Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    tamagobourodane

    @tamagobourodane

    書きかけのものとか途中経過とかボツとかを置いとくとこです
    完成品は大体pixivにいきます

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 🐱 💍 🐣
    POIPOI 22

    tamagobourodane

    ☆quiet follow

    自分の世界に帰って異世界のことをかなり忘れちゃってる晶君のところにこれまた色々忘れてるフィガロが「来ちゃった♡」する話 (2/4)
    全編にわたってフィガロがほぼヒモ


    誕生日にこんなの上げんな!だけどこれはフィガ晶エターナルハッピーエンド計画の一環で一年中途絶えることはないので・・・




    5.


     目を覚ました瞬間反射的に引っ掴んだスマートフォンの文字盤は、予定より二十分も遅い時間を指していた。慌てて飛び起きてみると、彼の同居人はまだ布団の上で寝息を立てていて、ぴくりとも動かなかった。目覚まし時計なんて彼は当然持ち合わせていないのだから、早朝に起きろという方が無理な話なのかもしれない。取り敢えず大急ぎでクローゼットからシャツやスーツを引っ張り出し、寝ぼけ眼のままにそれらに手を通した。
     すぐ近くで立てられる物音にさすがに目が覚めたのか、「ううん」というくぐもった声が聞こえた。振り返ると、ぼんやりと薄目を開けたフィガロが布団から顔を出し、うつ伏せの半身を少しだけ起こして晶の方を見ていた。
    「――今日、早いね?」
     居候の口からこぼれた無神経極まりない一言に、晶はこれ見よがしにため息をついて見せた。そのくらいは許されるだろうと思った――何せこの男は今、ほとんどヒモみたいな生活をしているのだから。
    「この国では働く社会人はみんなこのくらいの時間に起きて、職場に行くものなんですよ。朝から晩まで、あくせく働くんです」
     精一杯言葉に棘を潜ませたつもりだったが、フィガロはただ「ふうん」と答えただけだったので、晶はそれ以上嫌味を言う気力すら失って、キッチンでヨーグルトを口に放り込んで、それから身支度を整えて玄関に立った。
     家主が出かけるとなるとさすがに見送らなければならないと思ったのだろうか、今や寝間着代わりになっているバスローブをひっかけたままフィガロが、見送りに出て来た。
    「いってらっしゃい」
     寝ぼけ眼のままでそう言って微笑む彼は、ふわふわとした寝ぐせもあいまって、どこか子供のようで、怒る気になれない。ちゃんと昨日渡したお古のスマートフォンを持っておくんですよ、と言い聞かせると、これまた子供のようにこくりと頷いて、練習しておくね、と言っていた。

     遅刻をギリギリのところで免れて出社し、自分のデスクに着くと、同僚一人が近付いてきた。何の用事かと見上げる晶に、その男は話しかけて来た。
    「なあ、結局あの後大丈夫だったか?」
     あの後とは何のことかと考えかけて、はたと懇親会で同僚達と別れた後のことを言っているのだと思い至った。
    「――溺れた人を救助してたけど、結局どうなったの?」
     素直にその質問に答えて良いものかどうか迷ったが、嘘をつくのも後の為にならないと思ったので、事実そのままを述べる。
    「今うちにいますよ」
    「――冗談だろ?」
     それが冗談だったらどんなに良かったかと思いながら、晶は首を横に振った。
    「行き先がないようなので、色々なことが決まるまでは当面うちにってことに」
     晶の真実を巧妙に隠した曖昧な答えに、同僚は呆れたような声を上げた。
    「――お前さ、それ大丈夫なのか? お人よしも大概にした方がいいぞ」
     そんなことは言われなくてもわかっているさと頭の中で思ったが、出てきたのは結局また、自嘲気味の曖昧な笑みだけだった。


     カウンセリングの予約を入れていたので、会社の帰りにはクリニックに寄ることになった。本来もっと先に入っていた予約だったが、ふと思い立って早めて貰ったのだった。理由は他でもない、フィガロとの外出の間に突然戻って来た、例の記憶のことを忘れてしまう前に聞いてほしかったからだった。幸い担当のカウンセラーの予定は空いていて、じゃあ今晩予約を入れておきます、ということになった。初めてこのクリニックに来た時、予約はあまり取れないと言われたのは、なんだったのか。
     そういう事情だから少しだけ遅くなるとフィガロに前もって電話をかけると、教えた通りにきっちり電話に出た。ちょうど出かけていたところだったらしく、電話の向こうからは車のクラクションの音が聞こえた――彼は彼で、自分の目的を果たす為に街を彷徨っていたのかもしれない。恐怖症の克服は大切なことだからゆっくりしてきて、と言われ、ついでに夕飯は何がいいかと聞かれた――火の出かねない台所を彼一人に任せるのはやや不安ではあったが、折角やる気になっているので任せることにした。
    クリニックに訪れるのも三回目となればさすがに慣れて、待合室の少し重い空気に押し潰されることなく診察室まで辿り着くことができた。例の担当のカウンセラーはちょうど休憩にでも出ていたところらしく、待合室で晶を見止めると、声をかけて来て、そのまま彼のブースへと連れて行ってくれた。
    「――やぁ、今日予約表見たら名前があったからびっくりしたよ、何かあったの?」
     二回目の診察とは思えないような気さくな調子だった――心を病んだ患者の話をずっと聞いていられるのは、案外こういった開けっ広げなタイプなのかもしれない。患者の為に用意されている椅子に座りながら、晶は「突然すみませんでした」と前置いた。
    「――ちょっと気になる記憶が戻ってきそうだったので――それで、ぼやけてわからなくなってしまう前に、お話を聞いて頂きたくて」
     晶の答に男はにっこりと笑った。
    「いい判断だったと思うよ。夢と同じで、そういう記憶は時間がたてばたつほど、忘れていってしまう可能性があるからね。すぐに相談に来てくれて良かった」
     男の答えに晶はどこかほっとした――症状に波が出た途端に診察を頼む、不安定な患者と思われたくなかったのだ。少なくとも男にとって、晶の判断は正しいものだったらしい。
    「それで、一体どんな記憶が戻って来たのかな?」
    「――例の、異世界の記憶です」
     晶はもう躊躇うことなくそう答えた。
    「いきなり戻って来たの?」
    「いいえ――この前診察して頂いた後、ある人とちょっと外出する機会があって、その時に突然フラッシュバックのようなものがあったんです。いきなり過去の映像が見えるような」
    「――なるほどね。それがどんなタイミングで来たのか、覚えてるかな?」
    「ケーキを食べていた時でした。相手の話したことが少し場を暗くしてしまうような、悲しい話で――そうしたら頭の中に一瞬、それと良く似た違う景色が見えました。でも、はっきりと掴む前に我に返ってしまって」
    「なるほど――良く似た何かが見えたってことは、眠ってる記憶と似た光景が切っ掛けになって、思い出しそうになったということなのかな」
    「そうかもしれません」
     いささか混乱した自分の説明に論理の筋道をつけてくれる男に心の中で感謝しながら、晶は頷いた。
    「――その後、海に行った時もちょっとしたことを思い出したので――何かきっかけがあれば、少しずつ戻って来るようなんですが」
    「なるほどね。だけどその鍵が何だかわからないから、意図的に切っ掛けを作るのも難しいって感じかな」
     晶の頭の中は愚か、その思考の更に十秒先を読むかのような的確さで、男は言った。彼はまた例の肘をついて組んだ手の上に顎をのせる格好をして、晶をまじまじと見つめた。
    「――でも、少なくとも今君は一つ鍵を持ってるわけだよね。ケーキを食べながら、ちょっと暗めの話を聞いてやって、謝られるっていう、記憶の扉を開く鍵をさ。だったらもう一度試してみたら?」
    「どうやって?」
     男の意味するところがすぐには理解できず、晶は首を傾げた。
    「もう一度頭の中に再現してみるんだよ。どちらでもいい――君が思い出した方でも、昨日の鍵になった出来事でも、その映像を頭の中に浮かべてごらん。別にうまくいかなくたっていいんだ――これはただの実験なんだから。試してみる価値はあると思うよ」
     男の提案は至極理に適ったものであるように聞こえた。もし記憶の中にある出来事と似通った映像によって、眠ったそれの蓋が開くのであれば、もう一度その状況を脳内に無理矢理作り出せばいいのである。
    「――勿論一人でやることは、あまりお勧めしないよ。けど今は俺がいるからね、例えきみが混乱したって助けてやることができる。だから安心して」
     心のどこかにある不安が表情に出ていたのだろうか、男は安心させようとするように言葉を重ねた。
     男の提案を試してみない理由はなかった。眠る記憶の底を見たい気持ちがあればこそ予約を早めたのだ。晶は「やってみます」と小さな声で答えると、唾を飲んで、それから昨日の光景を想像しようとした。――フィガロがいて、内装の可愛らしいケーキ屋さんにいて、それから少しだけ悲しい彼の探し人の話を聞いている。
    「――もし何かが頭に浮かんできたら、取り留めがなくても構わないから、思いつくままに話してみて。ゆっくり息を吸って――もしそれが助けになるなら目を閉じてもいい」
     閉じた目蓋の裏側は黒いキャンバスのように見えた。そこにカフェの光景を映し出そうと、記憶の渦を掻きまわす。フルーツの乗ったケーキ、誰かの少しだけ寂しそうな横顔、それから湯気を立てるティーカップに、気まずさに伏せられる己の視線。
     簡単なことではなかった――すぐに気が散ってしまって、集中するのはなかなか難しかった。
    「もっと肩の力を抜いてごらん」
     苦心していることを悟ってか、男が低い声で言った。
    「それこそ水の中に浮かんでいるように、ぼーっとしてごらん。思い出そうと力を入れなくていいんだ」
     それは晶にとって、コツを掴むきっかけになるような、的確なアドバイスとなった。水面に揺蕩うような感覚を想像すると、ふいにキャンバスは、長い時間をかけてやがてゆっくりとセピア色に変わる。それはじんわりと形ある何かを映し始める。何かが引っかかってその映像はなかなか先に進まないが、自分を安心させるように深呼吸すると、やがてそれはじんわりと溶け、そこに時間の流れが加わった。


