オメガバ花洋+大楠洋平は兄貴のような存在だった。花道が道に迷えば、後ろ手で方向を示してくれた。洋平の背中は大きくて、早生まれで未熟だった花道にとって、どんな出路よりも魅力的だった。
花道を振り返っては、すきっ歯で笑う洋平の顔が、懐かしい。
この世界には、男性と女性に加えて、α・β・Ωという性差がある。10代中盤に差し掛かった頃、子ども達は、α・β・Ωのうち、自分がどの性に属するのかが通告される。
能天気な花道は、どの性別であろうがどうでもいい、と小指を鼻の穴に突っ込んでいた。世間的にはαが優遇されるそうだが、この3つの性が取り沙汰されているところを、花道は耳にしたことがない。つまり、所詮瑣末なことなのだ。
先日受けた検査の結果が、今日、送付されてくるのだという。
隣を歩く洋平に、花道は愚痴をこぼした。
「アルファとかベータとかオメガとか、どーでもいいよな、しょーじき」
鼻くそを飛ばす花道を、洋平の薄い瞼が見上げる。そういえば、洋平の身長を追い抜かしたのはいつだったっけ?今ではずいぶんと、洋平は小さくなってしまった。そんなことを口にすると、「お前がデカくなりすぎなんだよ」と頭を叩かれる。
「あー、どうでもいいな。でも、オメガとか大変って聞くけど」
「大変?」
「そりゃ、オメガは孕めんだからな」
「ハラむ?」
洋平は眉間にシワをよせる。そして拱く姿勢のまま、人差し指を立てた。
「男同士で子どもができるらしーぜ」
「えぇ?!」
花道は目を剥く。どういうことだ。
猪首を伸ばして洋平に詰め寄ると、身体を押し戻される。
「花道、オレがオメガだったら喧嘩ん時助けてくれよ。犯されっかも」
「洋平を犯すようなやつがいるのか?」
「わかんねーだろ、世の中にゃ色んなヒトが居んだから」
片目を瞑る洋平に、花道は激しく頷いた。花道がΩだったら、その時は頼むという約束も取り付けた。
話題をさらってゆくような涼やかな風が、花道と洋平の間を通り抜ける。カンカン照りの太陽に負けじと冷気が漂っているので、心地よい朝だ。
陽の光に目をすがめていると、左下から溜息が漏れる。
「どーした?腹でも壊したか?」
「いや、……オレさ、オメガかもしんねーの。誰にも言うなよ?」
「え?なんでわかんだよ」
「………言いにくいんだけどさ、ちんことケツの間に……なんか、へんな穴みたいなんでき始めたんだよな」
花道の頭上に稲妻が落ちた。焦げたつむじを掻きつつ、目を白黒させる。どういうことだ。ちんことケツの間に、穴?正直、全く想像がつかない。
洋平曰く、最近気分が優れないことが重なる上に、下腹部に違和感を抱いていたそうだ。風呂に入って下半身を洗っていたところ、会陰の辺りに不自然な凹みを発見した。それは徐々に、好適な姿に進化しようとしているのか、切れ込みのようになってきた。先日指を差し入れてみたところ、第一関節くらいまで挿入できた、と言うのだ。
呻く洋平を、花道は瞠目したまま見下ろす。
「それ、オメガなんじゃねえのか?確実に」
花道の声に、洋平が、銃床を担ぐような、沈鬱な空気をこぼす。
「だよなあ……。オレ、これからどーなんだろ」
圧し口になった洋平の背を、パシンと叩く。
「だ、大丈夫だ!何かあったらオレがなんとかする!」
セミしぐれに突入しようとする7月の朝。登校中に交わす会話としては、相当重たいものだった。少なくとも、庭にある小さな築山に登るような軽々しさは、無い。
花道はこの時初めて、Ωという性を意識し始めた。
※
むすりと機嫌の悪そうな顔貌をした教師に、書類を手渡される。中には、件の検査結果が封入されている。
ご丁寧にテープでびっちりと貼り付けられた封筒の開封口を、ベリベリ破く。小難しい文字の羅列は無視して、中子である結果を探す。1枚目、2枚目の用紙を投げ捨てて、3枚目で漸く、書類は中枢に触れた。花道は、αだった。
洋平のことを考える。洋平は、やはりΩだったのだろうか?
検査結果の通知と、だらだらとした性教育の末、花道は机から解放された。わらわら教室から離れてゆく生徒の群れに沿って、洋平のクラスを目指す。
花道は8組で、洋平は4組なので、2人の間にはそこそこの距離が生じる。同学年のつむじをかわしながら、ようやく4組にたどり着いた。
引き戸の真ん中にぽっかりと開いているガラス窓の向こうで、金髪ののっぽと、仲睦まじそうに笑い合っている洋平を発見する。確かあの金髪の名前は、大楠と言ったっけ?
