ちょろしまと生活。その「きりしま」はぜんまい式の小さなおもちゃでした。後ろに引かれた分だけ、勢いよく前に出る単純な構造の小さなおもちゃでした。でも、他のおもちゃと違うのはなんとなく人間のことを理解し、なんとなく自分のことを理解している点にありました。
その日、小さなきりしま──持ち主の"ニンゲン"は彼を『ちょろしま』と呼び、ちょろしまは持ち主を『ニンゲン』と呼びます──はお天気にも恵まれて、ちょっと暑いくらいの日差しの下、艦艇公開に来ていました。ちょろしまはもともと護衛艦(いーじすかんだよ!)で、横須賀が実家だと思っています。
もちろんここは横須賀ではなく、別の場所であったのですが、ニンゲンのお出かけに一緒についていきがちなちょろしまはそんなこと気にしません。電車に揺られ、バスに乗り、今日もいつものお出かけだと思って、ずっとわくわくしていました。
そうして気がついたとき、ちょろしまはひとりぼっちでした。たぶん、かばんから転がり落ちてしまったか、うっかり人間が置き忘れてしまったのでしょう。たいへんです。
「ニンゲン!」
ちょろしまはせいいっぱいの大きな声で呼びかけます。でも、周りの人間たちはちょろしまに見向きもせずに通り過ぎて行ってしまうばかり。
困り果てたちょろしまが、しょんぼりとそのマストをしょげさせていると、何やらずしんと重さのある音がして、ついでちょろしまはひょいと持ち上げられてしまいました。
「まいごだ」
ずいぶん上から低くて優しい声が降ってきます。それはちょろしまのニンゲンの声でないことは確かで、持ち上げられたのが手のひらの上だと気がつくのに、ちょろしまはずいぶんかかりました。
「まいごじゃないよ!ちょろしまはごえいかんで、いーじすかんだよ!」
「迷った護衛艦は迷護(まいご)なんだけど」
ぜんぜん怒っていない、少し笑ってもいるような声が答えます。
ハッとしたちょろしまは、恐る恐る声の主を見上げて驚きました。なんとそれはいまニンゲンが乗っているはずの艦艇そのひとで、ちょろしまはその自分に似た存在を確かに知っているのです。
「持ち主とはぐれちゃった?見つからなかったら落とし物に届けてあげる」
「そうだ、ニンゲン!ニンゲン、ちょろしまがいなくて、きっとあわててるよ」
「思ったより自己肯定感高めだ……本体もそうだっけ……」
俺あんまり横須賀いないしな、とその大きな手のひらの艦はつぶやきますが、ちょろしまはそれどころではありません。
人の波を縫って広い後部甲板へ出ると、さすがにそこは人でいっぱいです。いろとりどりの服装、おとなとこども、昇りきった陽射しもあいまってちょろしまはくらくらしてしまいます。
「どう?持ち主さん、いそう?」
実はこっそりと空いている手のひらで日陰を作ってくれながら、艦そのひとはちょろしまをハッとさせます。
そうだ、ニンゲン──ちょろしまは甲板全部に聞こえるように、大きな声で叫びます。
「ニンゲン〜〜〜〜〜〜!!!!」
「全員に当てはまるなあ?!」
これには艦そのひともびっくりして、思わず大きな声でツッコミが入ります。
ぜんまい式のおもちゃのちょろしまには汽笛がありません。大きな声を出しても、それはごくまれに、とても勘のいい人間にしか聞こえないのですが、いまはそれどころではありませんでした。
ちょろしまは、この世にたくさんいます。他の場所で他の持ち主に大切にされているちょろしまがいることも知っています。"そのたおおぜい"になってしまったら、きっとニンゲンはちょろしまのことを見失ってしまうでしょう。
そうなったら大切にかばんにしまわれて飛行機に乗ったり、バスに乗ったり、電車に乗ったりしていっしょにお出かけができなくなってしまう。ニンゲンが困ったときに、だれがニンゲンを守ってやれるのでしょう。
ちょろしまは護衛艦でした。守るための盾でした。でもいまはただのまいごです。
ニンゲンはちょろしまを探してくれているでしょうか。手元にないことに気付いていないかもしれません。今日は電車に乗ったあと、シャトルバスに乗ってきました。もし、ニンゲンがちょろしまに気づかないまま、またシャトルバスに乗って、電車に乗っておうちへ帰ってしまったら?
ただいま、といつものように言って、荷物を片付けようとしてはじめてちょろしまの不在に気がつくでしょう。きっとそのときはもう艦艇公開は終わっていて、ちょろしまは他にもある落とし物たちといっしょに泣いていることでしょう。
「にんげん………」
ちょろしまはいまにも泣いてしまいそうでした。といっても水分は含まないので流れるものもないのですが、マストはすっかりしょげかえってしまっています。
「ちょろしま!」
そのときでした。
なんと、ニンゲンの声が聞こえたではありませんか。
「ニンゲン!!」
ちょろしまも大きな声で答えます。なんならひとさまの手のひらの上で、ちょっとぴょんぴょんしたくらいでした。あぶな、おちっ──とか聞こえましたが、ちょろしまはそれどころではありません。
大きな手のひらから、いつものニンゲンの両手にうれしさにまかせて飛び込みます。ぎゅっと優しく包んでくれる感触は、ちょろしまが大好きなニンゲンのそれに間違いありませんでした。
本当なら艦そのひとだって普段人間には見えないはずですが、きっといまはちょろしまがいるので、ニンゲンにも触れ合えるのでしょう。
ニンゲンはそれから艦そのひとにたくさんお礼を言って、ちょろしまにたくさんごめんねを言って、そっとやさしくかばんにしまってくれました。
ちょろしまが見つかって安心したのか、それからすぐニンゲンはおうちへ帰ってしまいましたが、もうちょろしまはしょげていません。でも、優しかった艦そのひとにもうちょっとお礼が言いたかったな、と思いました。
「ちょろしま見つけてくれた人、すごかったね。コート着てて暑くなかったのかな、色もオレンジで」
一大事が終わってほっとしたちょろしまは、電車のゆれが心地良くてなんだかふんにゃりしています。艦そのひとが人間の目に見えるとき、たいていはほかの人間──乗員側と同じ格好か似たように見えるはずですが、艦を素直に反映するために、一部の艦艇はたいへん特徴的な外観になることをちょろしまは知っています。
だから今日も持ち上げられたとき、それがすぐに艦そのひとだとわかって慌てずにすんだのでした。
でもニンゲンにそれを伝えられるすべをちょろしまは持ちません。
いつか、いつか自分の思ったことを伝えられる機会が巡ってくるんだとしたら、最初にそれを教えてあげよう──ちょろしまは来るはずもないいつかについて考えながらおうちへ帰りました。
行事の終わった岸壁では、艦そのひとが同時公開されていた別の艦とお疲れさま会をしていました。
「や〜、護衛艦もちょろだと迷子になるんですねぇ、先輩」
「行事終わってんだから帰ってくれない?」
「先輩、俺に対して南極より冷たいのやめて?後輩は泣いてしまいます」
こうして、ちょろしまのおうちも船橋の港も等しく日は暮れ夜が降りてきます。
ちょろしまは次のお出かけに思いを馳せながら、きっといつかニンゲンのことをちゃんと自分の声でニンゲンと呼べる日をどこかのだれかに祈ったのでした。