夜の子供たち目の前にいた少年が、声も出さずに崩れ落ちた
たった一瞬の出来事に、理解もできず動く事もできず、唯その様子を見届けるしかできなかった。
頽れた少年の傍らには一振りの真紅の剣。そして彼の首には、もう一人の少年の持つ大鎌が正面から喰らいついていた。
柄を握りしめ、銀色の櫛の隙間から覗いた黄金の瞳を喜びに打ち震わせ、瞼を大きく開けて、心あらずとそれを凝視していた。
広い中庭の一角で行われていた”遊び”を、手摺に寄りかかりのんびりと観察していた彼らより少し小柄な少年の短い悲鳴を耳にし、銀髪の少年は我に返る。
刃先から伝わる固い感覚が何かを理解した少年の心臓は早鐘を打つ。胸が急に苦しくなり上手く息ができない。呼吸をしようと肺を膨らませるが、何故か余計に苦しくなった。
「マ、ママ‼」
悲鳴を上げた小柄な少年は、そう叫ぶとキルトの赤い外套を翻し中庭から駆け出して行った。
何かしなければと焦り大鎌を首から外し、体を支えると、裂傷から溢れた血液が床一面にゆっくりと広がっていく。座り込み、思わずその首を押さえるが、既に手遅れだった。
「ザグレウス」
名前を呼んでみるが、答えはない。押さえた部分から鉄の臭いが漂い、赤い粘液は小さな手のひら染めていった。
「ザグレウス……」
明るく快活だった少年の名前を何度も呼ぶと、彼の笑った顔が脳裏に浮かび上がる。こみ上げる熱の塊に押し上げられた雫が瞳から溢れた。
「タナトス?」
後ろから優しく静かな夜の声がした。彼女はふわりとしゃがみ込み、自らを子供の目線に合わせる。そして、その小さな背中に手を置いた。
「母さん……これは、ぼくは、」
明らかに錯乱した様子のタナトスと呼ばれる銀髪の少年は、事切れたザグレウスの手を握り、うわ言を繰り返している。
「しっかりなさい、我が子よ。何があったのか教えて貰う事はできる」
夜はあくまで優しかった。その様子に少し落ち着いたのか、タナトスは瞬きを繰り返し記憶を戻そうとする。そして、口を開いた。
「あのね、ザグレウスとね、喧嘩ごっこして遊んでた……そしたらね、ザグレウスがね、決闘しようって言ってね、」
タナトスは首を押さえていないもう片方の手で真紅の剣を指さし、続けた
「剣にしょう!って言ってね、だからね……ぼくもこれにしたの。ぼくもザグレウスと決闘したかったから」
座り込んだタナトスの膝の傍に、凛々と輝く白刃の大鎌があった。大きく息を吸い込み、努めて責任を果たそうと話を続ける。
「ぼくがね、負けそうになってね、負けると思ったから、勝ちたかったから、怒った。そしたら」
「……もう大丈夫ですよ、ありがとう。」
話を遮るように頭を撫で、夜はタナトスを包み込んだ。その傍らでは、心配そうに小柄な少年が見つめている。
「Zagしんじゃやだよ」
空いた片方の手でザグレウスの手を握る。まだ柔らかく温かい触感に再び涙が零れた。頬を伝い、顎の先から垂れるほど、多く。
冥府の王子を手にかけてしまったということは、冥府の皇帝に背いたのも同然になる。それは、過酷な未来を予見するには十分だった。ニレの樹に閉じ込められるか、あの巨人族のように幽閉されるか。怒りに満ちた厳しく残虐な皇帝の手で無残に苦しむか。考えれば考えるほど良い方向にはならない。そして何より、あの明るい王子と二度と会えなくなることが嫌で仕方なかった。兄弟の様に共に育ち、寝食を共にした友人が居なくなることが寂しく、耐えられなかった。
その気持ちを察したのか、先ほどよりもゆっくりと、言い聞かせるように夜は言った
「心配しないで。ザグレウスはまだ帰り方が判らないだけなの」
「……帰り方」
タナトスは握りしめたザグレウスの手を見やる。先ほどより冷たくなっている彼が”帰る”とはどういう事なのか判らなかった
「……本当に大丈夫よ。私を信じて頂戴。とにかく……連れて行きましょうね。タナトス、ヒュプノス、一緒においでなさい」
夜は滑るようにタナトスとザグレウスを繋いでいる手を離し、そのくったりした小さな体を抱え、立ち上がった。見上げるような形になったタナトスは、自らが殺めてしまった親友の顔をみやる。夜によって瞳を閉じられたその姿は、喧嘩をした日も笑いあった日も毎晩の様に見るいつもの顔だった。現実感のないあやふやな感覚に寒気を覚え、身震いをした。
