オルグエ没小説 舎弟頭×組長息子※途中まで
その日、グエルは塾の帰りで夜遅くに帰宅していた。
暗い夜道を自転車で駆けていたら、自宅である屋敷の前に何かがあった。黒い大きな塊で、塀の前に佇んでいる。
気になって自転車を停め、塊に近付いてみるとそれは人間のようだった。
ごくり。
ゆっくりと生唾を呑み込んでソレに一歩寄ってみる。
「あ……あの。大丈夫ですか?」
ぐぐ、と唸り声が響いてグエルは小さな肩を跳ね上げた。
恐ろしいが、勇敢な少年はさらに一歩塊に向かっていく。
「必要なら救急車か警察を呼びます」
「……いや、いい」
なんと、塊が喋った。声は低く、それなりに年上の男のようだ。
まともに会話ができる相手らしいと分かって少し安心する。グエルは今度は迷いなく彼に近付いていき、その肩を揺すった。
「でもあんた、どこか怪我してるんじゃ――うわっ!」
触れたとたん手がじっとりと湿る。男がまたくぐもった声を上げたことからも、それが血液であることは明らかだ。
救助不要と言ったって、どう見ても平気そうには見えない。
「びっ、びょ病院行こう! 死んじゃうぞっ、おっさん!」
「放っておいてくれ……あと俺はおっさんじゃな……」
『い』と言い終える前に男はぐらりと倒れ、地面に頭から突っ込んでしまった。
「し、死んだっ!!」
グエルは気が動転して真っ青になったが、いったん冷静に考える。うつぶせに倒れた男をどうにか引っくり返して、首や鼻先に手を当てて脈と呼吸を確認してみた。大丈夫だ、まだ生きてる。
「どうしよう……」
こんなに重傷なのに病院に行きたがらない類の人間を、グエルはよく知っていた。
保険証がない――いやそもそも戸籍自体が偽物だとか。
病院に罹ると警察に通報されて、それが困るとか――銃で撃たれた組員はそういう事情を抱えていることがある。
グエルの実家はそういったときに役立つドクターを雇っているので、彼を手当てするにはうってつけだろう。家で電話すれば十分程度で駆けつけてくるはずだ。
しかし、余計な厄介事を持ち帰ると父親の雷が落ちる。
父の叱責と人命を天秤にかけて、グエルは男を見下ろした。
数メートル先にある玄関灯の明かりがぼんやりと男の顔を照らし出す。
確かにおじさんと言い切るには失礼かもしれない……三十前後だろうか? 凛々しい顔つきだがすっとして見える。
きりっとした眉の左側半分は深い傷があり、べったりと血にまみれていた。
薄い唇から苦しげな息をついて、咳き込むと赤い血が噴き出す。
(父さんに怒られるとか、それどころじゃないな)
目の前で死にかけている人を放置するわけにいかず、グエルは急いで家に駆けこんだ。
・・・
お叱りを覚悟して怪我人を救助したが、父のヴィムの機嫌は存外良かった。
「でかしたぞ、グエル! いい拾い物をしたな」
と頭まで撫でられた。
ヴィムは部下となにか話し込みながら仕事に戻っていった。グエルは男が寝かされている和室に残り、漏れ聞こえてくる会話を聞く。
要約すれば家の前で倒れていた男は敵対組織の構成員であり、そこを抜けた報復で襲われたらしい。命からがら逃げてきたところをグエルが拾ったので、うちで匿えば相手方の機密を聞き出せるいい情報源になる、とのことだ。
けっして人命を救ったグエルの勇姿を讃えたわけじゃなく、抗争に便利な道具を拾ってきたことが父の機嫌を良くしただけなのだ。
遠退いていく父の声を正座したまま聞き流していると、布団に寝かされている男が身じろいだ。
「……っく」
「起きたか?」
ガーゼが当てられている左眉がひくつき、その下の目蓋がうっすらと開かれていく。明け方の空のような、淡い紺碧の瞳だった。
「……ここは」
「俺んち。あんた全治三ヶ月の重症患者だから、動くなよ。砕けたあばらが身体の中で散らばるし肩の銃創が裂けるぞ」
「なんでお前がそんなことを」
「医者呼ばせてもらったから。治療しなきゃ、あんた死ぬところだったんだぞ」
「病院はやめろと」
「心配しないでいいよ。うちの組が雇ってるドクターだから」
淡々と答えていくと、男は驚いた表情でグエルを見つめた。
「組……? もしかして獅子組か、ここは。するとお前は」
「ヴィム・ジェタークの息子、グエル。いずれは獅子組を継ぐ男だぞ!」
