琥珀と黄色、ギザギザしっぽ(シンサト) 1
シンオウ地方は全体的に寒い地域だが、全てが雪で覆われているわけではない。期間は短いが夏だってあり、北側でなければ薄着で旅もできる程だ。
そんなシンオウは本日、澄んだ青空をしている。時折吹く風は穏やかで、絶好の旅日和といった天気だった。旅をする者としてはとても過ごしやすいだろう。浮かれているトレーナーがいてもおかしくないくらいだ。
しかし残念ながら、シンジはそのような気分にはなれない。それどころか不機嫌ですらあった。というのも、彼がいるのは深い森の中だからである。
人里離れたそこは伸び放題の木々によって太陽が遮られ、昼間だというのに薄暗い。かろうじて所々に日が差し込んでいるものの、ひっそりと静まり返った森からは生命の気配を感じられず、仄暗い雰囲気を醸し出している。さらに道らしきものはなく、草木をかき分けて進むしかなかった。
だが旅慣れているシンジにとって、そんな事はさしたる問題ではない。常人ならば引き返したくなる場所でも、彼は無表情のまま歩を進めていた。
では何故そんな場所にいるかといえば、強い野生ポケモンを求めての事である。
最終進化、あるいは一定以上の強さを持ったポケモンというのはそう簡単には見つからない。彼らは人間はもちろん人工物を避け、中には同じ種族ですら寄せつけない者もいるからだ。よって今回のような場所に赴く事で、高い個体値のポケモンと出会う確率が上がるのである。
とはいえ、その行為は自殺行為にも等しい。野生ポケモンだけでなく自然も脅威だからだ。一歩間違えれば命を落としかねない為、いくら準備をしても危険を伴う事に変わりはなかった。
それでいて今回の収獲はあまり良いとは言えない。何度かポケモンと遭遇はしたが、シンジの望むような能力値ではなかったのだ。さらに時刻はすでに昼を過ぎており、あと数時間もすれば日が落ちてしまうだろう。そうなると行動が難しくなる。
気になるポイントはおおかた調べたので、いたずらに時間を費やす前に引き上げようとボディバッグを背負い直した。その時、ふいに視界の隅に動くものを捉える。
決して近くとはいえない距離の森の中で、強い電撃が空に昇った。その威力は、赤い帽子を被ったトレーナーの相棒を思い出させる程のもの。
電気タイプは攻防に優れたエレキブルがすでに手持ちにいるが、強力な技を放っていた相手は気になった。また仮にトレーナーがいたとしても、あの威力の技を覚えているならバトルの経験は無駄にならないはずだ。
シンジは電撃の発生源を確認すると、すぐさま駆け出した。
2
深い森の中を進むサトシ一行は、いつものようにロケット団の三人組から襲い掛かられていた。しかし現在追いかけられているのはピカチュウ一匹のみである。
「待つニャ、ピカチュウ!」
今回のロケット団は、ニャース型のロボットを使用していた。艶やかな鈍い色の機体から伸びるアームの先端には大きな網が装着されており、それは電気対策が施されている。サトシのピカチュウが電撃を放ったところ、制作者であるニャースがウキウキと教えてくれていた。
それでも捕まるわけにはいかないと、赤い帽子のくせっ毛ピカチュウは機械の巨体から繰り出される網攻撃を避け続ける。木々に邪魔されたり助けられたりしながらも、四つの足で大地を駆ける様子に疲れはなかった。
「あ~もう! ちょこまかと!」
時折〈でんこうせっか〉を発動して森を駆け抜けるピカチュウと、巨体とは思えない素早さで追いかけるニャース型ロボットの間で続く攻防はずっと平行線を辿っている。それに焦れたムサシが苛ついた声を上げた。そのまま操作パネルをひったくろうとして、コジロウの手に押し止められる。その所為で二人に押し潰される形となったニャースが痛みに悲鳴を上げた。
突然仲間割れをし始めた三人に、ピカチュウは走ったまま横目で背後を窺う。隙だらけな様子に電撃を放とうとするも、ややサイズの合っていない帽子がずれた事で視界が悪くなり足をもつれさせた。その様子に気づいたコジロウが叫ぶ。
「今だ、ニャース!」
「わかってるニャ!」
叫び返したニャースが押し潰された態勢のまま、二人の間で片手を振り上げて操作パネルを叩いた。すると二本の網がピカチュウ目掛けて襲い掛かる。電気鼠がいくら素早くとも、バランスを崩した状態では攻撃を躱す事はできないだろう。三人組は早々に「ついにピカチュウをゲットだ~!」と喜色満面で叫んだ。
だがその瞬間、ギザギザの尻尾が硬化し、網の根本を切り裂く。そして身体を捻って着地した。被っていた帽子が落ちるが、気にせず四本の足を使って再び走り出す。
「ああっ! 待ちなさ……い?」
逃げたと思ったピカチュウが方向転換をして向かって来た事にムサシが疑問の声を上げる。違和感に気づいた他の二人も「え?」「ニャ?」と疑問の声を上げた。だがすぐに意図を理解したニャースが慌ててパネルを操作し、ロボットの進行方向を変える。
しかし、時すでに遅し。小さな黄色は強力な電気を身に纏い、自分より遥かに大きな機械へと突っ込んだ。
「ピッカ、ピィー‼︎」
機械の胴体部分に〈ボルテッカー〉が直撃する。それでも「電気技は効かないわよ~」と余裕を見せるムサシとコジロウだったが、ニャースの「予算が足りニャーから、網にしか電気対策してないニャ……」という言葉に顔を引きつらせた。
その後、すぐにニャース型ロボットが白い光線を吐きながら爆発する。三人組はいつものように空の彼方へと飛ばされていった。お馴染みの「やなかんじ~!」という台詞を聞きながら、ピカチュウは危なげなく着地する。茂みの影からその様子を窺っていた紫の影に気づく様子はなかった。
駆け出したシンジが目視できたのは強力な電撃が突っ込んだ瞬間だ。直接の攻防を見る事はできなかったが、それまでに何度も電撃が発生していた事を考えれば体力は悪くないらしい。素早さ、攻撃力はまあまあだ。野生でありながら、人間からの攻撃に対する判断力も悪くないと思われた。さらに〈ボルテッカー〉持ちという点に興味もある。ライバルと同じポケモンというのは癪だが、どうやら使えそうだと判断した。
ピカチュウはあまり疲れた様子はない。しかし一応バトルをした後だ。おまけに隙だらけであり、狙わない理由はなかった。ゲットできたら手間が省ける、くらいの気持ちでシンジはモンスターボールを投げる。
「ピ⁉」
コツンと後頭部に当たったモンスターボールが、驚いて振り返った黄色の身体を吸い込む。カタリ、カタリ、と二回揺れた。三回目が揺れる瞬間、光に包まれたピカチュウが飛び出す。ゲットは失敗だった。
予想の範囲内だった為に淡々としているシンジの一方で、随分と焦った様子でモンスターボールから脱出したピカチュウは足を滑らせて顔面から転んだ。濁点のついた鳴き声を上げてズザーと地面を滑る動作は妙に人間臭い。