    *     *    *


     晶は噴水の縁に座って、ぼんやりと絵本を眺めていた。異世界の文字は今まで見たどんな外国の文字より複雑で、のたくるミミズか何かのように見えた。日々送られて来る依頼書の数が半端なものではなくなってきているので、他の者の手を借りなくても読めるようになった方が皆の負担が減ると思ったのだ。けれど、そこへ至る道は決して平坦なものではなさそうだった。
     ぼんやりと辺りを眺めると、良く手入れされた垣根と、可愛らしい花の並ぶ花壇が見える。その花の間に遊ぶ鳥を何となく眺めていると、ふいに晶の目の前に影が差した。
    「賢者様、何してるのこんなところで」
     良く言えば気さくで明るい、悪く言えば軽薄な、そんな口調で男は話しかけて来た。晶が振り返ると、男は彼の手元を見下ろして、ちょっと意外そうな顔をした。
    「あ、もしかしてお勉強してた? 文字を覚えてるの?」
    「――勉強しようとしてましたけど、気が散ってぼんやりしていました」
     晶が照れ混じりにそう言うと、男は「いい天気だからね」と答えた。
    「でも偉いね、賢者様はこの国の言葉を覚えたいの?」
    「――それは、できる限りは」
     少し自信なさげに答えた晶に、男は笑った。
    「覚えようとするだけ偉いよ、たった一年しかここにいないのにそこまでしようと思う賢者も少ないだろう」
    「それで皆さんの仕事が楽になるなら、意味はありますから」
    「――まあね。でもいつも仕事のことばかり考えてなくてもいいじゃない。ここでの生活も――いや、もしかしたら人生だって一瞬だ。きみも楽しんだ方がいいよ」
     じゃあね、と男は言って背を向けると、そのままどこへともなく歩いていく。その後ろ姿を見送りながら、なんとなく晶はそこにいつもと違う影があるような気がして、目を離すことができなかった。――今しがた投げかけられた台詞はどこか人の営みを嗤うようなものではなかったか。勿論魔法使いの中でもかなりの長寿の部類に入る彼にとっては全てが幻のようなものなのだろうが、それにしてもあんなにも不用意に人の気分を沈ませる言葉を吐くような男だったか。
     晶はそのまま黙って見ていることに耐えきれずに、石の縁の上から立ち上がった。
    「――ちょっと待ってください」
     晶の声に男は立ち止まり、一瞬の間の後に振り返った。
    「どこへ行くんですか?」
     男の立っている場所まで足早に近寄りながら、晶は尋ねた。男は少し面食らったように瞬きしてから首を傾げる。
    「うーん、別にどこってこともないけど――ここではないどこか?」
     冗談めかした、どこかで聞いたような言い回しだった。けれど、まるであてのない旅にでも出るかのようなその台詞は晶の心を妙にざわつかせた。
    「だったら、一人で行かないでください――良かったら、俺も連れてってくれませんか」
     いささか図々しい願いだっただろうかと思いながら、晶はなるべく自然な笑顔を作ろうとした。男はしばらく晶を見下ろしていたが、やがて「いいよ」と僅かに微笑んだ。
     男は本当に特に行くあてなどなかったようで、何をしたいかと晶に聞いてきたので、「何か甘いものが食べたい」と月並みなリクエストを出した。せっかくだから男の生徒たちにも声をかけようと言ったら、彼の表情に影が差したように見え、曖昧な笑みを返されたので、やっぱり二人で行きましょうか、と言い直すことになった。だったらこれはデートだね、といつもの調子で返して来たので、隙あらば誘惑じみたことを言おうとするその軽薄さに閉口しながらも、どこか安心した。
     連れて行かれた先は、近くの街でも有名な、流行りのカフェだった。運良くテラス席に案内して貰うことができ、晶は賑やかな街並みと宝石のように飾られたケーキをどちらも同時に楽しむ機会に恵まれた。仄かなお茶の香りを愉しもうとティーカップを顔に近付けると、ふと浮かない男の横顔が目に入った。彼はテーブルの上の菓子など目に入っていないかのように、頬杖をついてぼんやり道行く人々を眺めていた。そこに彼にとって興味深いものがあるとはとても思えなかった――恐らくただ物思いに沈んでいたのだろう。
     自分が庭園で彼の態度に違和感を覚えたのは、あながち間違いではなかったのだろうな、と晶は頭の隅で思った。時折この男はふいにどこかへ消えてしまいそうな空気を漂わせていることがある――考えてみれば先程はそういう時だった。
    最初にそんな彼に気付いたのはいつのことだっただろうか。あれは確か市場で、南の国の魔法使い達と連れ立って歩いていた時だっただろうか。男はすっと一人で輪の中から離れて、どこかへ行ってしまおうとして、それで晶は思わずその手を掴んだのだ――一人で行かないでください、と。どうしてそんなことを言ったのかは自分でも良くわかっていない。多分いつかの夜、小さな言葉を貰ったせいかもしれない――自分の声が聞こえる限りは、一人でどこかへ行ったりしないよ、という頼りない杖のような言葉を。
    「――お茶、冷めてしまいますよ」
     それとなく声をかけると、男はたった今気付いたとでも言うように「ああ」とテーブルの上に目をやった。
    「ごめんね賢者様、デートになのになんだかぼんやりしちゃって」
    「――多分これはデートではないですし、別に構いませんよ。俺が勝手について来たんですし。でも、何かあったんですか?」
     その問いがなるべく探るような調子にならないよう、晶は何気ない顔をしてケーキを切り分けながら言った。
    「賢者様は冷たいなあ」
     男は笑って答える。
    「――そういう作戦なのかな、構ってくれておいて、そんな気はありませんでしたって身を翻すっていう――よくある手だよね」
     俺も連れてってくださいなんて、可愛いこと言ってたのになあと揶揄うようなその調子が、その時は何かを誤魔化しているようにも聞こえた。
     いい加減反応していてはきりがないので、肩を竦めて苦笑すると、しばしの間の後に男は観念したようにため息をついた。
    「――うん、きみは意外と誤魔化されてくれないよね」
    「別に話したくないことであれば、話さなくていいんですけど――でも、ケーキだけでも食べませんか、美味しいですよ」
    「カインのお薦めの有名な店だからね。――別に、話したくないってようなことでもないんだよ、ただちょっとあーあってなってただけだから」
     確か以前にも聞いたことのある、言いまわしだった。子供が落胆を示すようなその響きは、男が口にするとどこか皮肉に、より残酷に聞こえる。飽きてしまった本や思い通りにならない宝物を放り出す時に子供が発するような、そんな危ういもののように感じられる。
    「――嫌なことが?」
     話しやすいように、あるいは話したくなければ言葉をひっこめられるようにと思って、多くの言葉は差し挟まなかった。
    「そうだね、嫌なことなのかな。――前にもこういうことあったけど、最近=%tdsaも/§sdja◆もいつも誰かと一緒にいてさ。生徒の巣立ちって寂しいもんだなあって」
    「やきもちですか」
     晶が気遣いも忘れて思わず呟いた一言は、意外なことに男の気には障らなかったようで、彼は楽しそうに笑った。
    「あはは、それ、賢者様が言うとなんか可愛く聞こえるよね。――まあ、そうなのかな。なんだ結局巣立って行っちゃうのか、みたいなそんな感じ」
     それで何となく面白くなくて、彼は一人でどこかへ出かけようとしていたのか、と晶は頭の中で納得した。彼の言うように確かに以前にもこういうことはあった。魔法舎へ来たことで子供達の世界が広がって、それに彼が面白くないと思うようなことが。最近彼の中で折り合いがつきはじめているようにも見えたが、長年の性質はそう簡単に変わるものでもないのだろう、やはり寂しいと思ってしまう場面はあるのかもしれない。
    「――俺も昔、似たような経験をしたことがあります――あなたのとはきっと、全然スケールが違うけど。仲の良かった子が違う学校に上がったら、全然違う友達に囲まれていて――」
    「あーあって思った?」
     少しだけ愉快そうに聞いてくる男に、晶は頷いた。
    「思いましたよ。――あーあ、俺なんてもういらないんだなって。友達だってそういう風に思っちゃうんですから、家族ほど関係が近ければそういうものでしょう」
    「――あはは、賢者様も意外とやきもち焼きなんだ。――俺がどっか行っちゃったら俺にも同じように思ってくれる?」
    「あなたに対してそういう感情を持つのは、ちょっと危険な気がするので遠慮しておきます」
    「どうして?」
    「――泥沼が見えるから?」
     この奇妙な言葉遊びに男は興が乗ったようで、更に追い打ちをかけて来た。
    「泥沼ね、いいじゃない、たまにはきっと楽しいよ。――例えば今日俺達はこのまま魔法舎に帰らない。どこか綺麗な場所で一晩過ごして、それで明日は一緒に双子先生に怒られる」
     妙に艶っぽい物言いはいつも以上に上滑りして聞こえた。常日頃のように受け流しても良かったが、敢えて晶は正面から言葉を返すことにした。
    「――でもそれ、あなたが本当にしたいことですか?」
    「え?」
     美しい翠色の瞳が、その時ばかりは真ん丸になって、きょとんと見開かれた。
    「俺と夜どこか行くことは、あなたがしたいことじゃないでしょう」
     晶の台詞に、男はまじまじと彼を見つめていたが、やがて軽く鼻を鳴らして、薄い笑みを浮かべた。
    「――きみは簡単なようで、簡単でもないとこがあるよね」
     その絶妙な線の引き方が魔法舎を率いる秘訣なのかな、などと彼は呟いて、その皮肉な笑みを浮かべたまま通りに目を反らした。
    「――俺にちょっとでも物を言うことが許されているのなら、あなたがするべきことはどちらかというと、美味しいお菓子のお土産を生徒達の為に買って行ってやって、一緒に楽しい夜を過ごすことだと思うんですが」
     俺なんかと無断外泊をして双子先生に怒られるよりも、と小さな声で付け加えた。男はしばらく通りに視線を投げたままだったが、やがてため息をつくと晶の方に向き直り、「ごめん」と言った。
    「――気を遣ってくれてたのに、多分ちょっと失礼な対応をした」
     晶は首を横に振った。
    「いえ、俺はそんなに嫌な気持ちになっていたわけじゃないから大丈夫ですけど。でも、世界が広がったって、あなたの生徒達はあなたが必要で、あなたと過ごす時間が大切なんですから」
     だからお茶を楽しんだら、ちゃんと魔法舎に帰りましょう――そう言うと、男はしばらく黙った後に、「そうだね、まだ」とやや寂しそうに微笑んだ。
    「――ね、これまだ手を付けてないから君が食べてよ――暗い話をして気を遣わせたお詫びに」
     男はそう言いながら、目の前の皿を指で晶の方に押しやって、まだ運ばれてきた時のまま、美しい形をしているケーキを勧めて来た。
    「え、でも――俺はもう一つ頂いてるので」
    「じゃあ、二つ目をどうぞ。――君は甘いもの好きだろう?」
     恐らく厚意でそう言ってくれているのだろうと思い、晶は結局それを受け取った。フィガロはもとより食べる量が多い方でもないと、魔法舎での共同生活で見ていたので、単純に空腹でないのかもしれないと判断したこともある。
     彼がくれたケーキはパリパリのパイ生地でクリームを挟んだ、ミルフィーユに似た菓子だった。ふと、自分の住んでいた街にはこれの有名な店があったなと思い立って「懐かしいな」と口にした。
    「――懐かしいって何が?」
     男が首を傾げたので、晶は笑って説明する。
    「ああ、ケーキのことです。――俺のいた世界ではこういうケーキをミルフィーユって呼ぶんですけど、これの有名な店があったなって。苺がいっぱい挟んであって、美味しいんです」
    「へぇ。違う世界でも同じようなお菓子があるっていうのは、なんだか面白いね」
    「パイの食感がちょっと違うかもしれないですけど――あ、でも美味しい」
     それから魔法舎に舞い込んでいる任務のことや、南の国の様子のことなどを話して、お茶のポットをすっかり空けてしまうと、二人は家路に着くことにした。晶の勧め通り生徒達の為に土産を買うというので、ケーキの並べられているショーケースの前に立って一緒に選んでやると、ふとケーキの数を数えて男が首を傾げた。
    「――賢者様はいらないの?」
     その問いの意味が最初わからなかったが、やがてお土産のことだと気付いて晶は首を横に振った。
    「俺はもう二つ食べちゃいましたし」
     たかだか、ケーキの数の話をしていただけのはずだった。けれど男は何かが引っかかったように――それこそ小さな魚の骨でも喉につかえさせたような顔をして、しばらく晶のことを見下ろしていた。

    *      *     *

     一通り頭に浮かんだことを話し終えてしまうと、晶は妙に喉が渇いたような気がして、「水を飲んでもいいですか」と尋ねた。頭に浮かんでは消える映像を追いかけながら、それを言葉に、意味のある文章に組み立てていくのは、案外疲れる作業でもあった。男が「勿論」と促したので、晶は鞄の中からペットボトルに入った水を取り出して、喉を潤した。
    「――今日は随分具体的な出来事を思い出せたようだったね」
     カウンセラーは満足そうに言って、晶に微笑んだ。自分の仕事の出来に満足しているという風だった。実際、こんなにまとまった記憶を引き出せたことは今までになかったので、彼の腕はいいのだろう。
    「今の記憶に出てきたのは、恐らく君が前の診察で話していた例の男性のことだね?」
    「そうだと思います」
     晶はちょっと考えてから、頷いて肯定した。顔が見えなくてもそうだという不思議な確信があったのだ。
    「――前に聞いていたよりは親しいようだったけど、デートするような仲だったの?」
     男がそう聞いてきたので、晶は苦笑して首を横に振った。
    「いいえ、もしかしたら説明の仕方がまずかったかもしれません――全然そういう仲ではなかったと思いますよ。友達ですらなかったんじゃないかと思います」
     晶の答えに、カウンセラーは何かを言いかけたように見えたが、結局彼の口から言葉が出て来ることはなかった。
    「――多分、寂しさを時々共有する相手というのが、一番近い表現かな」
     記憶の中の自分をなぞりながら、晶は呟くように付け加えた。
    「あとは、前にも言ったかもしれませんけど、放っておけなかったんです。手を離すと勝手に迷子になって、どこかに行ってしまいそうだったので」
    「なるほどね」
     男は何か思案している風に、しばらく手元のメモに目をやっていた。晶の口から今しがた吐き出された記憶の澱をまとめて、何か解釈でも加えようとしているのだろうか。
    「――大分まとまった出来事を思い出せたみたいだから、引き続き、今日のように続けて行こうか」
    「今日のようにと言うと」
     晶が疑問符を顔に浮かべると、男は再び視線を上げて答えた。
    「――君が何かを思い出せそうになったら、診察に来る――勿論、最初からきれいに思い出したならそれを話してくれてもいい。とにかく何かの手がかりが得られそうだったら、今日のように予約を入れてみて。なるべく対応するから。こういうのは治りそうな時に集中的にやっちゃうのが大事だからね」
    「でも、あのお代が――」
     以前も口にした懐事情に言及すると、男は首を横に振って見せた。
    「いらないよ――どうしてもというならきみの払えるだけでいいよ。――その代わり俺の個人的な研究に使わせてもらうけど。この症例は本当に珍しいものだからね」
     学会で定期的に発表していると、ちゃんと給料が上がるんだよ、と男は笑った。
    「――あ、そう言えばお名前を伺っていなかったんですが」
     晶はふと今日予約を取る時に名前を出せずに困ったことを思い出して尋ねた。特に名乗られることが無かったので、患者との距離を保ちたいのかと考えて前回は聞きもしなかったが、やはり知らなければ知らないで不便ではあった。
    「――それって診察で大事なこと?」
     だが男は真意の読めない微笑みを浮かべて、首を傾げた。
    「俺に固有名詞を与えちゃうと、きみは色々なことを喋りにくくなると思うけど。――俺を壁のようなものだと思っていてこそ、きみは自分でも信じられない様な記憶のことだって話すことができるんだと思うけどな」
    「――そういう主義なら診察中はそのようにしますが、予約の時に困ったので」
     男はたった今気付いたとでも言うように「ああ」と呟いた。
    「だったら、受付の人に聞いたらいいよ」


     診察室を出て受付に向かうと、晶は言われた通りに担当のカウンセラーの名前を尋ねた。彼女はぱらぱらとカルテをめくってから、少し眉根を寄せていたようにも見えたが、やがて頭を振ってある名前を教えてくれた。何の変哲もない名前だった。勧められるままに数日先に予約を入れて、病院を後にした。請求書を受け取ることはなかった――どうも最近不思議なことばかり起こるような気がするなと内心で考えながら夜道を歩いた。
     担当のカウンセラーと向き合った時、不安や不信感を感じることはなかったが、それでも彼の言動や雰囲気には少し普通ではないところがあるような気がして、もしかして自分は何かしら騙されてでもいるのかと思いはした。けれど、きちんとした病院の敷地の中で一体、どんな詐欺行為が行われるというのか――インターネットに尋ねてみたって、そんな怪しげな評判は立っていない。
     結局、今月はフィガロといい、どうも不思議な人にばかり会うめぐり合わせの月なのだろうなと無理矢理自分に納得させて、そのまま帰途についた。大体どんな不思議なことが起ころうが、記憶の底に眠る異世界での物語に比べれば、どんな出来事だって突拍子もないということはないのだ。