そして、夜に抱えられゆっくりと遠ざかっていくその姿は、時間の感覚までも狂わせるほど彼の心に焼きついた。
「兄ちゃん行こう?」と弟の声がした。三度我に返った少年は、弟に手を引かれ、中庭を後にした。
夜と子供らは冥府の入口……ではなく、謁見の広間に繋がる長い廊下の先にいた。幸い皇帝は不在だったが、慌てる子供たちの様子を見たアキレスと、審判を受けにここへ訪れている魂がそれを遠くから見守っている。
屋敷の壁を伝い、何処からか流れ落ちてくる血を滾々と蓄え続ける奇妙な人口池の前に彼らは立っていた。まるで門の様に立つ柱には美しい花の彫刻が彫り上げられ、その周りの壁沿いに無数の蝋族が灯されている。それがまた、この池の異質さを際立たせていた。
夜はゆっくりと池に歩みを進め膝まづくと、その池に抱えた子を浮かべた。
そして、何をするのだと言わんばかりに驚いた表情を見せる兄弟に目を向け、深くうなづく。
赤い池に浮かんだ手負いの少年の体が、大地の方向へ引かれて沈んでゆく。顔、足、体と見えなくなり、最後に小さな手が飲まれていった。
完全に見えなくなった後の長い沈黙が今生の別れの様に感じてまた泣き出しそうになるのを兄弟は堪えている。彼らは母親を信頼していた。
「……ほら、御覧なさい二人とも」
そう言って夜が指し示した場所で、何かが沸き上がっていた。先ほどまで静寂を保っていた水面が水音を立てて沸いている。目が離せなくなり、じっと見つめる彼らの前で水面は大きく波打ち、その突如大きく膨れ上がった。
「ぷはーーーッ‼」
タナトスとヒュプノスは予想外の事態に驚きを隠せなかった。まるで潜水ごっこの息継ぎの様に大きく息を吐き出して、先ほど沈んだ少年が浮かび上がってきたのだ。
「おかえりなさい、ザグレウス。上手に戻れましたね」
夜は何もかも見透かしていた様に微笑んだ
「上手にできた……ただいま、おかぁさん‼」
特徴的な両目を細めて彼は元気よく返事をする。そうして、間髪入れず、呆気に取られているタナトスに駆け寄っていった。
「タナトスの勝ちだけど、僕すっごく痛かったよ‼」
「え‥‥あ、うん、ごめん」
安堵と優越感と状況への理解が追いつかない頭のまま、タナトスは返事を返す。
「大丈夫なの?ザグ」
少し怖かったのか、夜の影に隠れていたヒュプノスがザグレウスに駆け寄っていった。
「ちょっと頭が痛いけど、大丈夫」
そういって軽い跳躍をしてみせたザグレウスの体には、傷の一つも付いていなかった。大きく裂けたはずの首元も至って綺麗なまま、まるで何も無かったかのように見てとれた。
改めて親友の無事を確認したタナトスは、緊張から解放され大きくため息をつく。何がどうしてこうなったか判らないが、再び日常を取り戻せた事に彼は心の底から幸せを感じる。
「次何してあそぼっか‼」
無事な姿で会えたという喜びも一入に、親友は兄弟を次の遊びへと誘うが、
「お待ちなさい」
鶴の一声がそれを阻止した。
「3人にお話があります」
3兄弟は顔を合わせると、向き直り、開口一番叱られると身を縮こませる。
母は3人の顔を順に見やると、1人1人に問いかけた
「ザグレウス、喧嘩に剣を持ち出してはいけませんよ。決闘をするなら、次はもっと別の方法でお願いね」
真剣な面持ちで、ザグレウスは返事をした。
「ヒュプノス、よく急いで知らせてくれましたね。貴方の判断は素晴らしいわ」
ヒュプノスは鼻を鳴らし、微笑んだ
「タナトス、貴方は感情のコントロールを覚えなければなりません。常に冷静に居るよう努めなさい……それは自分を守る事にもなります」
タナトスは深く頷いた。
「さぁ、行っていいわよ。気を付けてね」
はあい!と短く返事をして、3兄弟は駆けだしていった。長い廊下を抜ける間、次の遊びを考え合っていた。館中に喜びの声が響き、いつまでも絶えずにいた
「常に冷静に居るよう努めなければならない」
地獄への道の途中とはにわかに信じがたいほどエリシウムは輝きで溢れていた。その光から逃げるように目深に被った黒衣の美丈夫が、身の丈程の大鎌を携え、言葉を反芻をする。
自らに与えられた使命が、あの時の再演だとしても、成さなければならなかった。