橙、翠、紫 【前編】ハンター試験を終え、講習会を遅れて受けたラキとシュート。
部屋を出ると、そこにいたのは共に最終試験まで残り、無事に合格したナックルであった。
「よォ」
「なんでここにいるんだ?」
「あ?お前ら呼んで来いって言われたんだよ。いいからついてこいよ」
「……?まぁ、いいか」
疑問を抱えつつも一歩踏み出したシュートだが、まだ貧血気味だったのかふらつき、倒れそうになるのをラキが支えた。
「済まない」
「ううん、気にしないで…ゆっくり歩こっか…」
憂いのある萩色の目を伏せ気味に、シュートの隣をラキは歩いた。
ナックルについて行くまま向かったのは、試験会場になったビルのエントランス。
そこに、身の丈以上の煙管を持ったスーツ姿の男が立っていた。
「あれって、二次試験のときの試験官さんだよね?…えーと、確か…」
「モラウさん、だ。俺達を呼んだのはあの人なのか?」
「おう、理由は分からねぇがこれから話してくれんだろ」
モラウが三人に気づき、こちらに歩み寄ってきた。
「おつかれさん。まずは合格おめでとうってとこだな。で?お前らこのままハンターとしてやってくつもりか?」
「そうっすけど…」
「多分だが、今のお前らじゃすぐ死ぬな」
唐突に言われた慈悲無き言葉に三人は身を強ばらせる。
「り、理由は…?」
「お前らが思っているより甘くねぇんだ」
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
ラキの質問によくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、モラウは答えた。
「鍛えてやる。俺のところでな!」
「でも、なんでアタシ達だけなんですか?」
「俺が個人的に思ったのさ、いいハンターになれると。ま、修行するかどうか決めるのはお前達だ。一時間したら外に来い…家族にもちゃんと連絡いれとけよ。そのまま連れてくから」
モラウは伝えることを全て言い終え、自動ドアの向こうに消えていった。
「どうするんだ?」
「俺はあの話受けようと思うぜ。ハンターなってすぐ死ぬなんて嫌だからな。お前らは?」
「アタシも同じ意見だよ。少しでも生存率上げた方が行けるとこも増えるし」
「…俺は、少し迷っている」
「「?」」
「合格出来たのだって奇跡に等しい。それに片腕を失った俺は修行についていけるのか分からない……」
包帯を巻かれた箇所を右手で上着越しに触れる。
それを見たラキは目を逸らして俯き、ナックルは逆に真っ直ぐ見つめたまま詰め寄る。
「やる前から諦めてどうすんだよ!テメェだってやりたいことあるからハンターになったんだろ!?」
「…お前は単純だからそんなことが言えるんだ」
「んだとコラ?」
喧嘩しそうな二人の間にラキが割って入る。
「まぁまぁ落ち着いてよ!とりあえず家族に連絡とかしよ?」
「チッ……ああ、そうするか」
ナックルは携帯を開くと、二人から離れた所に行く。
「ラキ…お前は連絡しないのか?」
「うん。したらしたで面倒だから。きっと連れ戻されちゃうし。シュート君は?」
「俺は…いないんだ、そういう人が」
「………」
「気にしなくていい、独りには慣れた」
「そっか……ねぇ、やっぱりアタシもナックル君と同じ意見だよ」
体の前で指を組み、俯きながら。
「三次試験の時にそれぞれの夢の話したでしょ…?シュート君の夢、アタシすっごく素敵だと思うの。だから、絶対に叶えて欲しい。……なんて、アタシが言えた義理じゃないけど」
キュッと唇を真一文字に閉じて両眼を潤ませるラキ。その表情は身長差故によく見えなかったが、肩が震えてるのは見えていたので、慰めたいと感じたシュート。
何か言葉をかけようと考えているとナックルが戻ってきたので、伸ばしかけた右手を引っ込めた。
「暫く帰れねぇって言ったら、ドヤされちまった…お前らはいいのかよ」
「別に」
「アタシも大丈夫だよ!じゃ、行こうよモラウさんのとこ!」
先を歩き出したラキ、その後に続く二人。
シュートは確かに見た、一滴涙が落ちたのを。
外で待っていたモラウの傍にはシルバーの軽バンが。
「ついてくる奴だけ乗りな」
