欠けた色、満ちた時 この人はとことんおかしくて、とことん俺に甘いのだと気づくのに時間はかからなかった。
泳ぐのが面倒臭かったので「泳げません」と言ってみた。
「それは、何か体に障ったか?」
「いいえ……なんか、だりーんで」
死んでんのに青い顔をしたあの人は波の上に浮かんだ俺に駆け寄り――なぜか水面の上で俺とあの人は地面のように走る事ができた。だから仰向けで眠れるのだ――、かつて赤くなった飛行帽の箇所をさすってくる。
日が沈み始めている。出来れば夜は海の底で、暖かな砂の上でいる方が良い。
「あんただけ、先に戻ってくださいよ。少佐」
「む〜、今は大佐だぞ」
わざとらしく、腕組みして威厳ありそうにするが、今更だ。そもそも階級に拘るならこんな死に方しないだろう。
「どーでもいいです」
ちゃぷちゃぷと波の音は耳に心地よい。俺はこのまま、ここでいたかった。
「仕方ない、おぶされ。伴」
腕を回し切れない、分厚い背中に体を預けて、重なって、波間をちゃぷちゃぷと進んでいく。俺は一切泳がずに、黒髪に頬を預けている。
こんな事、今まで一度もなかった。子供なら、大概親におぶって貰うものだろう。見た事があるから知っている。俺はせいぜい、大人に手を引っ掴まれて引きずられた記憶しかない。
鼻歌なんかが聞こえてくる。意外にも、この人は歌が上手い。音調が取れている。
波の音、鼻歌、遠くから聞こえる何かの音。日が沈んでいく海はどこからか青黒く、しかし、空にはまだ太陽が今日一番の濃い橙に燃えている。
「ふふ、ふふふ」
鼻歌が笑い声に変わった。
「なんですか、急に」
「んー、なに。実はな、俺は生まれて初めて誰かをおぶっている」
「は?」
あんた、子供いるんでしょう?と言う前にあの人は「へへっ。なかなかいいもんだな」と何故か嬉しそうに口髭を人差し指で擦る。
妻と呼べる女がいて、その女と子供を作って……それで一度も、背負った事がないのか?
この人に最後に“抱かれ”た時、この背中に腕を回して、指先に込めた力を思い出す。そして応えるように頭ごと掴まれるように掻き抱かれたのを。
なんてヤツだ。なんて男だ。
自分の子供にした事がない癖に、俺にして、喜ぶなんて……‼︎
「伴〜?どうした?」
振り返るあの人の顔には迷いや申し訳なさの影は微塵もない。それよりも夕焼けの橙に照らされながら晴々しい顔をしている。
「は、はは、ハハッ」
人非人だ……。
あんた、やっぱり変だ。
あんた、やっぱりおかしい。
――俺たちは海神になるんだな。
そう言ってくれたあんたの言葉が堪らなく、苦しいくらい嬉しい。あんたの背中を独り占めできた事が、こんなに嬉しくて仕方ない俺も、やっぱり……。
「ばーん。なにがそんなにおかしいんだ?」
「あんたにゃ一生分かりませんよ」
分厚い背中に頰を寄せる。離してやるかと飛行服の胸を掴む。
ふと、捨ててきた鉢巻の事を思い出した。