Deep Blue ♯銃二を旅行へ連れていく~オーストラリア・ケアンズ編~※Attention※
これは未来の銃二がオーストラリアのケアンズを旅するお話、
DRB出場メンバーのあれこれは全て円満解決済みの平和な世界です。
二人の旅先の情報やダイビングのあれこれに関しては広い心で見守って下さい。
さあ、二人と共に絶景の海へ!
Deep Blue
約七時間のフライトを経て到着したのは、オーストラリアのケアンズ空港だ。耳につく雑多な言語とそこはかとなく漂ってくる日焼け止め独特の酸化した脂のようなにおいに、異国の地へやってきたことを思い知らされる。
預けていた小さなトランクをピックアップして到着ロビーに出ると、ド派手な柄シャツにハーフパンツ姿でもうすっかり現地に馴染んだ二郎が私を出迎えてくれた。健康的に日焼けした肌と相変わらずの人懐っこい笑顔が眩しい。
「お疲れ~。あれ、荷物それだけ?」
「ええ」
私の手から荷物を奪い取って、二郎は随分慣れた様子で駐車場へ向かう。慌てて彼の背中を追って空港を出ると、爽やかな南国の風が私の頬を撫でた。
あれだけしがみついてきた現場から退いてからもう大分経つが、休みの融通が効かない警察組織の体質は相変わらずだった。それでも今回ばかりはと管理職の特権をフル活用して誕生日に合わせて一週間の休暇をねじ込むと、私は二郎の暮らすケアンズにやってきた。
二郎は中王区政権の崩壊後、萬屋に依頼として持ち込まれた少年サッカーチームのコーチ業を続けるうちに、次第にそちらの方が本業になっていった。天性のサッカーセンスと愛嬌、DRBで鍛えられた勝負勘を誇る彼は、どうやら指導者に向いていたらしい。経験を積み、指導者ライセンスを取得してめきめきと力をつけた彼は、いつの間にかアマチュアでもトップレベルのチームで指揮をとるほどの実力者になっていた。
ケアンズにある某セミプロサッカーチームから二郎にヘッドコーチとして招聘のオファーがあったのは二年ほど前のことだった。私は、私との生活を大切にするあまりその話を断ろうとした彼の背中を押した。パートナーとして、それがあるべき姿だと思えたからだ。
斯くしていい歳こいて七千キロも離れた長距離恋愛を始めた私たちだったが、直行便があるおかけで彼はシーズン中でも月に一度以上はこちらに帰ってくることができた。彼がイケブクロに住んでいた頃よりはよっぽど頻繁に会えている。単身赴任生活も寂しくないといえば嘘になるが、彼にとって理解あるパートナーでいられることはささやかな私の誇りでもあった。
市内の北東部にある彼のアパートは、シャワーと小さなクローゼットとサッカーボールとシングルのベッドがあるだけの実に簡素なものだった。女の気配がこれっぽっちもないことにホッと胸を撫で下ろした私の顔を覗き込んで、二郎は心配そうに眉を顰めた。
「長旅で疲れちゃった? もう若くねえんだから今日はもうゆっくり休んどけよ、オッサン」
そんなことないですよと笑いながら、私は彼の手を引いた。
それを合図に、引き合うように近づく唇と唇。腰を抱き寄せ、身体を密着させながら、薄っすらとミントが香るその唇を貪った。久方ぶりの柔い感触を確かめるかのように角度を変えながらしつこく啄み、綻んだ唇の隙間に濡れた舌を差し入れる。
「……っ、ふ、……ぁ」
甘い吐息を零しながら、彼は私の舌を受け入れた。粘膜を舐め、歯列をなぞって、舌先を絡め合う。お互いの息遣いとちゅくちゅくと唾液が混じり合う卑猥な音が頭の中でこだまして、次第に思考が溶けていく。派手なシャツの下に手を潜り込ませながら熱く芯を持ち始めた下肢を押し付けてやると、二郎はカッと目を見開いて私の胸を押し返した。
