お題:無意識、蒼、赤*
「蒼月くん、赤色好きなの?」
退屈な授業から漸く解放された放課後。不意に蒼月に声をかけてきたのは、隣の席の女子生徒だった。冷めた目つきで彼女を一瞥してから、蒼月はぱっと明るい表情を作って「どうして?」と質問に質問を返す。
新しいクラスになってからそろそろ三か月は経とうとしており、生徒は近づいてきた夏休みの気配に浮足立っている。そこまで至っても、蒼月はまだ彼女の名前すら覚えていなかった。昔から見た目がよいと褒められることの多い蒼月にとって、親しくもない人間に唐突に声を掛けられることは経験則上大抵ろくなことにならない。それが蒼月の好みにまつわる質問ならば猶更だった。
「だって、小物とかほとんど赤ばっかりだから」
「…………ああ、本当だね」
校則違反と窘められても仕方のないような派手派手しい爪で、女子生徒は蒼月の筆箱と鞄を指す。ペンや消しゴムに始まり、ブックカバーやノートまで、殆どが赤色の系統で統一されているそれらを見て、蒼月は不覚にも納得してしまい、僅かに点頭する。意識的なものではなかったけれど、こうして見やればあまりにも瞭然である。
「蒼月、帰るぞー。……っと、悪い。話し中だったか?」
優等生らしい蒼月とは逆に、制服のブレザーを着崩した男子生徒が鞄を肩に引っ掛けながら蒼月の席に走り寄る。既に声をかけてしまってから会話中であったことに気づいた彼は慌てて両手で己の口を塞いだが、とうに後の祭りである。青年の赤い髪を視界にとらえた瞬間、群青色の虹彩を抱えた双眸はふわりと大きく見開かれ、すぐにまた三日月のようにうっそりと細くなった。
「大丈夫だよ。帰ろうか、拓海クン」机の上に広がっていた筆箱を乱暴に鞄へと押し込み、蒼月は席を立った。教室から去る際にじゃあねと女子生徒に手を振ったが、しかしたった一秒すら惜しむように、蒼月の目は拓海と呼ばれた生徒だけに向けられたまま。
「本当に大丈夫だったのか? なんかの用事があったんじゃねえの?」
昇降口の下駄箱に上履きを閉じ込めながら、拓海が心配そうに口を開く。その心遣いに対し、本当に他愛ない日常会話しかしていないけどと蒼月は首を傾げた。蒼月にとって、あれは他愛ないどころか寧ろ無意義で無意味で無駄でしかなく、何なら体よく切り上げられて紛れ幸いとさえ感じていた。本当に理解していないような表情で呆けている蒼月に、拓海は苦笑しながら肩を落とした。
「あの子、お前と同じ図書委員の子だろ。委員会の話じゃないのか?」
その言葉をヒントに、蒼月は脳海の中から記憶を手繰り寄せる。たっぷり数十秒経ってから、外面だけは良く保っている優等生が絶対に教師の前ではしないような低い声色で「ああ……」と蒼月は零した。
「よく覚えてたね。ボクだってあの子のことを忘れてたのに」
「え。あ、いや……まあ」
校門を抜け、信号を待つ。もごもごする拓海の横顔を蒼月が盗み見てみると、随分と険しいしかめっ面をしていた。何だか自分らしくないことをしていることに気づいてしまった時の表情である。ふ、と蒼月が上機嫌に微笑む。クラスで女子生徒に話しかけた時に作った笑顔とは異なり、心の底から楽しそうな、力の抜けた笑顔だった。
「拓海クンはボクよりもボクのことを知ってるんだね、愛されてて嬉しいな」
「あい……っ!? 違う!」
「違うの? ボクはこんなにキミを愛してるのに」
「…………つっこまないからな」
慌てた顔。しかめた顔。驚いた顔。照れた顔。ころころと変わる表情を、蒼月は眩しそうに眺める。「流されちゃったな」と寂し気に呟く声に反し、彼の表情は満足気だった。
