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    hanihoney820

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    hanihoney820

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    ◇ ゲーム「8番出口」パロディ乱寂。盛大に本編のネタバレあり。大感謝参考様 Steam:8番出口 https://store.steampowered.com/app/2653790/
    ◆他も色々取り混ぜつつアニメ2期の乱寂のイメージ。北風と太陽を歌った先生に泥衣脱ぎ捨て、で応えるらむちゃんやばい
    ◇先生と空却くんの件は似たような、でもまったく同じではない何かが起きたかもしれないな〜みたいな世界観

    はち番出口で会いましょう。 乱数、『8番出口』というものを知っていますか。

     いえね、どうも最近流行りの都市伝説、といったもののようなのですが。所謂きさらぎ駅とか、異世界エレベーターとか、そんな類の。

     まあ、怖い話では、あるのですかね。いえいえ、そう怯えずとも、そこまで恐ろしいものでもないのですよ。
     ただある日、突然『8番出口』という場所に迷い込んでしまうことがあるのだそうです。それは駅の地下通路によく似ているのですが、同じ光景が無限に続いており、特別な手順を踏まないと外に出ることができないそうです。

     特別な手順が何かって? それはですね──。




    * * *




     気がつくと、異様に白い空間にいた。
     駅の地下通路、のような場所だろうか。全面がタイル張りの白い壁で覆われていて、右側には関係者用の出入口らしきものが三つに、通気口がふたつ、奥の方には消火栓。左側にはなんの変哲もないポスターが、一、二、三──全部で六枚。天井には白々煌々とした蛍光灯が一定間隔で並び、通路の中央あたりには黄色い「↑出口8」と描かれた横看板が吊られている。隅の方にぽつんとある出っ張りは、監視カメラか何かだろうか。足元から通路の奥まで続く黄色い太線は点字ブロックらしく、微妙に立ち心地の悪さを感じて乱数は足をのける。

    「……え? なに。ここ、どこ?」

     見覚えのない、場所だった。少なくとも乱数が比較的利用するシブヤ駅構内にこんな場所があった記憶はないし、どこか遠出をしているつもりもない。いや、そもそも、自分が今さっきまで何をしていたのか。それすら思い出せない。
     もう一度、辺りを見回す。見覚えがない以外は、特筆すべきこともない地下通路だった。左手側のポスターを順に眺めながら、乱数はとりあえず行き止まりまで歩くことにする。もうするオープンする歯科医院、レジのアルバイト募集、ドッグサロン、司法書士、メイクアップアート──これには少し、興味がある。12/15ー12/17。覚えておこう。あとはMOVE FESと、最後のは防犯カメラ作動中、という言葉と共に目玉が描かれたプラスチック板だった。
     すぐに突き当たりにつき、通路が左手側に折れている。覗き込んだその先もすぐに右に折れていて、一本道なことに安堵した。よくわからないが、このまま進んでいけばどこかには辿り着きそうだ。
     「左側通行」と書かれたプラ板を見て、なんとはなしに点字ブロックより左側を歩く。右に折れたその先突き当たり左の壁にはこれまた鮮やかな黄色の案内板が見えて、これでようやくここがどこだかわかる、と意図せず歩調が早くなった。しかし、肝心のそこに書いてあったのは。

    「『出口0』、って……」

     なんだろう、ふざけているのだろうか。変なの、と。そう思いながら己の見間違いを疑いつつごしごしと目を擦る。しかしそこに黒々と印字されている文字は、間違いなく『出口0→』だった。こんな表記は初めてだ。たいていは1、2、3とか、でなければA、B、Cとかなのに。
     しかもその下に書いてある場所も、乱数の知らない名前だった。自慢ではないが乱数はそこそこ記憶力がいい方だし、嬉しくないが中王区からあれこれ使い走りにされていたせいで、東都近辺の地理にはそれなりに詳しい。しかしそんな乱数がこぞって知らない場所ばかりが並んでいる。しかも絶妙に知っていそうで、けれど既知のものとは間違いなく異なる名前。いよいよもって、薄気味悪い。
     だいたいここが東都だとするなら、これだけの時間佇んで誰とも行き合わないのがおかしいのだ。しかし東都以外に遠出したことをここまできれいさっぱり忘れるはずもないし、これはいったいどういうことだろう。
     疑問に思いながらもまた左に折れた道をおとなしく進む。通路はまたすぐに右に折れていて、えらくくねくねした忙しない場所だな、と曲がり角の先に足を踏み出した瞬間、絶句した。

     全面がタイル張りの白い壁で覆われていて、右側には関係者用の入り口らしきものが三つに、通気口がふたつ、奥の方には消火栓。左側にはなんの変哲もないポスターが、一、二、三──全部で六枚。天井には白々煌々とした蛍光灯が一定間隔で並び、通路の中央あたりには黄色い「↑出口8」と描かれた横看板が吊られている。隅の方にぽつんとある出っ張りは、監視カメラか何かだろうか。
     先程と全く同じ光景が、そこには広がっていた。

    「よ……よく似たレイアウトってだけでしょ」

     センスな〜いと、無駄に大きな声で言いながら、乱数は足早にそこを通り過ぎる。横目でちらと確認したポスターの並びまでおそらく一枚たりとも変わらず同じだったが、それだってきっとよくあることだ。普段こんなふうにまじまじと周囲を見たことがないから知らなかっただけで、駅というのはおおよそこんな造りをしているものなのだ。
     また突き当たりを左に折れ、そしてすぐに右に折れる。そこにはやはり先程とまったく同じ『出口0→』の案内板があった。その下に並ぶラインナップも、全てコピー&ペーストをしたように同じ。何もかもが、そっくりのそのまま、同じ。

    「っ……なんなんだよこれ!」

     ぞわ、と背筋を駆け抜けた寒気を誤魔化すように乱数は走り出した。左に折れ、すぐに右に折れると、またまったく同じ『出口8↑』を示す吊り看板とポスターの通路。そこを通り抜け左に折れすぐに右に折れると、左奥側に『出口0→』の案内板。左に折れ右に折れ、『出口8↑』とポスター。左に折れ右に折れると、『出口0→』の案内板。次も、次も同じ光景。しかしその次には案内板が『出口1→』になっていて、ああやはりおかしなことなど何もなかったのだと安堵した。しかしやはりその先には同じ『出口8↑』の吊り看板とポスターの通路があり、その更に先に待っていたのは『出口0→』の案内板。
     誤魔化しきれなくなった恐ろしさが最高頂に達し、叫び声を上げかけた時、ふと案内板の左隣にある見覚えのない看板に気づいた。少なくとも初めは絶対になかったそれに、なんだ、景色が変わっているということはこの通路がループしているとか、そんな超常現象が起きているわけではないのだと安堵する。しかし『ご案内』と書いてあるそこの文字を読み、乱数は再び言葉を失った。

    『 異変を見逃さないこと
      異変を見つけたらすぐに引き返すこと
      異変が見つからなかったら、引き返さないこと
      8番出口から外に出ること          』