「ぷはッ、……っは、あのさ、……エロいことする元気があるなら遊びに行こうぜ。俺、アンタと行きたいところいっぱいあるんだ」
ケアンズシティを出た二郎の愛車は、北西へ向かった。
混雑のない快適なドライブを20分ほど続けるうちに、窓の外を流れる景色がすっかり様変わりしていた。背の高い南国の木々がうっそうと生い茂り、緑色が濃く、深くなっていく。鳥の声、風のにおい、空の青さと、圧倒的な緑。私のまだ知らなかった森の風景が一面に広がっている。
「キュランダの熱帯雨林は世界最古って言われてて、アマゾンより歴史が深いんだってよ。世界遺産にも登録されてる」
「……へえ、」
太古の昔から手付かずのまま残る大自然、恐竜映画でしか見たことがないような植物や巨大なシダ類、甘い香りを放って咲き乱れる名前も知らない花。木々の間を縫うように走って、二郎の愛車はとある施設の駐車場に滑り込んだ。
「……動物園、ですか」
「そうそう。熱帯雨林もいいけど、オーストラリアといえばやっぱコアラだろ?!」
世界最古の大陸オーストラリアには、コアラやカンガルー、カモノハシといった他の大陸では見られない固有の動物が多数存在している。二郎が連れてきてくれた動物園は日本のそれと比べると大分小ぢんまりとしていたが、忙しい観光客が固有種との触れ合いを楽しむには十分だった。
「……ひぃぃぃいッ!」
彼に手を引かれて園内に入った瞬間、大きな白いオウムがばっさばっさと羽音を立てながら頭上を飛んで行った。思わず悲鳴を上げながら腕にしがみついた私を見て、二郎はくすくすと笑いながらまるで幼い子でも宥めるかのようにそっと私の頭を撫でた。
「ははっ! 相変わらず鳥が怖いんだ」
「いえ、その、……大丈夫、ちょっとびっくりしただけです」
日本でならペットとして飼育されている大きなオウムやカラフルな羽をもつインコたちが、こちらでは街中を雀か烏のように自由に空を飛んでいるから心臓に悪い。他にもワラビーやカンガルーも敷地内で放し飼いにされていて、向こうでは考えられないほど動物たちとの距離が近かった。二郎は随分と慣れた様子でワラビーに餌をやったり、日陰でだらしなく寝ころんだカンガルーを撫でてやったりしている。
「せっかくだから銃兎も触ってみろよ。別に蹴られたりしないぜ」
私も彼の隣にしゃがんて、おっかなびっくりで手を伸ばしてみた。
「……おや、……これは、意外と毛がふわふわで柔らかいんですね」
「そうなんだよ。俺も初めて触ったときはなんか感動した」
「カンガルーって肉も結構美味しいですよね。牛肉みたいで」
「銃兎、カンガルー食ったことあるんだ! なぁんだ、後で食わしてやろうと思ってたのに!」
「ええ。まあその、……昔、理鶯がどこからか仕入れてきたことがありまして」
「ああ~……そっか。なるほどね」
二郎が苦笑いすると、カンガルーは不穏な会話の内容を察したかのようにおもむろに立ち上がってぴょんぴょんと飛び跳ねながらどこかへ行ってしまった。
私たちはその後ものんびりとウォンバットやタスマニアンデビルといった珍しい動物たちを眺めながら園内を散策して、最後に二郎のたっての希望によりコアラを抱っこして写真撮影することになった。正直言ってコアラだなんてさほど興味はなかったが、最近すっかり撮ることが減ってしまった二人一緒の写真を残しておくのも悪くないかもしれないと思ってつい了承してしまった。
園スタッフの指示通り腕を構えて待っていると、まだ子供らしいコアラが乗せられてくる。ふわふわもこもこした弾力のある毛、黒くてつぶらな瞳と、愛らしい顔立ちに似合わない大きくて鋭い爪、しがみついてくる力の強さと重みに驚いた。それでも、
「くっ、……可愛いな」
思わずそう零してしまうくらい、可愛いじゃないか! いっそのこと、このまま持ち帰ってしまいたい!