両手をついて起き上がり、キョロキョロと周囲を見回した。ばちりと目が合う。攻撃してくるかとシンジは腰のモンスターボールを投げようとしたが、ピカチュウの反応は予想と違った。満面の笑みで走り寄り、ピカピカと話しかけてくる。まるでシンジ、久しぶりだな! とでも言っているようだった。
「……なんだ、お前」
言葉が通じない事は承知しているが、思わずそう口にしてしまう。ピカチュウは構わずに喋り続けていた。
野生のわりに警戒心がないというか、随分と親しげな様子である。何故、知り合いのように話しかけてくるのか。シンジにはさっぱりわからなかった。親しげに話しかけてくるポケモンなど知り合いにはいない。
ただピカチュウに関係するトレーナーならば、一人だけ知っている。
しかしモンスターボールが反応した事からこのピカチュウは野生であり、あの男の相棒であるピカチュウではないはずだ。それなのに、シンジの頭の中では控えめとは言えない主張をするソイツがいる。
一体なんだというのか。シンジは緩く頭を振って、その存在を頭から追い出した。
未だに笑顔でピカピカチュウチュウ喋っているポケモンを見下ろしても、言葉がわからない為に状況の把握などできるはずがない。ならば本来の目的を遂行しようと、シンジは一つのモンスターボールを放った。光と共に姿を現したのはエレキブルだ。
「〈かわらわり〉」
いくら体格差があろうと容赦はしない。エレキブルは掌に力を集め、その力によって白く発光した手刀を振り下ろす。ピカチュウが悲鳴のような声を上げ、慌てて回避した。
エレキブルはわざわざ細かい指示などしなくてもトレーナーの考えをきちんと理解している。躱されれば再び技を繰り出した。振り下ろすだけでなく、時には突いて攻撃する。ピカチュウは焦っている声を出しながらも、ギリギリのところで躱し続けた。
エレキブルが加減しているわけではない。ピカチュウの方も攻撃できないわけではないのに、避けるだけで反撃する様子は見せなかった。なかなか捕まらない姿にシンジは眉間に皺を寄せる。
なおピカチュウが攻撃しないのは、彼らと対話をしようとしていたからだった。しかしポケモンの言葉は人間であるシンジにはわかるはずもない。同じポケモンであるエレキブルは主人の指示でなければ止まる気はなかった。
やがて痺れを切らせたシンジが技を切り替える。
「〈かみなりパンチ〉!」
「……ピッカチュウ!」
雷を纏わせた拳が小さな身体を襲う。その瞬間、ピカチュウが吠えた。困惑していた琥珀の瞳がガラリと変化する。対峙していたエレキブルはその瞳に既視感を感じ、一瞬動きを止めた。その隙にピカチュウがエレキブルの腕を駆け上り、顔面に張り付く。予想していなかった動きにエレキブルは戸惑った。
「振り払え!」
「ピカピカチュウ! ピッカ!」
シンジとピカチュウ両方の声が聞こえるエレキブルは、主人であるシンジの指示に従おうとして、けれどピカチュウの言葉に動きを止める。技の発動を解除し、腕を下ろした。
「ピカピカピ!」
「……レキ?」
次に戸惑ったのはシンジだった。まさかエレキブルが自分の指示ではないのに攻撃を止めるとは思わなかったのだ。
結果として動きを止める事になった一人と一匹に、話を聞いてくれると判断したピカチュウは地面へと降りる。彼は身振り手振りをしながら何かを説明しているらしい。エレキブルは無表情で話を聞いていたが、二匹が二言三言の言葉を交わすと驚いた顔をした。そして困惑した様子でチラチラとシンジを見る。
「……なんだ」
そう言いつつ、知り合いらしいという線がいよいよ濃厚になってきているのをシンジは感じていた。しかもその知り合いかもしれない存在は、ほぼ間違いなくライバルだろう。というか、それしか思いつかない。思わずため息をつく。
「もういい。ゲットする気が失せた」
その言葉にハッとしたピカチュウが、なにやら突然怒りだした。先程よりうるさくピカピカチュウチュウ鳴いている。
話の内容からゲットについて文句を言っているらしいと推察できるが、先程も言ったようにもうゲットするつもりはない。もしかしたらモンスターボールを投げた事自体に怒っているのかもしれないが、彼はポケモンである。人間であるシンジに言葉は伝わらず、わざわざ理由を確認してやるのも面倒だった。
「お前の言いたい事は、俺にはわからん」
ポケットに両手を突っ込み、目を閉じる。電気鼠の非難の声が一際大きくなった。
それにしても、このピカチュウはシンジが頭から追い払った人物とかなり似ているようだ。琥珀の瞳と横に跳ねたくせっ毛がそっくりである。怒っていると、なんだか声まで似ている気がしてくるから不思議だった。しかしだからと言って人間がポケモンになるなんて話は非現実的すぎる。あまりに馬鹿馬鹿しい話だ。
「……レーキ、レキブル」
主人の態度を見兼ねたのか、エレキブルが何か助言でもしてやったらしい。何か思いついた様子のピカチュウは嬉しそうな声を上げた。そして自分の頭に手を置く。不思議そうな顔でペタペタと何度か触った後、キョロキョロと辺りを見回した。今度はなんだとシンジが黙って見下ろす。やがて目当ての物を見つけたらしく、ピカチュウは後方、シンジとエレキブルからすれば前方へと走り出した。
再びシンジ達の元へ戻ってきた時には、やたら見覚えのある赤い帽子を被っている。それはおそらく、いや間違いなく、あの男の物だ。どうにかして回避したかった存在がどう足掻いても確定となり、またしても自然とため息が出た。
「お前、アイツのポケモンか」
問いかけると、ピカチュウはふるふると首を横に振る。否定された事は少し意外だと思ったが、とても無関係とは思えなかった。アイツという言葉で誰の事を言っているのか、しっかり通じているのだから尚更だ。自分でライバル絡み確定としながらも、同時に否定する材料を探してしまう事に自然と眉間へ皺が寄ってしまうのがわかる。
野生であるが、限りなくサトシの手持ちに近いとシンジは判断した。エレキブルをボールに戻し、そのままピカチュウに背を向ける。
「ウロウロしていないで、さっさとアイツの元へ帰れ」
そう言い捨てるのと同時に背を向けた。目を開けると、進行方向にあるのはシンジの背中側にいるはずの電気鼠だ。
立ち塞がるピカチュウの眉は八の字に下がり、大きな琥珀の瞳を潤ませている。人間のように感情豊かな顔にはでかでかと困っています、と書いてあった。
「…………まさか、迷ったのか?」
「ピーッカ……」
あの男に関係しつつ可能性が一番高そうなものを挙げれば、ピカチュウが渋々といった様子で頷く。ならば一体どこから来たのか訊ねると、今度は首を横に振った。わからないと言いたいようだ。
シンジは思わず頭を抱えたくなる。ため息は止める暇もなく吐き出された。
「フン、使えないな」
