かわいいもの「師匠? 師匠、聞こえますか? ……どうなってるの」
「どうもこうも……」
ぼんやりとした意識の中に声が聞こえる。眠っていたのか、何やら妙に思考が鈍くて働かない。
「憑かれちまったみたいなんだがなあ……。何するでもなくこの通りだんまりでよ」
「いったい何でまた」
「わからん。依頼人は水子かもしれんと言ってたんだが……、それにしちゃあガキの気配じゃないんだよ」
「依頼の方はどうしたの」
「こいつに憑いちまったからか、あっちは霊障も治まったみたいでな。な〜んも感じなかったぞ」
「そう……。どうしよっか……」
お手上げ状態といった調子の声ともう一つの声が何か話しているのだが、いまいち内容が頭に入ってこない。状況が掴めないと言わんばかりの声の方は少し苛立った気配を見せていて、厄介事になる前にどうにかしようと顔を上げる。寝ていたからか、ずっと下を向いてたが、見慣れた床から慣れ親しんだ事務所にいるんだと分かった。
「あ、師匠」
「霊幻、お前大丈夫か」
あ、
「モブだ」
ぱっつり切り揃えられた前髪に、詰襟姿のいつものモブがそこにいた。
「俺様のことは無視かよ」
モブの隣に浮遊するエクボがぼやいているがよく聞こえない。
「師匠、大丈夫ですか」
病人を相手にするようにこちらを覗き込んできたモブは、顔色や目から調子を窺っているらしい。その気遣わしげな様子に、安心させなくてはという気持ちが湧き上がってくる。
「モブおいで」
応接ソファに座った俺と目線を合わせて屈んでいるモブの丸い輪郭に手を添える。そして、受け入れる姿勢を示すためにもう片手を広げてみせた。モブの白目はミルク寒天みたいに真っ白に澄んでいる。その真ん中で円らな瞳孔が大きくなる。ランドセルを背負っていた頃を思い出し、実際、そうだと思えてきた。小さくてかわいい、あれだ、高校の古典でやった、うつくしきものってやつ。絶対、俺だったらモブを挙げる。
こわくないよ、と伝えるつもりで笑ってみたら、ますます赤ん坊みたいな目を丸くして、おずおずと体を寄せてきた。
「大丈夫だ、心配しなくていい」
「師匠……?」
温かくてふわふわした手を取って、そのまま自分の懐に抱き込む。とはいえ、ソファにいるところへ引っ張られて、座面に片膝立ちをしているので、俺がモブの胸板に顔を押しつけるようになってしまった。目を閉じて制服の硬い生地を瞼に感じる。埃をまとっているけれど、たぶんモブの家の匂いがする。頭の中がいっそうぼんやりして、夢見心地に解けていきそうになる。
でも、行き場の定まらないモブの両腕は、彷徨うように中空に浮いたままだ。体も強張っている。これじゃあ、モブが安心できない。
「モブ、モブ、こっち」
「え、え?」
「こうして。そう」
とまどうような声がする。きっと困った顔をしている。早く抱き締めてやらないと。
一度体を離して、モブを自分の膝の上に誘導する。一人用の狭いソファの上で、跨る形にぺたんと尻をつけさせると向かい合う顔がよく見えた。瞬きを繰り返す眼の下で、頬が薄っすら色づいていく。どうしたんだ、風邪か。
「大丈夫か」
「へ、え? あ……」
頬はやっこくて、つきたての餅を思わせる。手の平で感触を辿りながら額に触れるが熱はないようだった。風邪じゃないならいいのだけど。寒いのだろうか。なら、隙間があったらいけないだろう。
「え? ちょっと」
熱を測った手で後頭部を支えて、もう一方で背中をぐうっと引き寄せ、隙間なく抱き締める。モブの顎が肩に、頬が頬に触れるくらいに密着した。
「あったかいな」
触れ合うところから子どもの体温を感じ、じんわりと染み入る温度にこちらの体が温まる。
「……エクボ、これどういうこと?」
「俺様に聞くなよ。ただ、なんかしら憑いたままなのは確かだな」
「そうだね。いったい何なんだろう……」
窮屈な膝の上に手の平を置いたモブは俺の肩越しに何やら話している。除け者にされているようで気に入らない。
「エクボとばっか話してるなよ」
「わ、ちょっ、んぶっ」
モブの頭に手を伸ばして自分の肩口に顔を埋めさせる。これなら話はできまい。しかし、モゴモゴと何か非難の声を上げてもがくモブが肩を叩いてきて、エクボにも「シゲオが苦しがってんぞ」と窘められて、渋々手の力を緩める。
「ぷは……! 師匠、苦しいですよっ」
「ぁ、わ、悪い……」
いつもより強い調子で言われ、乱れた前髪からも顰められた眉が覗いていて、心臓がきゅっとなった。酷い動悸と、背中に嫌な汗を感じる。