     看板には、そう書かれていた。
     そしてそれを見た乱数は、数日前幻太郎から聞いたとある都市伝説を思い出していた。『8番出口』。怖い話の予感に乱数は半ば耳を塞ぎながらそのほとんどを聞き流していたが、よくよく考えればあの話とこの状況は間違いなく合致する。
     曰く、ある日突然人は『8番出口』という場所に迷い込む。その見た目は何の変哲もない駅の地下通路だが、ひたすらに同じ光景が続いているのだと。そしてそこから出るためには特別な手順を踏まなければいけず、その手順というのが、確かこの『ご案内』に書いてある通り。

     『異変』を見つける。『異変』を見つけたら引き返す。『異変』を見つけなかったら引き返さない。『8番出口』から、外に出る。

     おかしなルールだ。しかしその時もそう口にした乱数に、幻太郎はころころと笑っていた。曰く、オカルトとはそういうものでしょう? と。学校の三番目のトイレには花子さんがいるとか、口裂け女にはポマードと三回唱えるべきとか、こっくりさんが自ら帰ってくれるまで終わりにすることはできないとか。こういったものは、いつだって複雑怪奇で、理不尽なものなのだと。
     例示されたもののほとんどにぴんとこなかったが、おおよそ恐ろしい響きがしたので触らぬ神に祟りなし、と余計に掘り返すことはしなかった。しかし今となってはそのことに後悔している。どうしてあの時、もう少しきちんと話を聞いておかなかったのだろう。

     そう思いながら乱数は案内板の先を左に折れ、また右に折れる。その先にはすでに見慣れて見飽きてしまった光景。ポスターと関係者入口が立ち並ぶ、真っ白な通路。しかし今の乱数は、この場所に『異変』が存在する可能性があると知っている。
     ……いや、そもそも『異変』って、なんだ。
     そう思いながら、今度は慎重に辺りを見回す。ポスターと、出入口。他にそう目立つものなどない。『異変』などといえば、今このループし続けている状況こそ間違いなく『異変』だ。だから引き返せと、そういうことでいいのだろうか。
     そんなことを考えながら右を見て、左を見て、そしてゆっくりと顔を上げ──びくりと、肩が跳ねた。見上げた先、吊り看板に書かれた『↑出口8』の文字が、上下逆さまになっている。あからさまな、『異変』。
     気づけば大きく脈打つ心臓を押さえ、その看板が乱数の存在に気づけば襲いかかってくるような錯覚を覚えながら、呼吸を殺し足音を忍ばせ後退る。そして曲がり角の壁際まで来たところで勢いよく走り出した。駆け抜け、すぐ側の突き当たりを右に曲がる。目に入った案内板の文字は『出口1→』。
     なるほど、ルールは、理解した。

    「……なぁんだ、そうとわかれば簡単じゃん」

     よーは間違い探しってことデショ? と、誰に聞かせるわけでもなく、ただ自分を鼓舞するためだけに呟く。
     つまり、この無限に同じ通路が続くように思える場所には、何かしらの『違い』が存在するときがある。そしてその『違い』があるときに引き返す、もしくは『違い』がないときにそのまま進めばこの『出口』の数字は増えて行き、最終的に『出口8』に辿り着けば脱出をすることができる。そういうことなのだろう。
     ルールは、わかった。だが怖いものは怖い。誰もいない空間で、おかしなことが起こる空間で、ひとりきり。どうしようもなく、怖い。
     そんな気持ちを押し殺し、乱数は足を進める。逆走するように進んだ先はやはりポスターと出入口の並ぶ通路で、しかしそこに並ぶポスターは、全て同じものだった。迷わず引き返す。『出口2→』。そのまま進んだ先の通路では、普通中央右端にあるはずの関係者入口──『清掃員詰所』のドアノブが扉のど真ん中についていた。迷わず引き返す。『出口3→』。その先の通路では、目立った『異変』を見つけることができなかった。考えた末、そういうこともあるだろうと進み、『出口4→』。なんだ、順調じゃないか。この調子なら、簡単に脱出することができる。
     そう思いながら次の通路に向かう。ぱっと見た印象では、目立った『異変』はなさそうだった。これはまた何もないパターンか、と思いながら進んで行き──通路のちょうど半分辺りに来たところで、ばん、ばんと大きな音が鳴り響いた。
     ひいっと、喉の奥で悲鳴にもならない声が漏れる。驚いて振り返ると、すぐ後ろにある『分電盤室』と書かれた扉が大きな音を立てながら軋んでいた。ばんばん、ばんばん、ばんばん、ばんばんばんばんばんばんばんばん。
     その扉の前を通るような勇気は、というか状況を冷静に認識する気力などなかった。ただ恐ろしくて、そのままそこをまっすぐ前に走り抜ける。案の定案内板の文字は『出口0→』。ふりだしだ。

    「ま……まあ、そういうことも、あるよね……」

     振り絞った自分の声がか細く震えていることには気づかないふりをして、言うことをきかない足を無理やり動かし、乱数は再び歩き出す。立ち止まっていても、勝手に出口に辿り着くわけではないのだ。正直油断していた。今まで見つけたいくつかの『異変』が、子供騙しの間違い探しのようなものだったから、あんな直接的な『異変』があるなんて。
     進んだ先、足を踏み出した瞬間電気がちかちかと点滅した。恐ろしさに足がすくみ立ち止まりそうになるが、どうにか引き返す。『出口1→』。また進み、通路を見回す。特に『異変』らしきものは見つからない。『出口2→』。その次も、その次も、『異変』らしきものはなかった。何か見落としがあるのではないかと不安になったが案内板の文字は『出口3→』、『出口4→』と順調に数字を増やしてく。
     そして、少し勢いづいてきた乱数を嘲笑うように、それは現れた。

     通路の先、スーツ姿の人間がふたり、並んで立っている。ようやく他の人に会えた! という喜びはない。まったく同じ顔、背格好。そして何より、乱数を見つめる生気のないガラス玉のような瞳。どこからどう見ても、尋常のものではない。
     すぐに引き返そうとし、しかしもしかしたら、何かアドバイスのようなものをもらえるかもしれないと、一縷の期待を込めて数歩足を進める。幸いにもあちらから何かリアクションをしてくる様子はない。もう数歩近づき、いやしかし危険かもしれない、と思い直し、後ろを振り向いた瞬間。
     彼らは、乱数の目の前にいた。

    「──っ!」






     ──そして、気づけば誰もいない通路にいた。あの人達。あの人達? に殴られたとか蹴られたとか、そんな記憶はない。ただ一瞬視界が暗転し、次の瞬間には何もいなかった。痛みも、意識の混濁も、何もない。
     けれど、もうダメだった。限界だった。立っていることができず、その場に蹲る。手も、足も、身体全体がどうしようもないほどに震え、もう一歩も動くことができそうにない。

