【くりかしゅ】まだ知らない 夕暮れの庭は輪郭が柔く曖昧に映る。背に西日を受けた己の長い影を見やりながら、大倶利伽羅はゆるりと歩いていた。
馬小屋から続く小道を抜け、夕飯の匂いが本殿から微かに届き始めた頃、
「あ、いたいた!」
前方で軽やかな声が響いた。何事か、と大倶利伽羅が目を上げれば、影の向こうに加州清光の姿が見えた。こちらへ手を振りつつ駆け寄ってくる。
浮かべているのは、さながら向日葵のような、弾けんばかりの笑顔だ。
思わず大倶利伽羅は立ち止まって背後を顧みたが、当然のごとく誰の姿もない。……となると。
──この満面の笑みは、俺に向けられているのか。
推察するものの、思い当たる節のない大倶利伽羅は首を捻った。
顕現して半年も経てば、知識や記憶は嫌でも積み重ねられているものだ。大倶利伽羅にとって加州清光という存在は、そのうちのひとつに過ぎなかった。すなわち刀の時代が終わる頃、天才と名高い剣士に使われたとされる実戦刀──と。
幾度か同じ部隊で出陣し、その実力のほどを見た。鮮やかな剣筋もさることながら、愉しげに煌めく赤い瞳と、薄く笑んだ口元が印象に残っている。敵方にとっては凶悪な死神でしかないだろうなと、柄にもなく思ったものだ。
その加州が、およそ一歩分の距離を置いて立ち止まる。
今は三日月型に細められ、ほとんど隠れている赤を、大倶利伽羅は探るように見た。
「伝達か」
最も高そうな可能性を挙げたが、加州は首を横に振った。
「……まあ。似たようなものかもしれないけど」
などと言い、いっそう笑みを深める。頬がいくらか上気しているのは、駆けてきたせいではないだろう。
「えーと、ね」
僅かに躊躇いを見せた後で、加州はまっすぐ大倶利伽羅に目を向けた。
「好きだよ、大倶利伽羅」
まるで今晩の献立を伝えるように軽く。
けれども瞳の奥に真剣な光を宿して紡がれた、言葉。
…………。
……。
「──は?」
一瞬遅れて届いた衝撃たるや、大倶利伽羅を瞠目させるにはじゅうぶんだった。ついぞ発したことのない間の抜けた声を、どこからか漏れ出させるのにも。
「何を言っているんだ、あんたは」
いや──言っていることはわかる。
ただ純粋に理解が及ばず、それを表す言葉もまた、漂白された脳内で行方不明となっているだけだ。
意図せず零れた呟きを拾い集める代わりに、大倶利伽羅は頭をがしりと掻いた。
対する加州は言い終えて満足したのか、涼やかに笑んでいる。それが腹立たしくもあった。
「……俺は、」
「慣れ合うつもりはない、でしょ。もちろん知ってるよ」
さらりと言葉を奪った加州は、後ろ手を組んで一歩下がった。領域を踏み荒らす意思はないと示すように。
「ならば、なぜ」
「んー。なんで好きになったのかは、正直わかんない。だけど好きなのは本当だから、どうしても伝えておきたくなったんだよね。黙って抱えきれなくなったっていうか……、知られないまま、まるで何もなかったみたいに殺すのはしんどいよなあ、ってさ」
「…………」
大倶利伽羅は無言で腕を組んだ。問うてはみたものの、答えが理解できない。ただ、殺すという物騒な響きで、眉が寄るのを自覚した。
「こうやって困らせるだけなのは承知の上。だからこれは完全な自己満足だし、俺のことを好きになって、なんて言わないから安心して。……そりゃあ、好きになってくれたら嬉しいけどね」
続けた加州が悪戯っぽく笑う。努めて明るく振る舞っているのは明白だ。とはいえ返す言葉が見つからず、大倶利伽羅の眉はさらに寄った。
もしも好きになって、と言われたならば、すぐさま拒絶できただろう。
だが──想いとやらがここにあるのだと見せられただけでは、どうしようもなかった。
親愛や恋慕の情というものを知らない己に、とやかく言う権利はない。
困っているというより面倒だと感じているのは事実だが、だからといって軽々しく想いを殺せなどとは思えない。
「……あんたなら、他に好いてくれる相手がいるだろう」
背中が太陽の傾きを感じるかのような、長い沈黙の果て。ようやく口を開いた大倶利伽羅に、加州はあっさり頷いた。
「そうかもね」
「俺には、そういった心はわからない。知るつもりもない」
「うん」
「わからない以上は否定しない。誰をどう想おうが、あんたの勝手だ。好きにしろ」
なんとも煮え切らない、曖昧な答えだ。大倶利伽羅が苦々しさを覚える一方、
「お前って本当……、そういうところだよなあ」
どこか嬉しそうに加州は笑った。窘めるような口調でありながら、柔らかいばかりの表情で。
「──……」
大倶利伽羅は何かを言おうとしたが、結局ため息だけが夕暮れに溶けた。