モラウはそれだけ言って運転席に乗り込む。
三人は後部座席に並んだ。シュートの両隣にナックルとラキが座る形で。
「やっぱり全員乗ると思ってたぜ」
どこか嬉しそうに笑って、レバーをドライブに合わせるとアクセルを踏んた。
車内でモラウは三人に訊く。
「歳は幾つなんだ?」
「アタシは17です!」
「俺も同じく…」
「俺は15っすよ」
すると、ラキが驚いた。
「嘘!?アタシより上だと思ってた!」
「そりゃ俺が老け顔だって言いてぇのか?」
「うん」
「かーっ!!俺からしたらテメェ12とかそれくらいのガキだと思ったぜ!?」
「ガキじゃないもん!」
「チビだし胸もちっせぇだろ」
「怒りましたー!アタシもう怒っちゃったもんねー!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎだした二人の間で、眉間に皺を寄せて溜息をつくシュートにモラウが声をかける。
「試験中お前らのことは見てたけどよ、お互いのことそんなに知らねぇのか?」
「まぁ…目的ぐらいしか話してませんから…途中ではぐれたりしましたし。あとは、こうやって騒いだりしてたので…」
「丁度いい、着くまで時間あるからよ互いの事ちゃんと知っとけ」
「この二人が大人しくなってからではないと無理ですね…」
「チービ!!」
「老け顔不良!!」
「(まだまだかかるな、これは…)」
付き合いは短いが、二人の言い争いが終わる時間ぐらいは把握出来ていたシュートであった。
車に乗って五時間。
海沿いの都市につくと、車はデパートに止まった。
「ここで服とか色々必要なもん買うか」
「でも俺達金そんなに持ってないっすよ」
「心配すんな、俺が出してやるから」
「……なんでこんなに構ってくれるんですか?」
ラキが訊いた言葉は二人も薄々思っていた。
「先行投資ってやつだよ。お前らは絶対に良いハンターになる!その確信があるからな。ほら行くぞ!」
ずかずか歩き出したモラウの背を見ながらナックルが言う。
「気合い入れてかねぇとな」
「そうだな」
「うん!頑張ろ!」
二人も応えると、後を追った。
着替え、お気に入りのシャンプー、ヘアワックス、髪ゴム…等々買い揃え、大きなレジ袋を抱えて車に乗り込もうとした三人だが、荷物を入れたところでこう言われた。
「じゃ、今から修行開始な。俺の家を見つける事。三分したらスタートだ」
三人が説明されたことを理解している間に、モラウは車を発進させてしまった。
「えっ!?アタシ達置いてかれちゃった!?」
「惑うな、車の見た目もナンバーも覚えている」
「俺もだ。行くぜ!」
「覚えてる、としても無駄なんだよなぁこれが」
意地悪く笑って、煙で車を覆っていけば、色もナンバーも違う状態に早変わりした。
「さ、どうする?」
「駄目だ!見つからねぇ!」
「もう夜の七時だ」
「お腹減ったねぇ」
さっきのデパートに戻ってきた三人。時間は探し始めてから二時間経っていた。
「地下の駐車場とか探してみるか?」
「こんなに大きい街だ。時間がかかりすぎる」
「じゃあどうすりゃいいんだ!?名案でもあるってのか?!アァ?」
「俺にキレても始まらないだろう…」
ピリピリしてきた二人を差し置くように、ラキはデパートに入っていこうとする。
「おい、どこ行くつもりだよ!」
「お腹減ったから、なんか食べようよ。腹が減っては戦は出来ぬだよ?」
二人の腹の虫の音が聞こえてきて、ラキはクスリと笑った。
フードコートで、ハンバーガーを食べながら三人は落ち着いた状態で話し合う。
「ねぇ、思ったんだけどね。というか思い出したの方が正しいかも」
「何がだ?」
「二次試験の場所、海だったでしょ?」
「イルカ捕まえて向こうの島行くやつな。それがどうした?」
「ここも海あるよ?だからさ、モラウさんの家って海沿いにあるかもよ?」
「なんだその当てずっぽう」
「……いや、いい推理かもしれない。めくるぞ」
デパートにもハンターが情報を調べる為のパソコンが置いてあった。
シュートのライセンスで電脳ページを開くと、モラウの名前を入力した。
「あった……シーハンターだそうだ」
「シーハンター…シー………海…!!」