    「……やだぁ……もうやだぁ……」

     げんたろう、だいす、たすけて、と。ふたりの名前を呟いた瞬間瞳から大粒の涙が溢れる。泣いても仕方がない。泣いたところで誰かが助けてくれるわけではない。そんなことはわかっている。今までだって、ずっとそうだった。どれほど嫌でも、どれほど苦しくても、どれほど恐ろしくても、乱数は何もかもを、自分だけでどうにかしなければいけなかった。それなのに最近、そんな当たり前のことを忘れて幻太郎や帝統に頼りきりで、飴村乱数は随分と弱く脆くなってしまったものだ。
     立ち上がらなければ。立って、歩いて、前に進まなければ。そう思うのに、動けない。涙ばかりが溢れる。 
     お願いだから、誰か助けて。誰でもいいから。誰か。

    「……飴村くん?」

     そんな願いが天に届いたのか、聞き覚えのあるそんな声が聞こえてきた。驚いて顔を上げると、そこでは目立つ長髪に、長身の、白衣を纏った男の姿。
     神宮寺寂雷が、とても困ったような顔で「大丈夫ですか?」と身を屈め首を傾げている。

    「じゃく、らい……?」

     我ながら気の抜けた、みっともない声で彼の名前を呼んでしまい、しかしその瞬間、自分のとんでもない醜態を思い出した。涙でぐちゃぐちゃになった顔を大慌てでごしごしと拭い、急いで立ち上がる。その勢いに驚いたのか、寂雷の小さな「わ」という声が聞こえてきた。

    「っな、なんで寂雷が、ここにいるの」
    「いえ、それがさっぱり記憶がなく……信じられないかもしれませんが、そもそもここがどこだかもわからない状態で……。ですから、君がいてくれて助かりました」
    「……悪いけど、ご期待にはそえないと思うよ」
    「と、言いますと?」
    「僕もまったくおんなじ状態、ってこと」

     どうやら寂雷は、みっともなく蹲っていたことも、ぼろぼろと涙を溢していたことも、見て見ぬふりをしてくれるスタンスらしい。特に何かを指摘する様子もなく、至って平常通りに乱数と会話をしてくれている。そのことが、普通にありがたい。
     そして、そう思ってしまった自分に、いつの間にか寂雷に対して随分と丸くなってしまったものだと、内心で自嘲した。
     2nd D.R.Bが終了してしばらくが経つ。それはつまり、寂雷が乱数に「君を絶対に助ける」と宣言してからしばらくが経っていることを示していた。
     あの言葉をどう受け止めればいいのか、乱数は未だにわからないでいる。泣いて喜べば正解か、怒って振り払えば正解か。かつて自分が手酷く裏切り、そして己から謝ったわけでもないのに急に態度を翻した人間にどう接するべきか、正解がわからない。伸ばされた救いの手に飛びつくのはあまりに都合が良すぎる気がする。しかし丁重にお断りするのも何かが違うだろう。いっそ余計なお世話だと振り払ってしまうのが、乱数自身のしたことを鑑みれば最適なのではないだろうか。悪者は最後まで悪者のまま、助かりたいのならせめて、自分の手で。

    「つまり、君も気がついたらここにいた、ということですか? というとこれは、何者かが私達を誘拐してここに閉じ込めたと……。まさかこれも中王区が……!?」
    「あー……いや、たぶんそういうのじゃ、ないと思う」
    「……ということは、飴村くんは今がどういう状況なのか、察しがついているということですか?」
    「まあ、一応……」

     寂雷は、『8番出口』って都市伝説、知ってる? と。乱数は幻太郎から聞いた話と、この中で乱数が理解した状況を説明してやった。どうやらつい今しがた迷い込んだばかりだったらしい寂雷は、通路がループしていること自体ろくに気づいてもいなかったらしい。試しに数度一緒に進んで見せて、ようやく「まさか、本当にこんなことが」と驚いていた。

    「本物の超常現象……となると、これは波羅夷空却くんあたりの出番でしょうか」
    「ハライクーコーって……あのナゴヤの、だよね。なんであいつの名前が出てくるの?」
    「彼はこういった現象に造詣が深いらしく。彼ならば、何かしらの打開策を持っているかもしれません」
    「……そもそも寂雷って超常現象とか信じるタイプだったっけ?」
    「いいえ。つい最近まで信じていませんでした」

     超常現象を信じていないのに、超常現象に詳しい波羅夷空却について語るのは、乱数にはよくわからない。とりあえず寂雷は昔からお化けとか宇宙人の類を信じていなくて、乱数がいくら本当にいるのだと主張してもまともに取り合ってくれなかった。しかし今、寂雷は「ええと、彼の電話番号は……」とぶつぶつ言いながらスマホを取り出し迷わず空却に連絡を取ろうとしている。以前、TDDを解散する前の寂雷なら、頭の病気とか夢を真っ先に疑いそうなものなのに。……というかいつの間に連絡先を交換するほどの仲になっていたのだろう。
     そんなことを考えている間にも寂雷は通話を始めていた。今更ながら、スマホを使って誰かと連絡を取る、という発想が自分から微塵も出てこなかったことに気づき驚く。だがどちらにしろ、こういった現象の定石なら。

    「……圏外、ですね」
    「やっぱりか……」

     スマホを手にしたまま困った顔をする寂雷に、乱数もため息を吐いた。予想通りだ。落胆はない。

    「となるとやっぱり、ルールに従うしかないか」
    「ルールというと、先程言っていた異変がどうの、というものですか?」
    「そうそう、なにか気づいたことある? 寂雷」
    「そう言われましても……基準となる状態を知らないので、なんとも」
    「まあそりゃあそうか」

     ひとまずひととおり辺りを見まわし、目立った異変が見つけられなかったのでそのまま進む。案内板の文字は『出口0→』になってしまっていたが、まあいい。元よりイレギュラーがあった回だったのだ。どの道ふりだしに戻されたばかり。落胆するほどのこともない。
     ルールを理解した寂雷の飲み込みは早く、次の通路では寂雷がポスターに描かれている人間の瞳がおかしなことになっているのを見つけた。乱数だけならば見逃しかねない、ささやかな異変だ。こんなものがあるのなら確かにいつうっかり見逃してしまってもおかしくない。今まで以上に細部まで見ておかなければいけないと、少しの間そこで周囲を観察した。
     次の通路ではわかりやすく換気口から謎の黒い液体が垂れていた。迷わずに引き返す。次の通路では点字ブロックが異様に増えていた。すぐに引き返す。更に次の通路では、貼られているポスターが全て同じものになっていた。

    「なぁんだ、もっと難しいのかと思ってたけど、こうして見るとわかりやすいのばっかじゃん」
    「飴村くん、そうやって油断をしていると足元を掬われるんですよ。どれほどわかりにくい異変があるのかもわからないのですから、もっと慎重に──おや電気が」
    「わああああああああああああああ!!」

