Mount’s right.
人間は、あまりにも弱い。
ただでさえ弱いのに、わざわざ私の頂を目指して、死んでいく。
上空8000m以上の高度は人間には毒で、それをわかって来るのだから呆れてしまう。
クレバスも越えられないのに、凍てついた嵐にも耐えられないのに、手足を失ってしまうのに。
つくづく、人間というものがわからなかった。
けれど、おまえに出会って、少しずつ理解できるようになったんだ。
理解できるようになったんだよ。秀峰。
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温湿度管理された大学の図書館は、正直あまり涼しくない。
8月のうだるような暑い日、図書館のややクッションの効いた椅子に腰掛けて、適当な雑誌をめくる。彼の学生アパートは格安でクーラーがあまり効かないので、アルバイトの時間までやむなくこの図書館で過ごしているというわけだ。冷房が効かないアパートよりも、本のために管理された図書館の方が各段に涼しい。それほど、今年はあまりにも暑かった。
そうしてぼんやりと過ごしていると、背後から肩をぽんと叩かれて飛び上がった。
「よっ、ケイツー」
振り向くと、綺麗に日焼けした顔がにっと笑いかける。鮮やかなトレーニングウェアからのびる手足は筋肉質でしなやかだ。普段から体を動かしているのがわかる。
だが、その呼び名にげんなりして、抗議の声を上げた。
「…いい加減、その呼び方やめてほしいんだけど」
「いいじゃないか。格好良くて好きなんだけどなあ」
「俺は好きじゃないの。名前呼ばれてる気がしない」
そう言ってもこの男は話を聞かないのを知っているので、無駄な抵抗だとわかっている。
ケイツー、というのはあだ名だ。正しくは景二。世界最高峰がエベレスト、それに次ぐ2番目の山をK2といい、それをもじってつけられた名だ。
「あの天原秀峰につけてもらった名前だろ?大事にしなきゃなあ」
「ほとんど家にいなかった父親だぞ。大層な名前だけ残しやがって…」
景二の父、天原秀峰は世界的に有名な登山家だった。登山界のアカデミー賞とも称されるピオレドール賞を受賞したことで一躍有名となり、その後も輝かしい記録をいくつも残している。だが、それも過去のことになって久しい。
「ああ、それよりさ。明日からヒマか?」
「…山なら行かないぞ」
警戒して怪訝な顔をしてみせるが、この男にはいっこうに効かない。
「ヒマなんだな。じゃあ山行こう!」
「なんでそうなるんだよ!」
快活を人間の姿にしたようなこの男は、友人の乙沢林太郎。山が好きで、年間のほとんどを山で過ごしているような変わった人間だ。
「おまえ、単位落としても知らないぞ。出席日数足りなくて、この前教授に泣きついてたじゃないか。レポートくらい出せよ」
「出してるさ。山で書いてるから、提出日は過ぎるけどな」
「え、山に資料持って行ってるのか。図書館にしかないごつい古書だろ」
引き締まった顔をにやりとさせた林太郎は、ちょっとしたすごみがある。
「ああ。重量物を背負ういい訓練になる」
むっとした緑のにおい。
山裾に広がる樹林帯はまだまだ夏の勢いをみせており、強い日差しを心地よく和らげてくれるかわりに、風が通らなくて蒸し暑い。
今は午前11時過ぎ。8時から登り始めて眺望の良い山頂をひとつ過ぎ、それからしばらくは谷を進んでいる。なかなか稜線に出ないので汗だくだ。
「…なあ、ちょっと休憩しよう」
ばてた声を出した景二を振り返り、汗ひとつかいていない林太郎は腕時計を確認した。前回休憩してから40分ほど経過している。
「ちょうどいいし、一旦休憩するか。もうちょっと先に良い岩があるから、そこで昼にしよう」
10分ほど歩くと、平たく割れた岩が板のように横たわった場所に出た。それまで密だった木々がまばらになって風が通るので、汗ばんだ肌に心地良い。
岩に座ってザックから昼食のおにぎりを取り出してほおばると、何気ない塩昆布のうまみが身にしみてありがたく感じられた。
林太郎に連れていかれたのは、彼のお気に入りの縦走コースだった。景二のために行程はかなり短くしており、テント泊含めて2日間で往復する予定だ。だが、日帰りの山行にはよく誘われるものの、縦走は初めてだった。
「俺を縦走に誘うなんて、おまえにしては珍しいじゃないか。寂しくなったのか?」
茶化して言うと、林太郎はいたって普通に景二を見て言った。
「誕生日だろ、明日」
ひゅ、と息が漏れた。
