君と存在証明「俺の目は『兄様』に似ているんですか?」
ソファの上で身体を丸めて眠る兄様をスケッチしていたら、いつの間にか、閉じられていたはずの黒曜の色が、ばちりと私を捉えていた。
「それとも、目以外も似てるんでしょうか」
似ているどころではない。一目見た瞬間に「そう」とわかった。
「あんた、俺以外に人間なんかほとんど描いていないでしょう?」
「他の絵も見てくれたんですね。嬉しいです」
「質問に答えろよ」
過去に描いた絵や、スケッチブックの置いてある、物置部屋へ出入りされていることは知っていた。けれど「何が描かれているか」にまで興味を持ってくださったことは、正直意外だった。だからこれは素直な感想だ。
「私が一番、貴方を上手く描ける」
「は?」
「貴方を一番見てきたのは、私だから」
「……ずいぶんな自信ですね。俺の何を知ってるんだか。出会ってまだいくらも経ってないのに」
お互い様だろう。貴方だって、百年もずっとずっと抱えたままの、この青臭い恋心を知らない。
手の中の鉛筆とスケッチブックを机に置いて、立ち上がる。
「私が子どもの頃からなんとなく続けていた絵に対して、仕事にするまで真剣になったきっかけをお話しましょうか。とある人物が所有していた絵画を、本で目にしたからです」
二〇三高地以前と違って、ひどく曖昧だが、私には兄様と旅をしていた記憶があった。とてもとても寒い場所、兄様の後ろを、距離を取って歩く。私は兄様に触れることができず、降り注ぐ雪や、身を切る風を遮ることも叶わない。何もできない代わりに、そのお姿をずっと見つめていた。
だから、あの絵を見た瞬間、何が描かれているのかをすぐに理解した。自分のように兄様を見ていた人間がそれを描いたということも。
「その絵のような絵を描きたくなった?」
「いいえ。私の方が上手く描けると、そう思った」
ソファの端に腰かけると、兄様の目にわずかな緊張が走る。
「生きることは忘れることっていうのは本当なんですね。あんなに強烈だったその時の感情さえ、いつの間にか忘れて暮らしていたんです……貴方に出逢うまで、ずっと」
「おい……」
「私にはきっと、鏡に映った自分のように貴方を理解する事は、いつまでだってできない。けれど、貴方のことを一番愛している人間でいたい」
「さっきから、何の話をしているのか全然わからない」
「誰にも取られたくないんです」
縋るように抱き締めた身体は強張っていたけれど、振り払うことはせずにされるがままの、ずっと私に甘い人。そのままじゃれつくように触れているうちに、兄様が小さく顔を背けて、ふぁとあくびをする。
「お昼寝の邪魔をしてしまい申し訳ありません。少しお疲れのようですが、お仕事がお忙しいのですか?」
「仕事はまぁ、ぼちぼちです。最近どうも、妙な夢を見るもので」
「妙な夢?」
「貴方に会ってから、繰り返し同じ夢を見るようになった」
「一体、どのような……」
「荒唐無稽な内容ですが、どんな夢か教えたら寝かしつけてくれますか?」
◇◇◇
灰色のさみしい場所にいた。そこには雑草のまばらに生えた地面以外に何もなく、遠くの稜線までよく見渡せた。小銃で鳥を撃っている兄様を後ろから見つめていると、ふいにこちらを振り返って「貴方がどのくらい俺を好いていたか、知っていますよ」と、そう仰った。よくよく見れば、右目は包帯で覆われているのに、その服装は最近会ったときに着ていたスプリングコートで、これが夢なのだと気づく。まったく、おかしな夢だ。だって、どのくらいなんて、わかるはずがないのだ。
◇◇◇
体中にぐっしょりと、嫌な汗をかいて目を覚ます。深く呼吸を繰り返し、どくどくとうるさい心臓を落ち着ける。自分がどこにいるのかを思い出すと、花沢を起こさないようそっと重たい腕から抜け出して、ベッドを降りる。冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を飲み込むと、その冷たさにほんの少し落ち着いた。
あの男に出会ってから、起きている時に妙なものを視ることはすっかり減っていた。
代わりに、さっきまで見ていた夢を、何度も繰り返し見ている。
ベッドで眠っていると、誰かに手足を掴まれる。声を出して助けを求めようと考えるのだが、一体誰の名を呼べばいいのかわからない。そのうちに手の数はどんどん増えていく。
