まちびときたれ小さな呻き声を発しながら長い腕をしなやかに反らし、彼はそのまま背中を伸ばした。
それに反応するように、男の頭に賜った燃える冠が小さく音を立てながら火の粉を散らす
衣類も髪も濡れたまま歩き出し、冷たい回廊に男の足跡を残していく
水滴は王座から左へと迷う事なく曲がっていき、バルコニーで特大の水たまりを作っていた
「ん……」
仕事場での競争で一勝を勝ち取った彼は、きまって先に帰還している競争相手が定位置のバルコニーにいない事にほんの少し動揺した…と同時に表しようのない寂しさも覚えた。
その場所の主がいないならば仕方ないと肩を下ろし、ゆっくりと定位置に肘をつくと、真横のテーブルに積み上げられた本が一冊減っている事に気が付く
この場所の主は気難しく、私物が勝手に減ろうものなら恐ろしい気を放ちながら無表情で問い詰めて来るタイプだ。
…ということで本人と自分以外は触れられる訳がない。
だが、肝心の本人は居ない
手すりに体重をかけてその現象について暫く思慮を巡らしながら本人の帰還を待ってはみたものの、現れる事は無かった。どうして戻ってこないんだろうと、愛しい背中を思い出し寂しさを募らせて、彼の心はほんの少し乾いて来てしまっていた
同じく乾いた服を軽く整え、一つ溜息をついて、彼はバルコニーを離れて自室へと向かう
(戻ってくるまでトレーニングでもして気を紛らわそう……)
なんだか拗ねた顔で迎えるのも嫌だったし、尻尾でもあるように大喜びして迎えるのもなんだか大人げない気がしてまう。どちらでも、喜んでくれるとは思うけどな……?と、気持ちがフラフラと揺れて、彼は落ち着かない
ゆっくりと自室の扉を開け、音を立てないように閉めると、彼は真っ先に寝台に座り込んだ。
何から始めるか、ダンベルか、まずは柔軟か……と肩の飾りを外す最中、静寂の中に想定していない音が微かに聞こえた。心なしか、空気も冷たい。
音の発生源を探ろうと耳を澄ませると、寝椅子の方向から小さな風切り音が聞こえてくる。
形のいい眉を思いっきり寄せながらそこへ近づくと、寝椅子から黒い衣の端が流れて零れてきた。皇族の私室に入り、ましてや寝る事ができる人物は、地球上ただ一人しかいない。
途中で眠気に襲われたのか、きっちりと閉じた本には栞が挟んであり、落とさないようしっかり腕で固定をしている。背もたれ側に首を向けているせいでその顔を見る事は叶わない。
だが、その容姿は紛う事なきバルコニーの主だった
未知との遭遇ではない事を理解し警戒を解いた男は、なんだか色々なものの平穏を取り戻し、大きな瞳を丸くして大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。息を吹かれた焚火のようにその冠の炎も燃え上がる。
眠る当人の日々の激務の事もあり、起こしてしまうのは憚られて、そのままゆっくりと中腰で後ずさりしながら再びベッドに座り込む
ここに座っても見えるのは黒衣と足先だけだったが、彼はそれでも十分だった。