     油断をして大手を振って歩いていた矢先、突然照明が消え通路が真っ暗になった。不意打ちに飛び退き思わず近くにあったものになりふり構わず飛びついてしまう。耳元で「飴村くん、落ち着いてください。ただ電気が消えただけですよ」という声が聞こえる。ぎゅ、と瞼を閉じ震えていると、ずるずると身体を引きずられるような感覚。しばらくすると「もう目を開けても大丈夫ですよ」という声が聞こえた。
     案の定というか当然というか、飛びついていたものは寂雷の腕で、恐る恐る見上げた先で寂雷が困った顔をしているので、罰の悪さと気恥ずかしさで飛び退くように離れる。

    「べ、べべ別に怖かったわけじゃっ」
    「君は、相変わらずお化けとか、そういうものが怖いのかい?」
    「〜〜〜〜っ、おまえさあ!」

     相変わらずこの男は、人が一番言われたくないと思っていることを平然と口にする。そこに悪意がないのが余計に性質が悪い。先程乱数が泣いていた件に触れなかったのも、どうせそれどころではなかったとかその程度の理由なのだろう。寂雷相手に気配りとか思いやりとか、そんなものを期待した乱数が馬鹿だった。
     そんなことを、言ってやろうと思って。でも結局舌打ちをし、寂雷に背を向け歩き出す。何故だろう。乱数がどんな言葉を選んでも、この感覚を寂雷相手にうまく伝えられる気がしない。

    「かつての君も、怪奇現象の類には懐疑的で、怖いもの知らずだと思っていたのだけど」
    「……」
    「実物を見たと、そう言っていたあの夜からでしたかね。君がそんなに怖がりになってしまったのは」
    「……」
    「人の価値観がこうまで一転してしまうものだとは、実に興味深い」
    「触れられたくなくて必死に無視してんだからいいかげん悟ってくれないかなあ!?」

     進んだ先。天井の蛍光灯がてんでばらばらの位置につけられていた。ひとりならば怯えていただろう不気味な光景だけれど、今は寂雷に対する怒りが勝りそれどころではない。踵を返し大股で歩く乱数の後ろを、「これは失敬。馬鹿にするような意図はなかったんです」と口にしながら、平常の歩調で寂雷がついてくる。知っている、そんなことは。

    「……てゆーかさ、寂雷は、ないの。実際問題今こうして変な現象が起きてるわけだし、おばけや幽霊がいるんじゃないか、怖いな〜って、そういうの、ちょっとも」
    「ふむ、難しいことを聞きますね」
    「はあ? むずかしいってなにが」
    「心霊の類が存在する可能性については、ここのところ肯定せざるを得ないと考えを改めました。今回の件ももちろんですし、以前にも少し似たようなことがありましたから」
    「それがさっき言ってたクーコーのことに繋がるの?」
    「そのようなものです。しかし、この世に心霊が存在することと、全ての現象をそういったものの仕業と片付けてしまうことと、それを恐れるか否かは、全てまったく別の話です」
    「……言ってる意味がよくわかんない」

     振り返らずとも、「そうですね」と口にした寂雷が、少し考え込むような素振りをしたのがわかる。

    「たとえば、この世に心霊が存在するからと全ての理解不能な現象をそれの仕業、と片付けてしまうのは危険です。世にはそれを根拠として他人を騙そうとする不埒な輩が数多く存在しますし、たとえば今のこの……8番出口? というのも、本当に怪奇現象なのか断言はできません。私がこういった夢を見ているだけかもしれませんし、精神や脳の疾患の可能性もあります。君は否定しましたが、中王区が何らかの企みをしていたり研究に利用されている可能性を否定はできません。存在するか否かと、目の前で対峙しているものが何かは、分けて考えねばいけません」
    「話長」
    「そして実際そういったものが存在するからといって、過度に恐れるかもまた別の問題です。確かにこちらに害を与える可能性があるものに関しては恐ろしいでしょう。しかしこの世には恐ろしいものがたくさんあります。兵器、病、事故、災害、嘘……それはあくまで、その中のひとつです。確かに恐ろしいと思うこともありますが、存在することのみをして過度に恐れの感情を持つことは、冷静な思考を奪い判断力を低下させる原因になりかねない」
    「……だから話長いって」

     そう口にしながら、ああでもそれは、わかる気がする、と内心頷く。確かに乱数は、過度に恐れて盲目になっていた。今こうして寂雷と歩いていると、それが浮き彫りになって正直きまりが悪い。中王区の企み、実験。確かにそうだ。真正ヒプノシスマイクなんて代物を造り出してしまう奴らだ。どんな手段を使ったのかはわからないが、こんな空間を造り出してしまうことだって可能かもしれない。





    「……いや絶対絶対絶対あの天井のシミは人の顔の形してるって! 絶対さっきまでなかったって! あんな不気味なものが異変じゃないわけ絶対ないから!!!!!」
    「飴村くん、人間の脳は丸が三つ集まれば人の顔を描いているように見えてしまうという特性があるのです。これはシミュラクラ現象と呼ばれるものですが、かなり一般的なものです。決してあまりに過敏に反応してしまう君だけがそう思い混んでしまっているというわけではないので、気にしなくていいですよ」
    「うっそほんとにそのまま進むの待って待って待って絶対引き返した方がいいからばかーーーーーーーっ」

     意地でも引き返そうとしない寂雷の白衣を必死に引っ張ったが、乱数が彼に力で敵うはずもなく。直進した先の看板は案の定『通路0→』だった。せっかく通路6まで行っていたというのに、あっさり振り出しだ。さすがに激怒する乱数に、素直に通路のど真ん中で正座をした寂雷が「面目ありません」と説教を聞いてる図は面白かったが。
     さすがに反省したのか、寂雷もひとつひとつの通路を、乱数と相談しつつ順調に異変を発見して引き返して行った。1、2、3、4。そうわかりにくい異変もなかったため、特に何事もなく進んでいく。ここまでくればいいかげんデフォルトの状態も見慣れてきて、どこを注視すればいいかもわかってきた、はずだった。
     しかし、絶対に大丈夫と。ふたりで念入りに確かめ合い、隅から隅まで確認したにも関わらず、異変なしの判断をし進んだ先は『通路0→』だった。

    「これは……いえ、悔やんでも仕方ありませんね。きっと私達の見逃していた異変があったのでしょう」
    「……そうだね」
    「さあ、もう一度、です。幸いここでは空腹や疲労を感じることはないようですし、根気強く繰り返していれば必ずいつか8番出口に辿り着くことができるはずです。そうでしょう?」
    「……うん、そうだね」

     表情を曇らせ、口数が少なくなった乱数を気遣ってか、寂雷は努めて明るい表情と声を保ち、乱数の背に励ますように触れる。それにぎこちなく頷き返し、乱数は再び歩き出した。1、2、3。その次で、やはりどうがんばっても異変らしい異変を見つけることができない通路に行き当たる。乱数も寂雷も、記憶力には相当以上に自信がある。そんなふたりが揃って、ひとつひとつ指差し確認までして「異変なし」と判断したのだ。この後に及んで、そんなもの見つかるはずもない。
     そこまでの確信を持ってまっすぐ進んだにも関わらず、やはり彼らが目にしたのは『通路0→』の看板だった。