     家に着くと、玄関に同居人が迎えに出て来た――彼には小さすぎる晶のエプロンを身に着けたその姿はどこか笑いを誘ったが、本人としてはどうも可愛らしく見えると思っている節があった。促されるままに上着を脱がされて、まるで家政婦を通り越して使用人でも得たかのようなサービスを受けた。
     室内に入ると、やけに豪華な食事が食卓に並んでいたので、晶はちょっとぎょっとして同居人の方を振り返ることになった。フルーツの乗ったサラダに魚のムニエルのようなもの、それから付け合わせが少しとパン。常日頃であれば晶が普通の日の夕食にはとらないような、豪華なものだった。彼にきちんとした料理の技能があったことは大変ありがたいのだが、単純に懐事情の問題である。晶はスーパーのサービスタイムの常連だった。
    何も言わずとも意図は察したのだろう、フィガロは事も無げに次のように言った。
    「あ、今日ちょっと豪華だけどちゃんと安売りで買ったから心配しなくて大丈夫だよ。――スーパーのおじさんが親切に教えてくれたんだ、黄色いシールのは安いよって。ついでに色々オマケもつけてもらったんだ。この街の人、親切だね」
    「――それなら良かったですけど、……ってお酒まで買ったんですか」
    「それは賞味期限切れの廃棄用のを裏の酒屋さんでくれたよ。この間海に行く間に通ったとこ」
     なんともまあ要領のいい男だなと半ば呆れながら、晶は机の上に並んだチューハイだのビールだのの缶を眺めた。彼自身は晩酌をするタイプどころか酒に弱いので、付き合いで舐める程度にしか飲まない――こんなものが家のテーブルに並んでいるのを見るのは初めてのことだった。
    「お酒、強いんですか?」
     クローゼットを開けて部屋着に着替えながら、晶は尋ねた。すると男は目を細めてまるで恋人のことでも語るような表情で答える。
    「――ま、こいつがいないとやってられないっていう程度には」
    「あの、お酒は高いんで頂きもの以外はほどほどにしてくださいね……」
     つい晶が彼にしてははっきりと窘めると、フィガロは笑い声を上げた。
    「あはは、大丈夫だよその辺はさすがに弁えてるから。当分なくならないくらいあるし」
     ぎょっとして彼の視線の先を見ると、台所の入り口に怪しげな段ボール箱が置かれていた。
    「――酔いつぶれないでくださいよ……」
     晶にしてみれば途方もない量に見えるそれに頭が痛む様な気がしながら、部屋着の上にパーカーを羽織って食卓に向かうと、フィガロがどうぞ、と水のコップを差し出してくれた。
    「君は飲まなかったよね」
     さりげなく投げかけられた言葉に、ふと自分はこの男にそういう話をしたことがあっただろうかと思い、少しばかりの違和感を覚えた。
    「――話したことありましたっけ? あんまり飲まないって」
     晶の問いに、フィガロは少し間を置いてから「――家の中に一切お酒っぽいものが無かったから」と答えた。大した観察眼である。
    「あーでもこれ回るの早いな」
     発泡するオレンジ色の液体を口に含んで顔をしかめながら、フィガロは呟いた。
    「――炭酸のものは胃の壁だっけな、なんかそういうのを溶かしますから」
     缶に書かれたアルコール度数を見ればそれなりに高かった。巷で酔いつぶれる為だけに売られているという噂の酒だ。
    「それは特に強いから気を付けてください――ご飯食べながらの方がいいですよ」
     晶が促すと、フィガロは少し揶揄うように目を細めて言った。
    「潰れちゃったら、きみが面倒みてくれるでしょ」
     その言い方に、晶は再び妙な違和感を覚えて、しばらく視線を外すことができなかった。冷める前に食事に手を付けようとしてふと近くの棚に目をやると、あの貝殻が妙な存在感を主張しているような気がした。一瞬、視界にセピア色のノイズが入ったような気もしたが、それはすぐに霧のように散って消える。
    「――ご飯にしよう」
     フィガロの声に晶は食卓に向き直って、いただきます、と手を合わせた。口の中に入れたムニエルからは、いつもと違って、けれど少しだけ懐かしい味がした。






    6.

     悪癖というのはしばらく付き合ってみてからお互いに見えるものだという。けれど一緒に住んでいれば、それがつまびらかになるまでの期間が短くなるのは当然のことなのだろう。同居を始めてからおよそ一週間、晶は厚かましい以外は特に目立った欠点もなさそうに見えた同居人の決定的な弱点を発見してしまった。――しかもそれが酒というろくでなしの見本のようなものなのだから、嫌になってしまう。
     とはいえ酒乱とかそういう類のものではないのが不幸中の幸いだった。だが酒を飲んだフィガロは恐ろしく鬱陶しく、面倒な生き物だった。まずアルコールが回り始めると、やたらと人を揶揄うような発言が増える。もう少し酔いが回ると、なんとなく夜の関係を匂わせるような、訴えられそうなギリギリの発言が増えてくる。――そして完全に出来上がってしまうと、寂しいとかなんだとか、まるで子供かというようなことを言い始める。こうなったらもう手に負えないので、布団に放り込んで寝かしつけるしかないのだが、そうすると近くにいて欲しいと甘えてくるので、晶としては完全に閉口してしまって、思いきり上から掛け布団をかぶせるしかなかった。
    この欠点さえなければ家事も完璧にこなしてくれるし、家だって魔法のように綺麗にしてくれるのだから言うことはないのだが、生憎晶は酔っ払いの相手がそんなに得意ではなかった。同居生活開始から一週間ちょっと、この男を引き受けたことを心の底から後悔し始めていた。
    「――頭痛い、気持ち悪い」
     布団に突っ伏したまま、フィガロが呻く。ネクタイを締めながら、その姿を半眼で見下ろして、晶はため息をついた。朝日差し込む部屋の床の上、推定齢三十過ぎの男はまるで赤ん坊のようにぐずっている。
    「昨日あんなに深酒するからでしょう――二日酔いになるのが当たり前ですよ」
    「――俺、あんまりこういうことになったことなかったんだけど。この国のお酒ってたまに変なの混じってるよね」
     酒屋から段ボール単位で貰って来たアルコールの利き酒を楽しむうちに、身体に合わないものを飲んでしまったらしい――あるいは連日の飲酒で肝臓が限界を迎えていたのか。布団からひょっこりと覗いたフィガロの顔は、確かに少しばかりいつもより青白く見えて、具合が良くなさそうだった。
    「多分今日一日寝ていれば治るとは思いますよ」
     呆れ半分に、晶は少しだけ冷たい口調で突き放した。そんな彼にフィガロはやや不満そうに上目遣いを作る。
    「――もう仕事行くの?」
    「行かなきゃクビになるでしょう」
     しかし具合が悪そうなのは事実だったので、晶はため息をついて、台所に行き、水を持ってきてやった。トレーの上に乗せて、それから朝食の為に用意した果物もおまけにつけておいてやる。これではどちらが家政夫なのかわからない。
    「――ほら、お水と朝ごはん枕もとに置いておきますから、頑張って起き上がってください」
     時計を見ると既に家を出なければならない時間を過ぎていて、晶は枕もとを立ってフィガロに背を向けた。大きな子供は布団の中でうめき声を上げていたが、やがて小さな声で「行ってらっしゃい」と言うのが聞こえた。

     出社できた時間は結局規定より十分ほど遅かった。タイムカードを押し、珍しく上司から嫌味を言われて鬱屈した気持ちのまま自分のデスクに向かうと、ため息をついている晶のところに同僚がやって来た。
    「――珍しいな、お前が遅刻して来るの――なんか疲れてるのか?」
     上司に小言を言われる晶を目にして心配してくれたのか、彼はこれ、と言ってマシンで買ったコーヒーを机の上に乗せてくれた。
    「ありがとうございます――ちょっと色々あって」
    「――色々って、もしかして例の居候? まだいるのか?」
    「それがいるんですよね、今朝は酷い二日酔いで、ちょっと面倒を見なきゃいけなくて」
    「それで遅刻かよ、もう放り出せば……? あーでもお前、酔っ払いの世話には縁があるっぽいよな」
    「そんなことはないんですが」
     冗談めかした同僚の言葉を晶が困った顔で否定すると、彼はけらけらと笑った。
    「でも、最初の飲み会かなんかの時だっけな、お前が潰れちゃった時――確か寝言で言ってたんだよ、『もう飲んだらダメですよ』とか言って。なんか外人の名前を呼んでて」
     ふと妙にその言葉が引っかかって、晶は思わず同僚を見上げた。
    「外人の名前? どんな名前か覚えてますか?」
    「――いや、それは忘れちゃったけど――なんか、まるで酔っぱらったそいつを起こそうとしてるみたいだったよ」
     自分のデスクに帰って行く同僚の背を見送りながら、晶は安っぽい味のコーヒーを口に含み、突如胸に沸いた激しい違和感に耐えていた。晶には明らかに外国人とわかる名前を持った友人などいないのだ――フィガロや、あるいは記憶の中の異世界で出会ったであろう人々を除けば。同僚の言っていた飲み会はフィガロと出会う前にあったものだから、もしかしたら失われた記憶の中に登場する誰かの名前を呼んだのかもしれない。
     ――酔っ払いの介抱、酔いつぶれそうな誰かを止める。そんな記憶はあっただろうかと懸命に考えて、真っ先に浮かんできたのは今朝のフィガロの姿だったが、もっとそれより前に似たような光景を目にしたことはなかっただろうかと記憶の糸を手繰った――頭がくらくらとする気がして、胸の奥にあった違和感が動悸に変わった。
     それを押しのけて記憶の底を覗き見ようとしても、寝転がってぼんやりと晶を見上げるフィガロの姿は妙に脳裏に残った。仕方なしにそれを頭の隅に留まらせる――いや、それでいいのだ、と頭のどこかで声がした。
     寝転がった男の姿が見える。一瞬、以前の記憶の中にも見た大きな屋敷とその庭園、それから噴水が見えた――男はその噴水の脇のベンチに寝転がっているのだ。青白い顔をして月の輝く夜空を見上げ、自嘲的な笑みを浮かべているように見える。見える、というのは彼の目元は彼自身の掌に覆われていて見えないからだ――空いた方の手には酒の瓶をぶら下げている。明らかに飲み過ぎていて、その手はふらついている。
    ああ、賢者様、と言って彼が掌をどける。

     ばしゃん、と大きな音がして一斉にオフィス中の人間が晶の方を振り返った。一瞬何が起こったのかわからずに、何故彼らは自分を見ているのだろうと思った――が、すぐにその理由に気付いた。足元にはプラスチックのカップが落ちていて、カーペットをコーヒーの黒い染みが汚していた。先程の音はコーヒーのカップが落下した音だったのだ。スーツの裾が、少しだけ跳ね返った黒い液体で、汚れてしまっていた。
    「大丈夫か……?」
     近くの同僚が小さく聞いてくるのが聞こえた。「大丈夫です」と笑顔で誤魔化して、コップを拾った。心臓はまだ激しく動いて、頭の中は棒でかき混ぜられたように混乱していた。すぐに誰もいないところに行きたいと思った――恐らく今なら汚れたスーツの応急処置の為にトイレに行ったとしてもおかしくないタイミングのはずだ。
     大急ぎでトイレに駆け込んで蛇口をひねると、その水を顔にかけた。壁の鏡を見上げると、水に濡れた自分の顔が映っていたが、その表情はどこか鏡の前の人間を憐れんでいるようにも見えた。

     何事にも集中できない散々な日を過ごした後、晶は病院へ向かった。元々予約の入っている日だったが、フィガロの体調のことがなんとなく気にかかっていたので、一応遅くなっても大丈夫かと電話を入れることにした。電話の向こうの声は相変わらず少し掠れていたが、倒れたりはしていないようなので取り敢えずはひと安心した。遅刻の恨みはまだ消えていなかったのでややつっけんどんに電話を切ると、そのまま会社の建物を出た。
     病院の待合室には、珍しくあまり人がいなかった。いつもより少しリラックスして待っていると、やがて受付嬢が案内してくれ、いつものように白いブースが晶を迎えた。
    「――やあ良く来たね、元気だった?」
     簡素なデスクの向こうには、相変わらず掴みどころのない笑みをたたえた担当のカウンセラーが座っていた。ただしいつもと違うところもあった――彼はまるで少し喉を傷めたような声をしていた。
    「ええ、まあ――お風邪でもひかれたんですか?」
     ふと気になって晶がそう尋ねると、男は笑って顔の前で手を横に振った。
    「違う違う、ちょっと昨日友達と長い間喋り過ぎちゃってね」
    「――そんなに長い時間ですか」
     声が枯れるほど喋るなんて経験は晶にはなかったが、男は良く喋る性質に見えたから、もしかしたら一日中でも喋っていたのかもしれないなと思った。
    「まあ俺の喉はどうでもいいとして、きみの方はどう? また何か思い出したこととかあった?」
     その問いに答える前に、晶は上着を脱いで椅子の背にかけると、鞄を脇に置いて腰かけた。
    「――今日またちょっと、発作のようなものがありました」
    「発作?」
     男が目を丸くして尋ねてくるので晶は訂正しなければならなかった。
    「いえ、発作というのは大袈裟ですね。フラッシュバックというやつなんでしょうか。少し違和感があったので――その違和感から記憶を辿ろうとしたら、いきなり過去の映像のようなものが見えて、それで少し具合が悪く」
    「――どこか痛いところとかあったの?」
    「いいえ、ただ頭がぐるぐるして、しばらく動きたくありませんでした」
     男はしばらく思案しているようだったが、やがて少しばかり真剣な表情になって晶を見据えた。
    「今度から、何かを思い出しそうになったらなるべく誰かの近くにいた方がいいだろうね――痛みはなくても、混乱で倒れてしまったりって可能性がないわけじゃないだろうから」
    「――一応今日は、社員の皆さんがいたんです。でもまさか異世界の記憶が戻って来たとは言えないので、変な目で見られました」
     晶の言葉に男は苦笑した。
    「単に具合が悪くなったと言えばよかったのに」
    「その時は思いつきもしませんでした」
     男は何事かを紙にメモしてから、「それで」と話を続けた。
    「――一体どんなことを思い出したの?」
    「それが今回はあまりはっきりしないんですが」
     晶は朝会社で起きたフラッシュバックのことを思い出して、少しだけ何かを思い出そうとするのが恐ろしいと思いながら答えた。
    「――酔っぱらった男性を介抱していた記憶です。月夜の晩に、この間お話したのと同じ場所で誰かが寝転がって――いえ、ほとんど倒れていて。でもそこで会社にいた時は気持ちが悪くなってしまって」
    「今は思い出せると思う? ――でも無理はしない方がいい」
    「……やってみます、そうじゃなきゃ診察に来た意味がないので」
     晶の言葉に男は頷くと、机の上に手をついて晶の顔を覗きこむようにして、低い声で言った。
    「だったら、この間と同じように目を閉じるんだ――でも注意深くやるんだよ。今回鍵になるものは何だと思う?」
     晶は言われるままにゆっくりと目を閉じて、目蓋の裏の暗闇を見つめた。鍵になるもの――恐らく今回の場合は酔っ払った男、あるいはそれを介抱しているシーンになるのだろう。
    「――酔っ払いの男性」
     晶が短く答えると、男はそのまま穏やかな声で続けた。
    「……今回はまだあまり記憶そのものがはっきり表出していないようだから、思いつくままに、単語でもなんでもいいから口にしてごらん。匂い、音、見えるもの、なんでもいい――少しずつ君の頭の中にあるものに近付こうとしてみて」
     二度目になるので、前回よりは言われたことを実行するのは難しくなかった。暗闇の中、朝方思い浮かんだ夜の庭園の景色を想像する。そしてベンチの上に倒れるようにして寝転がっている男を思い浮かべる。相変わらず男の顔は見えない――でも、声が聞こえる。
    「男性がいます――ベンチの上に寝転がって――ほとんど不貞腐れていると言ってもいい――彼は多分冷たい態度を取られたんです」
     静かな診察室の中に、晶の声だけが響いた。
    「――大切な人に。でも相手は悪くないような、どうしようもない理由で――だから落ち込んで――お酒の瓶が見えて、それはほとんど空っぽです」
     庭園の静止画に、少しだけインクが落とされて、それが淡く広がった。色がより鮮やかになって、それからノイズが走る。
    「誰かを呼びますか、と俺が聞いて――」
     ノイズが一際強くなったかと思うと、突如映像の彩度が増した。月の光がまるでそこにあるかのように、筋となって見えた。噴水の心地よい水音が耳の奥に響いて、それからだらりと垂れ下がった男の手と酒瓶が見える。悲しいくらいに青白く、透けて見える。男の身体は確かにそこにあるのに、それを消えてしまいそうだと思っている。
    「――それで、俺が取り返しのつかないことなんてない、って言うんです。今度ダメなら、次がその時かもしれないって」