誕生日だから山を贈る、というのはなるほど林太郎らしい。どうりで荷物も持ってくれるし、身軽な体で歩かせてもらえるわけだ。テント泊の準備もあるだろうし、どれほどの重量を背負っているのか想像もできない。
「俺の誕生日覚えてたのかよ」
「8月16日。K2の標高8611mと似てるし、すぐ覚えられたよ」
「あ、そ…」
どことなく気恥ずかしくて、それ以上何も言えなくなった。
林太郎と知り合ったのは大学1回生の夏。今2回生なのでまだ1年ほどだ。どこで知ったのか、天原秀峰の息子がこの大学にいる、という話を聞いて景二を訪ねてきたのだった。林太郎は秀峰を尊敬しているらしく、父の功績を耳にタコができるほど聞かされてきた。
それは、景二がみずから知ろうとしてこなかった父親の話だった。
天原秀峰という男は、世界が注目する登山家である以前に、夫であり、二児の父でもあった。
アメリカでクライミングをしていた時に出会った清子と結婚し、彼女との間に景二をもうけた。その時点でスポンサーがつくほどの実力があり、清子はそのスポンサー会社である外資系商社の営業をしていた。
景二が10歳になるまでほとんど家にはおらず、彼がもつ父の記憶はほとんどない。一度か二度、家族で登山をした記憶と、玄関で出迎えた記憶。それくらいしか残っていなかった。
それでも清子とは何度か会っていたようで、景二の3歳年下の妹・嶺の存在がそれを証明している。
景二が知る父とは、それくらいのものだった。だから林太郎に秀峰のことを聞かれても全く答えられず、逆に教えてもらうほどだった。
ただひとつ、父について知っているのは、K2に憧れて心酔していたということ。
そして10年前、そのK2に挑戦し登頂寸前で遭難したこと。
遭難、というよりは、消えた、という表現が正しいらしいこと。
それ以来、天原秀峰は世界から消えてしまった。
「…それで、もうクラックもない、ぴっかぴかのスラブときたとき、おまえの父さんはどうしたと思う?」
「さあ…」
「遠心力で体を振って、2m先の狭~いクラックまで飛んだんだよ!」
「ふうん?」
クライミングについてはさっぱりなので、林太郎が目を輝かせている理由はよくわからない。
「…とりあえず、でかい岩を登った、っていうことでいいの」
「わかってないなあ。誰も攀じったことない壁だから、こんな冒険ができるんだよ。それを見つけられる才能があったんだ、秀峰さんには」
携帯用バーナーにかけられた湯が沸いて、林太郎がカップ麺に湯を注いでいく。慣れた手つきでメスティンを火にかけ、用意してきた牛肉とたまねぎを炒め始めた。
「うまそうだなあ」
「だろ。においにつられて、クマが出てくるかもな」
真っ青になってあたりを見渡す景二の横で、林太郎が豪快に笑っている。
「ずっと喋ってたら大丈夫だよ。たぶん」
「たぶん…」
あたりはほぼ夕闇に沈んでおり、遠く地平線のあたりはまだほんのりと明るい。
山の上で迎える初めての夜に、少しばかり緊張している自分を感じていた。二人が座っている真後ろに設営したテントにぶらさがったラジオが、遠くに聞こえるようだった。
ぼんやりしていると、ほら、と林太郎がメスティンを差し出してくる。
「焼肉のたれで焼いたし、うまいぞ」
甘辛い香りが鼻先をくすぐって、まだじゅうじゅうと音をたてる肉を見たとたん、自分が人間であることを思い出したみたいだった。
「夜にのまれそうになってただろ」
「…そうかも」
山で暮らしているようなものである林太郎には、見透かされていたようだった。
目の前にあるランプの明かりの外はどこまでも深い闇が続いていて、自分という存在が闇にのまれていく感覚があった。
二人でメスティンをつつき、すこしのびたカップ麺をすすった。体が少しずつ温まってきて、食べ終わると急に眠気が襲ってきた。どこにいても体は正直なものだと実感する。
「疲れただろ。シュラフあるし、好きに寝てくれてかまわないから」
「おまえは寝ないのか」
「しばらくは番をするよ。やらなきゃいけないこともあるしな」
四次元ポケットかと思うほどなんでも出てくるザックから、林太郎は古そうな本と筆記用具を出してきた。
「…がんばれ」
携帯用のウェットタオルで体を拭き、テントの中でシュラフにくるまると自分の体温で温まってきて、瞼がどんどん重くなっていく。レポートに取り組む林太郎の逞しい背中を見ていると、未知の闇への恐怖も薄れていくようだった。