「ね?言ったじゃん!というわけで海に行こー!!」
三人は街中を走って、走り続けて海沿いにまで来た。
「どうする?ビーチから探すか?それとも港から…」
「いや、その必要ねぇだろ」
ナックルが指をさした先には、灯台のある岬。その下の方から煙が昇っている。
だが、ただの煙ではない。『遅ぇぞ』という文字を象っていた。
それに疑問を抱きながらも、三人は走るのを再開した。
白壁に青タイルの三階建ての一軒家…灯台も家の一部になっている。
青銅のドアを開けようとするナックル。しかし全然動かない。押しても引いても横にずらそうとしても。
「何だこのドア…!」
「俺がやろうか?」
シュートも挑戦したが結果は一緒だ。
「じゃ次アタシ!」
ラキが思い切り引くと、5cmだけ開いた。
「もう…無理……疲れちゃった…」
彼女がそこでへたりこんだところで、ドアが易々とモラウの手によって開けられた。
「おつかれさん。さ、入れ」
ダイニングに来て、テーブルに座ると出された水を三人は一気に飲んだ。
「あのドア…何百kgあるんだよ……」
「教えてやろうか?あれはな、1tある」
「1t!??」
「だからあんなに重かったんだぁ…」
「(寧ろ俺は、5cmもアレを動かせたラキの方が驚きなんだが…)」
「お前らの第一目標は、あのドアを余裕で開けれるようになることだ。それじゃあ、明日から本格的に鍛えていくから今日はシャワー浴びて寝とけ。起きるのは六時だからな」
「へーい……って、ラキと同じ部屋っすか!?」
「んな訳あるか馬鹿野郎。男女別々だ」
「(良かった…)」
「ナックル君もしかして……やだエッチー!」
「何も言ってねぇだろうがよ!」
「喧嘩するなお前達…シャワーの順番を決めよう」
「それもそだね。あ、覗かないでよ」
「俺の方見て言うんじゃねぇよ!」
髪を乾かしたあと、ラキは用意された部屋に入り、服を片付けていく。
全部片付け終わった頃、弱々しくノック音が。
「はぁい……あ、シュート君!どうしたの?」
「あぁ、いや…その……おやすみを言っておこうと思って」
薄紫の浴衣の左袖の先に目がいってしまうが、すぐにシュートの顔に視線を戻した。
「わざわざありがとね!じゃあ、おやすみ。明日から頑張ろー!」
大の字でいびきをかくナックルの隣のベッドで、シュートはシーツを被って丸まるように横たわる。
何故、彼女の部屋に行ったのか。あの時言おうとしたことを言う為だったはず。
ただ、言葉が出てこなかった。
少しでも、彼女を楽にしてあげたいのに…。
翌日午前六時半。
「起きろシュート!!」
「わぁあ!??」
朝から大声で起こされて、ベッドから転げ落ちるシュート。
「あ…モラウさん……おはようございます…」
「ったく、朝弱いタイプかお前?さっさと着替えて顔洗って外来い」
「はい…」
まだ眠たそうにしながらも、シュートは着替え始めた。
外に出てくると、ナックルとラキが準備運動をしながら待っていた。
「何故起こしてくれなかったんだ」
「起こそうとしたぜ?けどよォ、全然起きねぇんだよテメェ」
「ほっとくことないだろう」
「布団剥がそうとしたら人の太腿蹴ったやつに文句言われたかねぇよ」
「意外と寝相悪いね、シュート君」
「ところで、モラウさんは?」
「ここだ」
三人が声がした方を向くと、大型トラック用のタイヤを幾つも持ってきたモラウが立っていた。タイヤはロープで繋がれているようだ。
「朝飯前のトレーニングとして走り込みだ。初日は一人二個これ付けて走れ」
タイヤが二個ずつ繋がれたロープを三人の腰につけながら、質問に答えていくモラウ。
「走るってどこまでっすか?」
「ここから、港の端っこまでだ」
「つまりは海岸線の端から端を…」
「そういうことだ。最下位の奴は罰ゲームが待ってるからな」
「罰ゲームってなんですかー?」
「あの灯台をウサギ跳びで登る」
この発言の後すぐに三人は絶対にビリになってなるものかと闘志が芽生えた。
「よし、それじゃあ行ってこい!」
合図と共に走り出した三人。
まず抜き出たのはラキだ。
「(楽勝!だってアタシパワーあるもん!)」
その少し離れたところを二人が走っていた。
「あんなに飛ばして…たぶん折り返す前にバテるだろうな」
