画面を見つめても、本を穴が開くほど読み込んでも、分からないものは分からない。それが答えのないものなら尚更だ。
(わ〜〜〜〜〜〜からない‼︎)
吐き出しそうになった声を、形になる前で引き留める。そのせいでぐっと鳴りかけた喉元を隠すように机に突っ伏した。古びたニスの感触が頬に張り付く。
夕方の図書室には、司以外に数名の生徒がいた。けれどどの人影も並んだうちの別のテーブルで、粛々とそれぞれのノートやら本に向き合っている。周囲を見回した視線を、そのまま真横へと向ける。まだ手も付けていない本の背表紙が、壁のように眼前に聳え立っていた。
図書館の中をくまなく探して選び出した本は計七冊。順調に読み終えた一冊目は、最近図書室に入荷されたらしいエッセイだった。一番分厚かった二冊目は、少し前に話題になっていた重厚な恋愛小説で。そうして疲労を抱えたまま三冊目の本を読もうとした身体に、読書を続ける集中力は残されていなかった。
そっと椅子を引いて、読み切っていた二冊を棚へと戻しに行く。文庫本を手早く指定の場所へと戻して、ずっしりとしたハードカバーを片手に図書室の奥へと足を向けた。そうして引き抜いたままぽっかりと開いていたスペースにその本を戻す。——『神話と恋』。随分と大仰なタイトルだったな、と思った。
▽
『恋』を知りたかったのは、たまたま見かけた劇団のオーディションの課題演目が、かの有名な恋物語だったことが始まりだった。司はまだ恋を知らない自負がある。ワンダーランズ×ショウタイムでは今現在まで取り扱いのないジャンルだからこそ、司は知識として『恋』を知りたいと思ったのだ。知識も経験も、どちらもショースターとして何かを演じていく上でその演技を確かなものにしていく上で必要なものだ。
せめて、誰か知っていそうな人に聞けたなら。一人ずつ頭の中に思い浮かべては、類はちょっと違うな、寧々はそもそも答えてくれなそうだ、と候補から外していく。そもそも恋とは感情と概念の話なのだ。答えを誰かから導き出そうとするのも難しいのかもしれない。まるで哲学のような思考が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
考えるという行為は想像以上にエネルギーを消費するらしい。空調とペンを走らせる音の中に、くう、と小さく腹の虫の声が混ざる。
今日はもうここまでだ、と司は残りの本をまとめて抱えて立ち上がった。そのままカウンターへと寄れば、ぼんやりと空を見つめていた図書委員の視線が向けられる。
「貸出でお願いします」
わかりました、と返された声は、バーコードを読み込んだ電子音と混ざってよく聞こえなかった。
カウンターで五冊ともを鞄に詰め込んで、図書室の引き戸を引く。肩越しに伝わるスクールバッグの重みは、まるで本のページ数を指し示すようだった。ぐっと肩を引き上げた拍子に、骨が小気味いい音を立てる。夕暮れ色が踊り場に眩しいほどに注ぎ込んでいる。リノリウムを上履きが叩く音までオレンジ色に染まりそうな程の光量だ。そのまま降りていって踊り場を曲がったところで、蛍光灯の照らす廊下に見知った菫色の端が見えて。
「類」
名前を呼んだのは無意識だった。呟きにもにたその声量を、彼の耳はきちんと捉えたらしい。振り返って、やあ、と挙げられた手には、小さな巾着が下げられていた。
「司くん、まだ学校に残ってたんだ」
「ちょっと図書館に用があってな、そういう類こそどうしてまだいるんだ?」
「そんな僕が学校に残ってたらおかしいみたいな言い草」
「だって普段はショーの練習があろうとなかろうとさっさと下校しているじゃないか」
「僕にだって日直の仕事くらいあるんだよ」
目の前にぶら下げられた巾着には、資料室、の文字が滲んではり付いている。階段からは見えなかったもう片方の手には、冊子をこれでもかと抱えていた。
「なるほどな」
「まったく、練習のない日に限ってこうなるんだから」
「それは大変だったな……類、日直の仕事、もうすぐ終わるか?」
「ああ、これで最後だよ」
ぱちりと瞬いた目は、真っ直ぐに司を見つめたままで。同じように見つめ返しながら、司は口を開いた。
「分かった、玄関で待っている」
「……うん、分かったよ」