    *        *       *

     夜の庭園は冷え冷えとしていた。晶は寝間着にガウンを羽織っただけの格好で、そろそろと魔法舎の玄関の階段を降りて行った。名前も知らない虫がどこかで鳴いているのが聞こえ、眠れないのは自分だけではないのだなと頭の隅で思った。
     生け垣をなぞるようにゆっくりと歩を進めていくと、夜にひっそり咲く花が挨拶するように頭を垂れていた。月に青白く照らされたそれをひとしきり眺めて楽しんだ後、足の赴くままに屋敷のほぼ正面に位置する噴水の方へと歩いて行った。近付くにつれ、耳に心地良い水音が聞こえ、晶はしばらく湿った空気と、その音のもたらす安心感に身を委ねていた。
     噴水の土台部分が見えるほど近付いたその時、ふと晶は傍らのベンチに普段見ない影があることに気付いた。通常こんな夜更けに誰かが庭園をうろついていることは少ないのだが、魔法使いの誰かだろうか――もし一人瞑想でもしているのであれば申し訳ないなと思い、注意深く近付いたところで、酒瓶が目に入った。すぐにそれが誰であるのかわかった。
     声をかけるべきか迷ったが、以前彼が外で寝入ってしまっているのを見つけたことを思い出すと、放っておくのも憚られた。邪魔をして機嫌を損ねた時はその時だと覚悟して、ゆっくりとベンチに近付く。男はベンチに仰向けに寝て、片腕で目を覆い、もう片方の手をだらりと垂れさせて、その手で酒瓶をぶら下げていた。中身はもうほとんど空になっているように見える。
    「――こんなところで寝ていると風邪をひきますよ」
     晶はベンチの前に立つと、そっと声をかけた。すぐに顔半分を覆っていた手が動いて、男が眠ってはいなかったことがわかる。
    「ん? ――ああ、賢者様か」
     避けられた腕の向こうに男の青白い顔がのぞいて、それが晶に微笑んだ。
    「どうしたの、こんなところで」
     その物言いは普段より少しだけ気怠げで、舌足らずであるように聞こえた。酔いが回っているのだろうか――彼がアルコールを好むことは知っていたけれど、ここまで深酒をしているのを見るのは珍しいことだった。少なくとも人前でこういう姿を晒すのを見たことは今までになかった。
    「――どうしたのじゃないですよ、散歩に出てきたらあなたがこんなところで寝てるから、心配になって――あの、物凄く飲んでますね?」
    「あはは、わかる?」
     男は乾いた声で笑って、それから音を立てて瓶が地面に落ちた。晶はため息をついてそれを拾うと、そっとベンチの傍に立てかけた。屈んだ瞬間アルコールの匂いが強くなって、さすがに顔をしかめてしまった。
    「今日は寒いですから、こんなところで寝たら風邪をひきます――いくらあなたでも」
     以前握った手が酷く冷たかったことを思い出しながら、晶は囁くように言った。
    「――もし嫌でなければ、せめてお部屋に戻りませんか? 肩を貸しますから」
    「うーん、今すぐ部屋に戻るの? なんか辛気臭くて嫌なんだよ、今は」
    「……では、誰か呼びましょうか」
     少なくともここに男を一人で放置しておくわけにはいかなかった――彼の体調が心配だというだけではない。男の纏う空気からは、いつかこの庭園で眠りこけて、手を握ってくれと晶にせがんだあの時と同じものが感じられたのだ。――恐らく、嫌なことでもあったのだろうと晶は頭の隅で察する。それもアルコールに溺れなければやっていられないような、そういうことが。
    「うーん、きみがいいかな」
     晶の提案に対し、男は曖昧な調子でそう答えた。
    「――きみがもうちょっとここにいてよ」
     一人にされたくないのだろうか、いささか甘えたような調子に晶はため息をつきながらも「いいですよ」と頷いた。もとより眠れない身だったし、外の空気をしばらく楽しむつもりだったので丁度いいと言えば丁度よかった。
     男は長い足を折って上半身をずらし、ベンチに少しだけ場所を開けてくれた。晶が礼を言ってそこに腰かけると、何を思ったかそのまま膝の上に頭を預けて来た。
    「――本当に酔っ払ってますね」
     日頃であれば窘めるその行動を見逃してやりながら、晶は苦笑した。
    「酔っぱらってることにして付け込んでるんだよ」
     軽い調子で言って、男は上目遣いに晶を見上げる。そうやって自分の誘惑の効果を確かめているのだろう――だがそういう男の行動にも慣れてしまったので、軽くいなして放射状に落ちる噴水の水を眺めていた。
    「何か嫌なことでもあったんですか」
     いい加減水の音だけ聞いているのも飽きた頃、晶は極力さり気無く尋ねた。
    「――別に、話したかったら話して頂いていいですし――話したくなければそのままでもいいんですが」
     男はしばらく沈黙していたが、やがて小さな声で呟くように言った。
    「嫌なことというよりは――傷付いた、かなあ」
     迷っているようではあったが、話したくないわけではないのだなと気付いて、晶はそのまま黙っていた。
    「――可愛い昔の弟子に、久しぶりに絡みたいなあと思ったら、線を引かれちゃった――まあこれが最初じゃないけど」
     それが誰のことを指しているのか即座に理解して、晶は暗闇の中、男の為に、あるいはその元弟子の為に表情を曇らせざるを得なかった。彼らの間にあるのっぴきならない事情についてはそれとなく聞いているけれど、そう簡単には解けないわだかまりなのだろうとは理解していた。長く生きる分、魔法使い同士のこじれた人間関係というのは、想像できないほどにかたく絡まっていて、そう簡単にはほどけないように見えることも多い。晶にはかける言葉が見つからず、ただ黙って聞いてた。
    「――そういう時は、これにでも頼ろうって思うでしょ。少なくとも痛みを感じる心を、眠れそうかなと思う程度には鈍くしてくれるよ」
     賢者様にはそういうことない? 男はそう言って晶を見上げた。
    「……俺はあなたほど長く生きていないので――死ぬほど辛いことがなかったわけではないですけど、お酒に頼らなくてはならなかったことはないです、幸い」
    「そっか。――でもこれからあるかもね、そういうことが」
     男の口から吐き出されたのはまるで呪いのような言葉だった。悪気はないのだろう、ただ自分の心の昏い靄を誰かにも共有して欲しいだけだ。
    「――今日はタイミングが悪かっただけかもしれませんよ」
     敢えて男の手招きする暗闇には足を踏み入れないようにしながら、晶は静かに答えた――なるべく、ニュートラルな答えを返そうと注意深く考えながら。
    「次に会った時は、また違うかもしれません――相手にも都合や機嫌がありますし」
    「賢者様は前向きだな」
     男は少し嫌な笑い方をした――まるで彼の物に比べれば遥かに短くちっぽけな、晶の生きた時間を嗤うかのようだった。
    「――そうですね」
     だが晶は敢えてそれに気付かないふりをしながら、ただ受け流した。
    「いつも次こそは大丈夫かもしれないって考えるようにはしてます――次はきっとうまくいくって。そうじゃないと人間は弱くてやっていられないので」
     意趣返しのように聞こえたのだろうか、男は少し目を丸くしてから、愉快そうに笑った。
    「あはは、賢者様も俺の扱いが上手になって来たね」
     また、誰も何も言わない時間が流れて水の音が響くだけになった。男が時折身じろぎするので、膝の上に置いた手に彼の髪の毛が触れて、少しだけくすぐったかった。いつまでこの体勢でいればいいのだろうとぼんやり考えていると、男が口を開いた。
    「――でもさ、あーやっぱり駄目だった、って何千回も繰り返してごらんよ――多分賢者様だって俺みたいになるよ」
     まだ同じ話が続いていたらしい。晶は男の言うように、もし自分が彼のように二千年の時を生きたら、と想像した――そして彼の言うような落胆をその年数分繰り返したとしたら。確かに相当身に堪えるだろうということは想像できた。もう何もかもどうでも良くなって、不貞腐れていたくなるかもしれない、とも思った。けれど自分であれば結局最後まで僅かな希望に縋って「次」を信じるかもしれないと思うのは、当事者でないからこその驕りなのだろうか。
    「――俺は弱いから、きっと最後まで『次』のことを考えちゃいますね――その方が幸せな気がするし」
     男は何を思ったか、その返答を笑うことはなかった。ただ「そっか」と言って目を閉じただけだった。
     少し風が冷たくなってきたような気がして、晶は思わず震えてガウンの前を合わせた。魔法使いであれば人間と違って多少なりとも寒さなどには強くできているのだろうが、それにしてもいつまでも野外にいて身体にいいとも思えなかった。
    「――そろそろ、お部屋に上がりませんか」
     晶が小さな声で促すと、男はまるで子供が駄々をこねる時のような不満げな声を上げた。
    「もう? もうちょっと付き合ってくれてもいいのに」
    「――だったらお邪魔でなければ、お部屋まで付き合いますから。――それとも自分の部屋に帰りたくないなら、俺の部屋の方がいいですか?」
     晶としては単純に、もしかして寒々しい部屋に一人でいるのが嫌なのかもしれないと思っての提案だったが、男の目は丸く見開かれた。
    「え、いいの。――なんか今一気に酔いが醒めたんだけど。どこまで意識して言ってる?」
    「――何も意識せずに、ただあなたが風邪を引かないことだけを考えて言ってます」
     こんな時まで隙も無く繰り出される男の軽口に、晶は呆れを滲ませたため息で返した。すると男はしばらく迷うような様子を見せていたが、やがて「だったらきみの部屋の方がいいな」と小さな声で言った。
    「――俺の部屋だったら、きみはすぐに帰っちゃうだろ」
    「構いませんよ、どっちでも。ちょっと今日は心配ですし」
     どうせ眠れないのだし、男が寝入るまで傍についていてやって、自分は応接室ででも寝れば良かろうと思い、そっと男の頭を膝から降ろして立ち上がる。すると追いかけるように青白い手が伸ばされた。引っ張ってくれということなのだろう、それを取って起こしてやると、男の身体はぐったりと重かった。肩を貸し、引きずるようにして砂利と石畳の道を踏む。ベンチの下の酒瓶が目に入ったが、明日回収するしかないなと諦めた。
     ずるずると重い身体を引きずって魔法舎の階段を登り、自室の扉を開けた。そうするまでに誰かに見られることはなかった。淡い光に照らされた自室に男を招き入れると、そっと扉を閉じてそのまま彼をベッドの方まで引きずって行った。今朝替えてもらったばかりのシーツの上にそのまま男を放り出すと、彼は仰向けになっていささか蠱惑的な目を晶に向けた。
    「――危なっかしいって言われない?」
     晶はため息と曖昧な笑みと共に首を横に振った。
    「ここに来るまで言われたことはありませんね」
     簡素な部屋の棚の奥には、寒くなった時の為にとカナリアが用意してくれたブランケットがあった。自分はベッドの下に座ってそれを膝にかけると、ぼんやりと窓の外に目をやりながら、寝息が聞こえてくるのを待とうとした。
     ベッドの上でもぞもぞと身体を動かす音が聞こえ、やがて晶の顔の脇に白い手が降りて来た。
    「――手を握っててよ」
     見上げれば横向きになった男が、少しまた子供っぽい顔をしていた。
    「――いいですよ。あ、掛布団も使っていいんですよ」
    「いいよ、そんなに寒くないし」
     男の手を握ってみると、確かに庭を歩いていた時よりは暖かくなっていた。やはり魔法使いにとっても外の空気は堪えたのだろう。
    「君はホント簡単な子だなあ」
     黙っているとまた失礼極まりない言葉が降って来た。そんなことを言い始めるならさっさと寝てはくれないだろうかと思ったが、部屋にまで招き入れたのは自分なので、文句を言うこともなく黙っていた。誰にだって一人で家に帰りたくない夜はあるのだと、例え二千年を生きていなくても晶だって知っている。
    「――これで君は俺のことをちょっと知ったような気になって、次からはもっと俺のことが気になるようになるよ。それで、俺はここでの生活がもっと楽になる」
     人を馬鹿にしたような台詞ではあったが、それもまた寝言のような調子だったので、晶はただ窓の外をぼんやりと眺めながら聞き流した。実際に自分が彼を気にかけることで、彼の魔法舎での立場が良くなるとも、悪くなるとも思わなかった。仕事が減るわけでも、増えるわけでもないだろう――多分、彼の自意識がちょっと満たされるくらいのものだ。最初に篭絡だ何だと彼が口にした時から思ってはいたけれど、賢者の立場というのはきっと人が思うほど、重要なものではない。
    「――聞いてる? 賢者様」
     返事を催促するような声がしたが、晶は振り返らなかった。
    「聞いています――答えようがないだけで」
     ただそう答えると、何が面白いのか小さく笑う声が聞こえた。
    「――誰にでもこういう風にしてやるの?」
    「不眠症の誰かさん以外にしたことはありません――他には誰もこういう対応を必要としていないので」
    「――その誰かさんに先を越されたのはちょっと悔しいなあ」
     上滑りする台詞がまるで塵のように積み上げられていった。でも何の意味もない会話をすることで眠れる夜もあるだろう。この男が眠ってしまったらここを出て応接室に行こう、そう思いながら晶はぽつりぽつりと答えを返していた。
     けれどやがて、男の軽口が尽きるよりも前に晶の目蓋は重くなった。ついうとうとと船をこぎ始めた頃、自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
    「賢者様?」
     返事をしたつもりだったが、多分声にはなっていなかったのだろう。もう自分の意思では抗えないくらいに、睡魔が彼の身体の主導権を握っていた。
    「賢者様、寝ちゃったら寂しいよ」
     最後に聞いた声はそんなものだっただろうか。酔っ払いが何を言っている、自分はまだここにいるじゃないか、そう思ったが、結局その言葉も音になることはないまま、頭の中の靄に消えてしまった。

