夏に至る日の白昼夢 霧が立ちこめる深い森の奥は真昼でも夜のように暗い。はるか頭上からわずかに差す木漏れ日が星明かりのようだとアバンは思った。目の前の大きな切り株は一面苔に覆われている。天鵞絨のような手触りを楽しんでいると、お座りなさいと声をかけられた。
(お茶をどうぞ、人の子)
子リスほどの体長の女性が茶器を差し出してくる。親指の爪よりも小さなカップは、アバンの手に触れると中輪の薔薇くらいの大きさに変わった。
(朝露を集めて淹れた特製の花茶よ。とても良い香りでしょう)
背中に薄羽の生えた少女がにっこりと微笑む。薄い蜂蜜色の液体から甘やかに香るのは、水仙、鈴蘭、芥子の花。アバンは両の手で包み込んだ器をゆっくりと呷った。
「ごちそうさまです」
手巾で口元を拭い微笑むと、精霊たちも笑う。鈴が鳴るように軽やかな笑い声が暗い森にこだまする。
「精霊のお茶会に参加するのは初めてのことです。もしよろしければ色々とお伺いしたいのですが」
(おや、何が訊きたいのかしら)
木の葉のドレスを纏った貴婦人が見上げてくる。にまりと緩む口の中に鋸のような歯が光った。
「そうですね。たとえば……取り替え子の選定基準とか」
(基準なんてもんは無いさ)
とんがり帽子の小男がきしきしと笑う。
(ただその子が欲しいと思うかどうか。取り替えたら楽しそうかどうかだよ)
「なるほど。では、抜けた乳歯と金貨を交換してくれるのは何故ですか?」
(可愛いからだよ)
大きく耳の尖ったものたちが口々に言う。
(人の子のものは何でも可愛いね。抜けたての歯は白くころころしてて、だあいすき)
(そうね、まん丸の目玉なんかも可愛いわね)
(小指の骨も好きよ。折るとぱきんといい音が鳴るの)
(本当はどくどく脈打つ心臓がいちばん可愛くて大好きなの。でもなかなか手に入れられなくってね)
(そうね)
(そうだね)
きゃらきゃらと弾む会話に、アバンは深く頷きながら聞き入る。できればいつも持ち歩いている手帳に書き記したかったが、彼らの機嫌を損ねてはいけないとひたすら頭に内容をたたき込む。
物語や魔導書に書かれている妖精や精霊の伝承について一通りのことを尋ねてみたが、返ってくる答えのほとんどは「楽しいから」「好きだから」「面白そうだから」。定められた基準や理由など無いようなものだった。天に地に遊ぶ精霊たちは好奇心と欲望のままに生きている存在といっても良さそうだ。
しかしそんな彼らも一度契った約束は決して忘れず、違えない。だからこそ契約にさえ成功すれば魔法力と呪文の詠唱を以て超常の力を起こすことができるのだ。理が無いようで理を重んじる小さき者たち。彼らのことをもっと深く知れたらとアバンは純粋に願った。
(さて人の子よ。そろそろ君からも『返し』をもらわなくては)
話が途切れるのを見計らっていたのか、深い皺の刻まれた老人が細枝のような手を差し出した。
(我々の饗した茶も飲まない不作法な子に色々答えてやったのだからね。そのくらいは当然のことだろう?)