林太郎は変人の部類であることは間違いないし、ケイツー呼びを改めないし、こうして突然山に連れていかれるので、最初は戸惑うことが多かった。しかし、いつの間にかそれにも慣れて、こうして友人と呼べるまでの関係になってきていた。
「そうだ」
半分寝かけていると、林太郎が体ごと景二を振り向く。
「誕生日おめでとう、景二」
彼の腕時計がちょうど0時をさしたとき、景二はそのまま眠りに落ちた。
黒と銀の夢。
生命の気配のない、黒い岩と氷河の風景。
闇夜の天空には月はなく、無数に輝く満点の星々があたりを淡く照らしている。
目線を上げると、目の前には均整の取れた三角錐の岩山がそびえていた。距離感がつかめないほど巨大で美しいその姿に、ただ見惚れるしかなかった。
ひんやりとした外気の気配を頬に感じて、目が覚めた。そういえばここは山だった、と景二が思い出すまで少しの時間がかかった。
右側に横たわったシュラフからはまだ林太郎の寝息が聞こえる。出発はそれほど早い時間じゃないから、遅くまでレポートを書いていたのかもしれない。査読は景二の仕事なので、後で頼まれることだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、ふいに左側に気配を感じた。ぎくりとして目をやると、それまでのまどろみが吹き飛んでしまった。
最初に目に入ったのは、銀とも青ともつかない繊細な輝きを持つ、長い髪。
その源をたどると、この世のものとも思えない美しく整った造形の貌が、静かに寝息を立てていた。
「…だ」
誰だこいつ。
そう声に出したいのに、かすれて声が出ない。
泥棒の類かと思ったが、それにしても美しすぎる。むしろ人間ではないのではと思うほど、それは整いすぎていた。
人間ではないのでは。
ぞっとして、あらん限りの声を出そうとした。
「り、んたろう!」
林太郎はもぞもぞと動いただけで、この異常事態に全く反応しない。クマが出たってこいつは起きないのだろう、そう思った。
「…ひ、で…たか」
異様な存在は、眠りながらちいさく何かをつぶやいた。そして、長い睫毛が上下にひらかれて、澄んだ瞳があらわれた。
夜明けのような、青紫の中にほんのりと桃色が浮かんだ瞳。
「いきて、いたのか」
やわらかく微笑んだ顔は凄絶なまでの色香を放っているが、まだ目の焦点があっていない。景二に手を伸ばそうとするので、慌てて飛びすさる。
「誰だっ、おまえ」
シュラフから上半身を出して、必死に身をよじる。その美しすぎる何かは、きょとんとして目を見開いた。
「林太郎起きろ!こいつ、なんなんだ!」
「んあ…なんだよ…クマかあ?」
「違う!見たらわかるだろ!」
林太郎の顔を両手でつかんで、”それ”の方に向ける。
「うお」
さすがに目が覚めたらしく、突然体を起こしたために景二の顎に林太郎の頭が直撃して悶絶した。
”それ”は、しばらく呆然としていた。奥底まで輝く瞳は困惑の様子を呈していて、かたちの良い唇は真横に引き結ばれたままだ。
流れる髪は腰ほどまであって一見美女のようだが、どうやら体格からして男のようで、身長は180を超えていた。
「…水、要ります?」
林太郎がコップを手に恐る恐る話しかけると、それはじろりと睨むように一瞥したのみだった。
「えと、あなたは…」
「秀峰はどこだ」
「え」
はっきりと声を聞いたのは初めてで、景二も林太郎もうまく聞き取れなかった。凛として低い声は、こんな状況なのに耳に心地よく響いた。
林太郎が聞き返す。
「ひで?」
「秀峰はどこだと聞いている」
今度こそ聞こえた単語に、景二の体がびくりと跳ねた。それは景二を見据えて、怪訝な表情を隠さずに言った。
「おまえは秀峰ではないのだろう。気配はするのに、違う。おまえじゃない」
彼はすらすらと話し、二人はますます混乱する。何の話をしているのかさっぱりだったし、それに、秀峰の名がより混乱を深めていく。
「あの、あなたは、父を知っているのですか」
勇気をふり絞って、景二が尋ねる。
「父?」
「はい。秀峰は、俺の父ですから」
そう言うと、彼はぽかんとした表情になった。さっきまでの険悪な雰囲気が少し和らいだようだった。
「そうか…おまえが、秀峰が言っていた…」
「あなたは、誰ですか」
夜明けの瞳が揺れて、愛おしむような眼差しが景二に注がれる。
「私は、K2と呼ばれているものだ」
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