    *         *        *

     診察室の蛍光灯が点滅して、晶は我に返った。もう交換の時期が来ているのか、それは何度か瞬いてまた持ち直したが、部屋を照らす光は心なしか先程までよりも弱くなった気がした。机を挟んで座る男を見ると、どういうわけか物思いに沈む様な表情をして、どこへともなくその視線を落としていた。
    「――先生?」
     晶が声をかけると、男ははっと我に返ったように顔を上げて、晶を見た。
    「ああ、ごめん――まだしゃべり続けるのかと思っていた」
    「もう思い出せることは多分、ネタ切れで」
     晶が首を横に振ると、男は「そっか」と言って再び手元の紙に目を落としたが、そこに書かれたメモは晶が記憶の奥へと潜る前から増えていないように見えた。ミミズの這うようなそれは、とても彼以外には読めそうにない、細かくびっしりと描かれた線の集合体だ。
    「大丈夫ですか?」
     心なしか男の様子がおかしいように思えたので遠慮がちに声をかけたが、「大丈夫だよ」という無難な答えが返って来ただけだった。
    「ちょっと暑いからぼーっとしちゃったんだよ、ごめんね。でもちゃんと話は聞いていたから。――君があぶなっかしい子だっていうことを」
     まさか数ある記憶についての話の中から、その下りを取り上げて来るとは思わなかったので、晶は少し気恥ずかしい思いがして、照れ隠しの笑みを浮かべた。
    「よくそういう物言いをする人だったんです、その人は。いつも人を揶揄っているような。でも実際にそういう気があったわけではないと思いますよ」
    「――また例の男の話だったみたいだね。そんな男なのに一晩中一緒に寝て上げたんだ? 随分優しいんだね君」
     やけに記憶の中の個人的な部分に触れて来るなと感じながらも、晶はその問いになるべく正直に答えようと試みた。
    「それは、その時は放っておいては駄目だと思ったので。放っておいたらどこかに消えてしまうかもしれないと思いました」
    「なんで放っておけないと思ったの?」
     男の視線は妙に探るようで、晶は少しだけそれを居心地が悪いと感じた。
    「――ううん、難しいですけど――みんなから必要とされているのに、すぐ自分から一人ぼっちになろうとするので――すぐに持っている絆を諦めてしまおうとするので、もどかしくて、つい手が出ちゃったんでしょうか」
     そういう子がクラスにいたら、ちょっと声をかけたりしたくなりませんか、と付け加えると、男は「そういうものかな」と理解したのかしなかったのか、まるで自分には関係のない別世界のことであると言ったような反応をした。
    「どうして特にその人を、と言われるとまだよく思い出せませんけど――でもとにかくその人に、諦めて欲しくなかったんですよ、みんなの傍で、輪の中にいることを」
    「ポジティブな信条を持ってるんだね」
     そう言って男は小さく笑った。
    「――普通の人なら諦めてしまいそうなのに、そんな男の相手は」
     珍しく男は「今日はもうおしまいにしようか」と言ってそれ以上多くの言葉を重ねることはしなかった。医療従事者にも調子が悪いことくらいあるだろうと考えて、晶はただ素直に頷いた。


     クリニックの建物を出ると、夜の街のネオンが晶を迎えた。タクシーを捕まえようとする人や、バス停に向かって走っていく人、この時間にお馴染みの光景が広がる。少し湿った夜の空気を吸い込んで記憶の澱に揺れる頭を落ち着かせてから、ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出した。珍しく着信履歴があったので目を見開くと、それはフィガロからのものだった。きちんと電話のかけ方をマスターしたらしい。折り返してやると、すぐに彼は電話に出た。
    「――もしもし、どうかしましたか?」
     晶がスピーカーを耳に押し当てながら話すと、電話の向こうではもごもごと口籠ったような声が聞こえた。
    『ええとあの、――今日食べたいものあるかと思って』
     妙にしおらしい様子で話すので、晶はちょっと黙ってしまった。もしかして晶の虫の居所が悪いのに気付いてご機嫌を取らなければならないとでも思ったのだろうか。
    「――お金をかけ過ぎないでくれればあなたの好きなものを作ってくれて構わないんですよ、俺はそこまで苦手なものはないし」
    『――うん』
     外にいるのだろうか、電話の向こうからは街中の騒音が聞こえた。人探しをしているのだから彼なりにあちこち外出することもあるのだろう。
    「もうすぐ帰りますから――あまり気を遣わないで適当なものでお願いします」
     あまり突き放すような物言いにならないように注意しながらそう言って、晶は通話を切った。
     家に帰ると、フィガロは先に帰宅していて、食欲をそそる匂いが玄関にまで漂って来た。そんなに外で時間を潰していたつもりはないのに、もう食事の準備に取り掛かっているのだから大した手際だなと感心しながら手を洗って居間に入ると、食卓の上に食事が並んでいたので、更に驚かされた。晶が彼と電話をしてから帰宅するまで、三十分とはたっていないはずなのだ。あれから買い物を済ませて既に調理を済ませているとなると、余程手際良く作業を勧めたとしても厳しいものがある。つまみの類はともかく、ポトフなんて煮込む時間を考えたら一瞬でできるようなものではない。あるいは出来合いのものを買ったのか。
    「――ただいま」
     浮かんでくる疑問は横に置いて、晶は台所に立つフィガロの後ろ姿に声をかけた。振り返った表情には少しだけ様子を伺うような趣があったので、微笑みを返すと、彼の表情から僅かな緊張が消えたようにも見えた。
    「おかえりなさい。――もうご飯できるよ」
    「随分――手際いいんですね、買ったんですか?」
     晶の質問に、フィガロはきょとんとした顔をして首を傾げた。
    「いや? 自分で作ったよ?」
    「――これだけの量を、電話した後から?――どうやって?」
    「うーん、魔法で?」
     やや媚びるような調子で冗談を言うフィガロに、晶はため息をついた。診察で疲れた後の頭にはこの男との奇妙なやり取りに耐えるだけの体力は残っていなかった。自分の経験した異世界の話ではないのだから、大方カット野菜でも買って時間を短縮したのだろうと勝手に頭の中で結論付け、着替える為に部屋の奥へ行った。
     ぼそぼそと短い会話を交わすだけの夕食を終えて風呂にも入り、テレビの前で眠る前の束の間の休息の時を過ごしていると、家事を終えたフィガロがやって来て傍に腰かけた。今日は手にアルコールを持っていなかった。
    「――あのさ、今日はごめんね」
     突然何を言い出すのかと思って晶が言葉を失っていると、フィガロは更に言葉を重ねた。
    「朝遅刻しちゃったんでしょ、俺のせいで」
    「ああ――そのことですか」
     食事の時間に会話が弾まなかったことでも気にしていたのだろうか、この男にもそんな可愛い所があるのだなと少しだけ微笑ましく思って、晶は首を横に振った。正直放り出したいと考えていたのは事実だが、現金なものでこういう顔をされればそんな気も失せた。
    「気にしなくていいですよ、でも次回からお酒には気を付けてください」
    「――うん」
     子供のように素直に頷いて、フィガロは少し視線を落としてラグの模様を指先で引っ掻いた。酒に溺れて迷惑をかけたことがそんなに堪えたのか、その白い顔はどこかいつもより精彩を欠いているように見えた。二日酔いが残っているにしては時間がたち過ぎているような気がしたし、何か嫌なことでもあったのだろうかと気になった。
    「――今日はどこかに出かけたんですか?」
     さりげなく会話の切っ掛けを作ろうとすると、フィガロは再び視線を上げて、「出かけたけど、どうして?」と首を傾げた。
    「いえ、聞いてみただけです。探し人をしているとも言っていたから――どうですか、そっちの方は順調ですか」
     その問いを投げかけた瞬間、フィガロの表情には言い様のない影が差した。けれど、もしかしたら聞かない方が良かったのかもしれないと考えた時には、もう彼が口を開いていた。
    「――多分、順調だよ」
     浮かない表情に反して、彼の口から出た言葉はポジティブなものだった。
    「多分、なんとなくだけどその子の顔を思い出せるような気もして来たんだ」
    「それは――よかったじゃないですか」
     晶は努めて明るい声を出したが、フィガロは沈んだ調子のまま続けた。
    「でも――もしかしたら、その子は俺のことを覚えていないかもしれなくて」
    「……会ったんですか?」
     その問いにフィガロが答えることはなかった。彼はぼんやりとその視線をバラエティ番組を映しているテレビの方に向けていた。テレビの中では芸人の一人がゲストに辛辣なことを言って、笑いを取っている。
    「でも、顔がわかってるなら――その人に声をかけたらいいんじゃ――直接顔を合わせて話したら、普通はすぐわかるでしょう」
    「そうかな。自信ないな――彼はもう忘れてしまってるかも」
    「――ううん、忘れちゃってても、あの時の誰誰だよ、って説明したら、思い出すんじゃないでしょうか……?」
     少しでも励まそうと重ねられた晶の言葉に、フィガロは首を横に振った。
    「――それじゃダメなんだよ、自分で思い出してもらわないと意味がないんだ」
     どこか抽象的で曖昧な言葉を返し続けるフィガロの横顔は、魂がここにないかのように見えて、ある種異様な雰囲気を醸し出していた。街を彷徨う間に何かがあったのだろうかなどと考えたが、それを聞く程に晶とフィガロの間柄は近くなかった。そういう相手にしてやれることなんて、なるべく前向きな言葉で励ましてやることくらいのものだ。
    「――でもお話を聞く限りは、お相手はあなたのことを大切に思ってたんでしょう? だったら会えばきっと、思い出してくれます」
     しばらくの間、部屋に横たわる沈黙をテレビから漏れてくる観客の笑い声だけが時折乱す時間が続いた。
    「大切じゃなかったのかも」
     先に沈黙を破ったのはフィガロの方だった。
    「別に彼にとっては俺はたくさんいた迷子のうちの一人で、俺は結局特別な一人ではなかったのかもね」
     その言葉は、別れた知り合いや友人を想うものというよりは、何かもっと複雑な重たい感情を孕んだ何かに聞こえた。ちょっと引っ掛けて利用やろうとした相手だったというようなことを言っていた気がするが、そんな相手でも自分を忘れているとなれば落胆するものなのだろうか――人の感情というのはややこしい。
    「――この前お話を聞いたときはちょっと遊んでやろうとした相手だったみたいに言ってたじゃないですか、そんな人の特別になりたかったんですか?」
     あまりにも重力の増した空気に耐え切れず、晶は少しだけ冗談めかして言った。
    「そりゃ、特別だと思ってもらえた方が嬉しいじゃない。そういう空気をがあったら、誰だって期待するでしょ」
     会話は成立しているけれど、どんな声も届いていない、そんな不思議なやり取りだった。晶にはフィガロがまるでここではないどこかに揺蕩っているように見えた。
    「――その人のことはわかりませんけど」
     まるでガラスの壁にでも話しかけているような気分になりながら晶は言葉を選んだ。
    「でも夜にそんなこと考えても悲しい考えしか浮かばないですよ、きっと。――そういう時は、寝ちゃった方がいいです」
     ふいにフィガロの冬と春の入り混じったような色の瞳が晶のそれを捉えた。
    「――じゃあ、寝るまで手を握っててくれる?」
     その言葉が彼の唇から発せられた時、晶は頭に差し込むような痛みを感じた。――酷い違和感と既視感があった。診察中に思い出した過去の出来事のせいかもしれない。でもどうしてこの男は記憶の中の男と同じように手を繋いでくれとせがむのだろうと思った――そんなに一般的な要望だろうか、成人男性が同じく成人男性に手を握っていて欲しいと言うのは。
     考えては駄目だと脳のどこかが警告を発した。それ以上考えては駄目だと叫んでいる――怖い、戻れなくなるとサイレンを鳴らしている。
     虚ろな翠はしばらく苦しみにこめかみを抑える晶をぼんやりと見つめていたが、やがて「大丈夫?」と心配そうに尋ねて来た。
    「どうしたの、いきなり痛そうにして」
    「いえ、ちょっと頭が痛くて」
     晶がどうにか答えると、フィガロは額に手を当てて来て、それから「疲れが出たのかな」と小さく呟いた。
    「――疲れてるんだったら寝た方がいいね」
    「すみません、元気なつもりだったんですけど――なんだかいきなり」
     側頭部を抑えていると、フィガロは少しだけ柔らかい声で言った。
    「――診察を受けたから疲れたんだと思うよ。今日は早く寝たら。――手を繋いでくれるのは今度でいいから」
     冗談なのかそうでないのか良くわからないその台詞に晶が物言おうとする前に、フィガロはリモコンを手に取ってテレビを消すと、徐に立ち上がって洗面所へと姿を消してしまった。晶はしばらく一人床の上でぼんやりとしていたが、やがてのろのろと立ち上がって、ベッドの中に潜り込んだ。