スタッフの女性が二郎のスマホで撮影してくれた写真には、眠そうな目をしたコアラと満足そうに笑ってピースサインした二郎とだらしなく相好を崩した私がばっちり写っていた。
キュランダを出てビーチの方まで足を延ばし、海を臨むレストランで少し早めのディナーをとった。
オーストラリアといえばオージービーフが有名だが、海が目の前というだけあってシーフードも抜群に美味かった。日本ではなかなか味わえないスパイシーな味付けのロブスターや肉厚でぷりぷりの貝類、バラマンディという白身魚のグリルもクセがなくて食べやすい。
一杯だけと飲んだワインが回ってきたようで、私は動物園にいる間中ずっと気になっていたことをついうっかり二郎に尋ねてしまった。
「……さっきの動物園、以前は誰と行ったんですか?」
いくら小さいとはいえ園内の地図がすっかり頭に入っているらしかったのが気になった。ワラビーの餌付けにも随分慣れているようだったし、あんなに一緒に写真を撮りたいと強請っていたコアラを間近で見ても私のように興奮したりはしていなかった。おそらく誰かと訪れた経験があるのだろう。元刑事の勘がそう言っている。
「へえ、気になるんだ」
「そりゃまあ、かなり」
すっかり空になったワイングラスを置いて素直にそう答えると、二郎はにんまり笑って大きなホタテを口の中に放り込んだ。
「…………こっちで出来た、金髪ボインのガールフレンド」
「はあ!?」
血相を変えてその場で立ち上がり、ヒプノシスマイクを握っていた時代を彷彿とさせるような大声でそう聞き返した私を見上げて、二郎はいたずらが成功した子供のようににんまりと笑ってもうひとつホタテを摘んだ。
「……を連れてきた父ちゃん、」
「は?! え、と、父ちゃん……って、まさか、零さん?!」
「そうそう。いい年こいて相変わらずよくやるよな~、あのジジイ」
ホッと胸を撫で下ろして席に着くと、周りの客の視線が痛かった。
「それから兄貴と左馬刻、独歩と一二三、三郎はケアンズが気に入ったみたいでもう俺のガイドなんかいらないってくらい何度も来てるし、簓も仕事で来たついでにって寄ってくれたことあるな。あ、あと帝統も連れてきてやろうと思ったことあるけど、カジノ以外興味ないって断られた」
「……! なるほど、そうですか。……良かった」
絞り出すようにそう呟きながら、ナイフを握る彼の手にそっと触れた。
「俺、意外と信用されてないんだね」
「人間歳取ると色々疑り深くなっちゃうんですよ」
彼の左手が、ナイフを置いてぎゅっと握り返してくる。
ただそれだけで泣きたくなるくらい幸せなのは、やはりちょっと酔っているせいなのかもしれない。
夜は久々に彼と一戦交える気満々だったが、長時間のフライトと慣れない旅で心身ともに消耗していたらしい。動物園の売店でついうっかり買ってしまったコアラのぬいぐるみを撫でながら、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
「おはよ、銃兎。もうすぐ出るから急いで用意して!」
急き立てられるがまま身支度を整えて二郎の派手な柄シャツを拝借して羽織り、慌ててアパートを出る。近所のコーヒーショップで簡単な朝食をテイクアウトして、海沿いにあるターミナルから高速フェリーに乗り込む。ふと我に返ったときにはもう、私は広大な海の上にいた。
「うわ……!」
雲ひとつない青空と海。どこまでも続いていく青のグラデーションに思わず息を飲む。
白く尾を引くように飛沫を上げながらフェリーはぐんぐんとスピードを上げていく。髪を巻き上げ、正面から吹きつけてくる海風も心地良い。都市とイルミネーションの灯を映したヨコハマの海こそ至上と信じて疑わなかったが、手つかず自然が残る海のなんと美しいことか!