「ピカ⁉ ピカピカチャー!」
気に障ったらしく、電気鼠がシンジの足を叩く。得意であろう電撃ではなく、短い手でポカポカ叩いてくるのが本当に人間臭かった。鬱陶しさに睨みつけるが、ピカチュウには効果がないようだ。
シンジは、自分の人相がよくないことは自覚している。大抵の人間やポケモンはシンジが睨むと──普通に見ただけの場合でも──大抵は怯えてしまうか逃げてしまうので、このピカチュウは肝が据わっているのかもしれない。あるいは図太いのか。
「ポケモンセンターまでなら連れていってやろうかと思ったが、やめた」
「ピカア⁉」
「自分でどうにかしろ」
「チャ~! ピカピカピ~‼」
今度はシンジの足にへばりついてくる。その反応は言葉がわからずとも何を訴えているのか理解できてしまうもので、シンジは小さく舌打ちした。本当に、どうして自分に対して懐いているような態度をするのか理解できない。
仮にサトシからシンジの話を聞かされていたとしても、その内容は決して良いものではないはずだ。さらに初対面とくれば、いくら頼れる相手がいないからと言っても、野生のポケモンがトレーナーの足にへばりつくような事はしないだろう。シンジはポケモンを可愛がったりせず、優しくもないのだ。
「……おい、離れろ」
「ピッカピカー‼ ビカッチュウーッ‼」
ヤダヤダ、と言わんばかりの電気鼠はしっかりとズボンを握りしめていて離れない。振り払おうとするも、すばしっこさを活かしてシンジの手をすり抜け続けた。頑として離れるつもりはないようだ。そんなきゅるきゅるした目で訴えても無駄だからな、と内心で悪態をついてしまう。
しかし拒否の為の会話は成立しないので、何か言葉をかけるのは面倒になった。引き剝がす事も諦め、そのまま放置する。疲れれば勝手に離れるだろう。片足にだけ約五キロをくっつけて歩くのはバランスが悪かったが、離れないのだからしょうがない。
しばらくそのまま歩いていると、ピカチュウは状況が見えてきたようだった。言葉とは裏腹に、シンジに置いていかれるわけではないと気づいて四本の足で歩き始める。何か興味を惹かれるのか、尻尾が楽しげに揺れていた。あちこちを見回しながらシンジの傍をウロチョロしている。うっかり蹴り飛ばしそうなので「離れろ」と伝えてみても、ライバルそっくりの笑顔が返ってくるだけだった。
やがて、土に雪が混ざり始める。
着込んでいるシンジはともかく、毛皮があれど地面を跳ねているピカチュウは寒くないのだろうか。ちらりと視線を向けると、シンジの心配をよそに元気いっぱいで雪から飛び出してきた。どうやら無駄な気遣いだったらしい。
その後も雪で遊んだり、野生のポケモン達にピカピカと話しかけたりしているのを横目に見ながら、シンジは黙々と歩を進めていた。そうして一人と一匹が到着した場所は、見知らぬ町だ。それなりに栄えているようで人通りが多い。露店等もあり、雑貨から食べ物までと種類は多岐にわたっていて活気があった。
ピカチュウはここでも何が楽しいのか、琥珀の瞳をキラキラさせている。シンジの方は人混みにうんざりしつつ、足元をチョロチョロしている黄色が気になってしょうがなかった。思わず舌打ちをする。
「おい」
「ピ?」
景色に夢中でてっきり反応しないかと思ったが、長い耳はきちんと声を拾った。振り返ってなあに、と首を傾げて見上げる。そんな電気鼠に向かってシンジは自分の腕を差し出した。意図がわからないらしく、ピカチュウは反対側にまた首を傾げる。
「乗れ」
少し間を開けて、困惑したような声が返ってきた。それもそうだろう。先程は連れていかない、離れろと揉めていたのだ。急に掌を返して一緒に行動しようと言い出すなんて、ピカチュウからすれば変に思うに決まっている。
「邪魔だ。大人しくしていろ」
そう続けてみるが、ピカチュウは動こうとはしなかった。どうやら躊躇っているらしい。だから「さっきまでの人懐っこさはどうした。いまさら遠慮するなら、もっとはやい段階でそうしろ」と目線で伝える。
シンジの鋭くなった威圧感に気づくと、ピカチュウは慌てて差し出された腕から肩へと駆け上がった。頭にくっついている毛皮と、肩にある重みに慣れない。だが案外悪くないものだと思ってしまった。
しかし、そんな気分を壊すのも同じ電気鼠だ。
きゅるる~、と腹の虫が鳴いた。さすがに耳元で聞こえた音を無視する事はできない。自分の手持ちではないとはいえ、今は一緒に行動しているのだ。一人のトレーナーとして放置する事はできない。
「……」
だからといって、いそいそと食べ物を用意してやるような気持ちには到底ならなかった。視線だけで非難すると、ピカチュウはえへへと言わんばかりの照れた表情を見せる。甘えたような声は語尾にハートでもついているようだ。
時計を見れば、遅めの昼時である。
再びピカチュウに視線を戻すと、彼は近くの露店に視線が釘付けになっていた。離れていてもわかる色彩豊かな看板はパン屋だ。自分一人なら絶対に近づかないだろう場所に足を向ける。笑顔で「いらっしゃいませー!」と声をかけてくる女性の店員に小さく頭を下げ、肩にいるピカチュウに問いかけた。
「どれがいいんだ」
「ピ~カ、ピィ!」
黄色の小さい手がコロッケの挟まれたサンドウィッチを指差す。心なしか笑顔が増した店員に会計をしてもらい、シンジは商品を受け取った。ピカチュウが明らかにそわそわし始める。
「落ち着け、今やるから」
「チャア」
待てない、とでも言いたげに甘えた声を出した。それを見た店員がくすりと笑う。
「かわいいピカチュウちゃんですね!」
言われた本人はサンドウィッチに夢中なようで、ピンと耳を立てながら尻尾を揺らしていた。シンジはどう答えたものかわからず、口元を僅かに歪めて先程のように小さく頭を下げる。
人通りの少ないベンチに腰かけると、ピカチュウはシンジの肩からベンチへと移動した。そわそわしている電気鼠にサンドウィッチを手渡す。両手で受け取った彼は「ピッカピッカチュー!」と嬉しそうに声をあげて食べ始めた。まるでいただきます、と言ったかのような態度だ。本当に野生かと疑ってしまう。
むしゃむしゃと頬張るピカチュウの隣で、シンジは腕と足をそれぞれ組んで待つ。目を閉じると電気鼠の存在感が増しただけだったので、結局瞼は持ち上げたままにした。手持ち無沙汰で目の前の景色を睨む。
「ピカ~」
シンジが脳内で戦略を組み立てていた時だ。隣で二つ目を食べようとしていたピカチュウが新しいサンドウィッチを差し出してきた。どうやらお前も食べろと言っているようだが、今日は早めの昼食をすでに食べている。特に小腹が空いているわけでもない。
「いらん」
「ピカピ~?」
「俺はもう食べた」
手持ちではない電気鼠に気を使われる必要はなかった。それにキラキラと輝く瞳で見つめてくる意味がわからない。シンジは「お前が食べろ」と言い、顔を逸らした。