    7.
     次の日の晩のこと、晶がいつもより少し早めに帰宅すると、フィガロはちょうど夕飯の為の買い物から帰って来た所で、買い物袋を食卓の隣の椅子に置いたまま、何やら難しい顔をして食卓の上にチラシのようなものを広げていた。
    「どうしたんですそれ」
     ネクタイを解きながら尋ねると、フィガロは少しばかり顔を上げて答えた。。
    「うーん、多分仕事の斡旋。俺には全然読めないんだけど」
     返って来た答えに晶は目を丸くして彼の方を振り返った。冗談でしょう、とは口に出して言わなかったが、まさかフィガロが自分から働くと言い出すとは思わなかったのだ。
     しかし本人も自己申告している通り、フィガロにはこの国の文字が読めない。それでどうやって仕事を斡旋されるというのか――第一どこからどうやってそのチラシを選び出して来たのか。少し不安になって彼の傍らに行き、チラシを覗きこむと、案の定ろくでもない仕事を紹介する業者が好むけばけばしいデザインが目についた。
     ――安心して稼げるお仕事です。日払い有り。お客さんと楽しく話すだけのお仕事、ノルマなし。まずはやってみませんか――。ざっと目を走らせただけで素人が手を出してはいけない職業のにおいがぷんぷんした。
    「フィガロ、これは駄目です」
     皆まで見終えることなく、晶はきっぱりと告げた。
    「――どうして?」
     恐らくチラシの内容なんて理解していないフィガロは不思議そうな顔で晶を見上げた。晶はため息をついて「どこで貰って来たんですかこれ」と逆に尋ねる。
    「え、近所を歩いてたらおじさんに話しかけられて、それでいい仕事紹介してあげるよって」
    「――今度から絶対そういう人に引っかかるのはやめてください、これあまり良くないお仕事ですから」
    「どんな種類のか聞いてもいい?」
    「――なんていうか、お酒を一緒に飲んで相手からお金を巻き上げるというか――そういう感じの仕事ですよこれ」
    「あはは、そういうのか。でも案外俺、向いてるかもよ?」
     愉快そうに笑って見せるフィガロから、晶は机の上のチラシを取り上げた。確かに彼の性格ならそういう仕事に就いたとしても成功する可能性は大いにあるが、今は晶の家の居候なのだ、トラブルの起きそうな仕事をしてもらっては困る。第一文字も読めなければこの国の法律のことも知らないのに、怪しげな連中が店のバックにでもついていたらどうするつもりなのか――八割方こういう店には後ろに薄暗い部分があるものだ。
    「向いてようが向いてまいが駄目です、大体怪しいお店で後ろに怖い人たちがついてたらどうするつもりですか」
    「心配してくれてるの?」
     フィガロは首を傾げたが、その様子はやや嬉しそうだった。
    「俺はただ、きみにばっかりお世話になるのは良くないと思って――なんか仕事をしたらいいかなと思っただけなんだけど」
    「その気持ちはありがたいですけど、ホストだのキャバクラだののキャッチに引っかかるのはやめてくださいよ……文字が読めなくても雇ってもらえて、日払いしてくれるところなんて大体人間としての扱いをされないか、危ない仕事かのどっちですから」
    「……そういうものなんだ。どこでも同じだね」
     チラシはくしゃくしゃに丸められ、そのままゴミ箱に投げ入れられた。だがふとその時あることが気になって、晶はそれを尋ねてみることにした。
    「でも、そう言えば――ここに来る前はどんなお仕事をしてたんですか?」
    「俺?」
     フィガロは自分を指さすと、少し考えこむような素振りをしてから口を開く。
    「医者かなあ。――小さな診療所をやってたよ」
     何故疑問形になるのだろうと不思議に思いながら、晶はそれでも彼の答えにどこか納得してしまった。医者という職業は、常に人の上に立ってきたことを思わせる彼の雰囲気にぴったり合っているような気がする。
    「でも、この国で医者をやるには免許がいるって言われたよ、そのチラシをくれた人に」
    「フィガロのいたところでは必要なかったんですか?」
    「医者がほとんどいないような地域だったからね」
     彼はそう言って肩を竦めた。
    「免許なんて言い出したら、死人が出るのに追いつかないのさ。隣の国にはもしかしたら免許の制度みたいなものがあったかもしれないけれど」
     相当文化的に未発達な土地から来たことを思わせるその台詞に、晶は一体どんな場所だろうと想像した。この地球上においては未開の森の奥とか、そういう場所しか思いつかないが、それにしてはフィガロは文化的に洗練された物腰をし過ぎているような気がした。
     だがフィガロの経歴や過去が謎に包まれているのは今に始まったことではなかったので、晶はもう気にしないことにして、その場では湧き上がる様々な疑問を忘れてしまった。


     次の日、運良く仕事が定時に終わったので、晶は久しぶりに近所の猫を飼っている老婦人の所に行こうと思い、最寄りのホームセンターで一番安い猫缶を買った。ただでさえ増えた食費の上に余分な出費が重なるのは懐に痛い所ではあったが、それでも一度に色々なことが起こりすぎて、ちょっとした休息の時間が必要だと考えたのだ。猫に触れている時間は晶が一番リラックスしていられる時間だった。
     目的の家に一番近いバス停で降りて、夜空を見上げながら人通りの少ない住宅街を歩いていると、小さな接骨院の前を通りかかった。いつもはそんなに人の出入りの無い場所だが、その日はもう外が暗くなっているにも関わらず、蛍光灯光る看板の下、かしましくお喋りをする声が聞こえた。見たところ四、五人の人がいるようだが、接骨院の客だろうか。何かあったのだろうかとぼんやりとした興味でそちらに視線をやっていると、ほんの数秒後、驚きで声を上げることになった。集団の中、買い物袋を下げたフィガロが立っていたのである。
    「フィガロ?」
     晶の声に、フィガロすぐに反応した。見れば彼を囲んでいるのはそれなりに年の行った女性ばかりだった――もしかしたら接骨院の客なのかもしれない。少なくともその中の一人は足に包帯のようなものを巻いていた。
    「――きみがここを通りかかるとは思ってなかったよ」
     フィガロが晶に近寄って来ると、それに釣られるように彼を囲んでいた人々が一斉に晶を見た。皆興味津々といった調子で視線を注いでくる。
    「――お連れさんかい?」
     包帯の女性が声をかけてきたので、晶は「まあそうです」と頷いたが、すると彼女はまるで拝むような仕草をして言った。
    「今ねえ、この人に足を治してもらったんだよ。ちょっとそこで転んで動けなくて困ってたんだけど――腕がいいねえ」
     驚いて晶がフィガロを見上げると、彼は少し困ったような顔をして笑っていた。そう言えばつい前日に彼がもともとは医者をしていたという話を聞いたばかりだったなと思い出した。
    「――こんな人がここにもずっと勤めていてくれればいいのにねぇ」
     女性の一人がそう言って、けらけらと笑った。
    「あれでもそんなこと言ったらここの先生怒るよ。先生もいい人なんだから」
    「でもこんなに一瞬で痛みを取ってくれたりはしないね」
     彼女たちの口から飛び出すのは、概ねフィガロを持ち上げるような内容だった。
    「――そんなに腕のいいお医者さんだったんですか?」
     晶が幾ばくか失礼な物言いで尋ねると、「まあね」という答えが苦笑と共に返って来た。
    「こんな腕のいい人はそういないよ――男前だし」
     女性はけらけらと笑って、それからやがてはっとしたように手元の時計を見た。
    「あらいけない、もうタイムセールの時間終わっちゃうじゃない」
     タイムセールの言葉に敏感に反応した周囲の女性たちは次々と「あら」と声を上げて、同じように時計を見た。井戸端会議の話題は移り行くものだというが、こうも切り替えが速いといっそ清々しい。晶とフィガロが顔を見合わせているうちに彼女たちはさっさと荷物をまとめて立ち去る準備をしている。
    「じゃあ今日は本当にありがとうね」
     包帯の女性が頭を下げて言った。それから彼女達は足早に通りの向こうへと、かしましく近所の知り合いについて噂しながら去って行った。半ば呆気にとられた晶はしばらくそれを見送っていたが、やがてフィガロの方に向き直って彼を見上げた。一瞬、彼らを見送るフィガロの表情にどこか朧げなものを感じたが、その微細な変化はすぐに彼の顔から消えてしまった。
    「――すごいですね、今の人フィガロが治してあげたんですか? 包帯してたのに、すたすた歩いて……」
    「もともと大した怪我じゃなかったからね――拝まれるような治療ではなかったな」
     のんびりとまるで何でもないことのようにフィガロは答えた。
    「それにしてもすごい偶然だったね、こんなところで会うなんて。いつもバスに乗って帰るんだと思ってたけど」
    「――今日はちょっと寄り道をしようと思って」
    「寄り道? ――俺というものがありながら?」
     フィガロは眉を上げてやや冗談めかして言った。それに苦笑いを返して、晶は手に持っていた買い物袋をちょっと上げて見せた。
    「猫ちゃんに会いに行くんです。この近くに野良猫から自分の猫まで、面倒見てる人がいて」
    「それで貢物を持って行ってあげるんだ」
    「――言い方がちょっと怖いですよ、ご飯を持って行ってあげるんです」
     一緒に行っていいかと聞かれたので、晶は勿論、と承諾した。猫と触れ合う時間は癒しの時間ではあったけれど、そこに他者がいてはいけないというものでもない。猫婆さんは幸いまだ家の中に引っ込んでいなくて、インターホンを押せば外扉を開けてくれ、庭に集まっている猫に会わせてくれた。フィガロを見ると「まあ、随分いい男を連れて来たね」と首を傾げていたが、彼女自身は夕飯の支度があるというので、猫ちゃんと遊んであげてね、と言って直に家の奥へ下がった。
     庭には大小取り交ぜて五匹ほどの猫がいた。日によってこの庭に遊びに来る猫の数はまちまちだが、今日は若い猫が多かった。少しでも彼らの目線に近い場所に行こうと晶がしゃがむと、まだ少し柔らかさの残る毛を足に擦り付けておねだりをしてくる。その様子が可愛らしくて、つい口元が綻んでしまう。
    「――すごいデレデレした顔」
     どういうわけかフィガロの口調が少し面白くなさそうだったので、晶は中でもとりわけ身体の小さな猫をそっと抱き上げると、彼に見せるように掲げて見せた。
    「そりゃデレデレしますよ――触ってみませんか? 大人しいですよ」
    「いや俺は」
     どういうわけか猫はフィガロが視線を向けた途端ぴくんと身体を震わせ、小さく鳴いて身をよじった。抱き方が悪かったのかと思って手を放してやると、猫は綺麗に着地して、晶の後ろに隠れてしまった。残されたフィガロは少しだけ気まずそうに頬を掻く。
    「うーん、俺あんまり動物に好かれないんだよね」
    「――猫ちゃんのこと好きですか? フィガロがこの子達のことをあまり好きじゃないと、彼ら敏感に気付くので」
    「そういうもんかな」
     相変わらず猫からは程よい距離を保とうとしているフィガロを置いて、晶は買って来た猫缶を取り出すと、封を開けてお婆さんに借りた皿の上に出してやった。食べやすいように切り分けている間に、さっそく猫たちがそこに群がって来て、めいめいに肉だか魚だかわからないものの煮凝りを口にくわえた。一生懸命に食べ物を咀嚼している姿はそれだけで可愛らしく、晶はただそれを見下ろしていた。
    「――本当に猫が好きだね」
     そんな晶を見て、半ば感心したようにフィガロが呟いた。
    「顔が蕩けそうだよ」
    「――そんなだらしない顔してますか?」
    「そりゃもう。――どこがいいの? この小さくて弱い、人から餌を貰うしか能がない生物の」
     小動物を評するにしてはあまりに刺々しい物言いだったが、口を僅かにへの字にしているところを見ると、もしかしたら拗ねているのかもしれないなと思い、晶は小さく笑った。一緒にいた短い時間の中で少しだけ理解したことがある。この男は多分誰かの関心が自分に向いているのが好きなのだ。
    「うーん、気まぐれで時々寄って来てくれるところがいいんですかね。媚びないというか」
    「――へぇ、そういうのが好きなんだ? 俺もそういう風にしてみようかな」
     目の前のやけに綺麗な男が猫の行動を恋愛マニュアルでも踏襲するかのように模倣しようとする姿はいささか滑稽で、思わず晶は噴き出してしまった。
    「あはは、多分フィガロはそんなことをしなくても――それにあなたもどっちかっていうと猫っぽいですよ」
    「え、ほんと」
     どういうわけフィガロはぱっとその評価に顔を明るくした。
    「どんなところが?」
     それはやや難しい問いだったが、考えた末に答えを導き出す。
    「うーん、ふらっと現れて、ふらっといなくなっちゃいそうなところとか」
     その評価が気に入ったのか気に入らなかったのかはわからないが、フィガロは少し何かを思うような風をして「ふうん」と答えただけだった。
     ひとしきり猫と遊んで晶が満足すると、二人は歩いて家に帰ることにした。ここから家まではそう遠くはないし、治安も悪くはなかった。そう言えば長い間誰かと連れ立って自宅へ帰るなんてことはなかったなと思い、不思議な気持ちになったが、決して悪い気分ではなかった。がらんどうの家に帰るよりは、例えこの男でも傍にいてくれる方がいいなと考えた自分に気付いて、少しだけ驚いた。
    「――そういえばフィガロは一体何が専門のお医者さんだったんですか」
     夜道を辿りながらふと浮かんだ疑問を晶が口にすると、隣の男は「専門?」と言って首を傾げた。
    「お医者さんって得意な領域があるじゃないですか。あ、でも町医者だって言ってたからなんでもやるのかな」
    「ああ、そういうこと」
     フィガロが合点がいったという風に答えて首を傾げた。
    「うーん、言われた通りなんでもやってたからね。怪我の治療から、ちょっとした病気の治療まで。でもあまり重篤な病気を手術で治したりということは、俺の仕事じゃなかったな」
    「ここで言う総合内科医ってことですかね」
    「それのことはよくわからないけど、町医者なんて地域の人の具合が悪くなれば、何でも対応しなきゃいけないからね。――ああ、でも心や精神――記憶なんかの治療も得意分野のひとつではあったよ」
     心や精神、記憶と言われて少しだけ晶の心臓が跳ねた。自分にも決して無関係な事柄ではなかったからだ。それを察知したのか、フィガロは言葉を次いだ。
    「そう、だから俺は君の治療もしてあげることができる――理論的には」
     鈍い色に白く光る街頭が二人の足元のアスファルトを照らすのを眺めながら、晶は黙っていた。知り合いにそういうことを頼むのが適切なのかどうかという点を考えていたのだ。
    「――今晩ちょっと診てあげようか? 居候のお礼に。話を聞くくらいでもいいし」
     いくつか言葉を付け加えたのは、晶の心の中の僅かな抵抗を見越してのことだったのだろうか。
    「そうですね、ちょっとだけ――試しに話を聞いてもらうのもいいかも」
     結局晶はそういう風に答えた。そう言えばこの男の探し人の話は何度か聞いたのに、自分のことについては全く打ち明けていないなというような気がしたのである。それがフェアではないというわけではないけれど、相手が心の内を見せるようになれば、自分もまたそれに返したいと思うのが人の常だ。
    「じゃあ夕ご飯の後にね」
     フィガロは気楽な調子でそう答えて、ちらちらと晶の方に向けていた視線をすっと外した。


