視力にまつわる佐真の散文佐川司は欠伸を噛み殺しながらリモコンを手に取ると何の気なしにチャンネルを回した。ニュースも粗方終わっていて、くだらない深夜番組ばかりの時間だ。既に砂嵐になっている局もある。ザッピングを繰り返していく毎に喧しいコマーシャルが静寂を裂いた。佐川は手元の新聞を手に取るとざっとラテ欄に目を通し、ちびりとウィスキーの水割りを傾ける。
「相変わらず暇そうやのう」
いつの間に帰ってきていたのか。ちらと顔を上げると奇天烈な恰好をした不審者が呆れた様子で立っていた。豪奢な蛇柄のジャケットから逞しい胸を露わにしたその男は、やれやれと腕を組みながらこちらを見下ろしている。
「そりゃ暇だよ、やることないんだもん」
佐川はつまらない留守番の時間が遂に終わりを告げたことに気づいてにんまりと口角をあげた。
「何ぞシュミでも見つけたらええねん。おっさんが日がな一日家でテレビ見とるなんて痴呆まっしぐらやで」
「そうは言ってもねぇ…誰かさんが俺のこと束縛するから、ろくすっぽ外に出れねぇんだもん」
「だもんやあらへんねん。俺の目ぇが届かん所でタマとられてみぃ、目覚めが悪うて敵わんわ。俺が傍におる時以外はここにおったらええねん、ここは絶対に安全やねんから」
「あいよ、仰せのままに」
この問答は何百回も繰り返されている。佐川とて本気でこの小さな檻から出て行きたいわけではない。たまにワガママを言ってやると真島が喜ぶのを知っているだけだ。従順すぎるものを奴は好まないから。かつての立場を考えれば信じられないことではあるが、この青年と暮らし始めて既に一年になる。だが馴れ合うのは性に合わなかった。この年若い恋人が、いつまでも夢中になれるようなどこか手の届き難い男でいたいのだ。それくらいの独占欲はまだ持っていたって罰は当たらないだろう。実際は何もかもこいつに捧げているのだから、それくらいは強請ったって平気だろう。
「真島ちゃん飯は?」
「外で食うて来た。あんたも食うたか?」
「おう。この前買ってくれた酒、ちょいと頂いたよ」
「ほうか、少しずつやってくれや。あんた動かへんねんから、あっちゅう間に太るで」
うるせぇな、と独り言ちながら佐川はぽんぽんと己の隣を叩いた。最近ことあるごとに小言ばかりの恋人と、久々に色っぽいことでもしてやろうと企んだのだ。男盛りのこいつのこと、きっと他所でも発散しているには違いないが。しかしこの真島吾朗の自宅に陣取っているのは彼であるわけで、真島が性欲を発散する数多の女たちにと比べれば一歩も二歩も先んじているのは間違いない。いわばずっと王手をかけた状態な訳だから。
「こっちおいで、真島ちゃん。テレビでも見ようぜ。どうやら古い洋画が始まるみてぇだ、ロマンス系だってよ」
「誰があんたと一緒にんなモン見んねん。それに今夜はテレビ見られんのや、俺もう寝なあかん」
「何でよ、いいじゃん。なぁ…」
口を尖らせて強引に彼の腕を引いてやると、思いのほか抵抗もせず真島はすとんと佐川の膝の上に小さな尻を乗せた。革手袋に包まれた厳つい指が薄い髭の生えた顎をすっとなぞる。
「しゃあない人やのう…まるで子供やないか」
ふ、と少しだけ酒の香りのする吐息が籠った。佐川は愛しい若者を腕の中の檻に閉じ込めてやる。どちらからともなく重なった温かな唇は、軽い感触で互いを味わった。
「俺をお前の子にしてくれんの。真島のお、や、じ…」
耳元に囁いた言葉が真島の耳の奥に落ちる。途端に彼はぶるりと全身を震わせた。
「──あかん、寒気してきた。熱出とるかもしれん」
逃げ出そうとする犬を羽交い絞めにしてその背をソファに押し付けると、佐川はその身の上に己の身体を静かに重ねた。ぎゅ、とソファが小さく悲鳴を上げる。
「ん……っ」
***
白黒のロマンス映画はクライマックスを迎えていた。城が大炎上し、愛し合う二人が互いに固く抱き締め合っている。気怠い温もりを絡めた腕に分け合いながら、二人は薄暗い部屋でぼんやりとその結末を見届けてやる。