小学校ではおおっぴらに口上するのを禁じられているので、グエルはここぞとばかりにえっへんと胸を張った。
「あんたは……うちと抗争してる組んとこの人なんだろ? この家にいる間は守るから大丈夫だよ。その代わり色々吐かされるだろうけど。素直に言えば拷問はされないと思う」
ぽかんと口を開けている男に話しかけようとして、グエルは質問を変えた。
「あんた、名前はなんていうんだ?」
「……オルコット」
男が低く呟くと、グエルは特徴的な眉を片方ひくりと持ち上げた。
「『若草物語』か?」
そう答えると、彼はわずかに目を見開いた。驚いているようだ。
「詳しいんだな」
「弟の本棚に並んでいたからな。一度読んだことがある。で、それ名前? 苗字?」
「……ああ」
男は返答にいちいち間を置いて、曖昧な返事をする。確認してもファーストネームすら明かさないし、本名だとは思えなかったが、グエルはふんと鼻を鳴らした。
「まあいいよ。助かってよかった」
「……どうして俺を助けた? 通報することもできただろう」
オルコットは布団に横たわったまま、本当に分からないという顔をして見据えてくる。
グエルは大きな瞳を丸くして、あっけらかんと答えたのだった。
「そんなの当たり前じゃん。困ってる奴がいたら助けるだろ?」
・・・
グエルと弟のラウダは、大学までエスカレーター式の私立進学校に通っている。
昨今のヤクザは腕力以上に知性が求められるというのがジェターク家の考えで、兄弟は厳しい英才教育を受けて育った。
色にうつつを抜かさないようにと高校までは男子校で、送迎までつけられている。
中等部に上がった現在も放課後は校門前に停まった黒塗りのハイヤーに乗り、組の者の運転で帰宅する。
「ただいま、オルコット」
ドアを開けて後部座席に乗り込むと、グエルは運転席に話しかけた。ミラー越しに斜めの傷跡が残った額が見える。
「お疲れさん」
たったそれだけの短いやりとりなのに、グエルはなぜか毎日のこれがすごく好きだった。
続いて乗ってきたラウダは無言でグエルの右半身に密着し、オルコットの「お疲れさまです、ラウダ坊ちゃん」という挨拶もガン無視だ。
「こら、ラウダ。送ってもらうんだからちゃんと言え」
「……よろしくお願いします。オルコット……さん」
「はい。ラウダ坊ちゃん」
ぷうっと頬を膨らませた弟の頭を撫でてやると、途端に機嫌がよくなってえへへとグエルに頬を擦り寄せてくる。
弟はちょっと人見知りが激しいタイプだから、ある日突然兄が拾ってきて運転手の座に落ちついた男にまだ慣れないらしい。オルコットは別に気にしてなさそうだけど。
家までの道を安全運転で進むなか、ラウダは今日学校であったことを嬉しそうにグエルに報告していた。異母兄弟ゆえに双子でもないのに同学年だが、クラスは別だからだ。
「それでね、ぺトラとフェルシーたちが日曜日に新作のパフェを食べたいって。一緒に行かないかって誘われたんだけど、兄さんも来るよね?」
ラウダはグエルの腕に抱き着いたままこてんと首を傾げてみせる。金色の丸い瞳に見つめられて、兄としては頷いてやりたかったものの、しぶしぶ首を横に振った。
「土日は剣道の地区大会があるんだ」
「えっ」
そんな、とラウダは泡を食って自分のスマホでスケジュールを確認する。画面を鬼タップして「はっはは入ってない!? 僕が兄さんの晴れ舞台を把握し忘れてたなんてそんなことが」となにやら早口に慌てふためいている。
「だから、遊びには行けない。ぺトラたちにはよろしく言っといてくれ」
「僕だけ遊んでるなんて嫌だよ、それなら兄さんの応援しにいくっ! この土日限定の特別なパフェだけど……産地直送の新鮮なフルーツをたっぷり盛り付けてケーキ屋さんのホイップクリームをふんだんにのせた絶品スイーツですっごく食べてみたいけど、でも……!」
ラウダは頭が良くて、口がよく回るほうだ。その豊かな語彙と弁舌でつらつらと美味しそうなパフェを宣伝されたグエルの心が揺らぐ。
グエルの日常は、週五日の武道稽古と週四の塾通い、それから内申のための委員会活動でカツカツだ。家に帰っても課題や授業についていくための予習が必要だから、遊ぶ時間はほぼない。