「どう見ても変だな」
「うん……。水子かもって言ってたのはなんで?」
「水子供養で有名な寺の近くに行って以来、調子が悪いって言っててな」
「でも、やっぱり子どもじゃないんでしょ?」
「ああ。だいたい水子は祟らんもんだ。そもそもその思念がないし、次に生まれるために還ってくからこの世に留まるもんじゃない」
「そうなんだ。力技でいけるかもだけど、言葉が通じるなら説得できないかな」「どうだかな。人だったとして話が通じる相手かどうか」
そっとモブの機嫌を窺う。煩わしげな色こそないが、困ったように難しい顔でエクボと話すばかりでこちらを全く見ない。
胸の詰まるような動悸が苦しさを増し、知らずに掴んでいたシャツの胸元に皺を作る。
すごく悲しい。すごく、すごく。
この世のどこにも身の置き場がないような悲しさ。そして、チクチクと針で刺されるような、指先の痺れる切なさが襲ってきて体を丸める。心が絶望に冷える。
耐え難い苦しみに、自分自身で抱き留めた体が小刻みに震えていることに気がついた。カタカタと止まらない震えに息が浅くなる。足元しか映らない視界も滲んできて。
「……師匠? 師匠、大丈夫ですかっ」
俺の異変に気づいて、焦った声を上げるモブが飛びつくように震える肩に手を置いた。その弾みに目に溜まっていた涙が決壊して、ボダボダ革靴と床の上に落ちる。
「う、ぅ、…っ、ひ、ぐっ、うぅぅ……」
「おいおい……悠長なこと言ってられないんじゃないか」
「師匠、聞こえます? 寒いの?」
肩に置かれた手が腕やしゃくり上げる背にも伸び、摩って温めようとする。小柄なモブの意外と大きな手の平で摩擦されると、徐々に呼吸が穏やかなものへと戻ってきた。
「大丈夫?」
心配気な声に繰り返し頷き、固く掴んだシャツを離す。強く抱き締め過ぎて軋む腕をゆっくり開いて伸ばすと、モブは抵抗せず腕の中に収まってくれた。押さえつけてしまっては苦しいから力は緩め、そのまま真っ直ぐな髪の毛を流れに沿って撫でる。肩口に小さい顎が乗せられて、温かい呼気をジャケット越しに感じる。制服の背中に涙は染み込んで目元の熱が引いてくる。
あれほどしんどかった感情の波は凪いで、腕の中に温かい塊があることに驚くほど落ち着いた。モブの体温で呼吸ができる。
「大丈夫そうか」
「落ち着いたみたい」
「またああなっちまう前にどうにかしねえと」
「うん」
肺を体温で満たして、櫛削る髪の感触で輪郭を保つような危ういバランス。その上にある自覚はありながら身動きが取れない俺に、二人の会話は膜を隔てたように遠い。
「……誰か知らないけど、この人を苦しめないで」
不穏を帯びた、一方でひどく優しい声音が囁く。胸の内でモブは身じろいで、けれど離れていくことはなく畳み込まれていた腕を伸ばしてきた。いつも力を使うとき無造作に翳す手の平が、今、探るようにこちらの頭に置かれ、そっと撫でられた。
「あ」
『気がついた』。
たぶん、これは俺自身の、俺だけの感覚じゃない。目から鱗が落ちる、という言葉がしっくりくる。今、急に『分かった』。
雰囲気が変わったことに気づいたのか、モブは頭を撫でる手は止めず、様子を窺っているようだった。意外と手つきは慣れていて、そう言えば弟がいるんだったと思い出す。
「師匠から出ていってもらえる?」
言い方は優しいが有無を言わせぬ圧をもって話しかけながら、手は宥める穏やかさで髪を撫でる。耳にかかった髪を除け、首筋を落ち着かせるように軽く叩く、幼子を寝かしつける静かなリズムが俺と、『もう一人』の心の内に響いた。
『大きくなったね』
自分の口から他人の声が出てくるのは奇妙な感覚はずだが、不思議とそういうものだと思えた。女とも男ともつかないその声に悪意はなく、安堵に満ちている。言うなれば、何か大きな心残りの晴れたような、そんな声だ。
『安心した』
その言葉と共に体から何かが抜けていく。それに形がなく、光の靄にしか見えない。姿を象ることもできなくなっているのだろう。
靄は導かれるようにどこかへ、光の塵を残して消えていった。
「師匠、戻ってます?」
撫でてくれる高めの体温に微睡む心地が、耳に入ってきた声で浮上していく。日頃の平坦な調子に戻った声に顔を上げると、感情の起伏の乏しい黒い目と目が合った。
「お? おお」
状況が掴めない。さっきからずっとこうしていたらしいのに現実味がない。