やがてキスを交わした二人を最後に画面は暗転し、何の余韻もなくぷつりと映画は終わった。また賑やかなコマーシャルが流れ始めたのを皮切りにうーんと無理な体勢で痛んだ肩を伸ばして恋人を抱き寄せた佐川は、そのよく手入れされたテクノカットの旋毛にそっと唇を落とした。
「寝てんの、真島ちゃん」
寝てへん、とすぐに彼は返事をした。だが覗き込むんでみるとその片目はぱたりと閉じられている。
「お前あんまりテレビ見ねぇよな。映画とか興味ねぇ?」
「そんなことないで」
真島は彼の肩に頭を乗せたままちらりと佐川の横顔を見上げた。
「テレビ見んのも映画見んのも好きやけどな。あんまし見んようにしとんねん。ぎょうさん見ると目ぇ悪なるて言うやろ」
はっとしたことに感づかれぬように用心しながら、佐川は小さく「ん?」と唸って真島の額に己の頬を寄せる。
「俺はこの通りのめっかち(隻眼)やから。悪なってもうたらもう極道としては生きて行かれへん。つまらんことかもしれへんけど、こんなんは積み重ねや思うしな。せやからもう、好き勝手にテレビなんかは見んようにしとるんや」
見たいモンある時は遠慮せんと見るけどな、と真島は何でもないことのように付け加えた。目の前のテレビはいつしか砂嵐になっている。ザァザァと耳障りな雑音があたりを支配していた。
「どないしたん、佐川はん」
黙り込んだ佐川に気づいたのか、真島は薄目を開いてきゅっとその柔らかな耳たぶを引っ張った。
「別に気にすることないねんで。あんたは勝手に見てもろてええ。俺も今夜みたいにあんたと見たいモンがある時は喜んで見るしな」
「そ?」
佐川は腕に力を込めて恋人の背を抱き直した。
「真島ちゃん」
テレビがぷつりと消され、代わりに灯った仄かな熱を帯びた言葉が真島の耳の奥に落ちる。
「もっかい、する?」
もうせぇへん。そう言いながら真島は静かに恋人の首筋に腕を回した。
***
「相変わらず暇そうやのう」
真島は腕を組み、呆れたようにこちらを見下ろしていた。部屋を満たすクラシックの旋律。彼の好む番組の時間だ。
「そりゃ暇だよ、やることないんだもん」
佐川は眼鏡をくいと押し上げると、手元の本を掲げて見せる。
「飯は?真島ちゃん」
「まだや。あんたは?」
「俺もまだ。簡単なものでもこしらえてやるよ」
「おおきにやで。ほんなら俺、風呂掃除しとくから先に入らしてもろてもええ?」
「いいよ。一番風呂はお前のモンだ」
「そらおおきに。お先頂きますわ」
美しい旋律に雑音が混じる。アンテナの向きをくいくいといじって満足そうにうなずくと、佐川はいそいそと台所へと向かった。今夜は何にしてやろう。好き勝手暴れて疲れ切った犬に、今日も一日楽しく生きたご褒美だ。冷蔵庫からぽいぽいと食材を取り出すと佐川は手際よく支度に入る。
二人で囲む飯は、美味い。
クラシックはいつしか軽やかなジャズに変わっていた。真島は今日あった出来事をぺらぺらと愉快そうに話す。咀嚼しては喋り、飲み込んでは喋り。落ち着かない犬コロ。佐川はそれをつまみにちびちびと酒をやり、時々低い声で笑った。
佐川も風呂から上がる頃には、ソファの上で真島がのんびりと身を横たえている。聞けばつまらないバラエティ番組のパーソナリティが軽妙な口調でハガキを読んでいた。ぶはは、と真島が吹き出している。佐川は濡れた銀髪をくしゃくしゃとバスタオルでかき混ぜると、やがて身をかがめて恋人の額にそっとキスをした。
「ラジオ、楽しい?」
真島はふっと片目を細めて佐川を見る。
「たまらんわ」
彼は微笑む。
「はよ髪乾かしてきぃ。一緒にラジオ聞こうや」
ん、と佐川は小さく唸って洗面所へ向かう。一緒にラジオを聞く時間。何故テレビをつけなくなったのか、なぜラジカセを買って来たのか。佐川は何も言わない。真島も聞く気はない。
それでも。それだから。
「ほんま、たまらんのう」
真島はゆっくりと伸びをして、そして静かに目を閉じた。