やがて完食したピカチュウは満足そうにお腹をさする。シンジはそんな彼を再び肩に乗せ、ポケモンセンターに向かっていた時だった。頭上からクシャミが降ってくる。
「おい」
返事の代わりに、二回のクシャミが返ってきた。器用な事をするピカチュウだ。
「鼻水をつけるなよ」
そう言えば、少し怒ったような声で頬をぺちぺちと叩かれる。黄色の手は少し冷えている気がした。おそらく町に入るまでは動きまわっていた為に平気だったが、雪で濡れたまま過ごしているうちに体温が下がってしまったのだろう。シンオウよりはあたたかい地域であるカントーのポケモンなので、この寒さは少し厳しいのかもしれない。
ピカチュウはまだ何やら文句を言いながら、ぺちぺちとシンジを叩いている。全く痛くはないのだが、いい加減鬱陶しい。片手で毛皮の背中を抱え、少し前を開けた上着の中へ落とす。驚いたピカチュウが目を白黒させているが、かまわずに胸元で抱えた。毛皮に触れた肌がひんやりする。思ったより全身が冷えているらしい。
「……ぴぃか」
戸惑いの色を乗せた小声が聞こえるが無視する。このまま放置すれば風邪を引く事は目に見えている。だから、仕方なくだ。そんな言い訳のような言葉を頭の中で繰り返す。結局ピカチュウを上着の中に入れたまま、シンジはポケモンセンターに向かった。
周囲は露店があった場所程は混雑していないのだから、別にピカチュウを歩かせても問題ない。それに気づかないふりをしてまで一般的にかわいいとされる、しかもライバルに似たピカチュウを胸元に抱えている自分が滑稽だった。最早ぬるいどころではない。兄に見つかれば、嬉々として写真でも撮りそうだった。
ピカチュウの方は緊張していたのは最初くらいで、温かい服の中でくつろいでいる。規則的に揺れるのもあって眠気を誘われるのか、だんだんと瞼が下がっていった。小さい身体で元気いっぱいに過ごしていたので、疲れてしまったのだろう。
ポケモンセンターにつく頃には、シンジの服の中でピカチュウがすやすやと寝息をたてていた。
「………どうしろと」
思わず零れた独り言に、ジョーイが微笑ましそうな笑みを浮かべた。
3
野生のポケモン達の鳴き声と、カーテン越しでも明るいとわかる窓の光で意識が浮上する。正確な時間は不明だが、行動を開始する時間帯だろう。
サトシは伸びをして起き上がった。
「あ~、よく寝……っえ⁉」
ふと視線を動かして、隣にライバルの寝顔があり衝撃が走る。自分が何故シンジと同じベッドで寝ているのか全くわからない。頭が真っ白になった。
何か手掛かりはないかと辺りを見回す。部屋は一人用だった。ベッドはサトシとシンジが乗っている一つしかなく、ピカチュウはもちろんヒカリもタケシもいない事は明白だ。テーブルの上にはサトシがいつも被っている赤い帽子と、シンジのモンスターボールが置いてあった。
そして最後に自分を見下ろし、その手が相棒と同じ黄色い手であるのを見て思い出す。そうだ、自分はピカチュウになっていたのだ。
一人はぐれて途方に暮れていたところをシンジに助けてもらった。町までの道中で出会ったポケモン達に仲間達の事を聞いてみたが、誰も知らないと言っていた事も思い出す。その後、シンジに抱えられてから記憶がない。
自分の手から視線を外し、改めて隣の少年を見る。
「……シンジ、」
普段よりも随分と幼く見える顔をしているが紛れもなくシンジ本人で、昨日随分と世話をかけてしまった人物に間違いなかった。寝ている間にいつもより温かい気がしたが、おそらく彼とくっついていたからだろう。
「ごめんな」
何かにやわらかく頬を撫でられ、シンジの意識がゆっくりと浮上する。ベッドが恋しい質ではないのに、今はなんだか離れ難かった。いつもより温かい所為だろうか。
「……あ、起こしちゃったか?」
兄のような、やわらかな声がした。もうちょっと寝る、という意味で目を閉じたまま身じろぐ。すると頬に触れていた何かが離れた。
「シンジ、おはよう」
なにやらものすごく聞き覚えのある男の声がした。
シンジにおはようと声をかけてくる人間は、兄であるレイジくらいなものだ。ましてや今は一人旅をしており、寝起きから話しかけてくる人間などいないはず。
たった一人だけ当てはまりそうな男はいるが、一緒に旅をしているわけではない。ポケモン達は人語を喋らないし、未だに夢の中なのだろうか。仕方なく重い瞼を持ち上げる。ぼやけた視界に映るのは黄色だった。
「まだねむいのか? もうちょっと寝る?」
シンジにそう語りかけてくるのは、にこにことした表情を浮かべるくせっ毛のピカチュウだ。何故ポケモンが喋っているのだろうか。すごく現実感がある不思議な夢だ。
なんて、そろそろ自分を誤魔化すことが不可能になってきたのを感じる。いくら寝起きで使えない状態だったとしても、限界というものはあった。しかし目の前にいる存在を、はいそうですかと納得できるわけもなく。シンジはギギギ、と音がしそうな程ぎこちない動きで顔を動かした。
「……お前、どういう事だ」
シンジの性格ゆえ素直に返事があるとは思っていなかったが、いきなり地を這うような声が返ってくるとは思わなかった。サトシは「シ、シンジ……?」と戸惑った声で呼んでみる。シンジは不機嫌そうに目を細めた。
「何故、ピカチュウが人間の言葉を喋っている……」
「オレだよ、マサラタウンのサトシ! って、オレの言葉がわかるのか⁉」
「理解したくはないが」
笑顔で「そっか!」と長い耳を動かすピカチュウは、どう見てもピカチュウだ。本当にサトシ本人だと言うなら、一体何があればそんな状況になるのだろう。シンジにはまるで検討がつかなかった。
「昨日はポケモン達にしか言葉が通じなくて大変だったんだよな」
エレキブルが反応したのは、そういう事である。
それにしても、人間がポケモンになるとはどういう事だ。ダークライに悪夢でもみせられているのか。覚醒したくないシンジは無理に現実逃避を続けた。
「実はオレ、昨日からピカチュウになっててさ」
見ればわかる。意味がわからないが、わかる。シンジは片手で顔を覆った。
「何故そんなことになるんだ……」
「それがさあ──」
そもそもの始まりは、旅仲間であるヒカリの話だ。彼女が雑誌にあった占いの話をしており、それがおまじない、そして魔法の話へと変化していったのである。その流れで、サトシだけでなくタケシもポケモン魔法というものを思い出した。朧気ながらも懐かしさに呪文を唱えると、サトシは以前のようにピカチュウの姿になっていたのだ。
おそらく後遺症みたいなもので、当時のように時間が経てば元の姿に戻るだろう。ポケモンの言葉を喋っている原因は不明だが、前回とは状況も違う為、症状も変化してしまっているのかもしれない。タケシはそう結論を出した。
