「じゃあ料理上手い人は大魔道士より上だ」
「なぁんで魔法使いと料理人比べるんだよ。…お、そろそろいいんじゃねえか?」
話しているうちに両面ほどよく焼き上がった。淹れたての珈琲と温まったミルクをカップに半々ずつ入れる。ポップはそのまま。ダイは砂糖壺を手にする。
「お砂糖たっぷりが、美味い」
「はいはい」
黄金色に焼けたパンペルデュを皿に盛り、テーブルへと向かう。食前のお祈りを手早くして(だって冷めちまったら不味くなるじゃねえか勿体ない!とはポップの弁だ)早速一口頬張った。
「!!!!」
口の中いっぱいに広がる優しい甘さにダイの目が一際大きく開き、その瞳はきらきらと輝く。うっすらしるし光ってねえか?とポップは笑う。ここまで感動してくれるなら作ってみて良かったと思える。
「ポップ…『パンのザオリク』の意味が分かったよ…カチカチだったパンが生き返ったね…」
パンペルデュ=失われたパン-つまり固くなったパン-を生き返らせる、という料理の名の意味を正しく理解してダイが呆けたように言う。
「そりゃあ良かった。…ん、うめえな」
砂糖やバターを贅沢に使うのでポップもそれほど多く食べた機会を持つわけではない。甘くふわりと溶けるような食感に口角が上がる。
「この味、レオナが前に出してくれたプリンに似てる気がする」
「そりゃおめえ、同じような材料だもんよ。卵と牛乳と砂糖。混ぜて蒸したらプリンになる」
「そうなんだー」
もぐもぐと口いっぱいにパンペルデュを頬張りながら相づちを打つダイ。ポップは自分の皿にある一切れをダイの皿に移してやる。
「これもやるよ。…卵液もう少し増やして、グラタン皿にパンと一緒に入れてオーブンで焼いたらパンプディングになるな」
「何それ、それも美味しそう」
作ってよーとねだるダイにそのうちなとポップは返した。雑な返答を気にすることもなく、約束だよとダイは笑った。
「あー美味しかったー…」
ほおっと息を吐き、見るともなしに天井を見上げながらダイが呟く。手には甘いミルク珈琲の入ったカップ。こくりと一口飲み、ポップに言う。
「ねえ、ポップ。おれ分かったよ。幸せってね、多分食べたら甘い味だよ」
「そりゃあ、哲学だな」
ポップはそう笑ってカフェオレを口にする。揃いで買ったカップはたっぷり入って冷めにくい、2人のお気に入りだ。
「ああ、でもお昼はしょっぱいもの食べたい」
思うまま口にするダイに、今食べ終わってもう昼メシの話かよ!とポップが突っ込む。
「だって甘いもの食べたらしょっぱいもの食べたくならない?」
「そりゃ分かるけどよ。じゃあ、今日は魚釣りでもすっか?釣った魚で昼メシにしようぜ。塩焼きでもいいし、ムニエルでもいい」
「ポテトのソテーも付けて」
「へいへい」
それぞれカップの中身をぐっと飲み干し、立ち上がる。皿を洗ったら今日もやることが盛りだくさんだ。
「魚釣れなかったらどうしよっか」
「別に買いに行きゃあいいだろ。ほんと最近のお前食い気ばっかだな」
やいやいと言い合いながら出掛ける準備をする。今日も良い天気だ。釣り竿を手に取り、ダイはマントを羽織るポップに声をかける。
「ねえ、ポップ。さっきの訂正していいかな」
「あん?」
「幸せってね、多分2人で一緒に食べるご飯の味だよ」
そう言って笑うダイに、「そりゃあ、真理だな」とポップも笑って応えた。