そんなハードな毎日に射しこんだデザートの甘い誘惑は、『剣道大会をサボる』というよろしくない選択肢を浮かばせた。
「……オルコット」
「なんだ」
黙ってハンドルを握っている男に尋ねてみる。
ラウダの腕を抜いて、オルコットにだけ聞こえるようにそばで耳打ちした。
「大会、サボったのバレたら父さんにぶたれるかな?」
「……ぶつ?」
怪訝そうな目がグエルを一瞥する。
引き続き落とした声で、小さく頷いた。
「うん。父さんは食事会があるから試合は見に来ないけど、もし棄権したって分かったらぜったい『ジェターク家の恥だ』って叩かれる」
日頃はうまくやっているので父の怒りを買うことはそうそうないが、たまに成績が学年で五位以下に落ちたり剣道で悪い結果しか出せなかったときは「気を引き締めろ」と体に叩き込まれる。
体が痛い以上にそのときのヴィムの顔があまりにおっかないので、グエルは怒られるのを恐れていた。
オルコットはまだ自分が父に叱られている場面を見たことがなかったみたいで、少しのあいだ黙り込んでいた。
じれたラウダが「兄さん、なんでそいつっ……その人と内緒話するの? 僕は?」と裾を引っ張ってくるのをいなしながら、表情の読めない横顔を見つめる。
「でも、お前は食いたいんだろう。パフェが」
「うん」
「先週は期末テストだったな」
「ん?」
オルコットは唐突に試験の話を持ち出して、ゆっくりとハンドルを右に切った。もうすぐ家につく。
「お前は根詰めて夜遅くまで勉強して、普段の生活もちゃんと送りながらテストを頑張った」
「がんばった……」
「そうだ。そのご褒美がいるだろ」
ご褒美。
ほとんど馴染みのない言葉は、甘やかに響いて聞こえた。
「人に気を遣う前に自分がなにをやりたいかを優先しろ。日曜は車を出してやる」
グエルはぱぁあ、と顔を輝かせてすぐ後ろを振り返った。
「ラウダ、大会は土曜日だけだった! パフェ食いに行こうぜ」
「ほんと!?」
大会は土曜の初戦だけ参加して、グエルは弟や友達と一緒に限定パフェを食べに行った。オルコットに言われた通り、これはテスト勉強をがんばった自分へのご褒美だと意識して食べるとなおさら美味しかった。
「グエル!」
ヴィムが手を上げた瞬間、グエルは固く瞼を閉じた。
加減はされているが、のちに頬が腫れるほどには痛みを伴う折檻。
獅子組の男たるもの屈強であれ、たくましくあれと曾祖父の代から脈々と受け継がれている訓示は、今まで何度もグエルを痛めつけてきた。
避けることは許されないので、ただじっと棒立ちになって衝撃を待つしかない。
――そのはずだったのに、いつもならとっくに体が吹っ飛んでいる頃になっても頬が弾かれることはなかった。
「なんのつもりだ」と、父が聞いたことのない低い声で唸る。
自分に言っているのではない。
「無礼者が!」
「すみません、親父」
こわごわと目を開けると、グエルの前に大きな影が差していた。葬式みたいな黒地のスーツをまとった、広い背中だ。
オルコットが、ヴィムの右腕を掴んで止めていた。
グエルは痛みにそなえて緊張しきっていた体が、一気に脱力していくのを感じる。
「さっさと離せっ」
「坊ちゃんに手を上げないと約束していただければ」
「なんだと!?」
「今回坊ちゃんが大会を途中棄権したのは、理由があるんです」
「グエルの怠慢だろうが! それを俺の手で戒めてやるんだ」
オルコットはヴィムの腕を握ったまま首を横に振った。ヴィムは何度も手を振りほどこうと身を捩っているが、掴まれた腕はぴくりとも動かない。
「ぐぬっ……」
「あの大会には、関西連合トップの愛息子が参加していました」
「なに?」
突然なにを言い出すのか。
グエルがぽかんとして様子を見守っていると、オルコットはいつもの寡黙さはどこへやら滔々と語る。
「その息子の父親というのは、うちの会長が来月盃を交わす予定になっている格上のヤクザです」
「そんな話は知らんぞ」
「そうでしょう。息子といっても妾腹ですから、表には出てない情報です。だがその父親は息子を溺愛しているらしい。そんな相手に坊ちゃんが勝ってしまえば、会長の上客の顰蹙を買う」
こめかみに浮かんでいた青筋が鎮まっていき、ヴィムの顔色が徐々に変わっていく。