    「……私達が見逃してしまうほど些細な、もしくは逆に大きすぎて気づかないような異変でも起こっているのでしょうか。見逃したものが毎回同じ、とも限りませんが……」
    「──い」
    「え?」
    「おかしい」

     拳を握り、俯いた乱数の呟きに、寂雷がこちらを見下ろす。しかし乱数は寂雷を見つめ返すことなく、ただ目の前の『通路0→』の看板を、睨みつけるように仰ぎ見た。

    「なかった。絶対になかった。さっきのは確信がある。異変なんて、絶対になかったよ」
    「しかし、実際問題こうして通路番号は0に戻ってしまってるわけですし」
    「……ひとつだけ、心当たりがある」
    「異変の内容に、ですか?」

     こくん、と頷いた乱数に、寂雷は「それなら何故もっと早く言わないんだ」とでも言いたげな顔をした。しかしこんな所で言い争いをしても時間の無駄だと判断したのか、言葉を飲み込み代わりに「それは、いったい?」と続きを促す。その問いに乱数は、寂雷へ視線を向けながら、静かに告げた。

    「おまえに会ってから、一度も『異変なし』にあったことがない」

     しん、と。辺りに静寂が満ちた。乱数と寂雷。ふたりが黙り込んでしまった通路は、異様なまでに静かだ。
     さすがと言うべきか、この言葉だけで寂雷は──いや、乱数の仮定が正しければ、この想定は無意味なものかもしれない。じり、じり、と警戒し視線を外さないように後退りしながら、乱数の言いたいことを察したらしい『それ』から距離を取る。

    「やっぱり、そもそもおかしかったんだ。こわくてこわくて頭がどうかしてた。こんなところに、寂雷がいるわけがない」
    「……」
    「おまえは、なに?」

     心配と、困惑。そんなものが浮かんでいた瞳が、乱数の言葉を聞き、そしてひとつまばたきをした後に、すっと冷たくなる。

    「……私は、私です。神宮寺寂雷です。他の何者でもありません」
    「へえ、まだ続けるんだ、その猿芝居」
    「それに、その仮定を信じるなら、君に対しても同じことが言えるのではありませんか? 私は君と出会ってから、一度も『異変なし』に出会ったことがない」
    「でもおまえは、僕に会う前も『異変なし』を見たことがないんでしょ?」
    「……」
    「じゃあ、試してみようか。次に異変がないと思ったら、僕はひとりで引き返す。それでもし看板の数字が進んでいたら」

     険しく歪んだ寂雷の眉間に、撃ち抜くような気持ちで指を突きつける。

    「異変は、おまえだ」




     その後、通路4まで進んだところで、異変が見つけられない通路に出た。ふたりで隅々まで探し、けれど満場一致で『異変なし』の結論に辿り着く。その間、終始寂雷の表情は硬かった。化けの皮が剥がれかけて『神宮寺寂雷』がこなせなくなっているのか、それとも本当に本物で、本気で乱数の方を疑っているのか。でもその疑心暗鬼の表情には嫌というほど見覚えがあって、いっそ懐かしくて笑えてくる。仲違いをしてからつい最近まで、この表情を飽きるほど見てきた。
     本当にあまりに見慣れていて、目の前にいるそれが化け物かもしれないと思っても、怒りと苛立ちが先行して恐怖など感じる暇がないほどに。

    「じゃ、僕はこれで引き返すから。なんか問題ある?」
    「……いいえ、ありません。私に『異変なし』の記憶がないのは事実ですから。君の言い分を信じるなら、まず君が引き返すべきでしょう。しかしその検証の結果が思うようにいかなければ、再検証の必要はあるかと思いますが」
    「あは、ほんっとそのクソ面倒な話し方あいつそっくりで……ニセモンかもしれないとか、信じらんなくなるじゃん」

     何か言いたげな顔をして、しかし何も言わずにいる『それ』に背を向け、乱数は引き返す。背中に刺さる視線を感じながら、乱数は努めてゆっくり、ゆっくり歩いた。曲がり角を左に曲がり、右に曲がり、左奥の壁を見る。看板に書かれた文字は『通路5→』。

    「……ほら、やっぱりね」

     浮かれてしまったせいか、その次の通路で乱数は判断を誤りまた『通路0→』の文字を見る羽目になった。しかしここまできてしまえば話は簡単だ。先程寂雷も言った通り──違うのか。あれも言った通り、「根気強く繰り返していれば必ずいつか8番出口に辿り着くことができる」。幻太郎がこの話をそう怖いものではない、と言っていたのもその為だろう。不気味だが、結果的に害があるものではない。
     出口1。出口2。出口3。出口0。出口1。出口2。出口0。出口1。出口2。出口3。出口4。

     そしてそこに、それはまたいた。
     通路のど真ん中で、通せんぼをするように壁の方を向いて立ち尽くしている。別れた時と同じく、それは酷く険しい顔をしていた。乱数の気配に気づいたらしく、こちらを向く。その造形はやはり未だ乱数の知る神宮寺寂雷のもので、正体を現して噛みついてくるとか、そんなこともない。

    「……数字は、進みましたか」
    「おかげさまでね」

     乱数の言葉に、それの顔が醜悪に歪んだ。こいつの造形でこんな顔もできるんだなと思うし、だからやっぱり偽物なんだな、とも思う。
     出口5。出口6。出口7。出口8。なるほど、出口8に辿り着いた時点から『異変なし』を引き当てるまで成功し続けないと外に出ることはできないのか。出口0。出口1。出口2。出口3。出口4。
     またいた。
     うわ、と思って、またすぐに引き返そうとする。しかしそんな乱数の背に、『それ』から声が投げかけられた。優しく温かい好意を含んだものとも、冷たく凍てついた嫌悪を引き連れたものとも違う。無機質で、空っぽな音。伽藍堂の中に響く音。

    「自分でも、進んでみたんです。君の言っていたルール通りに。けれど私は、異変を見つけて引き返そうが、何も異変はないと進もうが、出口0から動くことはできませんでした」

     私は、本当に『私』ではないんですね。
     その空洞には覚えがある。乱数もよく知る音だった。
     無視をして、何も答えずに引き返す。出口5。出口6。出口7。出口8。よしこれで、異変なしまで粘れば、今度こそきっと出ることができる。出口8。出口8。そしてまたそこにいる、何か。今度は何もかもを諦めてしまったように、壁際を向いたままその場に腰を下ろしている。無感情にぼんやりと壁を見つめる瞳には、何の色も光もない。
     ようやく、出口8に辿り着いた。このまま引き返して、そしてあと何回か成功すれば、きっと出口に辿り着く。ここから出ることができる。
     そう思いながら踵を返して数歩歩き、そしてまたすぐに踵を返して歩き、すとんと、『何か』の横に腰を下ろした。驚いたようにこちらに向けられた視線を感じる。何か言いたげに口を開いたそれが言葉を発するより先に、先制攻撃のつもりで捲し立てた。