どうにもずるい言い方をしたと思う。それでもその誘いに拒否が返ってこないという確信が、胸の隅に存在していた。
類は司が玄関にたどり着いてから三分もせずにやってきた。おまたせ、だなんて言いながらローファーに足を通す姿は漫画の一コマのようで。そのまま並んで昇降口を後にする。そのまま類が口を開いた。
「図書館で何をしていたんだい?」
「調べ物だ」
「小テストが赤点で課題でも出た?」
「違うわ! そもそも今月はまだ赤点は出していない!」
「まだって言った」
墓穴を掘ったような気がするけれど、指摘したら痛いところを三倍で突かれそうだと思って司はそのまま一旦閉口した。ツッコミを胃袋へと落として、頭の中で図書館で得た成果を練り上げる。
「調べ物というのはな、恋の概念……ちがうな、物語において平均的に描かがちな恋を知りたかったんだ」
「それはまた難しそうなものを」
並んだ肩が大袈裟にすくめられる。何かいいたげに向けられた視線を躱して、司はそのまま口を動かした。
「類は分かるか?」
「……その質問、僕が答えられると思っているのかい?」
「だって現代の平賀源内なんだろ、お前」
「平賀源内も多分理系だからそういうの詳しくなかったんじゃないかな」
「じゃあ類も詳しくないのか」
「むしろ詳しく見えた方がすごいと思うんだけど」
「まあ、それはそうだな」
無言で横腹を小突かれる。言葉で返せ、と小突き返したら、そのまま脇腹を鷲掴みにされた。そこから小競り合いが始まったのは言うまでもない。二人とも無言だったせいで、服の擦れる音と鞄のぶつかる音が暮れなずむ空に程よく響いた。
八センチの身長差の分、類の方が僅かにリーチが長いらしい。類の手がベルトごとズボンを引っ掴んだところで、司はようやくギブアップ代わりのストップを口にした。
「ベルトはやめろ、ベルトは」
「じゃあ次からなしにするよ」
「取っ組み合いもしないからな、オレ達もう高校生だぞ」
「男子高校生ってこういうものじゃないか」
「お前が言うのか!」
肌着ごとはみでたワイシャツを直しながら再び歩き出す。数台の車が車道を駆け抜けて行ったあと、さっきの話の続きだけど、と類が言う。
「答えがないものって結局、自分で考えることで導き出せるものが多いと思ってね」
「ふむ」
「あとこれは司くんが、というか、僕たちがというべきかもしれないけれど」
「なんだ」
くるり、と類の人差し指が宙に円を描く。
「実際に体験してもいいし、色々考えるよりも先にショーで演じて考えてみてもいいんじゃないかな?」
「なるほど、先に演じるのか」
予想しなかった答えだった。もともとショーの糧として調べ始めたことを、あえて知識を得る前にショーを演じることで見識を深める。司は、なるほど、と一つ頷いた。
「となると、どんな話を演じたら学びとしてより良いものになるんだろうな……ショーとしては昔のラブロマンスものが主流だろうが、あえて現代的なものにした方が良かったりするんだろうか」
「そうだねえ……たとえばこんなショーはどうだろう?」
「……お前、さっきこういうのは門外漢だと言っていなかったか?」
「そういうこともあるんだよ」
「なんだそういうことって」
司のツッコミもものともせず、そのまま類はつらつらとショーのストーリーを語り出す。冬のまち、二人の人間の話だ。語る瞳は普段とは僅かに異なる、どこまでも柔らかな色をしている。
ずるい色だ、と思った。架空の物語でも、彼の唇と瞳とで紡がれるその恋の形をした話に、意味のない嫉妬をしてしまいそうになる。
「……とまあ、ざっくりこんな感じかな」
「よくそんなにスラスラと話が作れるな」
「いろんな脚本を考えるのも勉強になるからね」
「……そこにお前の経験も加味されているのか?」
「そこは個人情報だから秘密」
そのまま話は他愛もないものへと変わっていった。けれど、結局類と分かれるまで、あの作り物のラブストーリーを何度も胸で反芻してしまって。じゃあな、と手を降ったその瞬間でさえ、頭の中を締めていたその物語に、司は疲れきった頭を抱えそうになった。
(……どうしてこんなことになっているんだ)
胸の中でひとりごちた言葉が、ざらついた心の中を転がっていく。あと五冊、読み切ってしまえばその糸口が掴めるだろうか。
そう思うとあれだけ重いだけだったはずの鞄の内が、急に縋りたいほどのものに思えた。