浪漫の代償「こりゃただの霧じゃねえな」
「完全に分断されてしまいましたね」
新たな地へ向かうため通りがかった森の中、突然深い霧がたちこめた。更に怪物の攻撃に遭い、アバンとマトリフはロカ、レイラの二人とはぐれてしまった。
「あちらも二人一緒にいてくれれば良いのですが」
「だなあ。一人ずつじゃ見つけるのにも時間がかかるし、何より連れがいるかいないかで戦闘面でも精神的にもかかる負担が違うからな。…ほれ、手ぇ出せ」
マトリフはアバンの腕を取りホイミをかける。霧に紛れて背後から襲ってきた敵に対応しきれなかったのだ。すいません、とアバンは眉を下げる。
「あんなに分かりやすい殺気に気付けないとは情けない限りです。目や耳に囚われず敵の気を探る術を身につけなくては」
「反省は後にしな。お前さんにそう言われたんじゃ、後方についてたオレの立つ瀬がねえや」
カカッと笑うと傷の癒えた腕をぱしんと軽く叩く。乱暴だが思い遣りの籠もった言葉にアバンは引き締めていた頬を緩ませた。
「…ありがとうございます、マトリフ。あなたがいてくれて良かった」
「そういうのも後にしようぜ。生きてこの森を抜けられないなら同じこった。今は目の前の問題を片付けてくのが先だ」
情に厚いがそれに流されることのない冷静さ。勇者と呼ばれ多少の知識や技を身につけてきた自信はあれども、この安定感、安心感はそう簡単に会得できるものではないなとアバンは胸の内で思った。それでも彼に倣い、冷静に状況を見極めようと試みる。
「あなたの言うとおり、これは自然現象では無さそうです。可能であれば霧の発生源を絶ちたいところですが」
「そう簡単にゃあ尻尾は出さねえだろうよ。まずは襲ってくる奴らを叩きながら合流を目指す、だな。こっちがもう一度集まりゃ向こうさんも焦って顔を出してくるかもしれねえ」
「確かに。では、行きましょうか」
アバンが先を行き、マトリフが後ろにつく。数歩離れれば互いの姿さえ見えなくなるような濃霧。敵に襲われ間合いを取ればまた分断されるおそれもある。剣と杖がぎりぎり互いの邪魔にならない程度の隙間を空けて二人は歩き始めた。
「そう言えば」
ふいに振り返り、問いかけるアバンの声は妙に明るい。
「マトリフ、あなたラナ系は使えるんですか?」
「ラナぁ?こんな作為的な霧にゃあ効かねえだろ…」
「使えるんですか?」
マトリフを見つめる目は爛々と輝いている。それは素晴らしい宝物―綺麗な色の小石やちょうどいい長さの小枝や蝉の抜け殻のような―を見つけた子どものような純粋な耀きだった。
「―まあ、全部じゃねえがな」
偽る必要もないので答えると、「ああ!」と胸に手を当てアバンは霧に包まれた空を仰いだ。
「いいですよねえ、ラナ!雨雲を呼んだり晴らしたり!昼夜を逆転させる呪文なんてどういう原理に基づいているんでしょう!?天空の精霊は呪文の行使によって歪んだ時空の調整をどのように行うのか…」
「知らねえよ、んなこたあ」
耳をかっぽじりながらマトリフはすげなく返す。勇者は剣と魔法を扱うというのは古来からの定説だが、大抵は剣士がベースであり、カール騎士団出身のアバンも同様であるはずだ。かなり高位かつ珍しい呪文も扱うと聞いてはいたが、これほどの食いつきを見せるとは思ってもみなかった。
「ええ~知らないんですかぁ~」
心底残念そうにアバンはマトリフを睨めつける。常に数手先を読み、真意を人に悟らせぬ飄々とした風情の男が、珍しく年相応の青年に見える。くくっと喉の奥で笑うと、マトリフは普段ロカにやるように杖の先でこつんとアバンの頭を小突いた。
「ラナルータは流石に過激すぎて使えねえが、ラナリオンくらいなら今度見せてやるよ。無事にここを抜けられたらな」
「本当ですか!?本当ですね!?約束ですよ!」
見えない尻尾をぶんぶんと振っていそうなアバンにへいへいと返事をする。
「まさか勇者様までこんな呪文マニアだとはね」
「までって何です?」
「こないだのデカブツも相当だったろう」
ああ、と頷きかけ、アバンはふるふるとかぶりを振る。
「彼と私の求めるものは違いますよ。私が魔法に求めるものは…そう、浪漫です!」
「…はあ」
ぐっと拳を握りしめる姿に、気のない相槌を返す。アバンは気にとめず続けた。
