猫に首輪は着けられない 猫が居着くようになった。
大きな身体に柔らかい毛並み。
一部の隙もない直毛に見えてその実、癖があるのを知っている。
ふんわりと波打つ紫色の毛並みは朝一の毛づくろい前にしか見られない。
それを知っているのは一体どれだけいるのだろう幾度も思った。
猫は俺の家が定住地ではない。
気まぐれにやって来て気まぐれに帰る。
飯を食いに来てるかと思えば飯も食わず、俺の顔だけ見て帰る時もある。
猫は別に住むところがあり、俺はその場所を知らない。一度どこに住んでいるのか聞いたところ、赤い目を細めてはぐらかされてしまった。
聞くなという合図がわからないほど馬鹿ではないと自負しているのでそれ以来気にしないことにした。
住む場所は知らないけれど、せっかく来るのならば腹を膨らませてやりたくて、いつの間にか俺の家には猫の好きな食べ物が常備されるようになった。
猫は自分に視線が集中していないと嫌なようだ。
だから投資の仕事をしている時間帯にやってくるとやっかいだ。
ちょっと待ってろと言うと始めの10分は従う。
でもすぐ飽きるのか視界の端でうろちょろし始める。それならまだいい方で、やがてデスクトップ越しに視界に入るようになり、最終的に俺自身に抱きついたりしてくる。
そうなるともう俺に拒否権はなくて、後は猫を構う時間に費やされてしまう。
俺の金蔵が無くなったら責任を取って欲しいものだ。
愛猫家たちは猫は自由気ままで我儘なところが可愛いという。
動物なんて生まれてこの方飼ったことがないのでよくわからないが、とにかく束縛しようなんて考えるだけ無駄ということだろうか。
構われている内がきっと華なのだ。
いつか飽きられる日が来ることを、猫が俺の家に来なくなる日が来るのではないかといつも頭の片隅で考えている。
その日は投資家たちの集まりで夜更けに帰宅した。
従業員の園田達には終業時間になったら帰れと言ってあるので、家は誰もいないはずだった。
なのにテーブルには猫がいた。
多分園田たちが働いている時間にやってきたのだろう。
園田たちはこの猫が苦手なようでいつも一定の距離を取っている。
何時に来たのか知らないが、さぞかし彼らはビビったのだろうなと思った。
「寒くないのか」
返事はない。猫はテーブルに顔を突っ伏しているので恐らく寝ている。本当に何時に来たんだか。
俺は酔い醒ましに冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して猫の向かい側に座った。
ぱきっ、と新品のペットボトルが開く音が深夜の室内に響く。
水を含むために開いた口は想定していたペットボトルの注ぎ口ではなく、猫の長い人差し指を含むことになった。
「んぐっ」
突然差し込まれた人差し指に驚いた俺は、反射的に指を噛んでしまった。
僅かに鉄の味がしたところで指は抜け、代わりとばかりにテーブル越しに身を乗り出した猫の唇が己の唇をふさいできた。
長い舌があっという間に俺の舌を捉えて絡みつく。
誘われるように相手の腔内へ迎え入れられ、発達した犬歯を準えさせられる。
「ん、ふっ、ぁ」
すると今度はまた俺の腔内へ侵入ってきて上顎を擽ってきた。それがあまりに心地よくて頭の奥がじんとする。酸欠も相まって目尻からぽろりと涙が出た。それを合図に、満足したのか長い舌がずるっと音を立てて離れていった。
捕食のようなキスだ。
いきなり何しやがる、と回らない頭で抗議の視線を投げかければ相手はみゃおと甘い声で鳴いた。
「ダメだろ、俺以外の臭いをつけたりしたら」
それは先のパーティーで擦り付けられた女の香水か、それとも色を含んだ眼で見てきたあの男だろうか。
きっと全てだろう。こいつはいつだって何でもお見通しだから。
「俺を猫扱いするのは構わないぞ。でも敬一君、知ってるか?」
――猫は嫉妬深いんだ。
叶黎明は俺がつけた人差し指の傷をその赤い舌で舐める。
本人は毛づくろいを模したつもりだったかも知れないけれど、少なくとも俺にはそんな愛らしい仕草には到底見えなくなってしまった。
猫はもういない。
いるのは俺のことを捕食しようとする我儘で気ままで嫉妬深い男だけだ。
それが悪くないと思うのだから俺も相当イカれてる。