     夕飯を済ませてしまうと、その日は珍しくテレビを付けずにローテーブルを挟んで二人向き合うことになった。リラックスできる方が良かろうとハーブティーのポットとティーカップがテーブルの上には置かれていた。ふとその様子に奇妙な既視感を覚えて、晶は一体どこでこんな光景を目にしたのだろうと考えた。
    「別にかしこまらなくていいんだけどさ、ちゃんときみの記憶の問題のこと、聞いたことなかったなって思って」
     フィガロはそんな前置きと共に話し始めた。診てくれるというよりは、話を聞くという風にしたいのだろう、そんな雰囲気を察知して、晶はなるべく友人とお茶を楽しむときのようにリラックスしようとした。
    「別に知り合いに話すように、気軽に話してすっきりしてくれればそれでいいんだけど。――海が怖いって言ってたっけ」
    「どこまでお話したんでしたっけ」
     晶は彼がここへ来てからの会話を振り返りながら言った。
    「うーん、海が怖くて、なんか異世界の記憶があるとかいうところかな? ――魔法使いやドラゴンが当たり前に存在するような」
    「ああ……じゃあほとんどお話してないんですね。……一俺が今病院に行ってるのは知っていますよね?その件で」
    「うん、いつも行く前に教えてくれるからね」
     フィガロは頷いてみせた。
    「――それで、一応、今行ってる病院で、恐怖症と記憶の関係みたいのは先生が目星をつけてくれたんですけれども」
    「目星って、どんな?」
     フィガロは少し足を崩して座り直し、ローテーブルに肘をついた。もっと楽にしていいというジェスチャーにも見えた。
    「――俺の海に対する恐怖と、異世界の記憶と、それから――とある男性に関する記憶があるんですけど、それが繋がってるんじゃないかって。俺、時々海が怖いのに海に行くでしょう? そうすると思い出せるような、出せないような、そういう人がいるんですよ」
    「……それでたまに海に行ってたんだ?」
    「恐らくは。でもそれも最近思い出したんですよ。最初は何もわからないまま海に行っていました。カウンセリングの先生が、その男の人のことを思い出してみたら何か変わるんじゃないかって仰るので、続けて見たら効果があって」
    「なるほどね」
     フィガロはそう言って手元のティーカップを持ち上げ、それに口を付けた。
    「――理には適ったやり方だね。君は海が怖い、それで海に行けば思い出す誰かがいる。とすればその誰かと君の海への印象に関係があると考えるのは当然だ」
    「そういうものですか」
     晶はそう言って、自分もまたティーカップを口に運んだ。
    「その人は、君の大事な人か何かだったの?」
     フィガロが突如としてストレートな疑問を投げかけてくるので、晶はやや驚いたが、カウンセリング室でしたのと同じように首を横に振った。
    「いいえ、そういう関係じゃなくて、なんていうのかなー―その人が寂しい時にだけ一緒に時間を過ごすような間柄というか」
    「ふぅん」
     答えたフィガロの声には感情がなく、彼が何を思ったのかはそこから読み取れなかった。もしかしたら浮ついた話のようなものを期待していたのかもしれない。
    「でも何度も海に行くくらいだから、きみはその男のことを思い出したかったのかな」
    「――どうなんでしょうね」
     晶は何気なく投げかけられたその言葉に俯いた。この前フィガロと海に行った時に思い出したことが頭を過った――確か自分は誰かに「忘れないよ」と約束をしたのだ。あれから更にいくつかの記憶を取り戻した後に考えてみれば、その約束をした相手は、蘇る記憶の中全てに現れるあの男であるような気もする。だとすればその男のことを思い出したくて海に通っていたのではというフィガロの仮説は正しいのだ。けれどそれは確かではなかった――まだ記憶のその部分は霧の中に包まれていた。
    「誰かに――約束をしたような気がするんですけど、忘れないよって。海に行くことで、それを思いだそうとしたのかもしれません――あるいは相手に何かを伝えようとしたのかもしれません。でもその約束をした相手がその男の人なのか、それとも他の誰なのか、まだわからなくて。大体何を忘れないと約束したのかも、もうわからなくて」
     一気に話してしまってから、晶はフィガロの返事がないので、そっと視線を上げて彼の横顔を見た。フィガロはその瞳を少しばかりいつもより、大きく見開いているように見えた。
    「――フィガロ?」
     声をかけると、彼は「ああ」と気を取り直したように視線を晶の方に戻したが、表情には若干の揺らぎが見て取れるような気がした。
    「いや、ちょっと悲しい話だと思ってね」
     フィガロはまるで弁解するように言って、少しばかり眉を下げ、寂しげに見える笑みを浮かべた。
    「――きみは誰かに忘れないって約束したらしいのに、そのことを忘れてたんだから」
     その指摘は非常に正確かつ容赦なく的を射ていたので、晶は再び視線を落とした。
    「そうですね――酷い裏切りだ」
     晶はふと、自分が妙に強い言葉を使ったことに気付いたが、それがどうしてかはわからなかった。同時にその言葉によって自分が酷く悲しい気持ちになったことにも気付いた。それが全て表情に出ていたのだろうか、フィガロが今度は少し慌てたように言葉を挟んでくる。
    「でも、きっと思い出せるよ――少しずつ、記憶が戻って来てるんだろう?」
    「それは、多分」
     自身なさげに晶が答えると、フィガロはまるで励ます様に言った。
    「――思い出してあげなよ。大丈夫だよ」
     そう言った彼の表情が妙に物悲しく見えたのは、晶が話したことがどこか彼自身の状況にも重なったからだろうか。
    だがふとその時、奇妙な既視感が再び訪れた。机の上に置かれた二つのティーカップ――始まりはそこだった。お仕事をしましょう、自分がそう口にするのが聞こえた。白衣が見える――椅子に座った男が白衣を着ている。そうだ、どうして思い出さなかったのだろう、記憶の中の男は医者なのだ。
     幸か不幸か記憶の渦は一瞬でその勢いを止めて、次の瞬間晶が目にしていたのは、自分の部屋の見慣れたローテーブルと、その前に座るどこか物憂げな男だけだった。そういえば、この男も医者なのだ。
     晶はその奇妙な一致に内心で首を傾げながら、テーブルの上のティーカップを口に運んだ。胸の奥が小さくざわついたが、晶はただ胸を抑えてそれが過ぎ去るのを待った。
    「――少し疲れちゃった?」
     フィガロが気遣うように聞いて来て、晶は自分がそんな表情をしていただろうかと、なんとなく顔に触れた。
    「温かいお茶もう一度淹れてあげるよ――少し休んだら今度は君の海への恐怖症の話をもう少し聞こうかな」
     投げかけられた言葉が妙に柔らかくて優しいことに、晶は違和感を覚えたが、できたのは彼が台所に立つ背中を見送ることだけだった。
     それからまるで医者に話すように症状の話をいくらかしたが、その夜再び記憶が戻って来ることはなかった。
     
     
     
    8.

     海の家の旗が風に大きくはためいて、その下には結構な人数のお客が列をなしていた。気温は二十六度、水の中に入るには少しまだ涼しいが、それでも波打ち際で海開きの雰囲気を楽しむには十分に暖かい。砂浜には水遊びをする親子や、海を眺めながら寄り添うカップルの姿が見えた。中には浴衣を着ている女性もいる――これは恐らく海開きと同時に開かれる、近隣の神社の祭りの為だろう。砂浜から土手を登った先では、たくさんの屋台が出ているのも見えた。神社はその屋台沿いに歩いた高台の上にあり、海の安全を祈願する為の準備がそこでは行われている。
     晶は少しばかり汗ばむ肌にタオルを当てて、手に持ったラムネの瓶に口を付けた。陽光が瓶に当たって、中のビー玉がきらきらと光る。子供のころこのビー玉を取り出したくて苦心したことを思い出し、昔を振り返るように瓶を振れば、からからとガラスの玉が音を立てた。
     連れがなかなか戻って来ないので、晶は手持ち無沙汰に海を眺めていた。そもそも今日ここへ来たのは連れであるフィガロの提案だった。近所の人から海開きの祭りがあると聞きつけて来た彼は、晶に一緒に出掛けようと誘った。行き先が海ということで少し渋ったのだが、彼曰くトラウマの類を解消するのであれば、やはりその恐怖の対象に少しずつ慣れていくしかないのだという。
    「練習してみない? 海に慣れる練習」
     フィガロはそう提案した。
    「怖い怖いと思うから怖いっていう場合もあるよ。――向き合ってみたら、なんでもないことだったりするかも」
     先日自分の過去や症状について少しばかり打ち明け話をしたせいか、フィガロは積極的にその話題に触れた。それは彼がこれまで立ち入って来なかった部分だったが、打ち明け話というのはいつだって、人間の間の境界線を少しだけ曖昧にするものだ。
     少なくともフィガロが医者だというのは確かなことのように思えたし、実際に晶のことを慮っているようではあったので、結局晶はその提案を受け入れた。実際、試してみたらどの程度海に近付けるのかというのも興味はあった。
     まずは手始めに遠くから眺めるところから、と堤防からの海釣りに付き合い、フィガロのが生きた餌に四苦八苦するのを見学させてもらって、今に至る。釣りに飽きた彼は海の家に道具を返しに行っていて、もういなくなってから五分以上が経過していた。
    「ごめんごめん、えらく混んでてさ」
     いい加減様子を見に行こうかと晶が考えた時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。振り返るとTシャツにショートパンツ姿、足にはビーチサンダルといういで立ちのフィガロが立っていて、いつもの数割増しの色気を振りまきながら微笑んでいた。この年齢でこんな格好をしてなお人の目を集めることができる人物は、晶の知り合いの中ではフィガロくらいしかいない。時折通り過ぎる人がちらちらと彼の方を見ているのが、晶にも嫌になるほどわかった。ちなみに晶自身も全く同じような格好をしているのだが、特に振り返られることはない。
    「――今日はお休みの日だから人が多いですね」
     晶はそう答えてフィガロを見上げた。すると彼は晶の手の中のラムネの瓶に目を留めて「一口ちょうだい」と強請った。果たして成人男性同士が同じ瓶から飲み物を分け合うのは普通のことだろうかと考えたが、フィガロのことだから特に気にしてもいないのだろうなと考えて黙って瓶を差し出した。何の抵抗もなく瓶に口をつける彼を、通りすがりの女性が晶と見比べていた。
    「どう、少しは海に慣れた?」
     ラムネの瓶を返してくれながら、フィガロは尋ねてきた。
    「よくわかりません、――釣りをしている間怖いとは思わなかったけど」
     晶がそう答えると、フィガロは海の方を見渡して言った。
    「そっか。――早速実地で海に入って……と思ったけど今はちょっと人が多いね」
    「海に入るって、水の中に入るってことですか?」
     晶が驚いて彼を見上げると、フィガロは事も無げに頷いた。
    「そうだよ、やってみないことにはきみがどんな反応するかわからないからね。――まあでも、パニックになるかもしれないし、もうちょっと人が少なくなってからにしようか」
     時刻は三時を少し回ったくらいだった。もうしばらく待てば親子連れは波が高くなるのを恐れて波打ち際から立ち去るだろう。
    「――だったら、お祭りでも回ってみますか?」
     晶は土手の上に屋台が軒を並べているのを見やって、フィガロに尋ねた。
    「さっき興味を持っていたみたいだったから」
    「――ああ、それもいいね」
     フィガロは晶の提案を気に入ったようで、土手の上を振り返って見上げると、やがて行こうか、と手招きした。

     屋台の出ている通りは、浴衣を着た人々でごった返していた。皆めいめいに綿あめの袋だとか、かき氷を持って足の向くまま、歩いている。夜には浜の少し離れた場所でちょっとした花火が上がるので、それを待っているのかもしれない。何にせよ祭りのハイライトというのは大抵が夜なのだ。
     水飴にりんご飴、水風船にボールすくい、屋台に書かれた文字は懐かしいものから、晶の子供時代にはなかったものまで様々だった。その一つ一つが何を扱う屋台なのか、フィガロに説明してやりながら歩く。
    「――ねえ、あれ何?」
     フィガロが金魚すくいの屋台を指したので、晶はちょっとだけその傍に寄って低い声で囁いた。
    「あれは金魚すくいって言って、紙とか食べものでできたスプーンみたいなもので金魚を掬う遊びです」
    「生きた金魚を?」
     フィガロはやや驚いたように晶を見下ろした。
    「そうです――ちょっと可哀想ですけど。取ったのは持って帰れるんですけど、なにせ掬う道具が水に溶けやすいものばかりなので、ほとんど取れないんですよ」
    「人間は残酷なことをするね」
     フィガロの物言いが、まるで彼自身は金魚の側に属する者だとでも言わんばかりだったので、晶は苦笑した。
    「まるであなたは人間じゃないみたいな言い方をしますね」
    「――うーん、少なくともあんな悪趣味なことをする人間の仲間ではないかな……あれじゃ魚は無意味に死んじゃうじゃない。それも鑑賞されるわけでもなく、ただ玩具になってさ」
    「……そうですね、金魚掬いの金魚って弱いのか、すぐ死んじゃうんです――だから、俺も可哀想でやらなくなりました」
     フィガロは興味深そうに辺りを見渡していたが、やがて晶に向かってこんなことを言った。
    「それにしても、どこの場所でも人間の祭りってのは変わらないね。特別な衣装を着て、出店があって、派手な明かりがぶら下がっていて」
    「――衣装って、浴衣のことですか? あれは本来はお祭りの為のものじゃなくて、昔の人が着ていたものなんですが」
    「そうなんだ。どうして祭りの時に着るの?」
    「――それは俺にもわかりませんけど、多分伝統みたいなものに、還るんじゃないでしょうか?」
    「伝統って、昔にってこと? 人がまだこの神様を信仰していた時代を振り返るようなものかな」
     フィガロがまるで、もう神社の神様が信仰されていないような風に言うので、晶は少し驚いて言った。
    「――今でもまだみんな、一応ここの神様を信じてるとは思いますけど――新年とか来る人もいるみたいですし」
    「うーん、俺にはそうは思えないな」
     フィガロはどういうわけかそこで、苦笑した。
    「ここの人間達はもう神なんて必要としてないよ」
    「そんなこと、わかるものですか?」
     フィガロが妙にきっぱりと言い切るので、晶は気になって尋ねたが、それきりその問いに対する答えが返って来ることはなかった。
     屋台の一番建て込んでいる場所に差し掛かると、人混みはよりごった返して、まっ直ぐ歩くのも困難になった。この辺りで引き返しても良かったのだが、ここまで来たなら神社の中まで入りたいという気持ちもあり、そのまま足を進めていた。けれど、人の波にさらわれるうちに、フィガロから引き離されてしまいそうになる。
     一応連絡手段を持たせているとは言え、はぐれると面倒なのは確かだった。三度目に人混みに押し流されそうになった時、晶は思わず黙って手を伸ばすと、フィガロのシャツの裾を掴んだ。
    「ああちょっと待って――一人で行かないでください」
     俺、あなたより背が低くて周りが見えにくいんですから――。それは何の気なしに発した言葉だった。だが振り返ったフィガロの顔には、どういうわけか動揺の色が見えた。
     フィガロはしばらくその翠の瞳を見開いたまま晶を見下ろしていたが、やがてはっとしたように自分の服の裾を掴む晶の手を見た。
     穴の開くほど見つめられた晶の方は、もしかしてこれは失礼な行動だっただろうか、気分を悪くさせただろうかと考えたが、やがてフィガロが裾を掴む手を取って握ったので、そうではなかったのだと気付いた。
    「――はぐれるのが心配なら、手を繋いでおく?」
     フィガロは彼に似合わぬ、少しだけ遠慮がちな調子で言った。成人男性同士手を繋いで歩くのは、その二人が恋人同士である場合を除いてどうなのかという思いが頭を過ったが、はぐれて面倒な目に遭うより遥かにましではあった。晶は「そうですね」と頷くと、少し気恥ずかしい気持ちを押し殺して、自分の手をフィガロのそれに預けた。彼の手は少しだけ晶のものより冷たく、節くれだって大きかった。
     人混みが幸いして二人が手を握り合っていることが周囲の人々に見られることはなかった。少なくとも、不躾な視線を投げかけられることはなかった。二人はそうしてしばらくの間、手を繋いだままでいて、それは彼らが少し人通りの少ない場所に行くまで続いた。
     周囲の人混みが薄くなったので、なんとなく目を合わせるのを恥ずかしく感じながらそれとなく手を離すと、小さく笑う声が上から聞こえた。恐らく子供っぽいと思って笑われたのだろうと、少しばかり抗議の意思を込めて見上げると、思いのほかフィガロの表情は柔らかくて、晶は少し面食らってしまった。
    「誰かとこうやってお祭りに来たことはある?」
     フィガロが尋ねるので、晶は首を横に振った。生憎そんな間柄にあった相手はここ数年を振り返っても、存在しなかった。高校の時に隣のクラスの女の子とお祭りに行ったことがあるような気もしたが、手を繋ぐような仲ではなかった――あるいは少なくとも、そこまで進展しなかった。
    「じゃあ俺が初めてだ」
     その言い方が妙に嬉しそうだったので、晶は何と答えていいかわからずに、そのまま再び俯いてしまった。
     神社は本当に小さなもので、鳥居をくぐれば、こじんまりとした社殿があるだけだった。そこまでやってくる人はあまりおらず、確かに人々が神に参るというよりは、単に祭りを楽しみに来ているのだということが見て取れた。二人は賽銭箱にめいめい五円玉を投げて、定められたとおりのやり方で祀られている神への敬意を示した。
    「――意外とちゃんとやるんですね、こういうの」
     一礼二拍手――と書かれた通りのやり方に倣うフィガロを見て意外に思い、晶は目を丸くした。
    「そりゃ、地元の神様にはちゃんとご挨拶しとかないとね」
    「そういうものですか」
    「――そういうもんだよ。そうじゃないと神様が『ここは俺の縄張りだぞ』って怒っちゃうからね」
    「――フィガロに対してですか?」
     まるで自分を神と同列の存在のように語るので、晶は思わず噴き出した。けれどそんな晶に対して、フィガロは曖昧な微笑みを送ってよこしただけだった。


