レテの水底㉒/記憶喪失佐真「先に地獄で待ってるぜ、兄弟」
呪いの言葉を背に受けながら、嶋野はひょいと手をあげひらひらと振ると己が部屋を後にした。
「……佐川…ッはん」
「お前、さ…」
嶋野の足音が遠のいて漸く腕の中の彼をまともに覗き込んだ真島の言葉を遮るように、佐川は嗄れ声で彼を呼んだ。
「よくやった……偉かったよ、ほんと」
それを聞いた途端、不意にどっと全身から汗が噴き出した。佐川の血と己の汗でドロドロに濡れた首元をトントンと震える手で宥められながら、真島は唇を噛む。佐川司に褒められた。実際彼に初めて陰茎を舐められた時の五百倍は驚いて、一千倍は「幻聴か?」と己の耳を疑っている。
「はは、何てツラだよ。やめてよ笑うとあばらが痛ぇんだから」
佐川はちょんちょんと真島の顎を指でつついて無理に笑って見せたが、やがて限界が来たのかぽとりと己の腹の上に手を落とした。
「しかし高ぇ勉強代だったねぇ真島ちゃん」
改めて呼ばれたその名に胸がぐっと詰まり、真島は思わず佐川から顔を背けて明後日の方向を睨む。
「危ねぇ橋渡りやがって…この馬鹿。次に穴倉行かされたらもう二度と戻って来られねぇことくらいわかるでしょ。それを親に隠し事して、あまつさえ嗅ぎつけられるなんてよ…。お前は甘すぎだ、嶋野が正しいよ」
「せやけど親父が知ったらあんたを売ることはわかっとったんや…!あんな状態のあんた引き渡せるわけないやろが!それとも何か、自分が誰かもわからんようになっとったあんたが、何も知らん罪で嬲り殺しにされんの黙って見といたらよかった言うんか!!」
「そうだけど?」
佐川はへらりと言ってのけた。
「はいはい、わかってるって。お前がそんなこと出来ねぇ甘ちゃんなのはさ。だからこそ嶋野はこんなことまでしてお前に教えたんでしょ、大事なモンは作るなってさ。──けどよ、真島ちゃん。俺だって同じこと教えたつもりなんだけどね。それも嶋野よりもっと優しくさ」
『決して人を愛してはいけない』
「……あれ、あんたにとっちゃ優しい部類に入るんやな」
「そりゃそうでしょ。怒鳴ってないし、殴らずに言ったし、おまけに気持ちよくまでしてやったってのに。これのどこが優しくないっての?」
うっさいわ、と応じながら真島は項垂れる。
「あんたらはそうやって俺から大事なモン全部奪うつもりなんやな。俺なんぞは欲しいもの手に入れたらあかん、そう言いたいんやろ」
「──うーん、ちょっと違う」
痛みに顔を顰めながら佐川は唸る。
「例えば嶋野はさ、何でも持ってる男な訳だよ。金も地位も名誉も女も、大事な物はいくらでも持ってる。何でかわかる?──それはあいつがそういう大事な物を、いざって時には全部切り捨てられる覚悟を持った奴だからだ。俺を今切り捨てたみてぇにさ」
真島は僅かに唇を震わせながら彼を見下ろす。
「いつかそれが出来るようになりゃ、お前も大事な物なんかいくらだって持てる。どうよ、人生まだまだ捨てたもんじゃないでしょ」
「フン、どうだか──。それがあんたらの強さっちゅうわけかいな。子の見せしめにするためだけに、渡世の兄弟拷問にかけるのが」
「そうだよ。お前もわかると思うけど、嶋野はそこがいいんだよ。この俺を真島ちゃんを成長させるためだけに手ずから嬲ろうだなんて考えつくのはあいつだけだ、全くゾクゾクするほどイイだろ、あいつ」
真島は流石に呆れ果てた。
「え、もしかして全然共感してねぇ感じ?」
「してへんけど。あんたら何なん」
「なぁんだ、つまんねぇの。俺とお前さんの共通点なんて嶋野に惚れてること以外ねぇと思ってたのに」
「──惚れとる言うんか、こないな目ぇに遭わされとんのにまだ」
「勿論」
何でもなさそうに佐川は笑って言ってのけた。
「男が盃交わすのは、心底惚れた男とだけだろ」
惚れた、男。
真島は小さくため息をつきながら、佐川の足に目をやった。
「──はぁ、流石にちょっと疲れちまった」
その目線に気が付いたのか佐川はぽすんと真島の素肌の胸に頬を押し付けながら言った。
「あいつ無茶苦茶しやがって…足も完全にやられてんな、これじゃもう歩けねぇや。…なぁ、どうやって近江まで行く?真島ちゃん」