花道は目立つ。そのおかげなのか、4組の戸を滑らせただけで、洋平はすぐさまこちらに気付いた。洋平の視線が、金髪から、花道の方へ滑る。そのまま、彼はパッと破顔し、ぱたぱた花道へ駆け寄ってくる。
どん、と、胸に洋平の温もりが突進してきた。笑いながら身体を押し付けてくる洋平にじゃれつつ、話を切り出しても良いものかと考える。
α・β・Ωなんて瑣末な問題だと思っていた。
しかし今の花道は、洋平がΩかもしれないという事態に、柔弱な心地を抱いている。
洋平の後ろから、のっそりとした声が現れた。長身の金髪が、重たげな瞼を、気怠そうにシパシパさせている。
「桜木んとこもさっきの授業、結果報告だったんか?」
彼の言葉に、頷く。
金髪は頭を掻きながら、「なーんか、話聞いてたらΩって大変そうだよな」なんてアホ面をしている。
花道から離れ、扉に背を預けた洋平の顔は、きょとんとしている。まるで他人事のようだ。意を決して駆けてきたというのに、花道としては拍子抜けである。
金髪──大楠は、βだったと言う。花道はαで、洋平はやはり、Ωだったそうだ。
雑駁とした教室の中で、三者の声はぐるぐると巡る。顎に拳を当てたまま、洋平は眉間にシワを浮かべる。
「Ωってこと、やっぱあんまり他人には言わない方がいい感じだよな?」
「おめーら2人とも、特に喧嘩多いからマジで気ぃつけろよ。桜木はαだからいいかもしんねーけど、なんかΩってアレじゃん、大変な期間あんだろ?生理みたいな」
「げー、股から血ぃ出るってこと?」
口角をひくつかせる洋平に、大楠が頷く。
大楠には姉が居るようで、生理中の姉はさぞかし大変そうだと、洋平を脅すような文句を紡いだ。
洋平は嘆息し、唇を尖らせた。
「なーんでこんなめんどくせー性別になっちまったんだろ。これじゃ舐められるよなー……」
「洋平ぐらい強けりゃ大丈夫だろって言いてぇけど、実際どうなるかわからんしな」
大楠の低い声に、洋平はまた、溜息をつく。
そろそろ始業のチャイムが鳴る頃だ。3人は横並びになって、屋上につま先を向ける。真っ白な制服の波に逆らいながら、ゆったりと歩を進める。
諸手を後頭部に引っ張って伸びをしながら、洋平は大欠伸をしてみせる。その隣でかったるそうに歩く大楠までを見据えて、花道は視線を、廊下に戻した。
薄汚い灰褐色の屋上が、陽に照らされて白く輝いている。河岸を変えた3人は、日陰を陣取った。腰を下ろし、息をつく。
またしても欠伸を噛み殺している洋平に、花道は首を傾げる。
「昨日、寝てねーの?」
「あー、バイトが長引いてさー」
洋平のあくびまじりの答えに、大楠が疑問符を投げる。
「中学生雇ってくれるとこなんかねーだろ」
「いやいや、身内の手伝いよ」
洋平の両親は、離婚している。
花道と洋平がまだ10歳くらいだった頃、洋平はよく、頬を腫らしたり、肋骨の辺りに痣をつくったりしていた。理由を問うても彼はかぶりを振ってむすりとするだけで、幼心に、触れてはならない話題という概念を理解した。
洋平の身体に増えてゆく傷が寛解し、彼の雰囲気も柔らかくなりかけた頃のことだ。ブランコに跨った洋平が、すきっ歯を見せて笑いながら、花道に告げた。まるで、テストで良い点数を取った子どもが、親に自慢げな声をあげるような色だった。
「オレ、今日から母ちゃんと二人暮らしなんだ」
花道には、母親が居なかった。
母親が居ない者と父親が居ない者。やっぱり似た者同士だなと、2人で笑い合ったものだ。
洋平のアルバイトとは、恐らく水商売を営んでいる母のサポートだろう。洋平の母は美人で、引く手数多だ。工面をしてくれる男も多いようで、人気者の彼女は、小さなスナックを立ち上げた。
そういえば洋平は、彼女に似ている。
ぼんやりと洋平を眺めていると、幼い頃、スナック菓子を手渡しながら微笑んでくれた彼女の柳眉を、思い出す。
待てよ、と、花道は頭を抱える。
洋平がΩだということは、彼も男に狙われる可能性があるということか?
忘れがちだが、洋平は彼の母に似て美形なのだ。
花道が悶々としている折しもに、大楠が笑い声を上げる。
「Ωって男にモテるらしいじゃん。ちまちまバイトしなくてもよーへーくんに貢いでくれるパパができたりして」
茶化す大楠を、洋平が睨み上げる。縮み上がり、大楠は萎びた。
ボディビルダーのようにムキムキの積乱雲が、蒼穹を、ゆったりと歩いている。
そろそろ、夕立の心配をしなければならない季節だ。
呆けていると、隣でうとうとしていた洋平の白皙が、明らかに青ざめている。
ギョッとして、花道は洋平の肩を叩いた。大楠が不思議そうな顔をして、花道と洋平を窺っている。
兵糧攻めに遭って1週間くらい放置された兵士のように、洋平は憔悴仕切った顔色をしている。
「洋平?もしかして体調わりぃ?」
「あー……わからん……なんか、くらくらする……んだ、これ……」
体操座りになって、両膝の間に頭を埋めた洋平のうなじから、強烈な芳香が漂ってきた。思わず、固まる。甘ったるい。しかし、甘すぎるこの香りを嗅いだ経験は、これまでに一度もない。何に喩えようにも術がない、そんな匂いだ。
口腔内に、唾液が溜まる。サラサラとしていて、今にも溢れ出してきそうな、空腹時に生成されるタイプの唾液だ。垂涎しないようにと、喉を鳴らす。洋平を抱えて保健室にでも連れて行ってやりたいが、あの香りを至近距離で嗅いでしまえば、花道は一息で、彼のうなじに噛み付いてしまう気がしていた。
厚ぼったい瞼をむりやりに見開いたような顔をしている大楠に、「洋平を保健室に連れてってやってくれ」と頼む。首を傾げながら、大楠は洋平の手を引いて、階下へ降って行った。
心臓の音が、やかましい。
うずくまって頭を掻き毟りながら、石造りのタイルを見下ろす。
視界には、膨らみ切った海綿体が、ズボンを押し上げている情けない姿が、押し入ってくる。
花道は、欲情していた。