ポケモン魔法について話を聞けるような人はおらず、連絡手段もない森の中ではどうしようもない。体調が悪くなったわけでもないしと、サトシの腹が空腹を訴えた事もあって休憩となった。タケシとヒカリは昼食の準備を始め、サトシは貴重な体験を満喫する為にポケモン達と遊び始める。
その後、ピカチュウが二匹に増えていると盛り上がったロケット団に襲われたのだ。散り散りになって逃げている中でサトシは囮となり、偶然〈でんこうせっか〉が発動してからは応戦していた。シンジが森で見た電撃は、その時のものである。
「シンジに会えて助かったぜ!」
あっけらかんと言うサトシに、シンジはドン引きだった。楽観的すぎる仲間にもドン引きする。
以前もピカチュウになった事があるという時点で奇天烈なのに、そもそも魔法という非科学的なものが失敗した結果というではないか。しかも確証がないとはいえ、未だに後遺症らしき症状が残っていることに不安とかないのだろうか。ないのだろうな……とシンジは内心で確信する。
ちなみに、ポケモン図鑑はサトシの事をピカチュウとして反応した。モンスターボールが反応したのだから当然かもしれない。
「お前、技が使えるのか」
「そうみたいだ」
ピカチュウの頬がパリパリと帯電した。シンジは図鑑を操作しながら考える。
技を使えていたという事はすでに能力をコントロールできているようだが、人間からポケモンとなった自分の身体に違和感とかないのだろうか。そう疑問に思うものの、彼の様子を見れば答えは明白だ。普段からポケモンのような男が本当にポケモンになったというわけである。シンジは真理に気づいたような気がした。
「やはり〈ボルテッカー〉か。サブは〈くさむすび〉だな。性格は無邪気が望ましい」
咄嗟に性格や技構成まで考えてしまうのは最早癖のようなものだ。さらりと言い切ったシンジにピカチュウは耳を倒した。
「え、オレのことゲットすんの……?」
こいつの特訓すげー厳しいんだろうなあ、なんて考える。そこではた、と気づいた。
「あー! すっかり忘れてたけど、お前あの時オレのことゲットしようとしただろ⁉ すっげーびっくりしたんだからな‼」
否定できない事実に、シンジの身体がビシリと固まる。確かに、自分の手持ちにする為に捕まえようとした。だがピカチュウがサトシだと知らなかったのだ。あくまで野生のピカチュウを捕まえるつもりでいたのである。
たすたすと足を踏み鳴らし怒るピカチュウは、大変愛らしい。思わずそんな現実逃避までしてしまった。
「………………すまん」
「…………いや、別にいいけど……」
シンジの事だから鼻で笑って何か悪態でも言ってくるかと思えば、顔を逸らす。それからたっぷり間を開けて、絞り出すような声で謝られるとは思わなかった。意外な態度だ。何か言い返すような気にはならず、けれど肩透かしもあり、サトシもやや間を開けてから謝罪を受け止めた。
だが何か気に障る部分でもあったのか、シンジは勢いよく振り返る。
「そこは受け入れるところじゃないだろう! ボールを当て返すくらいしろ!」
「なに怒ってんだよ……」
事情を知らなかったとはいえ、ライバルをゲットしそうになった事にシンジの内情は荒れた。しかもそれを本人から簡単に許され、ダメ押しとばかりにライバルを肩に乗せたり胸に抱え、あまつさえ一緒に寝ていたという現実まである。この気持ちをどうしていいかわからず、シンジはベッドにめり込んだ。反論する気も起きない。
サトシはしばらくその珍しい様子を眺めていたが、黄色の胴体から音が鳴り空腹に気づいた。そろそろ朝食の時間だ。時計以上に正確な己の腹時計が知らせるのだから間違いない。ピクリとも動かない紫の後頭部をまわり、目が死んでるシンジの頬をぺちぺちと叩く。
「シンジ、朝飯はどうする? オレ腹減った」
問われたシンジの視線が動いた。サトシの背後にある壁掛け時計へ向く。時間を認識すると、彼はのそりと起き上がった。
「もう少し緊張感は持てないのか」
普段の調子を取り戻したらしい様子に自然と破顔する。やはりこの男はこうでないと、とサトシは思った。
シンジからすれば、何故そこで笑うのか意味がわからない。ヘラヘラするな、という意味をこめて赤い頬をつまんだ。その際の電気袋の感触がなんとも言えず、無言でもにもにと撫でる。サトシの方は特に嫌がる素振りなどなく、されるがままに目を閉じていた。何故じっとしている、噛みつくくらいしろ、等と思うが手を止めないシンジもシンジである。
惰性でもにもにしていると、サトシが小声で「チャ~」と鳴いた。再びの衝撃がシンジを襲って、ようやく手を離す。
「…………警戒心を持て」
何とかそれだけ言う。サトシは首を傾げ、さらに爆弾発言をした。
「だって気持ちいいからさあ」
人間の言葉を喋るようになったんじゃないのかとか、同年代の男に撫でられてその反応はどうなんだとか。色々ひっくるめて注意したが、失敗だ。見事なカウンターだった。言葉に詰まるどころか呼吸が止まる。サトシの「ピカチュウもほっぺなでられるの気持ちいいみたい」という話は、シンジには聞こえていなかった。
またしばらくベッドの住人になってしまったライバルの回復に、サトシが待ちくたびれた頃。
目つきの悪さが普段の三十倍くらいになったシンジがふいに身体を起こした。あまりの迫力に背後が黒く歪んで見える。サトシは驚いて駆け寄ったが、シンジは横目で視線を向けただけだった。
「……お前、どっちを食べるんだ?」
ポケモン用か、人間用か。元は人間なのだから、やはり人間用の方だろうか。しかし身体はポケモンである。まあ、よほどの刺激物でなければ人間用でも問題ないだろう。シンジがそんな事を考えながら訊ねると、彼の太腿に寄り添っていたピカチュウの瞳が輝く。
「米でもパンでも!」
嬉しそうに耳を立て尻尾を振る姿に、シンジの顔が引きつった。ポケモンの身体になっている事に配慮している自分の方がおかしいのだろうか、と思わされる。
「……自分がどうなっているか忘れたのか?」
それだけでは伝わらず、サトシは首を傾げた。鈍すぎるだろう。ため息をついて「人間用かポケモン用かだ」と言い直せば、前者を選んだ。
シンジは立ち上がると腰のホルダーにモンスターボールをセットした。そして、それが当然のように腕を差し出す。サトシも当然のように肩へ乗った。しかし実際のところ、シンジの方は開き直りである。
「朝飯じゃないのか?」
腕を差し出されたので思わず飛び乗ってしまったが、理由はわからない。シンジはちらりと視線を向けると、朝食を食べに向かう旨を伝えた。
「どこぞのポケモンの分まではないからな」
「はいはい、すみませんねえ~」
シンジとて野宿であれば多少の自炊をするが、ここはポケモンセンターだ。食堂が併設されているのに、わざわざ自炊をする必要もない。というか、ポケモンになっているライバルに見守られながら自炊などする気になれないという点が大きかった。