静かに狼狽える俺に、膝の上に引き込んだモブはこちらの頬に手を添えて視線を誘導した。よく観察できるよう固定したまま、しげしげと俺の目から正気かどうかを窺っている。
「あ、もういないですね」
「だな。消えてったみたいだ」
良かった、と息をついて気を抜いた表情を見るに、もしかすると不安だったのか。
「なんともないですか?」
「あ〜ちょっと怠いくらいでなんともねえよ」
「本当に?」
「いらん嘘はつくなよ」
「なんもねえって、ホントに」
実際、あの鈍く、たとえるなら水の中にいるような全てが遠く聞こえて現実味のない感覚はなくなっていた。
「ほら、暑苦しいだろ。降りてくれ」
「自分が引っ張ったくせに」
「それはすまん」
僅かにブスッとむくれてみせつつ、モブが膝から降りていくとかかっていた重みが案外重たかったことに気がつく。
転んでべそを書いたのをおんぶして、ランドセルを持ってやったこともあった。その記憶から随分と体重も増え、思えば小柄なりに着実に身長も伸びている。似合っていると褒めたピンク色のパーカーが、次のシーズンには着られなくなっていて、ちょっと残念そうにしていたことも思い出す。
「師匠?」
怪訝な声にその視線を辿ると、モブの手を掴む自分の手に気がついた。引き留めるかのような無意識の行動にハッとして慌てて離す。
「本当に大丈夫なんですか?」
「だーいじょうぶだって! どこか変に見えるかあ?」
「変に見えてるから言ってます」
「んん……! ちょーっと霊に共感しちまっただけだ。今は本当になんでもないから」
怪しいと疑る視線を掻い潜り、何か活路はと目を泳がせると、呆れた顔で浮かぶ緑色と視線が合う。
「あー! エクボ、さっきのやつはどういうもんだったんだ?」
「あん?」
「依頼人の言うもんじゃなかったんだろ。成仏するとこ見てたんならなんか分からんかったのか? 今後のためにも共有しとけって」
苦し紛れの投球にしちゃ、あながち悪くないだろう。事実、似たような案件を持ち込まれたとき、同じ事態に陥ったら困る。対策できる情報があるなら共有すべきだ。モブは話が切り替わったことに不服そうにしつつも、わざわざ口を挟む気はないらしく黙った。
「つってもなあ〜。まあ、ありゃあ逆だなとしか」
「逆?」
「子どもじゃない。ありゃ、親の方だろ。子どもを残して早くに死んだとかそんなとこだ」
「あ、だからか」
エクボの言葉にモブは合点がいったように呟いた。
「あの霊、『大きくなったね』って言ったんです」
正確には、師匠の口借りてですけど、と続けるモブに「おおかた、自分の子どもとでも思ったんだろ」とエクボは答える。
「知らない人なのにって思ったら、そういうことだったんだ」
「まあ、憑依してた分、肉体に引きずられた面もあるだろうが」
ちら、と意味ありげな視線を送る悪霊に、心の中で思ったのは『余計なことを言うな』だった。しかし、何が『余計なこと』なのかは、自分でもよく分からなかった。
「守らなきゃならん子どもが、ちゃんとデカくなってるって分かって安心したんだろうよ」
「そっか。心残りがなくなったのは良かった」
「死んだ人間の時間は止まってるから、もしかすると、子どもの方はとっくのとうに大人になっているかもな」
何やらチクチク刺さるものがある気がするが、直視するには何かが俺にはなかった。それは覚悟という名前のようで、そこを自覚するのも今はダメな気がする。
「さあって、じゃあ営業に戻るか! モブ、お前今日は何時までだ?」
「え? まあ、六時くらいには。宿題終わってないし」
件の依頼人が帰った後、入れ替わりで来たモブは俺がこんな状態だったがために宿題をやり損ねたらしい。
「じゃあ、今日はもう帰っていいぞ」
「え、でも」
「いいから。家で集中して片付けちまえ」
まともな反論を聞く前に帰る準備をさせて戸口まで追い立てれば、モブは諦めてドアを開けた。それでもエクボを置いて行こうとしたので、どうにか言いくめて帰らせようとする前に「もう大丈夫だろうからほっとけ」と当の悪霊から言われてモブは要求を飲んだ。
「じゃあ、師匠さよなら」
「おう、気ぃつけて」
「それは師匠でしょ」
今日の弟子は一言も二言も多い。パタンと閉じたドアを前にホッとしてデスクに戻る。
気づきかけていることがいくつかある。今はまだ、そこについては深く考えないとにした。
※モブくんがかわいいし、子どもみたいに思っているけど、大きくなったことを喜ぶよりもとまどう師匠。