始めのうちはそこで目覚めていた。やがて、酷い眩暈がし始めて、力の入らない身体をずるずると、どこかに向かって引きずられていくようになった。揺れる視界の先には、奈落のような昏い穴が空いている。最近では、後ろから拘束されて、その中へと落ちていくようになった。深く深く、どこまでも落ち続け、やがてひどい熱さを感じる。炎に灼かれているのだろう。俺は具体的な何かへの信仰は持ち合わせていないが、あれはきっと地獄に違いない。
根拠はないが、この人生自体が何かの罰だという感覚がずっとある。あの男は死神のようなものかもしれない。だってこれまで会った他の人間とは全然違うから。「例外」なんか作りたくない。何にも執着したくない。死んだ母親と同じには、絶対なりたくなかった。俺は引き出しを開けて、中のものを手に取ると寝室へと戻った。
◇◇◇
眠ったままの男の手を取って、持ってきたペティナイフを握らせ、その刃を自分へと向ける。途中で意識を取り戻した花沢が、瞳を大きく見開く。
「何を……」
「前も言いましたが、殺そうと俺を招いたのかと思ったのに、いつまでもこんな、恋人の真似事のようなことを続けて……ねぇ早く、本当にしたかったことをしてくださいよ」
困惑し汗を浮かべる男を見ながら、冷静な自分が遠くから「やっちまったな、馬鹿みたいだ」と俯瞰している。安定を、壊すような行動を取らずにいられない。穴の開いた欠陥品だから。
「……俺がしたかったのは、その恋人の真似事です」
光が目を刺した、それは涙を溜めた、明るい色の瞳からの反射。
「今なら、貴方にあたる雨や風を遮れるような気がしていたんです。俺は狡いから……いつだって、貴方といたいという我儘を優先してしまって、いいように捉えてしまう……百之助さん、俺が側にいることは、今でも貴方を傷つけていますか?」
どうして。なんでお前が泣くんだ。ナイフが床に落ちた音を、絨毯が鈍く飲み込んだ。
「わからない……あんたとメシを食ったり、普通の人間の真似事をしていると、破裂してしまいそうになる。けれど、もしそれにも慣れて……あんたの興味や幻想が、全部消費されたら? その後はどうすればいい?」
失われずに続く愛を思い描くことができない。未来まである保障のないものに慣れることが怖い。また空っぽに戻っても「まともなふり」を続けていく自信が微塵もない。
「思い出をよすがにひとりで生き続けるのなんか御免だ」
掠れた声でそういうと、そっと両腕が伸びてきた。
「そういう気持ちを、なんて呼ぶかご存知ですか?」
「知らない」
「好き っていうんですよ」
「そんなこと絶対にありませんが、もし私がよそ見をしたら、私の命を自由にしていいですよ」
「無責任なこと言いやがって、お前を殺して死ぬくらいのこと、本当にできるんだぞこっちは。失うものなんか無いんだから」
「願ったり叶ったりですよ。私はきっとひとりでもちゃんと生きていけるけれど、そうなりたいと全然思えない。貴方と歩いていけないなら、いっしょに終わりたい」
「だって、私も貴方が好きだから」
やけくそにその唇に噛みついた。俺の背中と後ろ頭を、花沢の手が逃がさないというように掴む。それから一旦離れたその口が、また「好きです」とつぶやいて、笑った。
「心臓の音がうるせぇ」
「言わないでくださいよ。仕方ないでしょう……生きてるんですから」
レースのカーテン越しの柔い光がベッドに落ちる。物置部屋にあった画集の、印象派の絵みたいに。
◇◇◇
ずいぶん久しぶりに、子どもの頃の夢を見た。外気も、自分の体温も熱い、夏の午後だった。肌に触れている畳とタオルケットと、扇風機の温い風。蝉の声が煩くて、隣で眠る母の、力の抜けた細い腕は、驚くほどに重かった。
ぱちりと目が覚める。まるで寝かしつけるような格好で隣に勇作がいる。
思い出を全部天秤にかけたら、楽しくない事の方が上にあがりそうなあの場所に、久しぶりに行ってみるのもいいのかもしれない。なんでだか、そう思えた。一緒に行くかと尋ねたら、この男はどうするのだろう。そんなことを考えながら、俺はもう一度、瞼を閉じた。
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今回中略したエロと、後日談の「星降るごとく火の注ぐ」を含めて12月に本にするつもりだったのですが、落として一旦筆を置いて久々に見たら自分でも「えぇ…(困惑)」と正気になってしまいw でも、なんかパッションだけはすごく感じたのでそのまま公開します。
そして、部屋の片付けをしていたら「深い深いコバルト」の在庫が若干数発見されましたので、BOOTHに追加しました。紙でご入用の方がいらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。