唖然として眺めていると、オルコットはおもむろにグエルの肩を抱いて父に畳みかけた。
「俺の入れ知恵だったんです。坊ちゃんはその話を聞いて、親父のためにあえて棄権した。相手に華をもたせるべく」
「なんだグエル、それなら最初からそうと言えばいいだろ! 次からは前もって俺に話しておけよ」
すっかり上機嫌になったヴィムはグエルの肩をばしばし叩いて、鷹揚に笑いながら座敷の奥に引っ込んでいった。
残された二人は言葉もなく見つめ合い、先にグエルが口を開いたのだった。
「大嘘……」
「方便と言え」
「大丈夫かな、全部デタラメだってばれたらあんたも俺もただじゃすまないぞ……」
「平気だろう。親父が会長と直接顔を合わすのは正月だけだし、その頃には今日のことなんて忘れてる」
人の父親をなんだと思ってるんだ、とツッコみたかったけれど、「ぷっ」と笑いがこぼれてしまった。
「あはっ、はははは! めちゃくちゃだな、あんた!」
緊張が一気に緩んで爆発する。
「ひゃは、ははっ! は、腹痛ぇっ」
お腹を抱えて笑い転げるグエルにオルコットは目を丸くしていた。
「お前がそんな笑い方するの、初めて見たな」
「だって平気な顔ですらすら嘘つくからっ、んふ、嘘つきっ」
オルコットがやったからことさら面白いのだ。
仏頂面で淡々として見える男にあの父が一杯喰わされたことがおかしくて、笑いすぎて涙まで出てきた。
「笑いすぎだ」
「とまんない、ふふっ、オルコット」
どんっと勢いのままに大きな体にぶつかると、グエルは厚い胴に腕を回して抱き着いた。なぜそうしたかは分からない。そうしたかったから。
「ありがとう」
「べつに、大したことじゃない」
「ううん。パフェ食えたし、怒られずにすんだし、守ってくれて嬉しかった」
グエルのそばで彷徨っていた腕が小さな背にぎこちなく回される。
「……俺は、お前を守るためにここにいる」
煙草の匂いがしみついたシャツに鼻先を埋めて、グエルはすっと息を吸い込んだ。
「なんだ、サボるってこんな楽なことだったんだな」
「息抜きも自己管理のうちだ。お前なら、明日からはまた真剣に頑張れるだろう」
こくりと彼の胸の中で頷いて、しばらくそのままでいた。
温かい。
そっと髪に触れて撫でてくる手が心強い。
「なあ。あんたは、これからも俺のお目付け役でいてくれよな」
少し間が空いて、ああ、と短い返事が返ってきた。
「ずっとだからな」
それに対しては答えがなくても、グエルは気にしていなかった。
・・・
高等部進学を機に、グエルは前髪を明るい桃色に染めた。
ヴィムは元々派手な装いを好むので息子のイメージチェンジを笑って受け入れ、ラウダは兄がグレたとショックを受けていた。
箔をつけたかっただけで不良になったわけじゃないので、高校でも文武両道を貫いている。
朝洗面台でコームを持って丁寧に髪をセットしていたら、鏡の中にオルコットが現れた。
「坊ちゃん。そろそろ出発しないと遅刻します。あとは車内で」
「ああ……あのさ」
変わったことといえばもう一つある。
グエルはいったん髪いじりをやめてブレザーのネクタイを締めると、鏡越しにオルコットをジト目で見つめた。
「その他人行儀な話し方はなんなんだ?」
「……早く支度なさってください」
この態度だ。
中学までは組長の息子に対して尊大な口をきいていたくせに、急にそれらしい口調で話すようになった。
「普通に話せよ。落ち着かねえ」
「いつどこで誰が見ているか分かりませんから。俺がタメ口を利いたせいで坊ちゃんがナメられると困ります」
背中に額を預ける。
オルコットの身体が強張った。
「坊ちゃん。こういうのは困ります」
「……『坊ちゃん』なんて。よそよそしい呼び方はやめろよ。昔みたいに呼べ」
なかば命令のつもりで言った。オルコットもそれを理解しただろうが、それでも頑として口をつぐみ、グエルの思うようには応えない。
――どうして。
自分の置かれている立場が、使命が苦しくて息ができなくなる。
首を緩く締め続けられているような毎日の中で、気を緩める時間を与えてくれていたのはオルコットだったはずなのに。
その唯一といっていい安らぎまでもが自分の家に翻弄され、悔しくて、鼻がつんと痛んだ。