月夜のコネクション 日付が変わる一時間ほど前、メルルは寝室の窓を開け夜空を見上げる。外からは涼やかな風に乗って森の香りが流れてくる。聞こえるのはかすかな虫の音とフクロウたちの鳴き声。テランの夜は今日も静かだ。
祖母のナバラは先に眠っている。若い娘がいつまでも夜更かしをするんじゃないよと言い残して。苦笑しながら頷いたが、このささやかな日課をやめるつもりはない。明日を迎える前のわずかな時間。このひとときこそが今のメルルにとって最も幸せな時間だと言えるのだから。
(ポップさん。ポップさん。起きていらっしゃいますか)
メルルは心の中で呼びかける。大戦のさなかでポップと繋がった『回線』は今も使用可能ではあるが常時接続はされていない。お互い常に感情が繋がりっぱなし感知されっぱなしでは都合が悪いこともあろうと、諸々調整の末普段は『閉じている』状態を保つことで同意したのだ。例えるならばお互いの心の中に小さな扉があって、メルルがポップの扉をノックし内側から開かれたときだけ通信が可能になるというわけである。そしてその『閉じた』状態を開くのがこの時間。今日が明日に変わる前の約一時間、メルルとポップは二人だけの心の会話を楽しむことにしている。
大戦が終結し地上に平和が訪れてからも、ポップは日々世界を飛び回り忙しそうに立ち動いている。ナバラなどは「風来坊」と冗談交じりに揶揄するが、強力な魔法と叡智を携えながらも気安い質であるポップは世界中の国々から引っ張りだこなのだ
請われればどこへでも飛んでいく根っからのお人好しである彼に不安を感じないと言えば嘘になる。しかしこうして嘘偽りない心を重ねる時間を過ごすことで、メルルの胸の内の靄は晴れやかに消え去っていく。ほかの誰にも邪魔をされない、真似のできない繋がりは、メルルとポップの大事な絆となっていた。
(ポップさん、ポップさん。……今夜はもう眠ってしまったのかしら)
今日は北方の洞窟探索に行くと話していた。時刻はすでに深夜。疲れて眠ってしまっていてもおかしくはない。多忙なポップにはたびたびこのようなことがあるし、メルル自身も占い業などで疲れて先に休むこともある。残念だけど仕方ないわね。小さな溜息がうっかり届いてしまわないようにだけ気をつけて、メルルはノックをやめ『回線』を閉じようとした。
「待った待ったメルル!起きてる!起きてっからまだ切らねえでくれ」
「はいっ」
頭の中に響いた大音声に、思わず出さなくていい大きな声で返事をしてしまう。あー良かったーと『扉』の向こうのポップは胸を撫で下ろしている。彼もこの時間を大切に思っていてくれるのだと、毎回メルルは胸が熱くなるのを感じる。
「いやあ悪りぃ悪りぃ。洞窟の攻略に思ったより時間取られちまってさ。実はまだ中にいるんだよ」
そう言いながらポップは岩肌にどかりと腰を下ろし、遅い夕食の準備をしているようだ。メルルは心配そうに問いかける。
(こんな時間まで探索だなんて……まだ中にいらっしゃるということは、洞窟で夜を明かすおつもりですか?)
「ああ、もう最下層には近いんだ。だったら戻るよりこのまま進んだほうが早ええと思って。あ、大丈夫。ちゃんと破邪の結界は張ってるし、メシにも睡眠にも支障はねえよ」
神経を研ぎ澄ませれば、言葉どおり彼が清浄な空気の中にいることが分かる。メルルはそっと目を閉じ、より精神を集中させた。自らの心をポップの隣に添えるかのように愛しい人の気配を探ろうとする。
(紅茶、飲んでるんですか?ポップさん)
「お、そこまで分かるんだ?当たり。こないだメルルにもらった茶葉だよ。いい香りだしすげえ美味い」
香りも一緒に届けばいいのになあ。そう言ってポップが笑う。花や果物の香りがする味の良い紅茶だ。ポップに贈ったものをメルルも愛飲している。
(今からは淹れられませんけど、明日私も飲もうかしら)
「ああ、いいな。そしたらメルルが同じお茶の香り嗅いでるって思っておれも頑張れるかも」
(まあ)
二人でくすくすと笑い合う。温かな紅茶は暗い洞窟で一人過ごすポップのいくばくかの慰めになっているようだ。安らいだ気持ちがメルルの心にも流れてくる。私からもこの優しい夜風が送り込めたらいいのに。メルルは長い髪を揺らしながらそう思った。小さな願いも余さず伝わったのか、ふっとポップが笑みを深める。
「明日の朝にはここ出られるはずだからさ。報告書はゆっくりでいいって言われてるし、午後にはそっち行くよ。いいかい?」
(ええ、もちろん。夕食も食べていかれるでしょう?)
「そうだな。そうさせてもらえたら助かる。……それでさ……」
言葉は途切れたが、今の二人の間には胸に思えば直接伝わってしまう回線が通じているのだ。頬を赤らめてメルルは頷く。
(ええ……お待ちしてますね)
「うん……」
ポップも顔を赤くしているのだろう。少し早まった鼓動が重なり、二人の息を弾ませた。
「……今夜は満月だっけ?」
照れくさいのをごまかすようにポップが問う。
(いいえ、満月にはもう少し。あと二日ほどじゃないでしょうか)
メルルの答えにそっかと返し、ポップはしばし思案する。
「この探索の後はしばらく休めそうなんだ。よかったら満月の夜、ちょっと出かけないか?メルルに見せたいものがあるんだ」
(まあ、何でしょう?)
「それはその時のお楽しみってことで、今は探らないでくれよ。いいだろ?」
悪戯っぽく笑いながらも、ポップは『扉』の向こうにあるものを巧妙に隠した。嘘偽りがないことがこのひとときの魅力だが、恋人が自分を喜ばせるために抱えている秘密を暴くつもりはメルルにもない。楽しみにしています、とだけ笑って返した。
「もう日付が変わっちまったな。そろそろ閉めようか」
(そうですね)
遅い夕食を食べ終わったばかりのポップはまだ眠らないのかもしれないが、メルルを気遣い逢瀬の終了を告げる。メルルも素直に了承した。明日の午後、ポップがここにやって来たらしっかりと睡眠を取ってもらわなくては。その間に彼の大好物も用意しよう。回線を閉じる瞬間はいつも淋しくなるが、目覚めてからの予定を考えると無理な夜更かしはかえって良くないと思われた。
「じゃあ、おやすみ。メルル。また明日」
「おやすみなさい、ポップさん。また明日。探索お気をつけて」
おやすみの挨拶だけはちゃんと声に出して言う。メルルの中だけの決まりだがポップにも伝わっているようだ。溢れんばかりの『幸せ』の感情が、閉じる寸前の扉から流れこんできた。メルルの頬は赤らんだまま、上がる口角が元に戻せない。
(ああ、早く寝なくちゃいけないのに)
どきどきと打つ鼓動を懸命に鎮めてメルルは床につく。明日は回線ではなく本物のポップと会えるのだ。隈の浮かぶ顔など見せるわけにはいかない。
開いたままの窓から吹き込む夜風がメルルの熱い頬を撫でる。見上げた月は十三夜。明日はどんな話をしようか。満月の夜にはどんな秘密が明らかになるのか。誕生日の前夜のようにわくわくしながら、メルルはそっと目を閉じた。