「船のスピード、随分上がってきたな。危ないからもうそろそろ中入ろうぜ」
本当はもう少し海を眺めていたかったが、二郎に促されて仕方なく船内に入った。
約一時間の船旅を経て到着したのは、オーストラリアが誇る世界遺産グレートバリアリーフに浮かぶ小さな島だった。
眩しいほど青くきらめく海と白い砂浜。絵に描いたような南国リゾートの風景が広がるこの島で、私と二郎は一泊する予定になっていた。
フェリーを降りると、ホテルのスタッフが出迎えてくれた。奮発して予約した部屋はキングサイズのベッドがあるスイートルームで、モダンな内装とラグジュアリーなインテリア、広いバスルームにオープンエアのテラスまでついたとびきり贅沢なものだった。いっそのことこのまま二郎と二人きり、一日中ベッドの上で過ごしても良いとさえ思えたが、そうは問屋が下さなかった。私はこの旅における一番の目玉であるスキューバダイビングをするため、半ば彼に引き摺られるようにして部屋を出た。
ケアンズは小さい街で海くらいしか娯楽がないせいか、二郎はこちらに来てからダイビングにどっぷりハマりライセンスも取得したらしい。
それに引き換え、根っからのハマっ子でありながら碌に海に入った記憶さえない私は『体験ダイビング』から始めることになった。耳抜きや呼吸方法といった基本的な講習を受けた後、ウエットスーツに着替えて機材を付ける。インストラクターと一緒に簡単にプールで練習してから、合流した二郎や他のダイバーたちと共に船に乗り込んで沖へと向かった。
タンクを背負い、マスクを装着すると自然と背筋が伸びた。
さあ、いよいよサンゴ礁の海へエントリーだ。
ライセンスを持っている二郎は、ボートの淵に腰掛けたかと思ったら私に向かってひらりと手を振って、そのまま海に吸い込まれるかのように後ろ向きに落ちていった。ため息が出るほど華麗なバックロールエントリーをして見せた二郎とは裏腹に、初心者の私は船から海中へと伸びる階段をフィンの付いた不自由な足で一段ずつ慎重に降りていった。身体が海水に浸かるに従って、装備の重さから解放されていくのがなんとも言えない不思議な感覚だった。
階段に足がつくのも限界になってきて、私は覚悟を決めて海に潜ることにした。その必要なんかないのに息を止め、ぎゅっと目をつぶって、思い切って船の階段を蹴る。
途端に波と泡のノイズが、耳元で弾けた。
上も下も前も後ろもわからない浮遊感に包まれる。
おそるおそる目を開けてみればそこには、別世界が広がっていた。
希少なサンゴ礁と色鮮やかな魚の群れ。
波と共に揺らめく光が描き出すコーティクス。
全世界のダイバーを魅了して止まない、透明なブルー。
「……!」
思わず漏らした呼気が、ごぼごぼと大きな音を立てながら気泡となって海面へ向かって上がっていく。呼吸が、できる。
ゆっくり。ゆっくりと息を吐いてから軽く水を蹴った。
二郎が待つ、さらに深いところへ向かって。
白と黒のボーダーがスタイリッシュなスズメダイ、サンゴ礁でかくれんぼするクマノミ、海の青よりもっと青いナンヨウハギ、黄色が目にも鮮やかなチョウチョウウオ、華やかな鰭をひらひらと靡かせて泳ぐカサゴ。
幼い頃両親に連れられて行った江ノ島にある水族館で飽きるほど見てきた魚たちが、手を伸ばせば触れられそうなところで泳いでいる。水面から差し込んでくる光がレースのカーテンのように柔らかく揺らめき、色とりどりの魚群を照らし出す様は思わず呼吸を忘れてしまうほど美しい。
だがしかし、今この海の中で最も美しいのは私のパートナーだった。
厚みのあるウエットスーツの上からでもよく分かる均整の取れた身体つき、マスクしていても隠しきれない魅力的なオッドアイ、サッカーで鍛えた脚に大きなフィンをつけ、無駄のないしなやかな動きで海中を舞う二郎は、まるで航行中の男を惑わすセイレーンのようだとさえ思えた。