    「だって、しょーがないじゃん。おまえ、たぶん人間じゃないし、バケモノだし、異変? だし。いっしょに行けるわけないじゃん。わかるでしょ。おまえといっしょじゃ、いつまたっても先に進めない。出口0から抜け出せない。8番出口に辿り着けない。だからムリなの。不可能なの。当たり前でしょ。決まってるじゃん」
    「……ええ、そうですね。ですから、私には構わず、早く行ってください」
    「だったらこれ見よがしにこんな所で蹲ってないでよ鬱陶しい」
    「……なら、どうすればいいのですか」

     『それ』の方に首を向ける。いつの間にか『それ』も乱数を見ていた。酷く疲れたような、途方に暮れたような、どうしようもない顔。乱数の、知らない顔。

    「おまえさ、ほんとに自分のこと『神宮寺寂雷』だと思ってたの? ここに潜んでるおばけで、僕のこと騙しに来たとか、そういうのじゃないの?」
    「……信じて頂けないかもしれませんが、そうですよ。今だって、とても信じられません。確かに前後の記憶はありませんが、私には今まで『神宮寺寂雷』として生きてきた全ての記憶があります。家族のこと、子供時代のこと、学生時代のこと、戦時中のこと、医者になってからのこと、TDDのこと、麻天狼のこと……君のこと。疑うのならば、何か私しか知らないようなことを訊いてみてください。大抵のことは答えられると思いますよ」
    「いいよ別に、意味ないから」
    「……そうですか。そうですよね。本当に、意味がない」
    「そうだよ、意味がない。おまえが実際なにかとか、ほんとにどうでもいい。本物のあいつじゃないなら、おまえがなんでも同じことだよ」
    「君は……何がしたいんですか。そんな私に、砂かけでもしに来たんですか。本当に、いい性格をしている」
    「僕は──」

     口を開きかけ、一度つぐむ。そしてもう一度、口を開いた。

    「おまえはさ、自分がなんなのか、わからないのが苦しいんでしょ。自分が偽物なのが、恥ずかしくて惨めで仕方ないんでしょ。僕と比べて、どうして自分だけがって、そう思っちゃう自分のことが嫌で嫌で堪らないんでしょ。それでもこんなところでひとりでいるのがイヤで、辛くて怖くてどうしようもないんでしょ」

     じっと、『それ』を見つめる。『それ』も、乱数のことを見つめていた。言われている言葉の意図がわからず、困惑するような顔。しかし『それ』は乱数の言葉を最後まで聞き届け、吟味するように口の中で何かを呟き、そしてとうとう、蚊の鳴くような小さな小さな声で「はい」と、頷いた。肯定した。神宮寺寂雷の形をした『なにか』が、乱数の言葉に同意した。

    「僕が、いっしょにいてあげようか」
    「……はい?」

     今までになく、本気で困惑したように、『それ』が首を傾げる。しかし乱数は『それ』からの質問も返答も聞きたくない、とでも言うように、畳み掛けるように言葉を続けた。

    「そりゃもちろん僕が飽きるまでってだけだけどね。もう少しくらいなら、いっしょにいてやってもいいよってこと。別に今すぐ出なくちゃいけない理由があるわけじゃないし? いつか出れるなら、別に今じゃなくてもいいってことだし? まあそれが三分後かもしないし三日後かもしれないし、もう少しくらいなら、保つかもしれないけど」

     おまえがなんなのかなんて知らないけど、それくらいならしてやってもいよ。
     そう、一息に言ってのけた乱数の隣で、『それ』は酷くぽかんと、呆然としたような顔をしている。驚いているのだろうか。それとも感動し、感銘でも受けているのだろうか。だとしたら少しはかわいげがあるというものだ。
     それこそ、泣いて喜んで感謝でもするなら、一週間くらいはこのジジイもどきといっしょにいてやってもいいのだけど。
     けれど、そんなことを思っていた乱数を嘲笑うように。大きく目を見開き、じっと長いこと乱数を凝視していた『それ』の口から出た言葉は、まったく予想外のものだった。

    「もしかして、君はあの時、私にそう言って欲しかったのですか」

     君。あの時。そう言って欲しかった。
     どの言葉をとっても、何のことを言っているのかわからなかった。わからないままでいたかったのに、ほんのコンマ数秒で、聡い乱数の頭は正解を弾き出してしまう。ぶわ、と全身の血液が顔に集まって、脳みそが沸騰するほどの羞恥心が全力で乱数を叩きのめしにきた。反射的に手が出る。ぐーで、寂雷の胸目掛けて。しかしそんなお粗末な暴力は、軽々と片手で受け止められてしまったけれど。

    「〜〜〜〜っなし! なしなし! 今のなし!!!!!!」

     二撃、三撃と、連続で拳を飛ばすが、『それ』は困惑したような顔をしたまま、しかし的確に乱数の攻撃を防いでしまい、擦り傷ほどのダメージも与えられない。本当は今すぐタコ殴りにしてその頭から今さっきの記憶を飛ばしてしまいたいのに、腹が立つほど泰然自若に構えている。偽物なら偽物らしく出来損ないでいるべきなのに。
     そんなことを繰り返している内に、疲労なんて感じないはずのこの空間で先に疲れ果ててしまったのは乱数で、へろへろと情けなく床に落ちた拳を代わりに膝を抱えて顔を埋めることに使う。

    「ちがう。ちがう。そんなんじゃない。ちがう。ちがうからぁ……」
    「私はずっと、君が何故私のことをそこまで嫌っているのかがわかりませんでした」
    「もうなにも言うなよおまえ……」
    「ですがようやく、君の気持ちを少しは理解することができました。そういうことだったんですね」
    「うるせえちがうって言ってんだろうがぶっ殺すぞ」
    「それならそうと、早く言ってくださればよかったのに」

     乱数の横で、『それ』が先程までとは一変してきらきらと瞳に炎を灯しているのが丸わかりの声音で、ひとり意気揚々と喋り続けている。それがあまりに不愉快で、『それ』と接している側の皮膚から鳥肌が立ちそうだった。
     君。あの時。そう言って欲しかった。
     乱数は、あの寂雷と決定的に道を違えた雨の屋上で、「造られた存在の君が、何故私に近づいたんだ」ではなく、そう言って欲しかった。乱数が造られた存在とかそうじゃないとか、そんなこと関係なく、何もかもを許して欲しかった。いっしょにい続けて欲しかった。
     そんなふうに、都合のいい解釈をされている。勘弁して欲しい。気持ちの悪い憶測で乱数を語るな。理解した気になるな。

    「飴村くん」

     ぺらぺらと自分勝手なことばかりを語る言葉が、随分と長く続いていた気がする。しかししばらくして乱数を呼んだ声は、それまでの声音とは少し異なっていた。おそるおそる膝から顔を上げると、随分優しく、柔らかな顔をした寂雷と──『それ』と、目が合ってしまう。

