その青さえ憎たらしい 理子たっての希望でやって来た水族館は、平日ということもあってか、観光地である沖縄にしてはかなり空いていた。人混みがすごく、背伸びやジャンプをしないと見えない、ということも全くない。
初めての水族館に、理子ははしゃいでいた。
「黒井! 妾はあの大きい水槽が見たい! 一人で行っても良いか?」
「はい。お気を付けて行ってらっしゃいませ」
黒井の言葉を聞くと、理子の顔が途端に明るくなった。
「迷子になるなよ」
「そんなに子供じゃないもん!」
揶揄われたことに怒った理子が五条に向かって叫ぶ。人が少ない分、その声は館内によく響いてしまった。
近くにいた客のほとんどが一斉に理子の方を見た。微笑ましいといったようにくすくすと笑う人や、単純に何事かと好奇の目を向ける人。
見られたことに羞恥を覚えた理子は、かあっと顔を赤くすると、膨れっ面のまま一人でどんどん先へと進んで行ってしまった。
「あーあ。ガキって分かんねー」
「今のは悟が悪いだろ。年下の女の子を揶揄っている時点で、悟も十分ガキだと思うよ」
「ああん?」
ドスの効いた声で五条が迫る。夏油は言い返す言葉を吐きかけたところで──あることに気付き、息を止めた。
もしここで、黒井の前で喧嘩を見せたらどうだろう。大切なお嬢様の護衛の男二人が不仲。信頼に響く。もし自分が黒井の立場だったとしたら、安心して任せられないだろう、と夏油は思う。それに、
『お嬢様から何も奪うな。殺すぞ』
鋭い視線。突きつけられた武器──も同然のモップ。あれを見てしまった夏油は、本当に殺されかねない気もしてきた。
いけないと思い夏油は「まあまあ」と五条を制止した。何となく察したのか、不服そうな表情ではあるが、五条もぴたりと大人しくなる。
「ふふふ……」
笑い声が聞こえたのでそちらを向く。予想に反して黒井は笑っていた。
「とても仲がよろしいんですね」
「まあ。……親友なんです。でも、仲が良いのは黒井さんと理子ちゃんも同じでしょう」
「もちろん。理子様の喜びは私の喜びのようなものですから」
黒井は胸元に手を当てて柔らかく微笑んだ。
すでに両親が他界している理子の、たった一人の『家族』が黒井なのだ。親子や姉妹のような関係を築いてきた二人のことを想い、夏油は心を痛めた。
「……まあ、先程のことは差し置いたとして。逆にラッキーでしたね」
「はい。休日と祝日、あと長期休暇も人が多いので、怖くてなかなか……。理子様も楽しそうで何よりです」
「じゃあ、拉致されて寧ろよかったんじゃねーの?」
ひょこり、と五条が会話に口を出した。しかも、またとんでもないことを。全く反省の様子が見られない。
「おい、悟」
本日二度目の言い合いになることを覚悟しつつ、夏油が強めの口調で五条を窘めると、黒井ははっと何かに気付いたような顔をし、「いや、確かにそうかもしれません」と真剣な顔で呟いた。
「はは、それはどうかと……」
どこまでも理子ファーストの黒井の言葉に、夏油は苦笑いを浮かべた。
本当はこの無礼な親友の腹に拳を一発お見舞いしておきたいところだが、今の彼には例えどんなに強力な呪術師であっても指一本触れることさえできない。夏油は仕方なく出番をなくした右手をだらりと垂らした。
会話が一旦途切れる。ふと前を見ると、ずんずん皆の先を行っていた理子が大きな水槽の前で足を止めたところだった。
水槽には、ジンベエザメが悠々と泳ぎ、そしてその周りをたくさんの種類の小さな魚達が泳いでいる。その中でも一際大きなジンベエザメは、やはりどの魚よりも存在感を放っていた。
たぷたぷと揺れる水面が上から入ってくる日の光を受けて、薄暗い館内に絶え間無く形を変える光を映し出していた。
急に立ち止まった理子を不思議に思い、夏油は早足で水槽の前まで辿り着くと、彼女の横に並んで立った。
理子は一瞬夏油の方へ目を向けたが、誰だかの確認が取れるとすぐに視線を逸らした。その瞳は再び煌めく深い青を映す。
「何か気になる魚でもいたのかい?」
「いや。綺麗だなって。ただ……」
理子は水槽に手を触れた。
「すぐそこに広い海があるのに、こんなに狭いところに閉じ込められるなんて可哀想」
夏油は理子のその姿に思わず息を呑んだ。決してそんなはずはないのに、硝子板をすり抜けて水の中へ入っていってしまいそうな危うい美しさが彼女にはあった。
「ねえ、そう思わない?」
「……、……」
会話の流れだけを見れば、同意するか否かの返答をする場面だっただろう。「そうだね」か「私はそうは思わないな」か。
それでも夏油には、理子が他人事を言っているようにはどうしても聞こえなかった。魚達を哀れんでいるというよりも、まるで彼らに同情しているかのような。その発言が無意識によるものなのか、それとも天の邪鬼なのかは判らず、夏油は返事をすることを躊躇った。
「ああ、でも、食べられないだけマシなのかな」
夏油が何も言葉を発せずにいるうちに、自問自答した。その姿が痛々しくて、
「理子ちゃんは何にでもなれるさ」
「え?」
「弱きを助け、強きを挫く。私はもう、自分の信念に従って呪術師になるという道を選んだ。そのための学校に通って、そのための勉強をしている」
「だけど、理子ちゃんはまだ何も選んでいない。何も選んでいないということは、これから何でも選べるんじゃないのかい」
「……」
「呪術師だっていつ死ぬか分からないよ。明日の命は保証できない」
「でも……」
彼女の言わんとすることはよく分かった。それとこれとは話が違う。それに『これから』なんてないでしょう、もう明日で最後でしょう、と。
「少し年上からのアドバイスだけど」
「?」
「理子ちゃんの拒否には、君が思うよりももっとずっと強い力がある。覚えておいた方がいいよ」
「……とんだ上から目線じゃな」
「はは、ごめん」
ふいっ、と理子は夏油から顔を背け、何かを堪えるように水槽を見つめた。
──君が特別だから、日本の運命を変えてしまうような女の子だからじゃないんだよ。
ただ本当に、一人の普通の女の子として、救えたらいいと思っているんだよ。
所詮、出会って一週間も経っていない仲なのだ。この思いは、なかなか理子には届かない。
だが生憎なことに、彼女のはっきりとした助けを求める声が聞こえない限りは、そのたった一枚の硝子も割ることができない。夏油も、あんなにいかれた親友でさえも、今回ばかりはただそのまま立ち尽くすしかないのだ。
二人はただ、呼ぶ声がかかるまで、目の前に憎たらしいくらいに広がる青を眺めていた。