やはり気付かれていたか。アバンはぐっしょりと濡れた手巾をポケットの中で握りしめた。仄かな光と囁き声に惹かれてこの場に辿り着いたときから一応の覚悟はしていたが、五体満足で帰ることは少々難しそうだ。果たして彼らがアバンに望むのは歯か、目か、それとも心臓か。せめて今後の生活に支障の無いものを求めてくれれば良いが、交渉は可能だろうか。
笑顔を絶やさぬまま必死に考えを巡らせるアバンに精霊たちが迫ってくる。既に乳歯は無いが奥歯の数本くらいであればどうか―そう告げようとしたアバンの背後から、大きな叫び声が響いた。
「あーいた!やっと見つけた」
びくりと身体を震わせて振り向けば、アバンより少し背の高い少年がハアハアと息を弾ませていた。呼吸に合わせて短い赤毛がふわふわと揺れる。大きく目を見開いたままのアバンの肩にがしりと手を置く。
「お前が森の中にふらふら入っていくのが見えたから追っかけてきたんだよ。まさかこんな奥まで来ちまってるとはなあ……」
どうやら一人で森に立ち入ったアバンを心配して探しに来てくれたようだ。すいませんでした、と謝るアバンに、にっかりと少年は笑う。
「オレが勝手に追いかけて来ただけだから気にすんな。にしても、こんな所で何してたんだ?」
「何って……ええっと、彼らとお茶を……」
答えてからしまったと気付く。切り株の周りにいた精霊たちは既に姿を消していた。彼らが椅子の代わりにしていた茸が深緑の苔の上に環状に生え残っているだけだ。魔の力が強いとされる森の中とはいえ、精霊とお茶をしていたなんて誰が信じるものか。馬鹿にしてくる言葉を脳内で予想するアバンに、思わぬ穏やかな声がかけられる。
「ふうん、お茶ねえ。そりゃ、邪魔しちまって悪いことしたか?」
あまりに素直な反応にアバンは一瞬言葉を失った。少年の目には疑念や揶揄の感情は見えない。
「いえ、そろそろ退席させてもらおうと思っていたところだったので、ちょうど良かったのですが……あの、信じてくれるんですか?」
「ん?だって別に疑う必要もないだろ。お前が嘘ついてるようにも見えないし」
あっけらかんとした様子で少年はアバンに笑いかける。
「昔からこの森には不思議な力が宿ってるって言われてるよな。オレには昼でも暗くて危ないってことぐらいしか分からねえけどさ。オレに見えないものがお前には見えるってこともあるんだろうよ」
魔法使いや僧侶の中にも呪文の契約はあくまで形式上のものだとして目に見えぬ存在を信じない者がいるというのに、この少年はアバンの言うことを全く疑いもしない。胸の奥にいつもかかっている靄がさっと晴れたような気持ちになった。常の冷静さが失せ年相応の幼い表情を見せるアバンに、少年は首を傾げる。
「オレ、なんかおかしなこと言ったか?」
いいえ、とアバンは首を横に振った。
「私の言葉を信じてくれたのが嬉しくて、びっくりしちゃったんです」
「言うこと信じたら驚くのか?変なヤツだな」
自分の言動がどれだけアバンの心を揺り動かしたかにも気付かぬまま、まあいいや、と話を切り上げた少年は森を抜ける道を指差した。
「さ、お茶会がもうお開きだってんなら早く帰ろうぜ。日が暮れたらますます道が分かりにくくなっちまうからな」
少年はアバンの手を取り、歩き出す。誰かと手を繋いで歩くなどずいぶん久しぶりのことだったが、アバンは素直に従った。霧深い森の中でも少年の赤毛は目立つ。やんちゃにはねる癖毛が、かすかな木漏れ日を受けてきらきらと輝いている。
「おひさま……」
こぼれた言葉は先を行く少年の耳にも届いたらしい。「何だ?」と不思議そうに振り返る。
「あなたのその髪の色が、お日様みたいだなって思ったんです」
思ったままに答えれば、照れたような明るい笑顔が返ってきた。
「そうかあ?初めて言われたなあ。それで言やあ、お前の髪は冬の星みたいだな。青と銀が混じって、綺麗な色だな」
「そ、そうですか……?」
褒め返されるとは思ってもいなかったアバンは、ほんのり赤くなった頬を隠すようにそっと俯いた。大抵どんな相手に何を言われても口先で上手く返せるのに、何故か彼に対しては上手くいかない。心の奥底に隠し置いている感情の蓋がカタカタと音を立てているのを感じた。言葉にできない思いが溢れそうになるのは、幼少の頃から聡明だと言われてきたアバンにとって初めての経験だ。
頭が何だかぼんやりする。手巾に浸した花茶の香りのせいだろうか。熱を持ったままの頬を冷ますように、アバンはふるふると小さな頭を振る。先導する少年は何を誤解したのか「オレがついてるから怖くないぞ」と強く手を握り直した。
夜のように暗い森の中、二人の少年が手を繋いで歩いている。木々の間に隠れた精霊たちがその様子を見守る。
(『お返し』もらいそこねたね)
(残念ね)
(『あれ』はまぶしすぎるから、仕方ないわ)
(仕方ないね)
(あの子は『あれ』が大好きになったみたい)
(じゃあ、いつか『あれ』をもらおうか)
(ああ、それはいい)
(『あれ』を私たちがもらったら、人の子は泣くかしら)
(怒るかしら)
(たぶんね)
(泣いて怒って、たくさん涙を流すだろうね)
(楽しみね。あの子の涙はとても綺麗に違いないから)
(そうだね)
(そうね)
きゃらきゃらと笑い合う楽しげな声は、もうアバンには聞こえない。
小さき者たちの無邪気な計画も知らぬまま、小さな赤い太陽と青い星が真昼の闇を歩む。
ある夏の日、森が見せた不思議で幸福な白昼夢。
その見返りを求められる日がいつになるのか、まだ誰も知らない。