やがて信号の色が変わり、歩行者を急かすような音が鳴る。
「拓海クン、今日は雑貨屋に寄ってもいい?」
「いいけど……何か欲しいものがあるのか?」
横断歩道を渡りながら、銀色の髪が風に吹かれてさらりと靡く。同じリズムで揺らめく赤毛を眺めて、蒼月はしかし何も言わずただ意味深に蒼い両目を細めた。
*
翌日。
拓海の鞄に蒼いパスケースがぶら下がっていた。
蒼月の鞄に赤いパスケースがぶら下がっていた。
その翌週。
拓海の筆箱に蒼いペンが増えていた。
蒼月の筆箱に赤いペンが増えていた。
その更に翌週。
拓海のスマートフォンケースが蒼色になっていた。
蒼月のスマートフォンケースが赤色になっていた。
「ねえ、蒼月くん」
夏休みに入る直前。蒼月と同じ委員会らしい女子生徒が、久しぶりに蒼月に声をかける。奇しくもあの日の放課後と同じ構図だった。蒼月は最初から優等生の笑顔を抱えたまま、顔くらいは覚えたクラスメイトに「どうしたの?」と優しい声色で返事をする。
「ちょっと怖いかも」
相変わらず校則違反と窘められても仕方のないようなけばけばしい爪で、女子生徒は拓海の方を指す。暫く前までは統一感のなかった拓海の持ち物が、いつの間にか蒼色ばかりになっている。
彼女の言わんとすることを理解して、蒼月は長い睫毛を震わせながらゆっくりと満足げに瞬きをした。……何も、蒼月が拓海にその色のものを手に取るように強制したわけではない。ただ買い物にいく度に、色違いでお揃いが持ちたいなとか、そろそろ拓海クンも買い替えたほうがいいんじゃないとか、言いくるめ続けただけだ。最初こそ蒼色が似合うとか、この色がかっこいいよとかある程度干渉はしたけれど、今や拓海の方が勝手に蒼色を選ぶようになっている。
「ふふ、可愛いでしょ」
――ああ、ボクが何かを言う前に、自分から蒼色を選んだ拓海クンを見た時の、全身を震わせる感動たるや!
あの日感じた、世界が一つ滅んだのにも等しいほどに強烈な興奮を思い出しながら、黒い手袋をした両手で口元を隠して蒼月はくつくつと笑う。油断したらこの場で哄笑してしまいそうなほどの歓喜だった。なんて、なんて素直で、愚かで、可愛くて、愛おしいひと。
「なんかマーキングみたいでさ、近寄り難くなってるよ。二人とも……」
そんな蒼月の表情は、拓海のほうを向いている女子生徒には見えていない。きっと彼女からしたらこれは善意の勧告だ。いくら長い長い高校生活が終わりに差し掛かっているとはいえ、まだ夏なのだから出来れば変にこじれないで欲しいのだろう。仲良くとまでは言わずとも、いつか卒業アルバムをめくり記憶を振り返るときに嫌な気分になりたくはないのかもしれない。
そんなことは、蒼月にとっては地球の裏側で飢え死にする子供や、知らぬうちにひき殺されている小鳥よりもどうでもよかった。
「だったら嬉しいな。だって虫除けのつもりだからね」
「――えっ?」
優等生の口から飛び出た思いもよらない言葉に、彼女は驚き、怯え、咄嗟に振り向く。
けれど、立ち上がって鞄を手にしている男は相変わらず穏やかで人好きのする微笑みを浮かべていた。品行方正が服を着たようにしか見えない優等生。聞き間違いだっただろうかと耳を疑う女子生徒の傍を通り抜け、蒼月は拓海の席に近づいた。「今日も一緒に帰ろうよ、拓海クン。夏は本当に虫が多くて嫌になるね」
――連れ立って教室を去る二人の鞄で、お互いの色のパスケースが揺れていた。