おはよう、日和くん。迎えは、明日のお昼なんだね。うん、うん……分かった、茨に伝えておくね。……ん? 茨? まだ寝ているよ。疲れているから、もう少し寝かせてあげたいんだ。用があるなら、私から伝えておくよ。そうそう、茨ね、体調も良くなっていて、元気いっぱいだから♪ えっ? いい事でもあったのか? …………そう、だね。うん、あった、かな。そっちに帰ったら、日和くんに聞いて欲しいな。
ねぇ、日和くん。私……少し、困ってるんだ。どうしようもなく、心を乱されて、切なくなって、暖かくなって……えっ? 確かに私は今、茨の事を考えながら喋っていたけど……、分かりやすかった? そうなんだ。ふふ、隠し事はできないね。うん、分かった。じゃあ、また明日。
日和との通話を切り寝室に戻ると、もぞりと布団から這い出た茨が目を細めて周囲を見渡していた。
「……茨。眼鏡はここで、私はここに居るよ」
「ありがとうございます、閣下」
凪砂から眼鏡を受け取り、それを掛けてから改めて茨は凪砂を見る。
「おはようございます、閣下! 殿下からの連絡だったんですか?」
「……おはよう、茨。うん、明日の昼ごろに迎えが来るみたい。残った時間は、一日と少しだね」
あと少しで、またいつも通りの日常が始まる。名残惜しむような凪砂の声音につられ、茨もつい感傷的になってしまう。けれど、その言葉にどう返せばいいのか、何が正解なのかが分からず、茨は開きかけた口を閉じる。
ベッドに腰を下ろした凪砂は、じっと見て視線を外さない茨に微笑み、そのままトンと肩を押す。
「閣下…………、」
「……何?」
「あの、どうして自分は押し倒されて、ベッドに寝転がされてるんでしょうか? 先程目覚めたばかりなのですが」
「……限られた時間の中で、たくさん茨を愛してあげたいから」
「もう少し、自分にも理解できるように説明をお願いします」
「……自分が理解できない事を、茨は他人の所為にしがち。茨は賢くて優秀なんだから、その頭で考えたらすぐに答えが出るはずなのに、どうして?」
「…………それは、分からないから、でしょうね」
凪砂から目を逸らし、茨は小さく吐き捨てるように呟いた。
今まで生きてきた十七年とすこし、分からなくても、日々問題なく生きてこれた。仕事も上手くいった。もちろん、アイドルとしても成功を収めている。ESというアイドル達の世界と大きな流れを作ることもできた。だから、知る必要もなく、理解する必要も感じない。
故に、七種茨は己の愛を知らず、恋を知らなかった。そして、自身に向けられたその感情も、知らないものだから受け止めることはできなかった。
眼前の最終兵器に、救いを求めた『あの日』までは。
――周りに誰が居ようとも、凪砂が隣に居なければ、意味が無い
あの時口にした言葉は嘘偽りない、茨の本心であり、返してくれた凪砂の言葉もそうであって欲しい。この感情をラベリングするのに最も適した言葉は、自身が分からない、知らないと理解を拒んでいる『それ』だ。
認めたくない。
認めてしまうと、またひとつ、俺は弱くなってしまうから。
守りたいものが沢山あるのに、強くあれない、弱い俺になってしまう。
――せめて何か、一生をかけて大事にしたいと思えるようなもんを手に入れたいよ
あぁ。幼い頃、教官殿と会話していた時の記憶が脳裏によぎる。
――愛で腹は膨れないけど、胸は満たされる
確かそんなことを言ってたっけ。そうか、今なら、俺にも何となくわかる気がする。
視界が滲む。一度じわりと溢れてきた涙を引っ込める方法なんて知らない。我慢するより、全て出し切ってしまえ。
「……茨? どこか痛い? 私、力を入れ過ぎてた?」
「ちがい、ます……。閣下は、いつも優しく……俺に触れてくるから、勘違いしそうに、なる」
「……何と勘違いしちゃうの?」
「俺……が、人に、好かれるような人間、だと」