シンジはいつもより重い肩に眉を寄せつつ廊下へ出る。少し遅めの朝食だというのに、食堂の席はぱらぱらと埋まっている状態だった。ポケモンセンターというのは基本的に利用者が多く、ここも例外ではないらしい。都会という程ではないが、それなりに大きな町であれば尚更だった。
「どれもうまそう!」
ガラスの向こうにある朝食にサトシが声を上げる。シンジの肩の上で琥珀の瞳が輝いていた。尻尾が振られているのは無意識らしく、パタパタとシンジの後頭部を叩く。滑り落ちてしまいそうな程に身を乗り出しているので、シンジは片手で黄色の頭を押し戻した。
「喋るな」
人間の言葉を喋るピカチュウを連れたトレーナーとして騒がれるなど勘弁してほしい。あと、単純に耳元で喋られるとうるさかった。顔面を押さえられる事になったサトシは掌の下で「むぐぅ」という声を上げる。
シンジは手だけで食べやすい物を適当に取りつつ、その途中でストローのささった飲み物も取った。カウンターテーブルに朝食の乗ったトレイを置き、涎の垂れそうなピカチュウを席に座らせる。先に食べていろ、と視線で伝えるが長い耳が反応しただけだった。
どうやら彼は再び遠慮しているらしい。さんざん世話になっていながらそれは……とでも思っているのだろう。それを理解していてもシンジは動かない。言葉で説得するのは面倒だった。しばらく見つめ合いが続く。
譲らない気配を察知したのか、サトシは諦めた。シンジから視線を外し正面を向くと両手を合わせる。
「いっただっきま──」
ズン、と頭に衝撃が走った。正体はシンジの手だ。ピカチュウとなったサトシにとっては大きな手が、容赦なく黄色い頭を鷲掴みにしていた。思わず「ヒエ……」という声が漏れる。振り向かなくてもわかる程、シンジの顔は怒りの色で染まっていた。
「喋るな、と言ったはずだが?」
「ぴ、ぴか~……」
普段よりも低くなった声に、ぎこちない返事が返る。ようやく理解したか、とシンジは手を離した。そのまま自分の朝食を取りに行く。ピカチュウは安堵の息を吐き、朝食を食べ始めた。
すぐに戻ってきたシンジの持つトレイには控えめな量の朝食がある。それだけで足りるのか、とサトシは思ったが口にはしなかった。余計な事を言ってはいけない空気が漂っていたからだ。しかし視線だけで伝わったらしく、シンジは「朝からそんなに食べる気にならん」とだけ答えた。
サトシは喋るわけにいかず、シンジも元々あまり喋らないとなれば自然と手を動かすしかない。特に会話がないまま朝食は終了した。二人分のトレイを片づけて食堂を出る。廊下には誰もおらず、シンジの肩でピカチュウが身体の力を抜いた。
「……食い意地がはっているから、てっきり両方食べるのかと思ったが」
「ん~? 前に食べたことあるし。ていうか、あれくらい普通だろ?」
肩で過ごすのもすっかり慣れた様子のピカチュウを見る。朝とは思えない量を、おかわりまでして食べた彼の体型には変化がない。
「お前の胃袋はどうなってるんだ」
「まだ食べれるぜ?」
あっけらかんと告げられた言葉に絶句する。食べた物が逆流しそうだった。
朝はともかく、シンジだって旅をする男の子だ。食べる量が控えめとは言えない。それでもサトシ程ではなかった。彼の朝食だけで考えても、旅の食費が大変そうだと思考を飛ばして吐き気を誤魔化す。
「レストランとかのご飯もおいしいけど、食べる量は減っちゃうんだよな」
あれほど食べておいて加減していたと言うのか。身体の燃費が悪すぎるだろう。いや、むしろ普段が普段だから、身体がたくさんのエネルギーを必要としているのかもしれない。
「やっぱタケシの料理はサイコーだぜ!」
返事をしなかった仕返しなのだろうか。惚気の追撃まで聞かせられて胸やけがした。
シンジがため息を漏らしたところで「タケシの料理といえば」と、サトシが紫の頭に抱きつく。
「昨日はサンドウィッチありがとな! おいしかったぜ!」
耳元で言われた言葉がこそばゆく、シンジは鼻を鳴らすだけで答えた。彼から反応があっただけで充分なので、サトシは微笑む事で話を終わりにする。
それにしても、とサトシは考えた。シンジは昨日から随分と優しい。以前であればサトシの存在など気にもせず、さっさと立ち去っていただろう。ピカチュウになってしまった事だって信じてくれなかったかもしれない。
けれど彼は助けてくれた。そしてシンジの足元から、あるいは肩から、彼と同じ世界を見ているのがなんだか楽しい。相棒や仲間達と離れてしまったが、決して悪い時間ではなかった。
自分の気持ちを正確に言葉にできないサトシは、お礼を込めてシンジの頬にすり寄る。ちょうど部屋のドアノブを掴もうとしていたシンジの手が見事に空振った。
「なんなんだお前は!」
「なにが?」
「っうるさい!」
苛立った声にサトシは首を傾げる。シンジが何に対して怒っているのかわからない。
しかし訊ねる暇はなかった。部屋に入ったと同時にサトシはベッドへぶん投げられる。スプリングに受け止めてもらって身体を起こすと、洗面台からすごい勢いで水を流す音がし始めた。
鬼気迫る勢いに「シンジ……?」と控えめに呼んでみるが、返事はない。代わりにバッシャバッシャと激しく水を叩く音に続き、ジャカジャカと激しく歯を磨く音がする。何故かうるさいと怒られたばかりなので、サトシは大人しく待つ事にした。
やがて顔面をビッシャビシャにして、ようやくシンジが洗面所から姿を見せる。ベッドの上では、待つ事に飽きたピカチュウが腕でコシコシと顔を洗っているところだった。
「お前の適応力はどうなってるんだ……」
呆れた声を出すシンジだが、その顔はいつもより覇気が薄い。疲れたような表情でサトシの向かいにある椅子へと腰かける。ピカチュウは前足で顔を擦りながら、不思議そうに瞬きをした。
4
人間からポケモンとなり目線が変わっただけでなく、ロケット団に追いかけられているうちに、元いた場所はすっかりわからなくなってしまった。幸いお昼時でポケモン達はモンスターボールから出していた為、閉じ込められるような事にはなっていない。今頃はサトシの事を探してくれているだろう。自分のように、はぐれていない事を願った。
小さな一匹で森を捜索するのは効率が悪い。そう告げたシンジはドンカラスを飛ばしてくれた。それだけでなく、ポケモンセンターに伝言を残せとアドバイスまでくれる。さらに伝言を残す役もやってくれた。最後に寄った森の中にあったポケモンセンターと、念のため次に行く予定だった町のポケモンセンターにも伝言を残す。
シンジからの伝言に、皆びっくりするかもしれない。サトシは少しだけ楽しくなった。
