盤面に、一羽と一人。……頬を撫でる風に、閉じていた目蓋を開ける。
そこは、何度か訪れたことのある白黒のタイルが敷き詰められたチェスの盤上だった。
足元には、この空間の主……である一羽の雌鶏の姿。ミツキとミサオが名付け親のその「からあげ」という鶏は此方を見上げて首を傾げている。
「また呼ばれた…?のかな」
この状況にももう慣れたものだ。そのまま屈んで首を傾げる愛らしいフォルムの彼女の額の羽を指先でわしゃわしゃと解す。気持ち良さそうに目を細めているその姿を眺めながら辺りを見渡した。
……自分以外にはまだ誰も此処には居ないようだった。
いずれまた、聞き慣れた声が1人?いや複数人聞こえてくるんだろうか……。そんなことを考えながらそのまま床へと腰を降ろす。
ほぼほぼ一方通行になるとはいえ、皆の到着を待つこの時間に人語を理解し始めているらしいこの鶏と会話をするのが楽しみでもあった。
……ただ、今日はほんの少しだけ真面目な話になる。首をまた傾げている彼女に今度は頬の羽を解しながら、僕の独り言に付き合ってくれる?なんて切り出した。
「……思えばキミには何度もお世話になってるね。現実でこの規模のトレーニングルームを用意する、貸りるとなるとなかなか大変だから」
「みんなが強くなっていくのを見るのが嬉しいんだ。鍛えたものは、積み重ねた努力や頑張りは決して裏切らない。必ず実を結ぶし、糧になっていく」
「僕が此処で皆に教えられたことが少しでもあったなら、それが何かあった時のお守りになったら嬉しいなってそう思うよ」
何事もない穏やかな毎日を過ごしている、それは幸せなこと。けれど自分達が普通の少年少女ではないことはよく理解している。なんたって超高校級の才能を持った12人が揃っているのだから。
少し前に此処で手合わせをした彼も話していた。
『そんな自分たちが動くのだから、何も起こらないはずがないだろ』と。
数週間後に控えた、アルバイトのことが頭を過る。
「……ほんのちょっとだけ、最近眠りが浅くてさ。少し気にはなってるんだ。悪夢を見たわけじゃないけれど、何か起きるんじゃないかなってそう思ってる」
「大事にならなければいいんだけど……どうだろう、大丈夫かな」
隣におとなしく座っていた彼女をヒョイと抱えあげてその羽毛に顔を埋めた。どうしたの?とばかりに額をこつこつとつつく感触がする。
「……皆と一緒なら、大丈夫だって信じてる。僕は1人じゃない、強くて優しい仲間(ヒーロー)たちがいてくれるから。ペンションのアルバイトだって楽しみだし、お揃いの水着を買ったんだ、それを着るのも楽しみで……」
「……けど、けどね、ほんのちょっとだけ、」
「………ほんの少しだけ、こわかったりもするんだ」
何があっても大丈夫だという自信もあって、海に行くのだってペンションでアルバイトをするのだって楽しみな気持ちばかりで。
けれど、皆の無事を祈る気持ちが混ざるとどうにも弱気な自分が顔を出す。
何かあった時に守れるだろうか。間に合うだろうか。動けるだろうか。
やさしいみんなに、傷ついてほしくない。
「ははっホント、変わんないな」
「あの時、塔の上にいた僕も同じことを考えてたよ」
「……世界を救うほどのヒーローにはなれないけど、隣にいる誰かの、みんなの日常を幸せを、」
「まもりたい、なあ」
皆の一人一人の笑顔を思い出して、笑みがこぼれる。……それなのに、どうにもままならず目元から雫が頬を伝っていった。願うような、祈りのような、消え入るような声が漏れ出た。
とても人に見せられるような状態じゃないなと自分で思いながらも、埋めていたその羽毛から顔を上げて目元をぐいと拭う。
誰かの足音、話し声が聞こえたからだ。
此処に呼ばれた誰かだろうか。
自分を呼ぶ声に振り返った、いつも通りの、笑顔で。