次々溢れてくる涙を、優しく指の腹で拭われる。ほら、そうやって触れてくる所だよ。愛されてると、錯覚してしまう。
「……そうやって自分を卑下しないの。かわいい茨、私の茨……愛しい子」
「やだ……やだ、そうやって、伝えられても俺はそれに応えられない……。答えを知らない、から、俺、閣下の気持ち、受け取れない」
優しい雨のように自身に降り注ぐ愛の言葉に、くしゃりと顔を歪ませる。視界がまた涙で滲んで、閣下がどんな顔をしているのか、分からない。
「いつだったかな、スパーアイドルが言ってた。受け取ってもらえなくても、注ぎ続ける。それが無償の愛。だから、茨に受け取ってもらえなくても、届かなくても、返品されちゃったとしても、私はずっと、ずっと、茨に愛の言葉を伝え続けるよ」
とくとくと、底の抜けた、壊れた器に愛の言葉が注がれる。
当たり前だが、壊れた器からは注がれた愛が流れ出す。けれど、その器を包む大きな器に、茨から流れ出た愛が溜まってゆく。はは、俺の壊れた心を癒すんじゃないんだ。あんた自身の器に、俺も入ってしまうのか。
「はは……、溺れそう」
「……うん。私に溺れて。好きって、愛してるって、私が与える感情に溺れて、おかしくなって」
「要求、ひどくなってないです? でも、そうですね、まだ応える事ができない俺には……溺れるのが、丁度いいかも」
諦めと安堵が入り交じった笑みを浮かべる茨に、凪砂はひとつ、ふたつと泣き腫らした目尻や瞼に口付ける。くすぐったそうに身を捩るが、押し返す様な抵抗が無い事に、堪らなく愛おしいと感じた。
***
陽が高くなる頃まで、お互い飽きもせず触れ合っていた。今までの寂しさを埋めるように、愛しい存在を確かめるように。
そうして微睡んでいると、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば閣下、昨晩の記憶が朧気なんですが……何がありました?」
「ん? 昨日は何もしていないよ」
「昨日『は』?」
「……茨の気持ちも聞けたし、これからする予定」
「はぁ! なに、勝手に……!」
「……期待した?」
「してませんッ!」
ふふ、ごめんね、機嫌直して。と笑えば、別に拗ねてるんじゃなくて、反応に困っただけなんです。と、向き直って言う。
「……そうだ。日和くんに『茨には内緒だね!』って言われてたこと、先に伝えておいた方がいいかも」
「えっ、突然何ですか……? しかも殿下が秘密裏に計画している事って……バレたらマズイのでは?」
「……茨が『初めて聞いた〜!』って反応ができたら、きっと大丈夫だから」
「えっ、はぁ、まぁ……善処します……」
「でね、実は、もう『Eden』のライブ企画は動き出してる」
「えっ…………?」
凪砂の話を聞くと、茨が日和に伝えた時点でスタッフにも状況は伝わり、そして茨に任せ切りだった部分を自分達でやりたい、という事務所スタッフの申し出が相次いだという。進捗は順調で、会場の確保や設営に関しては問題ないらしい。
「なるほど、それで殿下も頑なに『戻る期日は守れ』と一点張りだったんですね」
「うん。戻ったらすぐにレッスンに取り掛れるみたい」
しかし、こうなるといったい何をすればいいのか、皆目見当もつかない。スタッフ一人ひとりに、何がしてやれるのだろう。
「……茨、そんなに難しく考えないの。私たちはアイドルだよ」
ぐにぐにと眉間に寄った皺を伸ばし、額に口付けを落とす。
「……やる事は、ただ一つ。最高のステージで、最高のパフォーマンスをして、集まったファンの皆に、そして関わってくれた全ての人々に、至上の楽園を魅せること」
「何だか、当たり前と思っていましたが、アイドルにしかできない事ですよねぇ……」
「……そう。そして、私たち『Eden』の四人が揃えば」
「無敵です」
くすくすと笑い、互いに触れ合うだけの口付けを交わした。