捕食者の言い分 呪うなんていうのは私たち魔女の専売特許であって、私がかかるようなものではないはずだ。
こんなにも死んでしまいたいのに、どうして希死念慮を抱いたかも忘れるくらいにそう思っていたはずなのに、目の前にいるのは人喰いとまで恐れられた怪物であるのに。
その怪物に熱を持った辛そうな眼に見つめられて、自分の手を怪物の口元に運ぶことすらできない。
私は人間ではない。ただ、人間より脆くはないというだけで死ぬことはあるし、怪我をすれば痛い。だから恐怖を、死という救済或いは逃避をこの存在は与え得る。この人喰いは人間を行儀良く解体して食べるなんてことはしない。
彼は、『ヒト喰いのユイ』と呼ばれている人物だ。生の肉を好むらしく、酷い飢えの日は人間を生きたまま食べることもあると聞いている。この街には人間も魔女もおり、魔女が時として人間に恐れられることは珍しくもないけれど、魔女にも人間にも恐れられる『怪物』とは彼くらいのものだ。
そして怪物と言わしめるのだから、人間と遜色ない見た目の私という、据え膳と言っても過言じゃないモノが目の前にあって、ばかみたいに涎を垂らしながら手出ししないこの人物もおかしいのだ。
食欲に勝る理性が一体何によるものなのか。わからないが、私の肩を掴んで捕食者はぼそりと呟く、「食えねえ」。
そんなことがあっては困る。けれどその口は私の腕を千切らずに、言葉を紡ぐ。
「腹ァ減ってるのによお、喋る口はあるのによお、顔を前に突き出すそれだけができねえ、なああんた魔女だろ、何て俺に呪ったんだ、」
「の、の、呪ってない、私寧ろ死んでしまいたくて」
「あぁ?じゃあ逃げないのは死にたいからかよ、意味分かんねえ、じゃあさっさと呪いを解けよ、なあ、さっきから苦しいんだよ」
飢えからの焦燥か彼の目は大きく見開き、呼吸が荒い。呪いなんて掛けた覚えもなく、私の目は泳ぐばかりだ。それが気に入らないのか彼は宙に浮いたままの私の手を掴むが、それ以上は固まったかのように動き出せずにいる。全く状況は読み込めないが、一つわかるのは『彼と私、どちらの願いもどうやら叶わない』ということだ。
この希死念慮はきっと逃避だったのだろう、もう自分から身を差し出すことができなくなっていた。いざ機会があってもこうならば、じゃあ、じゃあ私はどうしたら。
どうしていいか判らず立ち竦んでいると、掴まれていた腕は彼の方に引かれ握り締められる。怪物とされている所以の一つなのかもしれないが、単純な性差もあり痛い。思わず呻き声が出て、瞬いた目が再び彼を見る。
何を思ってか知らないが、単純に上手くいかない憤りにしては強すぎる怒りがそこに見える。
「それとも、そもそもお前が俺をこんな風にしたのか」
怒りが。
色味こそ薄いが不吉の緑が、何かに対する怒りを燃やす。私の腕を握る手が冷えて震えている。恐ろしさを増すと同時に、この一言で彼が生まれついての怪物ではないことを私に憂慮させた。
彼は、魔女にさえ恐れられる『ヒト喰い』などと呼ばれたくはなかったのかもしれない。
そうであるなら、私のやろうとしたことは彼にとって侮辱だったのかもしれない。
彼が持つ感情の起伏にそれこそ殺されそうになりながらも口は開いた。そうするべきだと、何故かそう思った。
「あの、ごめんなさい貴方を呪ってなんていないんですけれど、でもヒトを食べたくないなら、私手伝います、色々」
「はぁ!? 違うんなら余計意味分かんねえだろ、お前に何の関係があるって言うんだよ」
「何故か私を食べようとしてもできない、ならその、状況を応用したら『ヒトを食べる気が失せる』にできるかも、?」
「???」
そんなに難しいことを言った覚えはないが、彼の頭に大量のはてなが浮かんだのが見える。先程の気迫も一瞬で何処かへ消え去っていて、いけないと思いつつ和んでしまう。
「ええと……もうヒト喰いと呼ばれそうなことはやめたい、んですよね?」
「うーん、多分そう、か?考えたことない、ていうか腹減った」
さも「落ち着いたらお腹が鳴った」みたいな流れで彼の主張が振り出しに戻った。自分が食べられるという方向性ではなくなった以上代替案を探さないとまともなやり取りは望めないかもしれない。何かないかと頭を捻る。
ここは商店街の路地裏である。買い出しに出ていると、偶然彼と思しき人物がこの辺りをふらついていると耳に挟み、先述の下心ありきで彼を探し今に至る。おおよそ自分の条件に合う食べ物を探しに来たところ人混みで空腹が加速してとか、そういった状況だったのではないかと想像する。