    「ありがとうございます。どんな意図であれ、君がそう言ってくれて、私はとても嬉しいです」
    「……あっそ。まあおまえは僕なんかがいてもたいしてうれしくなんかないだろーし? お世辞として受け取っとくよ」
    「そう捻くれずとも、言葉通りの本心ですよ」
    「あっそ」
    「そして私も、君にそういった言葉をかけて差し上げることができず、申し訳ありませんでした」
    「……」

     やめてほしい。違うけれど、勘違いだけれど。でも、謝られる筋合いなんて微塵もない。乱数だってそれがどれほど支離滅裂で理不尽な要求かなんて理解できるし、今この場で万が一同じ理由で責められでもしたら、腹を抱えて大笑いする自信がある。偽物の分際で何を言っているんだ、と。
     でも、こんな時にそんな理由で心の底からの謝罪ができるから、神宮寺寂雷は神宮寺寂雷なのだろう。

    「はあ……おまえが本物の寂雷じゃなくてよかったよ」
    「ええ、そうですね。これは本物の私すらもまだ知らない、『私』だけの秘密です」
    「……」

     やめてほしい。
     そんな顔で、そんな声で、そんなことを言わないでほしい。
     愛着なんてものが、湧いてしまいそうになる。
     
     置かれた状況が大きく変わったわけでもないのに、『それ』はやけに楽しそうだった。乱数の横で、幸福そうに微笑んでいる。

    「……んで、どうするの」
    「どうする、とは?」
    「いて欲しいの、欲しくないの。どっち」
    「それはなしになったのでは?」
    「……なし……なし、だけど。もし仮に、いてやるって言ったら、どうなの。いや別に僕だっていたいわけじゃないし? おまえがどーしてもって言うならまあ仕方なく? 的な? だから別にいらないならさっさと帰」
    「君は、私といてくれると言うのですか」

     わざわざ自分から掘り返してしまったことに後悔して、いやだから仮に、もしもの話だって! とか。なにわざわざ復唱して、嫌味のつもり!? とか、適当に混ぜっ返してうやむやにしてやろうと思ったのに。そう問いかける『それ』の表情は、どこまでも穏やかで無邪気で。なんだかまるで、乱数に愛着が湧いてしまったかのような顔をしていたから。

    「……うん、いいよ。それでも」

     気づけばそんなふうに、邪気も毒気もなく、こくんと頷いてしまっていた。

    「けれど仕事の締め切りなんかがあるのではないですか」
    「まあ、急ぎのはなかったと思うし。僕に万一のことがあっても誰かがなんとかするよ」
    「夢野くんや有栖川くんが心配しますよ」
    「それは……そうかな。どうだろう。数週間会わないなんてことも前は珍しくなかったし、案外そうでもないかも」
    「君がいなくなれば、悲しむ人が大勢いる」
    「それこそどうだろう。それよりも、僕なんかいなくなって清々するやつのが大勢──」
    「何を馬鹿なことを言っているのですか! 自分を粗末にするようなことを、冗談でも口にしないでください!!」

     突然張り上げられた声に、釣り上がった眉に、怒りを孕んだ瞳に、酷く驚いてしまった。びくりと大きく身体を震わせて後退れば、すぐに『それ』は表情を和らげる。

    「──と、本物の私なら、言うのではありませんか」
    「……うん」

     きっとそうだ。
     本物が同じことを言っている光景が、まったく同じように再生される。何なら本物ならおまけでビンタがつきそうだ。あれは容赦なく痛かった。もう間違っても、寂雷の前で軽率に己を卑下するようなことを言ってはいけない、と学習してしまうほどに。
     本気でそんなことを、思っているわけじゃない。幻太郎や帝統が乱数を案じてくれることを疑いたくはなかったし、仕事にだってそれなりにプライドがある。でも、それでも、今この瞬間、乱数にどうしても、と縋る『それ』が見たかった。そんな馬鹿げた考えを見透かされた気がして、けれど気恥ずかしさよりも先に安堵がくる。

    「大丈夫です。そう消極的な思考にならずとも、少なくとも君が突然いなくなれば、本物の私が死ぬほど心配していますよ。他でもない私が保証します」
    「あは、うれしくない最低保証だね」

     すく、と立ち上がり、別に砂や埃がついたわけでもないけれどなんとなくの癖でパーカーを手で払う。すると『それ』も同様に立ち上がった。そのまま乱数は、とこ、とこ、とこと、真っ白な通路を数歩歩く。もう嫌と言うほど見た白い天井、白い壁。関係者用出入口に、並んだポスター。点字ブロック。照明。監視カメラ。換気口。禁煙マーク。
     くるりと振り返り、笑顔で手を振る、じっとこちらを見つめて、見送ってくれる『それ』に。

    「ばいばい、寂雷」
    「……私は、君の知る神宮寺寂雷ではありませんよ」
    「おんなじだよ」

     おまえみたいなムカつくやつ、この世にふたりといるもんか。
     そう唱い上げれば、寂雷は少しだけ驚いたような顔をした後、穏やかな表情で乱数に手を振った。さようならとか、お元気でとか、お大事にとか、そんな色々が込められた仕草だと思った。ほんの少し、離れがたい気がして。ほんの少し、あともう少しだけ、そのゆらゆら揺れる手を見ていたいと思ってしまって。床に張り付いてしまった足を引き剥がすように、乱数は踵を返し、引き返す。
     真っ白な通路を左に曲がり、右に曲がり、左奥の壁際の看板を見る。『通路8→』。それを通り過ぎ左に曲がり、また右に曲がる。見慣れた通路。寂雷もいない。周囲を見回す。念入りに見回す。隅から隅まで観察して、間違いなく異変はない、と確信する。
     突き当たりを左に曲がり、右に曲がる。そしてその先、今まで見たことのない階段があった。先は天井で見えない、長く続く階段。傍には『出口8→』の看板。
     眩しく白い光に目が眩むと同時に、車や人々の喧騒や鳥の声、日差しの温もりや街路樹の緑の香りが、乱数を包み込んだ。

     



    「……飴村くん? こんな所でぼーっとして、いかがなさいましたか?」

     太陽の光に目が順応できず、視界がしょぼしょぼしている。そんな中、その声だけはよく聞こえた。聞き間違いようのない声。眩んだ視界の中でも、乱数の左右を多くの人が行き交っているのがわかる。振り返ると、乱数のすぐ後ろは駅の地下通路へと続く階段だった。けれどその先は不気味な人気のない白い場所ではなく、大勢の人で溢れた見慣れた場所。
     とりあえず、こんな往来のど真ん中にいては周囲の方々にご迷惑ですよ、と、乱数の顔を覗き込んでいた寂雷が乱数を促す。しかしぼんやりとそんな寂雷を眺めるだけの乱数に痺れを切らしたのか、彼はとうとう乱数の腕を掴むとそのまま歩き出した。誘導されたのは近場のカフェで、乱数はテラス席に座らせられる。少しの間席を外していた寂雷は、すぐに戻ってくると乱数に「よければどうぞ」と紙コップを手渡した。口をつけてみれば甘くてほろ苦い優しい味。カフェラテだ。

