マニキュア 茂夫は隆子の後ろから抱き包み、右手を取って黒く小さい刷毛を人差し指に滑らせた。
隆子の右手を支える左手は緊張で固まり、震える右手で小さい小瓶に刷毛を戻して詰めていた息を吐いた。時間をかけてやっと塗り終えた人差し指の爪からは橙色のマニキュアが豪快にはみ出している。茂夫の会心の出来に、ふふと隆子は笑った。
「うーん……難しいですね。簡単そうに見えたのに」
隆子は自分の塗った左手の爪と見比べた。
塗り慣れている左の爪に比べ、茂夫の塗った右手の人差し指は──塗りムラがあり、爪郭にはみ出し──散々な有様だった。
隆子が左手の爪を塗っている姿を、風呂上りの茂夫が発見したところから話は始まる。
頭を拭きながら、隆子の爪が器用に夕焼け色に染まっていくのを茂夫はぼんやり眺めていた。既に両脚は塗り終わっていた。左手の爪と同じくムラひとつなくエナメルの光沢を放っている。舐めている途中に口から取り出した、蜜柑味の飴玉みたいだと思った。
「あの、僕に塗らせてくれませんか」
「えっ、できんの?」
「……ちょっと、やってみたくって」
「いいけど、はみ出すなよー」
橙の液体が入った小瓶を茂夫に手渡した。任せてください、と茂夫は息を大きく吐いて頷いて受け取る。
茂夫は隆子の後ろに座り、タオルを脇に置いて隆子に覆い被さるよう腕を回した。茂夫の胸板を背中に感じ、しっとりした体温に包まれる。
「なんでだよ」
振り向いた隆子の頬は僅かに朱が差している。呆れた視線をきょとんとした顔が受け止めた。
「師匠なんだか寒そうだし、師匠視点の方が塗りやすそうだと思って」
「そ? まあ、塗りにくくないんならいいけど」
隆子は風呂上がりで大きめのロングTシャツとショートパンツを身に着けていた。腕の中の彼女の身体から花のような瑞々しい香りがして、頭がくらくらする。同じ湯船に浸かっているから自分も同じ香りがしているはずだが、全く違うように感じた。
師匠と慕う女が、今自分の腕の中にすっぽり収まっている。華奢で柔らかく温かい身体に、いつから保護欲にも似た独占欲を抱くようになっただろうか。前に向き直った隆子の頬を、茂夫はじっと見つめた。
「瓶の淵に刷毛を扱いて……そう、余計なマニキュアを落とすんだよ。そのままだとたくさん付いちまうから」
「はい……う、」
「塗るのは真ん中から塗って、その次に両脇だ」
茂夫の指はやはり震えていて、通った中央のラインは細かく蛇行していた。
「ゆっくりでいいんだが、あんまり時間をかけると乾いちまうぞ」
一所懸命に自分の爪を四苦八苦して塗る茂夫の横顔を盗み見て、隆子は酷く可愛いと思った。結局中指もはみ出している。
まあ、でも人差し指より上達したかな。隆子は人差し指と中指を見比べた。
「……僕の必死な顔見てて楽しいですか?」
「ああ、楽しいよとても」
へったくそなとこがめちゃくちゃ可愛い、と膨れた茂夫の頬にキスをした。
「俺の爪塗るの楽しい?」
「まだよく分からないです。思っていたより難しくて。はみ出さずに塗れる人に拍手を送りたい」
「じゃあ俺に拍手してもいいぞ……っあ、コラ」
茂夫は晒された首筋に唇を落として、ゆっくりと食んでいく。ちゅ、と強く吸うと赤い跡が残った。
「色を付けるとしたら、僕はこっちの方が得意だな」
「っ、このマセガキ……ちょっと、あッ」
茂夫の手はTシャツの下から侵入し腹を這い上がる。ぶかぶかのそれは茂夫の侵入を容易く許した。カップ付きのキャミソールの上からやわやわと胸を揉む。今日はもう寝るだけだったため、ブラジャーはつけていない。
茂夫は隆子の気張らない姿が好きだった。
僕の前でだけ、素の姿を見せてくれる。警戒心皆無のありのままの霊幻隆子を。
「駄目だって、爪、まだ乾いてない」
「師匠はそのままで、いいです」
カリカリと爪で胸の頂辺りを引っ搔いた。布越しに与えられるささやかな刺激だったが、身体は貪欲に快感を拾い上げる。
「っあ、ゃ……!」
隆子の長い脚がぴくんと反った。艶めいた光を湛えた橙が軌跡を描く。茂夫の熱い吐息が首筋に触れ、慣らされた身体はそれだけで堪らなくなる。
「可愛い、師匠、ね、こっち向いて?」
「ん、もぶ」
胸を弄る指の動きは止めずに、首に這わせていた唇で隆子の口を塞いだ。分厚いカップ越しに乳首を抓る。喘いだ隙を逃さず、口内に舌を滑り込ませる。胡座をかいた茂夫に抱き留められ、まるで海に漂う浮輪に腰掛ける体勢になっている。
「あっ、ん……はあ……」
胸を揉みながらちゅくちゅくと唾液の交換をする。歯列をなぞり、口蓋を擽る。舌を吸う合間に互いに湿る呼吸を求めた。生温かく粘度の高い唾液は隆子の喉や飲み下せなかったものは口端からゆっくりと流れ落ちていく。溺れてしまうと隆子は思った。
茂夫は猫の機嫌を取るように隆子の顎の下側を撫でるとくぅん、と犬が鳴くような高い声を漏らした。下腹部がじくじく訴え始めたのを、隆子は足を擦り合わせることで誤魔化した。茂夫はそれを見逃さなかった。強請るようにこめかみに口づけを落とし、続きを強請った。
「したい、師匠……だめ?」
「爪、が……」
茂夫は手を止めて隆子の返答を待った。火が付いてしまった欲情から逃げる言い訳を探すように、隆子は僅かな理性で踏み留まり左手の爪先を見やった。
爪が乾いてないなんて本当はどうでも良い。ただ居心地の悪さを誤魔化したかった。