とりあえず買い物籠に入っていた二角馬の足を彼に手渡し表へ出る。未だ人々が大通りを行き交っており、数十歩程度で彼の顔を見た順に人々が道を開ける。足を食べながら横を歩く彼が「あんま美味くない」とごちるのを聞いて横を見る。
「行きつけのお店はどちらですか」
「十一番街の肉屋、小型のやつなら生きたまま売ってる」
踊り食いを見ることになるのを想像して寒気が走る。悲しいことに通りやすくなった道はそれへのタイムリミットを短くする。しかし私が邪魔をしていなければ彼はもう少し早く食事にありつけていただろう、その弁済くらいはしなければならない。
こうして辿り着いた薄暗く寂れた肉屋では、今まさに甲高い断末魔を鹿角兎があげ、血抜きが行われる最中であった。カウンターにのめり込んだ彼がその様子を見て鹿角兎とハーモニーする。
「遅えよユイ、今日は要らねえのかと思って今取り掛かっちまったじゃねえか」
肉屋の店主は咄嗟に鹿角兎の頸動脈を掴み、下に敷かれているらしい袋に落ちる血と鉄臭さが私の五感を襲う。彼はそれをものともせず男へ交渉する、流石というか何というか、慣れているようだ。
「いや今ならまだ美味い、それくれ」
「今渡せば即血塗れになるだろここが」
「じゃあ丸呑みするから!」
どういう事かはさておき、新鮮であればあるほどいいのかもしれない。ならばと、私は咄嗟に『まじなう』。
『まじなう』ことは正しくあることや幸せにあることに対する祈り。この兎にとっても、彼にとっても兎についた切り傷を塞ぐことは良いことである。≪白のまじない≫と≪黒ののろい≫を取り違えれば、魔力があろうと祈りは叶わない。
切り立ての、大き過ぎない傷を治すだけなのに私の手は震えた。魔女としてどうなのかと一瞬過ったけれど、雑念はあるだけ無駄だ。伸ばした片手を兎に向け、呪う。
「≪塞がれ≫」
一言唱えれば兎が一瞬光り、傷口が花の閉じるみたいに塞がって見えなくなる。生憎ショックか兎が動き出すことはなく、生きていないかもしれないけれど。
「……これで譲っていただけますか」
「あ、ああ、勿論」
「ではこちらで」
少し多いくらいの金銭を店主に、兎を彼に手渡して店頭を離れる。店主は人間なのだろう、見慣れぬ魔法を見てぽかんと口を開けていた。一方の彼、『ヒト喰いのユイ』はそのまま離れていくかと思いきや、私に付いてくる気配がある。私の前方のみならず、数歩後ろからも周囲の後ずさる足音がしていた。
弁済はしたのだからもう用はないはずだけど。振り返ると、彼はどこか不服そうな顔をして私を見ている。
「あの、まだ何か」
「確かにお前にメーワク掛けられたけど、多分これは返し過ぎ」
魔女は人間と比べて数が少ない。そして魔法もそう頻繁に使うものでもない。もし頻繁に使える力の強い魔女が居ても、他の人々に酷使される未来が見えるので恐らく大半はそうしない。少なくともこの辺りでは見ない。
故にあのような衆目のある場所で、魔女は基本魔法を使わない。その様な目立った行いの回数を重ねれば他に迷惑が掛かる。なので基本的には魔女の家か隠れた場所で行われ、後者の場合大抵秘密とされる。
多分これを『返し過ぎ』と指すんだろう。そう言われてみれば確かにそうなのだけど、そうしなければきっとあの兎を買い取ることもできなかっただろう。
気にしないでと振り切ろうとする前に、彼はまた私の腕を掴んだ。瞳の輝きに反して、大きな手は冷たい。
「それにあんたが掛けた呪いは解けてない」
「だからそれは知らないって、」
緑色の怪物の眼が、爛爛と輝いている。
そこから怒りの色は何故か消えていた。代わりに何かしらの、恐らく呪いを解くことへの期待にきらめく。
私に解けるかは分からないけれど、これも一つの縁だろうか。諦めなのか、自然と一つ息が漏れた。
「解き方知らねえなら探せ、んであんたが解く代わりに、……代わりに……うーん、じゃあ死にたくならないようにする」
「……貴方にメンタルセラピーが出来るんですか?」
「うるせえ死なれたら解けないだろうが!」
今日死ねなかったのだから、どうせ死にはしないのに。少し可笑しくなって吹き出すと、何故か彼の眉間はほどかれていった。
「お前ちゃんと笑うじゃん、さっきまで今にも死にそうな顔してたのに」
「そのままぽんと終われていればな……」
「させねーからな!あんた、名前は」
見下ろす彼の口許は笑っていた。今笑うと何だか負けるような気がして、力を入れてへの字口を作る。
上手くいつもの顔に戻れているだろうか。
「私は、」