    「……おいし」
    「それならよかったです」

     乱数の独り言に頷きを返した寂雷は、いつの間にか用意していた己の分を啜っている。ちみ、ちみともう数口啜り、ようやく「なんで、おまえがここにいんの」と尋ねた。すると寂雷は少し顔を顰め「それはこちらの台詞です。何故あんな所でひとり立ち尽くしていたんですか。まさか具合でも悪いのでは?」と返す。どうやら、本当に偶然あそこにいただけらしい。

    「ねえ、寂雷。訊きたいことがあるんだけど」
    「構いませんが……それより私の質問に答える方が先では? 君の体調に何か問題があるのではと私は」
    「僕がなんでおまえのこと嫌いなのか、知ってる?」

     乱数の問いに、お説教モードに入ろうとしていた寂雷が、声も表情もぴたりと止まった。そして居住まいを正し「いいえ」と答える。なんだ、そうか。こんなにもタイミングよく目の前に現れたから、もしかしたらあいつと何か関係があるのかと思ってしまったけれど、本当にただ偶然、乱数の前に現れただけか。それならば、実にタイミングの悪い男だ。

    「わかりません。教えてくださるんですか」
    「ううん、死んでも教えない」

     そう答え、またちみ、とカフェラテを口に含む乱数に、寂雷は何を言っているんだこいつは、と言わんばかりの顔をする。
     しかし体調が悪いわけではない、というのは察したらしい。そのまま寂雷はそれ以上追求してくることなく、ただふたりでコーヒーを飲んだ。そうしているとようやく現実感が、「帰って来られたのだ」という感覚が、生まれてくる。

    「……8番出口に、いたんだよね」
    「8番出口……聞いたことがあります。最近ちらほら耳にする、噂、ですよね」
    「へえ、知ってるんだ」

     あそこにいたおまえは知らなかったよ、と。口走りかけた余計な言葉をまたコーヒーで流し込む。8番出口がどんなものか、寂雷の聞き齧った話を語って聞かせてくれるようだった。乱数とまったく同じだ、と思うものから少し異なるものまで、いくらかバリエーションがあるらしい。それを一通り聞き終えた頃、寂雷が少し改まったような声で「飴村くん」と乱数の名前を呼んだ。

    「なに? 別に身体に悪いとことかないよ。精神も十分健康なつもり。どうしても検査でもしなきゃ気がすまないってんなら勝手にすれば?」
    「いえ……君が大丈夫だと言うのなら、大丈夫なのでしょう。8番出口とやらの存在も、信じます。世の中、そういったことも起こり得るものです。ただこれほど被害者が増えているとなると、今度空却くんにでも相談した方がいいかもしれませんね。ですが、そういったことではなく」
    「……?」
    「君が無事に出て来ることができて、本当に良かった」

     そう口にして、寂雷が笑っている。心底、安堵したように。
     あの中にいた間、不思議と現実世界の時間が流れた様子はなく、乱数は最後に記憶が残るのとほとんど変わらない時間にいた。当然なら目の前の男も、スマホで確認した先の幻太郎も帝統も、誰も過度に乱数を案じている様子はなかった。
     思っていたことがある。せめて本当は、あの中で出会った寂雷に、言ってやれば良かったと思ったこと。
     あそこの寂雷が結局何だったのか、乱数にもやっぱりわからない。でも寂雷に出会う直前、乱数は確かに考えていた。ひとりぼっちは恐ろしいと。誰でもいいから、誰か助けて欲しいと。幻太郎。帝統。そして。

    『君を、必ず助けるということです』

     寂雷、と。
     あの時、あまりに都合よく現れた彼。あれは、乱数を救うために存在したものだったのではないだろうか。
     恐怖で足が竦み、もう一歩も歩くことができないでいた乱数のために。
     もしそうだとするなら。いや本当のところなんて実際はどちらでもいい。ただもしあの時乱数がそう言ってやれていたのなら、あの白い通路に置き去りにしてきてしまったあの男の人生に、少しは意味を与えてやれたんじゃないか、なんて。
     思い上がりも甚だしいだろうか。

    「ところで、君が迷い込んだその『8番出口』という場所では、他にどのようなことが起こったのですか?」

     と、そこで寂雷が、一応今まさに恐怖体験をしてきた乱数の手前必死に抑えようとはしているようだが、それでも溢れ出る知的好奇心が抑えきれない様子で乱数にそう問いかけてきた。それこそ「興味深い」というやつなのだろう。怪奇現象の類は基本信じていないスタンスを貫くが、実際にあるとなれば興味は抑えられない。そういう男だ寂雷は。
     そんな様子に心底呆れながら、何をどこまで話してやろうか思い悩む。あの中で出会った寂雷のことは、秘密だ。しかしあれの存在を抜きで話をするのもあからさまな嘘を吐く罪悪感があるし、話としても味気ない。
     そうだな──と思い悩みながら、乱数は己が邂逅した不思議な現象の一行目を、こんな言葉と共に始めることにした。

    「変なおじさんが、向こう側から歩いて来るんだ」






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    hanihoney820

    DOODLE◇ ゲーム「8番出口」パロディ乱寂。盛大に本編のネタバレあり。大感謝参考様 Steam:8番出口 https://store.steampowered.com/app/2653790/
    ◆他も色々取り混ぜつつアニメ2期の乱寂のイメージ。北風と太陽を歌った先生に泥衣脱ぎ捨て、で応えるらむちゃんやばい
    ◇先生と空却くんの件は似たような、でもまったく同じではない何かが起きたかもしれないな〜みたいな世界観
    はち番出口で会いましょう。 乱数、『8番出口』というものを知っていますか。

     いえね、どうも最近流行りの都市伝説、といったもののようなのですが。所謂きさらぎ駅とか、異世界エレベーターとか、そんな類の。

     まあ、怖い話では、あるのですかね。いえいえ、そう怯えずとも、そこまで恐ろしいものでもないのですよ。
     ただある日、突然『8番出口』という場所に迷い込んでしまうことがあるのだそうです。それは駅の地下通路によく似ているのですが、同じ光景が無限に続いており、特別な手順を踏まないと外に出ることができないそうです。

     特別な手順が何かって? それはですね──。




    * * *




     気がつくと、異様に白い空間にいた。
     駅の地下通路、のような場所だろうか。全面がタイル張りの白い壁で覆われていて、右側には関係者用の出入口らしきものが三つに、通気口がふたつ、奥の方には消火栓。左側にはなんの変哲もないポスターが、一、二、三──全部で六枚。天井には白々煌々とした蛍光灯が一定間隔で並び、通路の中央あたりには黄色い「↑出口8」と描かれた横看板が吊られている。隅の方にぽつんとある出っ張りは、監視カメラか何かだろうか。足元から通路の奥まで続く黄色い太線は点字ブロックらしく、微妙に立ち心地の悪さを感じて乱数は足をのける。
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