「多分な。ま、俺はこのままのペースで走ってくぜ。確実に一番になれるからな」
「それはどうだろうな」
港の一番端まで着く頃、すでにヘトヘトになったラキを追い越していく二人。
「うわぁーん待ってよー!」
「最初に飛ばしすぎたから良くないんだ」
「ペース配分は大事だぜ?」
躊躇うことなく来た道を引き返していく二人を見て、悔しくなったのか
「ぜーったいにアタシが一番になるんだからぁー!」
と叫び、気合いを入れ直してスピードを上げた。
最初に着いたのはナックル、その次にシュート、そして大分遅れてラキがゴールした。
「最下位はラキに決定だな。ウサギ跳びしてこい」
上を見上げて灯台の高さを確認するラキ。
「……出来るかなぁ…」
不安に思いながらも灯台へと向かって行ったのだった。
(しかし、十数分後に階段から転げ落ちて気絶して回収された)
三人が修行を始めて二週間が経った。
ラキは扉を20cm動かせるようになり、ナックルは10cm、シュートは8cm。
「漸くってとこだが…そろそろ個人に合わせて考えるべきか…」
ラキは瞬発力がピカイチだが、持久力はない。
その点で言えばナックルとシュートはある方だが、ナックルはトップスピードを維持して長時間動ける。
シュートは片腕を失ったとはいえ、それを補うようにトレーニングを続け、今では大抵のことをこなせるくらい器用にはなっているが動きに迷いがある。
「さてどうするか……」
眉間に皺を寄せながら、ボールペンを紙の上で走らせた。
朝食を食べ終わると、三人は外ではなく三階のトレーニングルームに集合していた。
「今日からは個人に合わせた、苦手克服メニューを加える」
「苦手……ホラー映画かな…」
「そういうことじゃないと思うぞラキ」
「まずはナックルとシュート、ここにある器具で二時間好きに鍛えた後、組手だ」
「組手?なんでまた」
「それは後で説明してやる。そしてラキは街十周してこい、ビーチの入口から道路に沿ってグルーっと。サボったりすんなよ」
「えー!??すぐバテちゃいますよー!」
「それを克服する為の訓練だ。いいからとっとと行ってこい。一日かけても終わるか分からねぇんだ」
「はーい……」
とぼとぼと去っていくラキ。
「二時間経ったら外来いよ」
「はい」
「へーい」
二人だけになると、それぞれ準備体操を行い、ベンチプレスやらダンベルを使ってトレーニングしていく。
そんな中、シュートが呟いた。
「ラキは…無理していると思うんだ」
「なんだよ藪から棒に」
「……やっぱりいい」
何か押し殺すように背を向けたシュートに対し、ムカつきはしたが、一昨日喧嘩して窓ガラスを割ってかなり説教されたのを思い出して、ナックルはなんとか堪えた。
二時間経ち、予め開けてあるドアから外に出ると、地面に直径10mほどの円が描かれていた。
「このリングの上でやれよ。出たら即負け、ペナルティで腕立て五百回。どっちかが立てなくなるまでやるからな」
二人がリングの中に足を踏み入れ、向かい合うと、モラウが合図に手を叩いた。
右、左、左下…右アッパー……ナックルの動きは単調かつ拳しか使わないからよく見ていれば避けることが出来る。
チッ、いつまでも躱しやがって。
けどシュートの動きには迷いがある。つーかビビってる。チャンスをわざと作ってそこを狙えば俺の勝ちだ。
「なんて考えてんだろな…」
近くの岩に座って二人の組手を見ながらモラウが呟いたところで、上手くナックルの作戦がハマったのか、鳩尾に一発もらってシュートが膝をついた。
「っしゃあ!」
「次はそうは行かないからな…」
ラキが帰ってきたのは夜の八時。ちなみに走り始めたのが午前八時。十二時間かけて戻ってきた彼女はヘトヘトのクタクタで、ドアの前で倒れてしまった。
「半日で終わらせてくるとは上出来だ」
そこにモラウが現れて、彼女を担ぎあげる。
「えへへ……ちょっとは体力ついた気がします………何やってるの二人とも」
視界に映ったナックルとシュートは、どっちも泥まみれのボロボロの状態で、フローリングの上で正座させられ、首には『組手なのに取っ組み合いの喧嘩になって修行の目的忘れました』と荒めに書かれたプレートを吊り下げていた。