始める前は然程興味のなかったスキューバダイビングだったが、こんなふうに彼と一緒に海を満喫できるなら悪くない。まだ体力のあるうちにちゃんとライセンスを取ってみようかだなんて考えていると、少し先を泳いでいた二郎が瞳をきらきらさせながら振り返って私を手招きした。
「……!」
サンゴ礁の上をゆったりと気持ち良さそうに泳いでいたのは江ノ島の水族館にもいたメガネモチノウオ――通称ナポレオンフィッシュだった。
小柄な女性ほどはあろうかという巨躯に美しいエメラルドグリーンの鱗、前方に突き出した口吻と分厚い唇、コブのように大きく突き出した額が特徴的なダイバーにも人気の魚は、餌付けでもされているのであろうか、やけに人懐っこい。近寄ってきたナポレオンフィッシュはしばらく二郎とにらめっこしていたが、餌をもらえないことが分かると華麗にUターンしてどこかへ行ってしまった。
他にもエイやリーフシャークといった珍しい魚の姿も見ることができて、まだ知らなかった海の世界の素晴らしさに圧倒されているうちに、あっという間に時間が過ぎていた。インスタントラクターが私たちを集め、浮上のハンドサインをする。
光射す海面へ向かってゆっくりと浮上していくダイバーたちを横目に、サンゴ礁の上を這うようにゆったりと泳いできた生き物の姿に私は思わず息を飲んだ。
――ウミガメだ!
大きな前脚で水を掻き羽ばたくように優雅に泳ぐその姿に、吸い寄せられるように近づいていた。柔和な顔立ちとつぶらな瞳がどうしようもなく愛らしい。
――二郎、二郎! ウミガメが、
振り返ったその瞬間、背後にはもう誰もいなかった。皆既に浮上してしまったようだ。
ウエットスーツの隙間から氷水でも流し込まれたかのように背筋がゾッとして慌てて海面を見上げてみれば、ダイバーたちの姿はもう大分上の方にある。名残惜しいことこの上ないがウミガメに別れを告げて浮上しようとしたその瞬間、何者かにぐっと左足を掴まれた。
「……!」
ごぼごぼごぼっと、耳元から大きな泡が抜けていく。足がどうなっているのか確かめようと思ったが、暴れたせいで舞い上がった白い砂に視界を邪魔されて何も見えない。息が上がって、自分の吐き出す泡の音がやけに耳についた。なんとか身体を折り曲げて手探りで足元を確かめてみたが、海藻やサンゴや巨大なタコの足なんかが絡みついている気配はこれっぽっちもなかった。もちろん怪我を負ったり攣ったりもしていない。
――一体どうなっているんだ?!
海中でもがけばもがくほど、巻き上がった砂で視界が悪くなっていく。おまけに何だか呼吸まで――
――呼吸?!
あれだけ煩いほどぼこぼこと音をたてていたレギュレーターからはもう、ほとんど泡が出なくなっていた。慌てて残圧計を確認してみると、既にもうエア切れ寸前だった。想定外のトラブルにパニックになったせいで、一気にエアを消費してしまったらしい。背筋がヒヤリとして、目の前に広がる透明なブルーがあっという間に絶望の色へと変わっていった。
――怖い。
現場に出ていた頃は、どんな凶悪犯と対峙しても、拳銃やナイフを向けられても、怖いと思ったことなど一度もなかった。
ヒプノシスマイクを握っていた頃だって同じだ。どんな強敵が相手でも、我々こそが最強最高という自負があった。
それが今はどうだ。
えも言われぬ恐怖に足がすくみ、指先が痺れ、ウエットスーツの下にびっしりと冷や汗をかいている。自然相手には己がこんなにも無力だということを痛いほど思い知らされていた。
――二郎、
私の、大切な大切なパートナー。
違法薬物撲滅という高尚な理想に取り憑かれた私の人生に彩りを与え豊かなものへと変えてくれた。目的のためならば命さえ惜しくなかった私の、生きる理由になってくれた。守りたいものがあれば人はより強くなれると教えてくれた、同性で年下のいつまでたっても可愛くてたまらない伴侶。
――ああ、二郎、
もう一度、会いたい。
足なんか千切れたっていい。引っこ抜けたっていい。
エア切れで途切れそうになる意識の中、私は死に物狂いになって浮上を試みた。身体中の力を振り絞って砂を蹴った。その時、
――――二郎!?