「容易には契約できない呪文や忘れ去られた秘術!もちろん戦いの役に立つものは活用しますが、やはり胸を打つのはその希少性、特異性!剣術を極めていくのとはまた違う魅力があるのです!ああ魔法って素晴らしい!!」
「…魔法使いに対してご高説をどうも」
肩を竦める大魔道士に若き勇者は微笑みかける。
「そう言いつつ少しは分かるでしょ?私の気持ち。魔王を倒して世界に平和が訪れたら、あなたの弟子にしてもらいましょうかねえ~」
「はあ?何だよ突然」
思ってもみなかった言葉にマトリフは口をあんぐりと開く。
「だってせっかくこうして世界最強の魔法使いとお知り合いになれたんですし。オリジナルスペルもたくさん持ってますよね?じっくり膝をつき合わせて御教授いただきたいじゃないですか」
期待に満ちた瞳で見つめてくるアバンの顔を平手でぺしゃりと押しやる。
「やめてくれよ。お前の言う浪漫って奴もそりゃ多少は分かるがな、オレぁ弟子なんざ取る気はねえよ」
「ええ~」
子どもっぽく頬を膨らませる青年の頭を再び小突く。
「オレの修行のやり様は我ながら過激だからな。よっぽどの馬鹿か大天才でもなけりゃついてこれねえだろうよ。お前さんも才能はあるが完全な魔法使い向きじゃねえだろ。諦めな。それに―」
「それに…何です?」
首を傾げるアバンを見遣り、にっと笑う。
「オレはダチを弟子にはしねえよ。対等な立場でなきゃつまんねえだろうが」
その言葉に一瞬きょとんとした後、アバンは破顔する。
「それなら仕方ないですね。でも、友人としてアドバイスを求めることはアリでしょう?」
「ああ、ダチとしてならな。…さて、お喋りの時間は終わりだ。おいでなすったようだぜ」
ぐるりと取り囲む気配。低く響く唸り声。緊迫する場面のはずだが、二人の表情に焦りは無い。
「ちょっと明るくしてやるから、頼むぜ」
言うなりマトリフは数発爆裂呪文を発射した。四方に向け撃ち出された光弾は敵の頭上で弾け、霧の中に影を浮かび上がらせる。
「行け」
「はい」
短い言葉だけを交わし、アバンが駆ける。爆発に目を眩ませた怪物を次々と切って捨てる。死角から襲いかかろうとするものを鋭い閃熱呪文が貫く。
「同じ手を二度も食うか、馬鹿どもが」
口汚いマトリフにふふっと笑いながら、アバンは自在に剣を振るう。視界の悪い中でも背中を任せる不安が一切無い。本当に得がたい人を仲間に出来たものだと自身の幸運と彼を引き寄せた親友の人柄に感謝した。
怪物達の断末魔に混じり、少し離れた場所から剣を交わす音が聞こえてくる。真空呪文が空を切り裂く鋭い音も響く。
「案外近かったな」
「ラッキーでしたね」
敵を倒しながら音の方へ足を進める。相手もこちらの様子に気付いているようだ。対峙する敵の数は増えるが、四人が揃えば恐れるものなど何もない。
「マトリフ!」
友の足下を狙う牙を剣先で払いのけ、アバンが声をかける。
「さっきの約束、ここを出たら早速お願いしますよ!」
「気が早い奴だな」
薄ら笑いを浮かべたままマトリフは両の手から呪文を放つ。竜巻のような真空呪文に切り裂かれ、二人の前に骸が重なる。
「大仕事の後には楽しみが必要ですからね!浪漫ですよ、浪漫!」
「へいへい、浪漫ね」
普段は達観したような顔しやがって、こいつも案外ガキなんだな。年若い友人の珍しい我が儘に、大魔道士は満足そうな笑みを浮かべた。
「…何が浪漫だ、大馬鹿野郎が」
呟く声に答えは返らない。
目の前に立つ年若い友人は、その目も、口も、指先一つもぴくりとも動かないまま凍りついている。
「…馬鹿野郎がっ!!」
血を吐く思いで叫んだ声が、荒れ地に響いた。そんなに怒らないでくださいよ、マトリフ。気安い声がそう応えるのをじっと待っているのに、ずっと待っているのに。望む声は、帰ってこない。
「誰がこのままにしといてやるか。絶対に解いてやる」
あの日のように頭を軽く小突く。硬く冷たく撥ね返され、痛めた手を逆の手で覆う。
「覚悟しとけよ馬鹿勇者。浪漫なんぞクソ食らえだ」
視界がぼやける。頬を熱いものが伝っていく。こんなジジイを遺していきやがって。次に気がついたときには極大呪文をお見舞いしてやる。歪む視界の向こうに毒づく。
いつぶりかも分からないほど長く流してなかった涙をそのままに、マトリフは時を止めた勇者像を強く抱きしめた。