「反省中だ。ほっとけ。何か食うか?」
「……お水が欲しいです」
水を飲みながら、ラキは二人に話しかける。
「足痺れてない?」
「もう感覚がない」
「なんで喧嘩したの?」
「忘れたってーのそんな事」
「お前が執拗に鳩尾とか顔とか狙うからだろ。ヤンキーの喧嘩じゃないんだ」
「テメェがヒヨりすぎて攻撃してこねぇのが悪いんだろ」
「しただろう……目眩しからの脛蹴り」
「卑怯すぎんだよ」
「効率的と言え」
「喧嘩すんなお前ら!ラキもただ聞いてないで………寝てんのかい!」
二人の話を聞いているうちに寝落ちてしまったラキ。
仕方ないと、モラウが持ったままのコップを取り上げると、ラキはソファーの上に寝転んでしまった。
「ったく……おいお前ら、もう反省タイムは終了だ。ラキを部屋に連れてってからシャワー浴びて寝ろ」
「そうしたいのですが…」
「あ、足が……」
「情けねぇなぁ…ハンターは長時間同じ体勢を強いられることもあるんだからな?それくらい克服しとけ」
「「はい……」」
数分後なんとか立ち上がると、ナックルが言った。
「シュート、お前連れてけよ」
「なんで俺なんだ」
「……心配、なんだろラキのこと」
「お前そういう所は妙に聡いよな」
「いいから行けっての!俺先にシャワー浴びてっからな!」
大股で、ナックルはシャワールームに向かった。
シュートは、右手でラキを抱えると階段を上り一番手前にある彼女の部屋の引き戸を足で開けて、中に入り、パステルブルーのシーツの上に寝かせた。
呼吸に合わせて上下する何だか前より大きくなったような気がする胸、静かに寝息を立てる小さな唇。
引き寄せられるように顔を近づけると、意外と睫毛が長いことが分かる。
「んぅ……シュート、くん…?」
薄く瞼を開けたのに気づいて、シュートは慌てて顔を上げて遠ざける。
「アタシ……ねちゃってたの?」
「そんなところだ。今日はもう遅いからそのまま寝たほうがいい」
「ううん……きょうの、おけいこしてないから…」
今にも二度寝しそうだが、起き上がり何かを探すようにキョロキョロするラキ。
「何を探してる?」
「かたな……」
「駄目だ。無理して動くな」
「でもあたし……」
「無理したら、また倒れる。明日に響くぞ」
「………」
むすっと頬を膨らませると、ラキは言った。
「じゃあ、ねるまでそこにいて」
「えっ…?」
親がいないと寝れない幼子のような願い、いや我儘にシュートは戸惑ったが、ラキが再び横たわってシーツを被ったのを見ると、恐る恐る柔らかで指通りのいい翠の髪に触れた。
彼女が眠ってくれるなら…ゆっくりと何度も梳くように撫でていると、寝息がまた聞こえ始めた。それでも暫く撫で続けた。
翌日。
「おにいちゃんってばさぁ……」
寝言を言ってから、ラキは体をモゾモゾさせて、薄く瞼を開けた。
「(あれ、なんか明るい……)………あっ!!起きなきゃ!!」
慌てて起き上がると、時間は午前10時。
「どうしよう怒られちゃう……置いてかれちゃう…」
焦燥感に駆られるように手早く着替えを済ませて一階に降りると、モラウがソファーにゆったりと座って新聞を読んでいた。
「よぉ、お早うラキ」
「おはようございます先生……あれ…二人は……?」
「ナックルは買い出しに、シュートは図書館に行った。お前はどうする?まだ寝ててもいいぞ?今日は休息日にするからな」
「いえ…アタシは……」
すると、モラウは立ち上がってラキの頭を撫でた。
「二人に置いてかれるとか思ってんだろどうせ」
無言で頷くラキ。
「焦って無理すんな、急がば回れって言うだろ?……けど、いきなりハードなことさせた俺も悪いな。次からは五周にしとくか」
「先生……っ」
「おいおい泣くなよ。ガキじゃねぇんだから」
「だってぇ……」
この二週間ずっと思い詰めていたものが涙と一緒に溢れてくる。
泣き止むまで待っていると、ナックルが帰ってきた。
「ラキ何で泣いてんだよ!?…もしかして、ボスが……?」
「うん……」
「このクソガキ共……!」
モラウをちょっとだけ怒らせた二人は休息日なのに、スクワット五百回するように言われてしまった。
夕方頃になって、本を数冊抱えたシュートが帰ってきた。