なお現在のポケモンセンターは、そのどちらでもない。サトシは行き違いを防ぐ為、じっとしているのは不本意ではあるがシンジの忠告に従い、何かしらの返事があるまで動かない事にしたのだ。
「戻る様子はないのか?」
ポケモンの言葉から人間の言葉を喋るようになったので、症状はなくなりつつあるのだろう。しかし先程顔を洗っていたような、ポケモンらしい行動をしている事もあった。元の姿に戻るまで、まだ先は長いのかもしれない。
シンジの質問に対してサトシは首を横に振る。それからベッドの上でぺたりと伏せの体勢をとった。
「そんな感じはしないなあ。まあ前も急に戻ったんだけど……」
食堂にいる時に戻らなくてよかったが、今にして思えばかなり不注意だ。人混みで人間に戻るなど問題がありすぎる。よほど使えない状態だった、とシンジは自分に舌打ちした。
「シンジはこれからどうするんだ? 伝言も残してもらったし、オレなら一人でも大丈夫だぜ」
心配してくれての言葉だとわかってサトシは嬉しかったが、同時に申し訳なくなった。自分がいない方が彼は自由に動けるはずだ。それにサトシは少しくらい一人でも問題ない。すぐに相棒や仲間達が迎えに来てくれるだろうし、今はいざとなれば自分で戦う事もできるのだ。
サトシの申し出にシンジは眉間の皺を寄せる。しばらく黙っていた後、ため息をつく。
「元に戻れなかったとしても、そう言えるのか?」
「うーん。ま、なんとかなるだろ!」
サトシは元気よく答えた。その笑顔に、シンジが苦々しい表情をする。
「……勇敢と図太いだけは認めんぞ」
「まだその話すんのかよ」
そろそろ本気でゲットされるのではないだろうか。冗談なのか本気なのか、いまいちわからなかった。
正直、シンジと同じ側に立って行うバトルに興味がないとは言えない。以前のような独りよがりのタッグバトルではなく、ちゃんと協力して勝利を手にしたかった。そして彼の綿密に練られた戦略を、仲間という位置から見てみたい気持ちがある。
「オレのことは気にしなくていいぜ」
シンジとはライバルなのだ。バトルができるならまだしも、サトシの都合で彼の足止めをしてしまうのは気が引けた。それに伝言もあればポケモン達もいる。仮に時間がかかってしまったとしても、仲間達とはそのうち無事に合流できるだろう。経験則みたいなものだが、サトシには妙な確信があった。自分がピカチュウの姿になっているのも、遅くともあと数日もすれば解決すると思う。
しかし、シンジから返ってきたのは拒否だった。
「お前が元に戻るか、あいつらと合流するまでは付き合う」
ここまで世話を焼いておいてハイさようなら、とはできなかった。生命力は強そうだが、人間の時から人懐っこいので簡単にポケモン攫いとかに巻き込まれそうだと思う。とは言っても相手をしてやる気にはならないし、ライバルの前で特訓をする気にもならない。休息日ということにして、シンジは読みかけだった育成論の本を取りだして広げる。
サトシはしばらく本の表紙を見つめていたが、飽きたのか窓辺へ近寄った。それも数秒で、テーブルに置いてあったトレードマークの赤い帽子を被る。そして窓辺へ戻った。
「おい」
解放された窓から入ってきた風にシンジは顔を上げる。ピカチュウが片方の前足を浮かせた状態で振り返った。どこへ行く、とシンジが言外に問えば、さも当然というように返事があった。
「ちょっと散歩でもしてくる」
「お前、自分の状況がわかっているのか? 大人しくしていろ」
シンジの言葉に、サトシは少し困ったように笑う。大丈夫だとは思っても、大人しく待っていられるような性分ではないのだ。きっと仲間達が心配している。早く戻って安心させてあげたかった。せめてポケモンセンターの庭に、いや町の入り口くらいまでは様子を見に行きたい。
「じっとしてるなんて無理だよ」
サトシはここにいる事に頷いていたが、渋々といった様子だった。このまま外に出したら、黙って仲間達を探しに行くのだろう。シンジは舌打ちをしてトリトドンとドダイトスを窓の外へ出す。人間の言葉で挨拶をしてきたピカチュウに、二匹は驚いた反応をした。
「お子様は大人しく遊んでろ。敷地内から出るなよ」
サトシは思いのほか素直に頷いた。最初は少し困った様子をみせた二匹だったが、シンジの言葉からお守りを任されたのだと把握したようだ。ピカチュウになってしまったというサトシの話を聞いて困惑するも、ぴょんぴょん跳ねるサトシに誘われてトリトドンが動き出した。
トリトドンに乗せてもらって池を泳いだり、ドダイトスと日光浴したり。最初に話を聞いてから気になっていたらしいエレキブルまで出てきて、ポケモンセンターの裏庭は少し騒がしくなった。
トレーナーを差し置いて仲良くなっている状況で、読書に集中できるわけもない。しかし読書をしているという態度は崩さないまま、窓辺に肘をついて寄りかかる。
「……ポケモンタラシめ」
そのうちバトルの真似事でもしていたらしいサトシとエレキブルがテンションを上げてしまったらしく、エレキブルに電撃をぶつけてバトルを始めようとした。キレたシンジが駆けつけて一人と一匹にかみなりを落とすまで、あと三百秒──。
5
辺りがオレンジ色になってきた頃、ドンカラスが戻ってきた。だいぶ遠くまで行ってきてくれたらしい。シンジが労りの言葉をかけると、その足元でサトシも労りの言葉をかけた。地面に降り立ったドンカラスは、ピカチュウの手が届くように頭を下げて黄色の手に撫でられている。人間がポケモンになるという事態に、彼らも気にかけているのだろう。
ポケモンセンターに戻ると、ジョーイに伝言の連絡があると呼び止められた。どうやら全員が外にいたタイミングだったらしく、電話の館内放送に気づけなかったようだ。
伝言の内容はヒカリとタケシからで「ドンカラスが一番近いポケモンセンターに案内し、伝言の事を教えてくれて助かった。今日はもう遅いので、明日になったらサトシ達のいるポケモンセンターに向かって出発する。そこを動くな!」との事だった。まだ元の姿に戻っていないサトシを心配し、トラブルに巻き込まれないようにとの配慮である。ひとまず仲間達が無事な事を知り、すっかり定位置となった肩でサトシはホッと息をついた。
ドンカラスは随分と気を利かせてくれたようだ。彼は伝言の存在を伝える為、一番近い森の中にあるポケモンセンターまでヒカリとタケシを案内した。サトシ達との距離は開いてしまったが、彼らの安全を優先してくれたのだ。それからシンジの元へ帰ってきた為に時間がかかってしまったのである。トレーナーに似てとても賢い。彼の回復が終わった後、サトシは労わる為にたくさん撫でてお礼を伝える。もうポケモン達の声は聞こえなくなっていたが、ドンカラスが喋ったように聞こえた。
その後は夕食とシャワーを終え、昨日と同じ部屋に戻る。サトシはベッドの真ん中に転がった。通常サイズだが、ピカチュウの身体で寝転がるとかなり大きく感じる。