     祭りを一通り堪能する頃には、そろそろ日が落ちかけ、海岸沿いにいた人々も土手のこちら側へ上がって来ようとしていた。海へ戻るのにはちょうどいい頃合いだろうと喧騒を離れ、一番近い階段を探して二人は土手の下に降りた。砂浜には既に人出はだいぶ少なくなっていて、海の家の前の行列ももうなくなっていた。
     最寄りの屋台で目を引かれたりんご飴をかじっていると、一口頂戴とフィガロが手を出して来たので、もう一々気にするのも面倒になって、そのまま手を伸ばして口に放り込んでやった。するとりんごの端に噛り付いたまま綺麗な顔が驚きで固まってしまったので、晶は声を上げて笑った。
     きらきら輝く飴はフィガロに任せたまま海を眺めると、既にオレンジ色になった日の色を反射して、不思議な色に輝いていた。ブルーとオレンジの入り混じるこの時間が、晶は嫌いではなかった。少しだけ波が高くなって、空気の匂いが夜の訪れを告げる、月が支配する前の一時だ。
     まだいる?とりんご飴を差し出されたので、晶は首を横に振った。フィガロは存外気に入っていたのか、もう二口三口食べて、それからほとんど芯だけになったそれをゴミ箱に捨てた。
    「――怖い?」
     ひたすら海に視線を注いでいる晶に、フィガロは静かな声で尋ねた。
    「わかりません」
     晶は正直なところを答えた。今彼らは波打ち際からかなり離れたところにいたが、その程度の距離から見るのであれば、もはや大きな恐怖は感じなかった。気付けば以前よりは少し海の近くに進むことができるようになっている気もした。カウンセリングの効果が出ているのだろうか。
    「――少し近寄ってみる? しんどそうだったら、手を引いてあげるよ」
     フィガロの提案に、晶は頷いた。
     ビーチサンダルで砂をゆっくりと踏みしめ、一歩一歩海の方へと近付いて行った。まだ腹の底でくすぶる恐怖はあったけれど、それでも驚くべきことに、前に進むことができないというほどではなかった。けれどもう数歩進めば波が足に届くというところまで来ると、ぴたりとその足は止まってしまった。
    「手を出してごらん」
     フィガロはそう言って晶に向き合い、海を背にするようにして立つと、両手を差し出した。その手を取れということなのだろうと理解して、晶は恐る恐るその手を掴んだ。フィガロはゆっくり後ずさりながら、海へと近付いて行った――本当にゆっくりとした速度で、晶が辛うじて歩調を合わせられるくらいの速度で。
     導かれるままにゆっくりと足を踏み出せば、恐怖心は少しだけ薄くなった。フィガロが前にいるせいで、海が良く見えない為かもしれない。逆光になったその表情は見えにくかったが、心なしかいつもより彼が薄く、儚く見えるような気もした。
     一歩一歩、片足ずつ進んでいった。やがて水しぶきがほんの少し、足の指先に触れた。思わず身体を震わせると、フィガロは慮るように晶の手を握る力を強くした。水が触れたことは恐怖を少し強めたが、それでも足を止めなければならないほどではなかった。やがて足の指先が、水に浸かった。踝が、そして脹脛が海水の冷たさに呑まれた。波が脚に打ち寄せて、ぶつかって、時折水が跳ねて腕のあたりまで当たった。けれど、動けなくなるほどの恐怖心は、湧き上がって来なかった。
    「――ちゃんと中まで来られたじゃない」
     フィガロはそこで足を止めると、目元を緩めて微笑んだ。彼自身も足は当然水に浸かってしまっていて、服にも水が飛んでしまっているが、それを気にする様子はなかった。
    「でもフィガロまで濡れちゃいましたね」
     少し申し訳なく思って見上げると、彼は首を横に振った。
    「別に今日は水遊びするつもりで来たんだから構わないんだよ。――手を離してみる?」
     晶は恐る恐る繋がれていた手を離して、一人で海の中に立った。フィガロが晶の横に移動すれば、もう僅かに波を遮ってくれるものはなく、ただ青黒く深い沖の方から打ち寄せて来るそれは晶に直接ぶつかるだけだ。けれど逃げ出したいとはもう思わなかった。試しに屈んで水をすくってみると、透明な水が零れ落ちて、きらきらと輝いた。小さなヒトデや魚が、時折顔を覗かせては、じっとしているのが見えた。
    「この魚捕れるのかなあ」
     フィガロはと言えば何か面白いものを見つけたのか、隣で興味深そうに海の中を覗きこんでいた。
    「――あの生き物は見たことがないな。俺のいたところと全然違うね」
     ぼんやりと波に洗われながら、晶はフィガロのその台詞を、まるでここではない、全く違う場所から来た人の言葉のようだと思った。外国とか、そういうのではなくて――それこそ異世界のような。
     晶はふと思い立って、徐に服の中から首に下げた貝殻を引っ張り出し、それに唇を当てた。海の中で鳴らすそれは、いつもより幾ばくか音が澄んで、美しく鳴り響くような気がする。そうやって笛を鳴らしている晶を、フィガロは少し目を細めて見ると、やがて揶揄うように言った。
    「――またそれを吹いてる」
     晶は少し迷ったが、もうフィガロには本当のことを言ってもいいような気がして、小さな秘密を打ち明けることにした。
    「これを鳴らしたら、俺が忘れてしまった誰かに届くような気がして、なんとなく鳴らしてるんです。最初は自分がそういうつもりで鳴らしてるのすらわからなくて、なんとなくやっていたけど」
     馬鹿でしょう、と晶は笑ってフィガロの方を見たが、どういうわけか彼は少し視線を伏せて、考え込むような表情をしていた。
    「――誰かにって、この間きみが忘れてしまったって言ってた相手?」
     僅かな間の後にフィガロがそう問うてきたので、晶は少し目を伏せて答えた。
    「多分。それさえぼんやりしているから、やってらんないんですけど」
     フィガロはしばらく黙って海の向こうに視線をやっていたが、やがて呟くように言った。
    「楽器ではない笛っていうのは何かを呼ぶためのものだからね」
     その言葉に晶は、首から下げられた笛を見下ろす。
    「――もしかしたら、そういう用途できみに渡されたものだったのかもしれないね」
     何かを呼ぶためのもの――笛の持つ役割がはっきりと言葉にされたその時、晶の目の前の色がほんの少し変化を見せた。それは記憶の扉が開く時に共通の兆候だった――思わず身構えると、目の前の海がさっと色を変えたように見えた。もっと色鮮やかな南国の海――リゾート地のようだ。この国でももっと南に下ればそういう海を見ることができるかもしれない。白い砂浜と――イルカがいる。いや、違う。思い出すべきは多分そこよりももう少し後だ。バカンスに行くときのようなラフな格好をした男がいて、冗談を言っている。
     ――これを鳴らしたら、俺が賢者様のところに飛んでいくなんていうのはどう?
    「危ないからぼーっとしたら駄目だよ」
     両腕を掴まれて、晶ははっと我に返った。もはや虹色に輝くビーチはどこにもなくて、代わりに少しばかり心配そうにのぞき込んでくるフィガロの顔があった。だがそれを目にした時、その灰色と翠の入り混じる目に覗き込まれたとき、どういうわけか眩暈は強くなった。
     ――誰が飛んでくるというのだ。そんな頭の中の問いと共に、強い既視感が晶を襲った。この美しい顔をどこかで見たことがあると思った――いや、毎日見ているのだから当たり前だろうと思い直す。――いや違う。それよりずっと前に見たことがあるのではないか? ――わからない。
     白衣、医者、二つのティーカップ、空っぽになった酒瓶、孤独な夜に倒れる男、そうした視覚的な記号が突如いっしょくたになって晶の頭の中で渦巻いた。
    「――聞こえてる? 危ないから海から出よう」
     ぐいと腕を引っ張られて、晶は現実と幻の境が曖昧なまま、水中で重くなった足を動かした。やがてすっと簡単に足が上がったことで、海から上がったことに気付いた。波打ち際からかなり離れたところに辿り着いてから、フィガロは身を屈めて晶の顔を覗きこみ、その頬に触れた。
    「――ごめんね、あんなところで記憶に関わるようなことを言ったら危なかったね」
    「いいえ、フィガロのせいでは――すみません、ただ何かいきなり記憶が、ぐるぐるして――」
     フィガロの片腕を掴んだままやっとの思いで答えながら、晶はこの男は誰かに似ている、と思った。どうしてこんなにも似ているのだろうと思った。雰囲気が似ているのだ――あるいは、彼が纏っているたくさんの記号が似ているのだ。記憶の中のあの男に。
     考えれば考えるだけ眩暈が酷くなるような気がしたので、晶はなるべく頭の中を空っぽにして、何も考えないようにしようとした。
    「――身体が冷えてる、一度家に帰ろう」
     耳に届いたフィガロの声はどこかいつもより張り詰めている気がした。大丈夫だからそんなに心配しないでくれと言おうとしたが、少なくともそれ以上海岸に留まらない方がいいのは確かだった。第一足がびしょ濡れだった――夜が来てすっかり気温が落ちてしまう前に戻ったほうがいいだろう。
    「花火を見せたかったんですけど」
     まだぼんやりとした意識の中晶が呟くように言うと、「それは自分でも見られるから大丈夫だよ」と柔らかい声が返って来た。
    「そうじゃなくて、一緒に見られたら良かったんですけど」
     晶が言い直すと、しばしの沈黙の後次のような答えが返って来た。
    「――それも多分、別の機会にできるから大丈夫だよ。――君が望むのであればだけど」
     背後では、もう祭囃子が聞こえ始めていた。あっちで何かやってるみたいだよ、と親を呼ぶ子供の声が聞こえた。しかしそれに混じって、晶は確かに聞いた――「安いよ、魔法のアイテムがあるよ」――子供の声ではなく老婆の声が、祭りの笛ではなく陽気なギターかなにかの奏でる音が響くのを。コンクリートの建物は時折白塗りの壁の、地中海の建物のようなものに見え、夕日の色はより彩度の高い遠い国のものに見えた。
     そんな中、確かなのは彼の手を引いている冷たい手の感触だけだった。そのまま晶は手を引かれて、家まで歩いた。家に着いたとき、最初の花火の上がる音が聞こえた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖💖💖💖🙏🙏🙏🙏💴💴💴🙏❤❤💖💖💖💖💖💖💖💖😭😭😭😭🙏🙏🙏💘💘💖💖💖💖😭🙏👏👏💖💖🙏😭😭🙏🙏🙏🙏❤❤❤❤💖💖💖❤💖😭
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    tamagobourodane

    DOODLEお互いのチャンネルに日参してるVtuberのフィガ晶♂の話
    ※Vtuberパロ注意/リバの気配というか左右曖昧注意

    なりゆきで弱小センシティブめ企業Vやってる晶くんが、厄介リスナーの「がるしあさん」に悩まされつつ「フィガロちゃん」の配信に通う話
    文字通りほんとに悪ふざけの産物です
     手にはワセリン、傍らにはティッシュペーパー。ジェル、コットン、ブラシだ耳かきだのが並ぶ脇には、更に行程表が見える。『耳かき左右五分ずつ、ジェルボール五分、ここで耳ふーを挟む。数分おきに全肯定、“よしよし”』。アドリブに弱い晶が、慌てないようにと自分の為に用意したものだ。
     成人男性が普通なら机の上に並べないようなそれらのアイテムの真ん中に鎮座しているのは、奇妙な形をしたマイクだった。四角く黒い躯体の両側に、二つの耳がついており、その奥に小さなマイクが設置されている――最近流行りのバイノーラルマイクというやつで、このタイプは手軽に耳かきをされているような音声を録音することができる。
     そしてその奥にあるのはモニターとオーディオインターフェース――画面に流れるのは、大手配信サイトの管理画面と、コメント欄だ。配信のタイトルが目に入るといつもげんなりするので、いつもその画面は閉じているのだけれど、今日はその手順を忘れていた。――「ぐっすり眠れる耳かきとジェルボール――入眠用ASMR♡」。
    6749