しかし真島はじっと足に巻かれた包帯にじわりと滲み始めた赤黒い血のシミを見やりながら黙っている。
「真島ちゃん?」
佐川は苦労して手をもたげ、彼のうっすらと髭の生え始めた口元をサリサリと親指であやした。暫く勝手にいじられていた真島だったが、やがておもむろに口を開く。
「親父の強さは本物や」
ごくりと喉が鳴った。
「俺は骨の髄まで親父のこと尊敬しとる。ここまで出来るあの人は、並の男とはちゃうんや──せやけど俺は、親父のようにはなりたない。親父よりももっと、デカい男にならなあかん」
佐川は怪訝そうに眉を顰めた。その横顔は未だこめかみに噴出した汗にてらてらと濡れている。若い激情。誰かが御してやらなければ、死ぬまで走り続けるかもしれない暴れ犬。
「俺は大事なモンは手放さへん。諦めへん。切り捨てるんが強さや言うんなら、守りきるんはもっとごっつい強さのはずや」
ぱっと真島は佐川に向き直った。その瞳の奥の炎はかつて、彼が惚れた男のものと似ているようにも見える。いや、もしかするとそれ以上だったかもしれなかった。
「俺はあんたを諦めへん。何としてでも守り切って、親父を超える。これが俺の執着や。この真島吾朗の、生き方や」
佐川は文字通りぽかんとかつての犬を見上げていた。こんな間抜けな顔は、記憶を失っていたサガワツカサさんですら一度もしなかったのに。
「お前、もういっぺん穴倉行ってこい」
出し抜けにそう唸った佐川の頬は不随意に痙攣していた。
「自分で言うのも何だけど、俺の首は結構な価値がある。近江と取引するにはもってこいだ。三年も経っちまってるから状況は変わってるかもしれねぇが、嶋野のいうデカいシノギってのにも一応の心当たりはある。あれをもしお前が一手に動かすようになったら、莫大な金が動くぞ。組を持てる。目ぇ覚ませ真島。何のためにあんなに耐えて忍んで、極道に戻ったんだよ。これからがお前の人生だろ。つまらねぇ情や見栄でそれを棒に振るような真似はすんな。俺を切り捨てる覚悟もねぇような奴が、極道の世界で生きていけると本気で思ってんのかおい!」
もう身体は動かない。声だけで凄んでも、いくら睨みをきかせても、真島はもはや怯む様子は見せなかった。
「あんたはもう俺の主人やない。オーナー様でも、叔父貴でもない。あんたは今ただのおっさんや。記憶のないおっさんだったんが、記憶のあるおっさんになっただけや。俺はもう、あんたの命令は聞かへん」
「お前にわからせるためにはどうしたらいいんだよ、俺の足一本じゃ足りねぇってのか?嶋野呼び戻して両腕両足やってもらわなきゃわかんねぇってのか?」
「そんな必要あらへん。例えあんたの手足がぶっ飛んだかて、俺の意志は変わらん。あんたのことは俺が守る。俺の首も、あんたの首も守り切った上で、凌いで、凌いで、凌ぎ切って。ドデカいシノギで金貯めて、ぎょうさん上納して、もう親父にも何も文句言われへんくらい稼いで稼いで稼ぎまくったる。そんで出世するんや。このドブの中で、あんたと一緒に」
そして真島は有無を言わさず、佐川の唇を強引に奪った。捕食でもするかのように唇にかぶりつかれる。長い口づけの後に漸く解放された佐川は、「水責めよりも苦しい」と文句を垂れた。
「お前ってやつは…ほんとに馬鹿だ」
息も絶え絶えに彼は訴える。
「俺はさ、賢い奴が好きなんだよ。馬鹿はずっと毛嫌いしてきた。それなのに、この畜生が。お前みてぇな大馬鹿がこれからどんな人生を送るのか、知りてぇと思っちまう。隣で眺めていてぇと、思っちまう。この俺をこんなにしやがって。責任とれよ、この馬鹿たれ」
真島はにぃと歯を見せて笑った。刹那的な人生を目いっぱいに楽しんで生きる、真島の理想の真島吾朗が、ここに蘇る。
「よしゃ!やったるで!何せ二年で一億稼いだ俺や!出来へんことは何もない!近江でドデカい花火、ぶち上げたろやないか!」
「一億だって?お前が二年で上納したのは9623万8511円だろ、サバ読むなよ支配人」
久々の呼び名にきゅっと心臓を掴まれながら、真島はぎりりと歯ぎしりして腕の中の男を睨みつけた。
「…あんたほんと性格悪いな。ほんまのほんまに、あんたのこと嫌いやわ」
「そ?」
佐川は心底愉快そうにケタケタと笑った。
「けど俺は愛してるぜ、真島ちゃん」
完