「すげーベッドでかい!」
きゃっきゃとはしゃぐサトシにかまわず、シンジはベッドに腰かけた。
「邪魔だ」
「あ、ごめん」
細長い耳を少し垂れさせ、サトシは端に寄った。すっかりピカチュウの身体に順応しているらしく、寝る体勢なのか丸くなる。
一人と一匹が並んで寝る形になるが、シンジとしては姿がピカチュウでもサトシと一緒に寝るなんてご免だった。仮に昨日までは不可抗力だったとしても、何故サトシは今日も普通に寝ようとしているのか。パーソナルスペースが狭すぎやしないか。
「お前は床で寝ろ」
シンジとて悪人ではない。しかし素直にサトシと並んで寝るなどとはできなかった。こちらが突っかかれば彼が噛みついてくるだろうから、それならば少しくらい譲ってやらなくもない。そう思ってシンジは言ったのだが、サトシは素直に起き上がると「わかった」と返事をしてベッドから下りた。そのまま床で丸くなる。
「……おい」
「おやすみシンジ」
「おい」
サトシとて腹が立たないわけではないが、昨日と今日でシンジにはだいぶ面倒をかけている自覚があった。旅の経験が長く野宿に抵抗があるわけでもなく、ましてや今は室内で絨毯もある。特に困るわけではないので拒否するならばと退いたのだが、彼の言う通りにしたというのにサトシの行動が気に入らないらしい。
「こっちで寝ろ」
親指をクイと動かし、戻れと合図する。眉間の皺は深く刻まれ、その人相はだいぶ悪くなっていた。不機嫌なのがありありと伝わってくる。
「でも……」
「何度も言わせるな」
声まで低くなってしまった。何をそんなに怒っているのか。ヘンなヤツ……と、流石に言葉にしてはいけないと察するが、サトシは困惑していた。ひょいとベッドに飛び乗るのをシンジが睨んでいる。
さて、どこで寝るべきか。不機嫌な様子から一緒に寝るのは不本意だと伝わる為、足元が候補に浮かぶ。シンジの視線に横顔を刺されながら、そろりと足元へ向かった。それを低い声に制止される。
「足元で寝たら潰してやる」
ほんとになんでそんな怒ってんだよ⁉ と思ったが、サトシは口には出さなかった。どうにも納得いかないものの、これ以上この男を刺激したくない。
そうなると選択肢は一つしかなかった。
「えっと……お隣しつれいします……」
「早くしろ」
「はい……」
サトシは理由のわからない圧力に負け、そろそろとシンジの隣に並ぶ。耳をぺたりと後ろに倒したまま丸くなった。横にいる魔王はようやく納得したようでフンと鼻を鳴らし、圧が少し落ち着く。サトシは安堵の息を吐いた。
その後すぐ。昼間さんざん騒いだおかげか、サトシは寝息を立て始めた。
仰向けになって天井を睨んでいたシンジは隣を見る。黄色の毛玉が規則的に上下していた。彼に先程までの怯えた様子はない。呑気な寝顔を晒している姿に、思わず舌打ちしたくなった。シンジは乱暴に掛け布団を引き上げる。そしてぎゅっと瞼を閉じた。
6
なんだか息苦しい。
意識が浮上したシンジは薄く目を開ける。部屋はまだ薄暗かった。早朝よりもやや早い時間らしい。ちらりと視線を動かしてみると、息苦しさの原因はすぐにわかった。健康的に日に焼けた片腕が首に乗っていたからだ。
その腕の持ち主は、シンジの方に身体を向けてすやすやと気持ちよさそうに寝ている。少々イラついて片腕を退かし、もぞりと体勢を整えまた寝ようとした。
そこで、はたと気づく。
「⁉」
何故サトシが隣に寝ているのか。寝るまではピカチュウだったはずだ。
シンジが飛び起きた勢いで、サトシも目覚めたらしい。まだ眠いのか、目をこすりながら寝ぼけた声を上げる。
「あれ、シンジ……? なんで一緒に寝てるんだ……? ていうか、ここどこ?」
「……覚えていないのか? お前、ピカチュウになっていただろ」
嬉しくない抜群の目覚めの中、サトシだけ都合よく何も覚えていない可能性が浮上してしまった。シンジの心情とは裏腹に、サトシはどこか幸せそうにふらふらと頭を揺らす。天気がいいらしい事も恨めしくなってきて、シンジは頭痛がした。
「…………あ~? そうだっけ……」
寝起きでまだ頭が働いていないのか、はたまたポケモンになっていた弊害みたいなものか。普段からは想像できないような、ぼんやりとした様子でサトシは呟く。目を閉じて考え始めた彼に、シンジは深いため息をついた。
「……あ、あー、ピカチュウだ。オレ、ピカチュウになってた。でもなんか、んー、あいまいなんだよな……」
どうやら後者のようだ、とシンジは結論付ける。サトシは伸びと共に大きな欠伸をして酸素をいっぱいに吸い込んだ。一瞬でいつもの調子を取り戻してハキハキと告げる。
「でも、シンジの世話になったことは覚えてるぜ! 色々ありがとな!」
まるで太陽のような笑顔だ。それを真正面で近距離から受けたシンジは目が焼けるような錯覚を覚え、目を閉じると背中からベッドに倒れた。幸か不幸か、サトシの「これもなんとなくだけど!」という声は届かない。
──些かやつれた様子のシンジが先に出発した後、無事にサトシ達は再会した。
書き下ろし
眠っていたシンジの⼿に何かが触れた。馴染みがない⼿触りに薄く瞼を開けると、⻩⾊の⽑⽟が規則的に上下している。何故ピカチュウが隣にいるのかと疑問を感じたものの、一緒に寝たからだとすぐに納得した。
そっと触れると、温かい体温を感じる。さらさらでいて、ふわふわとした感触が指先に心地好い。つい撫でてしまう。それに反応したのか、ピカチュウの長い耳がぱたぱたと動いた。起こしてしまったのかと手を離すが、変わらず寝息が聞こえる。シンジは小さく息を吐き出した。
無意識のうちに、また手を伸ばす。今度は掌全体で包むように優しく触れていった。小さな心臓がとくとくと脈打っているのがわかる。小さな生命の音はシンジを安心させた。
「ぴぃかぁ……」
シンジを見つめる琥珀の瞳には穏やかな色が宿っている。赤い頬に触れれば「ちゃあ」と甘えた声が上がった。黄色の身体をそっと引き寄せる。すると抵抗もなく胸の中に収まった。顔を寄せれば、ピカチュウからはくすぐったそうな笑い声が聞こえてくる。無心で撫で続けているうち、シンジはいつの間にか再び眠りに落ちていった。
それからしばらくすると、今度はサトシの意識が僅かに浮上する。
自分の近くにある体温に違和感を覚え、緩慢な動作で周囲を窺った。視界に映るのは見慣れた黄色の相棒ではない。紫色の頭、正体はシンジだ。微動だにしない彼の寝息だけが微かに鼓膜を刺激する。そりゃあ違和感あるよな、と納得した。
俯せだった身体を横向きにして、サトシの肩に額をくっつけるようにしていた頭を優しく抱え込んだ。そしてゆっくり撫でる。安心しきって寝入る表情は無防備そのもので、普段とは大違いだ。サトシはくすりと笑みを漏らし、自分もまた微睡みの波に身を任せる事にした。