一面に舞い上がった白い砂を掻き分けて颯爽と姿を現したんは、紛れもなく二郎だった。死に際に脳が見せる幻覚なのではなかろうかと半信半疑でエア切れのハンドサインを出すと、二郎は大きく頷いて自分が咥えていたレギュレーターを私の口内へと押し込んだ。幻覚ではない。やっぱり二郎だ!
久々に供給された酸素を吸う。
ところが、なかなか上手く息が吸えなかった。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようにはあはあと犬のように浅い呼吸を繰り返す私を見て、二郎はレギュレーターを外した。
――!
そして彼は私にキスをした。マスクとマスクがガツガツとぶつかる感触。重ねた唇から漏れる空気が泡になって海面へと消えていくのをぼんやりと見上げる。それでも、押し当てられた唇の感触と舌と一緒に強引に口内に押し込まれたエアに、意識が戻ってくる。そのタイミングで、二郎は再びレギュレーターを私に咥えさせた。
私にキスをしていたかたちのよい唇が『大丈夫、ゆっくり息を吐いて』という形に動いた。こくんと頷いて、彼のジェスチャーに合わせて大きく息を吐き切った。
すると、一気に肺に空気が満ちてくる。身体中に酸素が行き渡ると、手放しかけた思考が急速に戻ってくる。OKのハンドサインを出すと私の呼吸が戻ったことに安心したのか、二郎はようやくタンクから延びた予備のレギュレーターを咥えた。
お互い呼吸を取り戻したところで左足が動かないというジェスチャーをすると、OKのハンドサインを出しながら二郎が私の足元に潜っていく。するとほんの数秒で、私の足はあっさりと拘束から解放されて自由になった。二郎の右手には透明の糸のようなものと小さな釣り針が握られている。どうやらどこからか流れ着いたそれがサンゴに引っかかり、私のフィンを釣り上げていたらしい。ホッとすると同時に、思わず脱力してしまった。
二郎はそんな私を支えながら、マスクの奥から目だけで笑って親指を立てる。浮上のハンドサインだ。
タンクを共有している私たちは、これ以上離れないようしっかりと腕を絡ませたまま、ゆっくり、ゆっくりと光射す方へ浮上していった。
人生初のダイビングでは散々な目に遭ったけど、島のビーチから眺めたサンセットはとびきり綺麗だったし、ホテルのレストランで食べたオージービーフは脂が少ないのに柔らかくて食べやすかったし、相変わらずワインが最高に美味かった。
夜空にくっきりと浮かび上がったミルキーウェイ、まさに落っこちてきそうなほど散りばめられた星屑。ぬるくなった缶ビールを呷りながら波の音を聞いて、見慣れない南の星座を探した。
「お誕生日おめでと、銃兎」
「……ああ」
時刻は午前一時ちょうど。日本時間でいうと5月30日の0時――即ち私の誕生日だ。
「ありがとうございます」
「なあ、あのさ、……どんな感じ?」
「どんな感じって?」
「だから! ……その、来年から、こっちでもやっていけそうかってこと!」
今日で60歳、私は来年の三月で定年退職を迎える。そのタイミングでこちらへ移住するつもりだ。元々彼をこちらに送り出した時から、そういう話になっていた。
つまり、今回の旅行はそのための下見も兼ねている。
「……銃兎?」
潤んだオッドアイに滲んだ星の煌めき。今にも泣き出しそうな表情があまりにもいじらしくて、思わずその腕を引いていた。縺れるように倒れ込んだ砂の上で、私たちはくすくすと笑いながらキスを交わす。
見上げた満点の空には、サザンクロスが輝いていた。
「ええ、もちろん。貴方さえいればどこだって」