食べちゃいたいくらい.
「お前は、私を食べたいと思った事があるか?」
オズのその言葉に、フィガロは目をむいて驚き、飲んでいたとっておきのお酒を噴き出しそうになった。瞬きをするまでの僅かな間、停止した思考と身体への指令。グラスを落とさなかったのは幸いだった。
聞き間違いかとも思ったが、もう一度聞き直すのも怖い。どう答えるべきか、フィガロは思考をフル回転し始めた。
これはあれか。スノウとホワイトに拾われて、二人の屋敷でフィガロと初めて会った時に「今のうちに石にしましょう」とフィガロが双子に進言した事の確認か?今更それを掘り返してどうする気だ。双子はオズを手懐けるという意見を押し通し、フィガロの言葉は聞き入れられなかったのだ。結果、幼いオズは石にはならずにフィガロの弟弟子として育った。それだけではなく、食事はマナ石で済ませ布を被ったような身なりで過ごす、触れば噛みつきそうな獣のようだったオズに人らしい生活を教えたのはフィガロであって、感謝こそされても恨まれることなど……
「私はある」
「え?」
「お前の事を食べ……」
「ええぇぇぇ!?」
オズの言葉を遮って声を上げたフィガロは、座っていた脚の長い椅子を道連れにしそうな勢いで後ずさろうとして転げ落ちた。
「フィガロ様」
「ごめん、シャイロック」
シャイロックのバーにいる事を忘れて騒ぎを起こすフィガロに、店主が物は壊さないでくださいねと釘を刺す。冷静を装うシャイロックは、なんとも間抜けな格好になったフィガロの事はスルーするらしい。
打ち付けた尻を片手で摩りながらとりあえず立ち上がったフィガロは「俺を食べたいってそれはつまり……そういうことなのか?」と内心慌てる。そのショックから立ち直る余地が欲しくて、ジリジリとオズとの距離を取りながら顎を伝う汗を拭った。
そんなにオズが怒っていたなんて知らなかった。最近、何か考え込んでいるなとは思っていたが、まさか昔のフィガロの発言を思い出していたとは誰が思うだろうか。
弁明しようにも、あの頃のフィガロの言い分は身勝手なものだった。魔力強いが故に命を狙われ続けたオズが世の中を煩わしく思っていた頃を知る身としては、今、そんな言い訳が通用しないことはフィガロ自身もわかっている。
だからと言って、この歳になってまさか弟弟子と魔力全開の大喧嘩になることもあるまい。そもそも、遠い昔を振り返ってもオズと喧嘩した記憶がフィガロにはなかった。もし喧嘩なったとしても、幸いにも今は夜。オズは強い魔法を使えない。フィガロにも勝算がある。しかし、明朝からはどうする?魔法舎でやりあうのは避けたい。ルチルやミチルに知られたくない事を知られる可能性がある。むしろ、オズとやり合う事自体を避けたい。
なら、どうすればーーーー
「フィガロ様、差し出がましい事とは思いますが」
フィガロが物騒な思考を巡らせているのを察するように、シャイロックがそれに静止をかける。
「なに?」
「先程までソファー席でルチルとクロエとカインがゲームをしていたのですよ」
「それが今、何の関係があるの?」
フィガロの苛ついた口調に動じず、シャイロックは秘め事を囁くように艶やかな口調のままだ。
「三人がしていたのは、誰が一番キュンとする口説き文句を言えるか。順番にそれを言って相手を照れさせた方が勝ちというゲームです」
「あ、何か分かってきた!」
定位置にいたムルが挙手したが無視だ。
「ムル、静かに。カインとルチルの決勝戦。勝ったルチルが言ったセリフが『食べちゃいたいくらい可愛い』だったのですよ」
「……は?」
カインは熟れた果実のように赤面してそれこそ可愛らしかったですし、その一言で相手を赤面させるルチルの色気も侮れませんね、なんてシャイロックが感心する声はフィガロには届いていない。
つまり、オズに口説かれていたということか。そう気付いくと、フィガロの背中をぞわぞわしたものが駆け上がった。それは突然の事への戸惑いを飲み込んでしまいほど、甘い痺れを伴っていた。胸が熱く溶けるように苦しい。
どんな反応をするのが正解か分からず、フィガロは呆然とオズを睨むように見つめた。しかし、オズは涼しい顔で酒が入ったグラスを口へ運んでいる。言ってやりたいことなら沢山あるのに、取り乱しているのが自分だけなのが気に食わない。込み上げてきた羞恥心や戸惑いを逃がしたくて、フィガロは勢いのままグラスに残った酒を煽ろうとしたが、そのグラスはシャイロックに取り上げられてしまった。
「お熱いお二人は揃って部屋に戻られたらいかがでしょう?」
空気を読む事がうまいシャイロックに、暗に一昨日来やがれと言われて追い出された二人は、オズの部屋に向かう事にした。
階段を上る最中、フィガロはオズに「誰かを口説くなら場所を選べ」だの「言い方が紛らわしい」だのつらつらと文句を並べ立てた。それはスノウとホワイトの弟子として同じ屋敷で暮らしていた頃のように、兄弟子として忠告する時の口調と同じだった。
オズは黙ってフィガロの言葉を聞いて、足を進めた。そして、二人で部屋に入って結界を張り終わってから、フィガロにこう言い返してきたのだ。
「そもそも、お前は、私と恋仲であることを忘れていないか?」
「……」
返す言葉もないとはこの事だ。
そうなのだ。フィガロは、オズとそういうことになっている。兄弟弟子もしくは親友として過ごした時間の方が長くて、改めて意識すると照れ臭さの方が優ってしまうが、オズがいう通り確かに恋人という位置に収まっている。確かに恋人らしいことはしていないが、決して忘れていたわけではない。そう、決して。
フィガロの無言を肯定と受け取ったのか、オズの眉間に皺が寄り拗ねたように口角が僅かに下がる。その変化はフィガロだからこそわかる変化だ。フィガロはそれを見逃さなかった。
最近の考え込んでいた様子やバーでの出来事の意味を今の言葉と表情が説明してくれている。
嫉妬と独占欲。それらが垣間見える言動が愛おしい。なんて、かわいいやつ。
オズにしては頑張ったなとフィガロは自分の事を棚に上げ、オズの頭を優しく撫でて褒める。しかし、その手はすぐにオズに取られ、引っ張っていかれてベッドへ柔らかに押し倒された。
音が無くなったかと思うほど静かで流れるような動きだったのに、オズの瞳に色にも勝る熱が篭っている。この熱はこれからフィガロを飲み込む熱だ。心地よい暖かさかもしれないし、焼けるほどの灼熱かもしれない。どちらだとしてもフィガロには嬉しいものだ。
「何か言うことは?」
押し倒して終わりじゃないだろとフィガロが煽る。挑戦的な視線と口調にオズは応戦した。
「食べたいくらいかわ……」
「それはもういいよ!」
「……」
照れ隠しをするフィガロに理不尽に遮られたオズは、仕返しとばかりに片手で彼の頬を摘んでまた文句を並べようとする口を黙らせる。お互い睨み合いになってしまった。
はじめての夜だというのに、ムードもなにもない。
それでも許してしまうのは、相手を可愛く思っているからだろうか。
頬から手を離され、オズの印象的な赤が近づいてくる。フィガロは仕方ないなと微笑んで。それから、食べてもいいよの意味を込めてオズの背に腕を回した。
おわり