竜の仔の卵 真っ白な空間の真ん中でダイは眠っていた。伸ばされたポップの手は彼を包む半透明の膜に阻まれる。力を入れて押してみても膜はびくともしない。大きな卵の殻のような寝床。その中でダイは独り夢を見ている。
「この膜はどうやったら無くせるんだ」
ポップの問いかけに、卵の傍に控える金色の竜は目を伏せた。
(これは傷つきながらここまでたどり着いた仔を癒やすために作られた神の揺り籠。人の手では壊すことも消すこともできません)
「じゃあ、傷が治ったらダイは出てくるのか」
竜は答えない。ポップは苛立ちを露わに睨みつける。
「ここで永遠に眠りにつかせたままにしようってのか。ふざけんな。ダイは地上に連れて帰る。こいつの居場所はここじゃねえ」
(それを決めるのはあなたではない)
「お前らでもねえだろう」
神の使いであろう竜を前にポップは一歩も退かなかった。
「ダイが本心からこの卵の中から出ることを望んでないなら、おれがここに来られるわけがねえんだ。おれはこいつに呼ばれた。ダイの声がおれをここに導いたんだ」
(人の子よ)
竜は声ならぬ声でポップに呼びかける。
(確かにあなたを呼んだのはこの仔かもしれません。しかしこの揺り籠が壊せるものでないのは事実。あなたには……、いえ、私にも、この仔にも、神の御力に逆らうすべなど無いのです)
脳に直接伝わるその声にはどこか哀しげな響きがあった。竜は神の意志に従ってダイを護ってはいるが、本心は別にあるようだ。ポップは口の端を引き上げ、にやりと笑う。
「そう言われてハイそうですかって諦められるもんか。こちとら神様さえやり合うことを諦めた魔界の王とも戦ってきてるんだぜ。今更怖いモンなんてねえよ」
そう言うと、ポップは手袋を脱ぎ捨て再び膜に触れた。柔らかく温かそうな見た目に反して、ダイを護る強固な神の慈悲は硬く冷たくポップを拒む。両の手と、トレードマークのバンダナに覆われた額もこつんと当てて、ポップは静かに目を閉じた。
「ダイ」
呼びかけに応える声は無い。それでもポップは幾度となくダイを呼んだ。硬い殻に想いを込めた音が伝わり、びいんと卵全体を震わせた。金の竜は目を見開く。氷のような冷たさに指先を赤くしながら、ポップはひたすらにダイの名を呼び続けた。
「ダイ。ダイ。ダイ」
卵が震える。
(そんな、馬鹿な)
狼狽した声がポップの脳内にも響く。殻の冷たさはいっそう増した。神の火で燃やされるかと思ったが、凍りつかせるつもりか。表情には出さずポップは胸の内で苦く笑う。大魔王の生み出す炎さえ消し去った人の子を、神はずいぶんと高く見積もってくれているようだ。がちがちと歯の根が合わなくなってきた口を必死に動かす。音に心を乗せて、ポップはダイを呼び続ける。
「……ポップ?」
懐かしい声がポップの耳に届いた。閉じていた目を開くと、眠っていたはずのダイがこちらを見ていた。真っ青な顔のままポップは微笑む。おれを呼べ。もっと呼んでくれよ。心の中でダイに伝える。寝床から身を起こし、ゆっくりとダイが立ち上がった。
薄くて厚い膜越しに見るダイは青空の下で別れたときのままの姿をしている。溢れそうになる涙を必死にこらえてポップはダイの名を呼ぶ。
「ダイ」
「ポップ。ポップなんだね」
「ああ。なあダイ、帰ろう。一緒に帰ろうぜ、ダイ」
「ポップ、会いたかった。ポップ、ポップ、ポップ」
半透明の膜にがつんとダイの拳が当たる。大きな瞳をぱっちりと開き、ダイはポップの名を叫んだ。二つの呼び合う声がぶつかる先、少年達を隔てていた硬く冷たい竜の卵が少しずつひび割れていく。
(まさか、こんな。神のご意思を破る力があるだなんて)
驚きと畏れのなかに微かな歓びを滲ませた声を、ポップは意識の端で聞いていた。竜の仔を護るため神が造り給うた卵は、人の子であるポップの生命力を少しずつ奪おうとしていた。間近に忍び寄る死の影を感じながら、それでもポップは笑い、声を張り上げる。
「帰るぞ、ダイおれたちの仲間が待つ地上に!お前とおれの帰るべき場所へ帰るんだ」
「うん、帰ろうポップお前と一緒に帰りたい。おれはお前やみんなと一緒に地上で生きていきたい」
魂の呼び声が白い空間に反響し、ダイを包んでいた膜は粉々に割れていった。支えを無くし崩れ落ちそうになるポップの身体を、小さなダイが抱きしめる。
「無理させてごめん、ポップ」
「まったくだぜ、この寝ぼすけヤロウ」
瀕死の状態でも軽口を忘れないポップにダイは笑った。ふと思い立ち、自らの指を咥えると犬歯でぷつと噛み切る。
「これ、飲んでみて。父さんよりは薄いけど少しは効果があるかもしれない」
そう言い差し出された赤い雫の滴る指先をポップは素直に口に含んだ。鉄の味が口内に広がる。ちゅ、ちゅ、と吸いつくようにダイの血を飲むポップの頬には、生き生きとした赤みが戻っていた。
「帰ろっか、ポップ」
「おう」
互いの身を抱きしめたまま少年達はすっくと立つ。金の竜は言葉も無くただ二人を見つめていた。
「……あんたには一応礼は言っとくよ。ダイを護ってくれてありがとな。でもダイは何も知らねえ、何もできねえ赤ん坊じゃねえ。神様の揺り籠はもう要らねえよ」
「今までありがとう。おれはポップと一緒に行くよ。神様がどう思っても構わない。おれは自分で自分の生きる場所を決める」
(それを決めるのは私ではない)
竜の姿を模した護り手は穏やかに応えた。
(揺り籠が破れたのならば……それが答えなのでしょう。お行きなさい、竜の仔。そして人の子よ。あなた方の行いが幸福に繋がるか否かは、これから長き時をかけて見えてくることでしょう。さあ……おいきなさい)
二人は頷き、光の矢となって飛び去っていった。真白の空間にに残されたのは金色の竜と砕け散った膜の欠片だけ。
(卵は雛の生命を護り……そしていつか雛自身に破られるべきものなのですね)
誰にともなく竜は呼びかける。神の加護さえ割り砕き美しく孵化した竜の仔は、人の子とともに新たな道を歩み始める。