「遅いよ、シュート君」
「ラキ……なんか、元気そうだな」
「うん!凄い元気!」
「良かった…」
本当に安心したように笑ったシュート君の顔はずっと忘れられないと思う。なんて、ちょっと恥ずかしいな。
一ヶ月と数日後、ラキも組手に加わるようになったのだが……。
「はい、ナックル君の負けー!」
「あーー!!またかよ!!」
ナックルとシュート合わせて二十戦しているのに、二十戦ともラキが勝っている。
「強すぎないかラキ…」
「そんなことないよー。だって二人とも動き分かりやすいもん。ナックル君はパンチメインだし、蹴る時にガードが疎かになってる。シュート君は積極的に来なさすぎだよ、転ばそうとして足狙ってきたり、後ろに回って押し出そうとしてるのもバレバレ」
「よく見てるな」
「それボスに言われて直したと思ったのによォ…」
「直ってるようには見えるかもね、でも全然だよ。という訳でもう一回!てか、二対一でやらない?」
ラキの思わぬ提案に目を丸くする二人。
「女相手に二人がかり!?馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
「そうだ、フェアじゃないし、何よりコイツが足を引っ張りそうだ」
「だとコラ?」
「ハイハイ喧嘩しない、文句言わない。だって考えてみてよ。複数対単数なんてよくある事じゃない?」
「そりゃそうだけどよ…」
「ね?いいじゃん一回くらい!」
「こうなったらラキは聞かないからな…分かった。怪我しても知らないからな」
「だいじょーぶだいじょーぶ!さ、やってみよー!」
二対一で向かい合うと、ナックルの方から突っ込んできた。
「また同じ……きゃっ!?」
ナックルは目の前で止まると、地面を蹴りあげて目くらましの砂煙を上げる。
「(でもこの場合……)」
「後ろからだと思ったか」
振り向く前に、横合いからシュートが攻撃しようとしたが、体が硬直した。
「(チャンスだ、このまま……!いや、彼女が怪我をしないだろうか、痛くて泣いてしまったりしないだろうか…)」
そう考えていると、足がもつれて転んだシュート。しかも、ラキを押し倒すような形で。
「シュート君!??大丈夫!?」
「あっ、いや、だ、大丈夫…問題ない…」
前に寝ているラキの顔を覗き込んだことはあったが、今回は起きている状態で尚且つ昼の光で良く顔が見えるので心臓がバクバク言い始める。
「いつまでラブコメしてんだよ!」
完全に体がフリーズしたシュートの襟首を持ってナックルが起こす。
「ラブコメじゃない、事故だ。…ラキ、立てるか?」
「うん。……てか、どーするの勝負」
と聞いたところで、ずっと見ていたモラウが会話に入ってきた。
「今日はここまでだ。ナックル、シュート」
「はい」
「なんすか?」
「大分改善はしてきたが、ラキに言われてるようじゃまだまだだな」
次にラキの方に振り向き、訊いた。
「二人に追いつけないって泣いてたのが嘘みてぇなくらい強いじゃねぇか。試験中も思ってたが…誰かに教わったのか?」
「えっと…屋敷の警備隊の方々に…」
「屋敷!?」
「警備隊!?」
そこでハッとするラキ。誤魔化そうと思ったが、話すべきかもしれないと考え直して、俯きがちに話し始めた。
「隠すつもりじゃなかったんだけど、嫌われたらやだなって思ってて…その、ミチェッタ家って知ってるかな?」
「知ってるも何も、世界で十番目の金持ちで有名じゃねぇか」
「今の当主はスーパーモデルで、アクセサリブランドのオーナーだろう?よくテレビで見る」
「そう、その人はアタシのお兄ちゃん。ついでに言うなら」
「一ツ星の宝石ハンター…リスタル」
「あ、やっぱりそこも知ってましたよね先生なら」
「当たり前だ。何度か一緒に仕事してるからな。……リスタルにはハンターになったこと言ってんのか?」
「言ってません。ここで修行してることも。言ったらきっと連れ戻しに来るから…」
微かな声で呟きを足す。
「…もう、一人はやだから帰りたくないなぁ」
その呟きは潮風が強く吹いたせいで聞こえなかったが、暫く辛そうに俯いているラキの姿は三人にとって気にかかるものだった。
波乱の予感の色した灰色雲が迫っていた。